5
時計の秒針が刻む音が暗闇に響く。ゆっくり起き上がり辺りを見回すと皆も寝ているみたいだ。
暗闇の中では時計は見えない。スマホの画面を確認すると十一時を過ぎていた。
――喉、乾いた。
ソファから降り小さな冷蔵庫に向かう。硬いソファで寝ていたからか身体が痛む。身体を伸ばし、冷蔵庫を開ける。水が二本に、チョコバーが一本。
――どうしよう。
「なあ」
背後からかけられた声に私は文字通り飛び跳ねた。
「俺にも水を」
「あ、うん」
気付かぬうちに近くにいた桐谷にペットボトルを渡す。私も手に取り冷蔵庫を閉める。
「なに見てたんだ」
――私がチョコを見てたことがバレてる?
「え、別になにも」
「そうか、一人暮らししてると節電が勝手に身に着く。だから今みたいなのも気になるんだ」
「そ、そう。意外と家庭的なのね」
「自分の為にそうしていただけだ」
私がチョコを見ていたことはなんとも思ってない? これ以上食い意地の張っている女だとは思われたくない。そんな私の心配を余所に桐谷は部屋を見回している。
「二人はどこに行った」
――二人?
私も部屋を見回すけれど暗くてよくわからない。誰がいないの。
「あの夫婦がいない」
ペットボトルを渡される。
「嫌な予感がする。二人を起こしてくれ、屋上を見てくる」
桐谷が駆けだす。
――嫌な予感。和美さんになにかが?
手探りで部屋の明かりを点け川内さんと娘さんを起こす。
――嫌な予感。外れてくれるといいけど。
「夜は冷えるな」
頷いて寄り添ってくる和美。荒く繰り返される呼吸に合わせて肩も大きく上下する。咳が繰り返され、苦し気な声が漏れる。
「ごめんね、こんなことになっちゃって」
「どうして和美が謝るんだ。誰も悪くなんかない。悪いのはこの世界だ。憎むべきなのはこの世界だ」
「でも、皆に心配かけちゃったし、私がもっと上手く動いていれば、噛まれずに済んだかもしれないもの。だから、ごめんなさい」
和美は本当に自分を責めているようだった。充血し、目やにが目立ち始めた目は辛そうに細められている。俺が変わってやりたい。俺なら噛まれたって平気なのに、どうしてわざわざ和美なんだ。どうして俺じゃないんだ。今はその震える肩を抱くことしかできない。
屋上とは言え低い建物だから見晴らしは良くない。三方は隣接する建物のアスファルトの壁。あとは小さな公園が見えるくらいだ。
「また三人で公園行きたかったなあ」
「そうだな」
「よくブランコで高さ競争したよね、でも高くなりすぎると美羽怖がっちゃってね」
「そうだな」
「シーソーも好きだったよね。飛び跳ねるくらい勢い着けてあげると喜んだよね」
「そうだな」
「あとは、えっと」
――そう、だな。
楽しかった日々が蘇る。幸せだった光景が目の前に浮かぶ。俺の大事な二人が目の前で笑っている。
「剛君」
不意に呼ばれ我に返る。俯いた和美の横顔を見つめる。震える唇が紡ぐ言葉は幸せな記憶か、しかし吐き出された言葉は、俺を壊すには十分過ぎた。
「死にたい」
――シニタイ?
なんだそれ、何語だ。俺の頭は理解するのを拒絶した。それをただの音だと認識した。意味のない、ただの音だと思い込んだ。だが――
「ねえ、死にたいよ。もう、こわいよ」
その声が、その表情が、音に意味を持たせていく。言葉として、そのままの意味を俺に突き立てる。
「なんて」
「私あんな化け物なんかになりたくない! 私が私じゃなくなるなんて、そんなの耐えられない!」
――やめてくれ。
「この身体が剛君や、美羽を襲うかもしれないなんて、そんなの酷すぎるよ」
――もう、やめてくれ。
「このまま苦しみながら死ぬなんて、私が私じゃなくなっていくなんて、いや。もう、死にたいよ」
――やめろ。
――死にたいなんて。
――そうだよな。
――死にたいよな。
――救わなきゃ、俺が。
「おえっ、があっ」
包帯を解いた左手で和美の喉を握り締める。噛まれた直後はなんともなかったが、今は右腕の倍くらいに筋肉が発達している。骨折も嘘のようだ。
「つよ、しくん、なん、で」
「死にたいって言ったじゃないか。俺が和美にしてやれるのは、もうこれくらいなんだ」
和美の脚が地面から離れる。必死に暴れているが俺の左腕はびくともしない。
「気付けなくてごめんな。もっと早くに救うべきだった。そうしたら和美の口から死にたいなんて聞かずに済んだのにな。でももう大丈夫だ。俺が救ってやる。和美を化け物なんかにさせないし、もう怖がらせやしない」
「あっ、が」
「この壊れた世界から、君を救う」
左腕に紅く鋭い物が突き刺さる。痛みはない。和美を掴んだまま振り返る。
「子供はもう寝る時間だ」
「生憎俺は夜更かしばかりしてる悪い子供なんだ」
紅い刃物を持った桐谷が俺を睨んでいる。どうしてそんな顔するんだ。俺は最愛の妻を救おうとしているんだぞ。
「その人を放せ」
「どうして? これは和美の願いでもあるんだ。永遠の苦しみ、避けられない死、化け物に変わっていく身体。そんな絶望から救おうとしているんだ」
「その人はまだ生きている。生きようとしている」
「これ以上苦しい、辛い思いをしてほしくはないんだ。これは救いなんだ」
和美の力が弱まってきた。脚は脱力し、腕は俺の手を掴んではいるが、ほとんど力を感じない。
「あんたの勝手な救いを押し付けられるのは迷惑だろうな」
「生きることを強要されるのはとても残酷なことなんじゃないか」
和美の腕がだらりと落ちる。その命もあと少しで尽きる。もう怖くないだろ、苦しくないだろ。あと少しで君は救われる。
「正しいことなんて、正義なんてないんだな」
「救いこそが正義だろ。桐谷、君はなにもわかってない」
「ああ、そんな歪んだ正義俺には分からない。わかる気もない。俺は俺の正しいと思ったことをする」
子供になにを言っても無駄か。だが、和美のあとで皆のことも救ってやろう。川内も言ってくれた、お前は救う側が似合っていると。
「和美、今までありがとう。愛してるよ」
桐谷が叫びながら駆けてくるが関係ない。左腕にほんの少し力を込める。和美の口から綺麗な紅が流れる。これで和美は救われた。俺は和美を救ったんだ。
「あんたがしたのは救いなんかじゃない! ただの人殺しだ!」
振りかぶってきた紅い刃物を左腕で受ける。この腕はまるで俺のものじゃないみたいだ。痛みも感じないし、なにより強靭だ。刃もほとんど通していない。桐谷の顔も驚きを隠せていない。
「次は桐谷を救ってやろうか」
桐谷の身体を蹴り飛ばす。軽々と屋上を転がっていく。刃物が血に変わる。俺は桐谷や夕莉ちゃんとは違った方向性の異能力を獲得したようだ。
和美の身体を寝かせる。
「美羽も、皆もすぐにそっちに向かわせるから。待っていてくれ」
桐谷が腹を押さえながら立ち上がる。
「頭だけじゃなく身体も狂ってるみたいだな」
「それは褒め言葉として受け取っておくよ。君らの狂った異能力とはまた別のものみたいだな」
「筋肉馬鹿が」
紅い刃物を両手に構えて突っ込んでくる。懲りないな。
振り下ろされた方を左腕で受け、首目掛けてくる刃を右手で掴み、へし折る。
「桐谷のことも救ってやる。だから安心してくれ」
俺は笑顔で桐谷を殴り飛ばす。まるで漫画のように人の身体が飛んでいく。
「さて、こんな壊れた世界から救おうじゃないか。俺の力で」
廊下から大きな音がした。階段を何かが転がり落ちたような、そんな音。私はすぐに廊下に飛び出た。
――桐谷!
階段を転がり落ちてきたのは桐谷だった。さっきまではなかった痣が増えている。ぼろぼろだ。
「しっかりして、なにがあったの」
「二人を連れて早く逃げろ。あいつの身勝手な救いに巻き込まれる」
――救い?
「中々丈夫じゃないか桐谷。だが辛い思いをするよりも早く楽になった方がいいと思うぞ」
剛さんが階段をゆっくりと降りてくる。左腕の包帯がない。その代りアンバランスに大きくなった腕が異様に目立っている。
「上でなにが」
「あいつは自分の妻を殺した。救いだって言い張ってるが、あいつのやってることはただの人殺しだ。今のあいつにモラルはない。早く逃げろ、殺されるぞ」
――あの人が、自分の家族を殺した?
生存者たちのリーダーを務め、仲間の為なら自分の危険さえ顧みない人が、和美さんを殺した。信じられないけれど、今の桐谷の状況を見たら信じるしかない。
「夕莉ちゃん、君もちゃんと救ってあげるから待っていてくれ」
「二人を連れて早く逃げろ!」
「それじゃ桐谷が」
「俺には復讐がある。こんなところで死なない」
私は休憩室に駆けこんだ。
「おい、なんの騒ぎだ」
「今すぐにここを出ます」
娘さんの手を引く。寝ぼけているのか着いてきてくれない。
「美羽ちゃん、外に出ないといけないの。着いてきて」
「まだねむいー、むりー」
その場で座り込んでしまう。どうしよう。
「だからなにがあったんだよ。説明してくれ」
この警官は、めんどくさい。
「剛さんが和美さんを殺しました。私たちのことも殺すつもりです」
「はっ、なに馬鹿なこと言ってるんだ。あいつがそんなことするわけないだろ?」
「信じないならここにいればいい。勝手にして下さい」
「あ、おい」
娘さんを抱いて廊下に向かう。目の前に桐谷が転がってくる。
「桐谷、しっかりして」
「俺のことは、いい。早く逃げろ」
立ち上がるけれど、その足取りはおぼつかない。
「くそ、目眩が」
――目眩、貧血?
「どうした、さっきまでの元気はお終いかい。もう楽になったらどうだ」
「あんたの助けなんていらない。それに、俺には苦しくても辛くてもやらなきゃいけないことがある」
「救われればそんなものも関係なくなる。そうだろ」
桐谷が壁に手を突きながら笑う。
「安心したよ、あんたと会話は成り立たない。あんたも他の化け物と同じだ。これで心置きなく殺せる」
「どうやら桐谷には救いではなく、苦しみ抜いた末の死が必要みたいだな」
「誰も俺を殺せない。死ぬのはあんただ、化け物」
桐谷が突っ込んでいく。剛さんの左腕を屈んでかわし背後に回る。脚に数本の結晶を投げつける。振り向きながらの拳も避け膝に刃を突き刺す。あのアンバランスな身体からして脚にダメージを与えた方がいいと考えたみたい。桐谷は攻撃をかわしながら集中的に脚に攻撃していく。
「ちょこまかと鬱陶しいな」
剛さんの左腕をかわす。けれどそのまま腕で壁を破壊した。破片が桐谷を襲い、肥大化した腕が捕らえる。
「捕まえた、さあ、どう死にたい」
「答える必要がないな」
「まずその生意気な口をどうにかしようか」
右腕が振り上げられる。サクラを抜いて握られた拳を狙う。銃声。命中。けれど全く意に介していないみたい。あの人の身体はどうなっているの。
「夕莉ちゃん、邪魔はしないでくれよ。君たちも順番に救ってあげるから」
「そんなの救いなんかじゃねえよ!」
剛さんの背後。川内さんのスコップが頭を強打する。さすがによろめきその隙に桐谷が脱出する。
「どうしちまったんだよ剛! お前の言ってた救いってこのことだったのかよ」
「そうだ川内。この世界から救うにはこうするしかない。和美が教えてくれたんだ」
「そんなことあの人が望んでるわけないだろ! 目を覚ませ剛!」
右腕で川内さんが殴り飛ばされる。
「お前になにがわかる。大事な家族が逃れられない苦しみと恐怖に苛まれ続けるんだぞ。もう死ぬしかないんだぞ。そんなの生きることを辞めた方がいいに決まってる! お前だってその立場になれば分かるさ、生きることより死ぬことを選ぶはずだ」
狙いを膝に着ける。二発撃ちこむ。流石に効いたらしく膝を突いた。
「どうして邪魔するんだ。なんでわからないんだ。俺の救いが正しいんだよ!」
「そんなの、余計なお世話なんだよ。あんたの救いなんて、いらない」
桐谷は大分消耗している。血を使い過ぎてる。まともに立つことも難しい。この状況で逃げ切るにはどうしたらいい。
ふと私の横を何かが通り抜けた。
――美羽ちゃん?
「ぱぱー、ねるじかんだよー」
――だめ、その人に近づいたら。
「ああ、そうだね美羽」
左腕が小さな体を襲う。間に合わない。血飛沫が飛ぶ。腕が壁に当たって落ちた。
「川内さん」
川内さんが娘さんを突き飛ばし、代わりにその腕が飛ばされてしまった。悲鳴を必死に堪える川内さん。どうしてそこまで。
「川内、余計なことするなよ。美羽を救うチャンスだったんだ」
「お前は! お前は自分の娘さえも手にかける気なのか! どこまで人間辞めれば気が済むんだよ!」
絶叫とも言えるその言葉は、しかし今の剛さんには届かない。
「俺は人間だよ川内。お前たちを救おうとしているだけだ。わかってくれよ」
「剛、目を覚ましてくれ」
剛さん一人の前に私たちは絶体絶命に追い込まれている。ここままじゃ全員殺される。
「夕莉、その子を連れて逃げろ」
「できない。まだやることがあるんでしょ」
「お前には関係ないだろ。俺のやるべきことも、俺の死も、お前には関係ない」
――桐谷、どうして。どうしてそこまでして庇ってくれるの。
私は泣いている娘さんに近寄る。
「逃げるから起きて」
娘さんは泣きじゃくるだけだ。
「美羽、こっちにおいで。パパとおやすみしよう」
「あんたはもう人の親でもなんでもない!」
突っ込んだ桐谷は、いとも簡単に弾き飛ばされた。
「ぱぱー」
「駄目美羽ちゃ」
視界が暗転する。何が起きたのかわからない。頭に衝撃が、揺れる。酷い車酔いのような感覚。胃から何かが逆流して口から吐き出される。頭の痛みと共に視界が戻ってくる。目の前にはほとんど胃液であろう吐瀉物。近くに壁の破片が落ちてる。これを投げつけられたの。
意識が戻り辺りを見回す。
「やめろ剛! その子はまだ死ぬべきじゃない!」
「こんな世界で生きていたって無意味だ。俺は父親として美羽に悲しい思いや辛い思いをしてほしくないんだ。まあ、家族も子供もいないお前にはわからないか」
剛さんの右腕で持ち上げられる娘さん。遊んでもらってると思っているのかはしゃいでいる。
――駄目だ、このままじゃ。
「美羽、ママの所に行こうね」
「やめろ剛!」
身体が動かない。脳が揺れてる。桐谷も立ち上がることすらできない。
――助けられない。
「おやすみ美羽。愛してるよ」
左手が頭に触れ、変な音と共に捻られた。
「さあ、次は誰を救おうか」
――そんな。
床に寝かせられた娘さんの頭はおかしな方向に曲がっていた。
――また、救えなかった。
――また、手遅れだった。
私は銃を握った。今度は頭に狙いを着ける。この人はもう人間じゃない。ただの化け物。
――撃つんだ。
――引き金を引け。
――こいつを撃て。
――こいつを殺せ。
銃が掴まれ放り投げられる。
「逃げろ、剛は俺がやる」
「川内さん」
引きちぎった袖で腕を縛っている。
「そんな身体じゃ無理です」
「うるせえ! 言うこときけよ!」
「あんたじゃ無理だ。先に逃げろ」
桐谷がようやく立ち上がる。しかし能力を使えないらしく血が流れていっている。
「いつまでも舐めてんじゃねえよ!」
思い切り突き飛ばされる。桐谷も蹴り飛ばされ倒れてくる。
「どうした、救われる順番で揉めているのか」
「黙ってろ! いいか、お前らはまだ子供。俺は大人で警官だ。俺にはお前らを守る義務と責任があるんだよ! 変な能力が使えようが銃の扱いが上手かろうがそんなこと関係ねえ。お前らは守られる立場なんだ。わかったらさっさと行け!」
ここで私たちが逃げたら川内さんは確実に殺される。
「あんた、死ぬ気か」
「いらない心配するな。こんな時ぐらい大人として、警官としてかっこつけさせてくれよ」
「その為に死ぬって言うのか」
「それに、こいつとは学生時代からの付き合いなんだ。最後にゆっくり話したいじゃねえか」
川内さんがスコップを拾い上げる。私たちに背を向け、剛さんと対峙する。
「次に会ったら補導するからな。二度と会わないようにするんだな」
腕が引かれる。
「行くぞ」
「それじゃ川内さんは」
「かっこつけさせてやれ」
サクラを拾い、私たちは支え合いながら階段を降り始めた。
「大人しく行かせてくれたじゃないか」
「すぐに追いつくだろうからな。それに川内とは長い付き合いだろ、ちゃんとお別れがしたいからな」
お別れか。俺が生きてられるのもあと少しなんだろうな。だが人生で一番かっこよかったんじゃねえか、俺。
「すぐになんて行かせねえよ。俺とお前の仲じゃねえか、じっくり付き合ってくれよ」
俺の人生で最大の見せ場だ。