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廊下に光が漏れている。中から低い男性の声が聞こえる。
「君はいったい何者だ」
保健室の中には剛さんをはじめ生存した男性が集まっていた。その全員の視線はベッドに腰掛けたぼろぼろの男子に向けられている。
男子が立ち上がろうとする。
「動くな! 不審な行動をすれば撃つ」
川内と言った三十半ばの警官が銃を構える。日本警察はサクラって名前の銃を装備しているらしいけれど、あれがそうなの。
「悪夢で目覚めてみたら、いったいどういう状況だ」
「驚かせてすまない。だが君が噛まれている以上俺たちも警戒しなけらればならないんだ、わかってくれ」
剛さんが一歩前に出る。銃口はまだ男子に向けられたままだ。
「もう一度訊くが、君はいったい何者なんだ、あそこでなにをしていた」
「あいつらを、殺していただけだ」
男子の小さな言葉は、しかしそこにいる大人の男たちを警戒させるには十分だった。保健室内がざわつく。私はその様子を壁に寄りかかり見守る。
「この男子大丈夫なのか」
「あいつやっぱり異常だよ」
「助ける必要なんてなかったんだ」
「みんな落ち着いてくれ、話の途中だ」
保健室に落ち着きが戻る。男子と剛さんが向かい合う。
「どうしてあんな数の感染者と戦っていたんだ。そんなにぼろぼろになって、危うく死ぬところだったんだぞ」
「俺は死なない。殺さなくちゃならない奴らがいる。そいつらを殺すまで、復讐するまでは死ねない」
「頼む、答えてくれ。君は何者なんだ」
ギシっとベッドが鳴り男子が立ち上がる。川内さんの銃口は向けられたままだけれど、気にもしていない様子だ。
「桐谷紅弥。この学校で唯一生き残った死にぞこないだ」
「俺は高雄剛。生存者を集めてここまできた。このグループの一応リーダーをやっている。よろしくな」
剛さんが包帯の巻かれていない右手を差し出す。しかし男子、桐谷は目もくれずに質問する。
「俺はいつからこうしていた」
残念そうに右手を下げる剛さん。
「ここに連れてきてから二時間は眠っていたよ。傷だらけ、まさに満身創痍だった。だが不思議なのは傷口が赤い結晶のようなもので覆われているということだ。噛まれても死者のようになるわけではなさそうだし、君はどうなっているんだ」
桐谷は自身の身体を見て腕を軽く振るってみせる。固まっていた血が宙に舞い、彼の手に納まる瞬間赤い塊、まるでナイフのような形に変わった。大人たちが数歩後退る。
「今すぐそれを捨てろ!」
「川内落ち着け、彼に攻撃の意志がわるわけじゃない」
「だが」
「撃ちたいなら撃てよ。その代りあんたも殺すけどな」
周囲の空気が凍り付く。桐谷の小さな言葉は、あまりにも現実味を帯びていた。
「俺の復讐を邪魔する奴は全員敵だ」
「待ってくれ、俺たちも君に危害を加えたいわけじゃないんだ。信じてくれ」
「だったらその銃を下ろさせろよ。あんたがリーダーなんだろ」
剛さんが手で銃を制す。数秒の後銃がホルスターに納められる。
「すまなかった。これで信用してもらえるか」
ナイフを回転させながら宙に投げ掴む。それを永遠と繰り返しながら桐谷が答える。
「何度も噛まれた。だが他の人間みたいに胸の苦しみは感じないし咳も出ない。衰弱もしていない。動く死者になる症状は一つも出ていない。俺に現れたのは血を結晶化するってわけのわからない症状、能力だ」
――血を結晶化する能力。
それが桐谷の異能力。その能力で今弄んでいるナイフや長い刃物をつくりだしていたのね。
「その能力で死者の群れ、いやこの校舎中の死者を倒したのか」
「ああ、だからどうした」
校舎内には切り刻まれた死体が積み重なっていた。校舎内は確認したみたいだけれど、動く死者の姿はどこにもいなかったみたい。
「あの数を一人で倒したと思うと、すごいな」
桐谷が鼻で笑う。
「俺が殺さなきゃならない相手はあんな雑魚共とは違う。意志と異能力を持った敵だ」
――私たち以外にも異能力者が?
「君以外にも人がいたのか」
「人の姿形はしていたが、あいつらは人じゃない。自分たちのことをイノベーターと言っていた。この世界を仕組んだ奴らだ」
「この世界を仕組んだ、だと」
「そいつらは今どこにいる、言え!」
川内さんが言い寄る。けれどナイフを向けられ尻餅を着く。
「わかってればこんな所にいないだろ。消えたんだよ。俺の仲間を殺した後、本当に消えるようにどこかへ行った」
「そんな奴らがいたのか」
「だから俺はあいつらを探す。探し出して殺す。こんな所でもたもたしてる暇はない」
桐谷が剛さんの脇を通りドアに向かう。大人たちは下がって道を開ける。頼りにならない大人。
「死にぞこないのあなたに、何ができるの」
壁に寄りかかったまま言う。桐谷が振り向き目が合う。
「死ぬだけでしょ」
「俺は死なない。まだ、死ねない」
「なら、少しは大人しくしたら。今回は偶然私たちが助けられたから良かったけれど、一人だったら確実に死んでた」
桐谷が俯く。剛さんが近寄る。
「桐谷、君の気持ちはわかる。こんな世界を仕組んだ奴らがいるならそいつらは俺たちの敵でもある。だが今ここで無闇に探しに出たって化け物の群れに喰われるだけだ。それくらいわかるだろ」
「それでも俺は!」
「君には大事な人はいないのか!」
桐谷が固まる。桐谷の後ろ、引き戸が開いて娘さんが入ってきた。
「おにーちゃん、おきた?」
娘さんは眠たそうに眼を擦っている。桐谷の脚にしがみついて目を閉じる。
「俺には家族なんかいない。できたと思った仲間も死んだ。結だって、こんな世界じゃ生きてるかわからない。第一俺のことなんて、もう」
「君にどんな過去があるのかはわからない。だが、会いたい人がいるのなら、諦めずに生きるべきだ。ここで死んだら再開も復讐もできなくなるんだぞ」
剛さんが娘さんを抱き上げる。静かな寝息が聞こえる。桐谷が廊下に消える。
「なんなんだ、あいつは」
「俺たちと同じ生存者、仲間だよ。少し複雑そうだがな」
不安気な川内さんとは対照的に剛さんは控えめに笑った。その横を通り過ぎて廊下に出る。暗い背中がぼんやりと見えた。
屋上に出ると強い風に髪が乱された。少し明るいと思ったら夜空にはいつの間にか欠けた月が浮かんでいた。フェンスの向こう側を眺める男子に近づいていく。
「なにしに来た」
「訊きたいことがあって」
桐谷が振り向く。
「答えるとは限らない」
「その能力はなに」
桐谷の言葉を無視して訊くと、溜息一つしてフェンスに寄りかかった。
「さっきも見せたろ、血を結晶に変えるチカラだ」
「どうやって手に入れたの」
「詳しい理由はわからない。噛まれたってことしか原因になるようなことはなかった」
「噛まれてどれくらいでその能力は現れたの」
フェンスがガシャンと音を立てる。桐谷が蹴ったみたい。
「答えるとは限らない、そう言ったろ。それに俺だってなにもわからない状態だ。遠慮なしに質問攻めされても困る」
「残念。共通点を探していたの」
「共通点?」
「そう、私との」
月に照らされた桐谷の表情が曇る。
「私も噛まれておかしな能力を手に入れたの、血を爆発させるチカラを」
「あの時の爆発はお前が」
「ええ、だから桐谷に興味があった。この能力のことなにか知っていると思って」
風が吹きすさぶ。流れてきた雲が月の光を遮る。
「イノベーターって奴らに会わなかったか」
首を横に振る。暗くて表情は見えないけれど舌打ちの音が聞こえた。
「そいつら、なんなの。この世界を仕組んだって言っていたけど、この能力にも関係しているの」
「詳しい事はわからない。だが俺たちと同じ異能力を持った集団だ。そしてその異能力を持った人間を探しているようだった」
「ならそのイノベーターの誰かに訊けばこの能力のことがわかるのね」
「素直に教えてくれるとは思えないけどな」
雲が流れて月の光が降り注ぐ。
「小野寺夕莉」
桐谷が首を傾げる。
「私の名前。いつまでもお前って呼ばれるのは嫌だから」
特に収穫はなかったけれど話は聞けた。校舎に戻ろうとすると小野寺と呼ばれた。
「私のことはそう呼ばないで。夕莉でいい」
少し躊躇ったけれどすぐに私を見る。
「夕莉、お前はどうしてこの世界で生きてる」
フェンスから離れた桐谷が歩み寄ってくる。
「こんな化け物だらけの世界で生きる意味ってなんだ。俺は復讐がしたい。仲間を殺したあいつらを殺したい。だから生きてる。他の連中はどうなんだ、どうして生きてるんだ」
「さあ、どうせ守りたいものがあるとか、死ぬのが怖いとか、そんなものでしょう。桐谷と話してた剛さんなんかは皆を救いたいとか言っていたけど、まあ、あれは特別ね」
「夕莉はどうなんだ。なんの為に生きてる」
少し考える。元の世界だったら考える必要もなかった、考えても無駄だったけれど、今はどうだろう。
「面白いから?」
「面白い、なにがだ」
「この世界、この能力。元の世界にはなかったもの。あんな窮屈な世界より、少しは面白いんじゃない」
桐谷の右手が私の襟元を掴む。力任せに顔が寄せられる。
「ふざけたこと言ってんじゃねえよ。俺たちの周りにいた人間が大勢死んだ。大事な人を失った人もいる。大事な人の変わり果てた姿を見た人もいる。苦しんで悲しんで怒り狂った人もいる! それをお前は面白いって言うのか。こんな腐った世界を面白いって言うのかよ!」
桐谷の言葉で私が燃やした兄の顔を思い出した。幸せになるはずだった兄の変わり果てた姿。この胸の奥に渦巻く感情をなんて言っていいのかわからない。でも、面白くないのは間違いない。
「私は実の兄に噛まれた。それで能力が現れて、その能力で兄を殺した。私の中にある感情がなんなのかわからない。でも、今の桐谷に似てると思う」
襟元を掴む力が弱まり離される。
「それは悲しみと怒りだ。兄を殺したこの世界を憎め、それがお前の生きる意味だ。面白さなんてこの世界にはない」
――憎しみ、それが私の生きる意味。
「この感情がなんなのか分かった気がする」
「ああ、絶対に忘れるな」
桐谷はまたフェンスに向かっていく。遠くでまた火の手が上がった。
「母を探さないといけない。品埼の高校にいるはず」
品埼市は電車なら三十分余りで着くが、それ以外だと川を挟む為移動ルートが限られる。母はそこの高校で保険医をやっている。
「私は母を探す。兄もそれを望んでいると思う」
「そうか、無事だといいな」
桐谷の様子がおかしい。どこか暗い。覇気が無くなった。
「さっき言っていた桐谷の大事な人は」
座ってフェンスに寄りかかる。首を小さく横に振る桐谷。
「忘れてくれ、昔の話だ。今更気にしたってもう遅い」
寂しげな目で遠くを見つめている。桐谷は家族もいないと言っていた。なにか人には言えない過去があるの。
「桐谷、家族は」
「わるい、一人にしてくれないか」
私は頷き校舎に向けて歩き出す。振り向くと顔を手で押さえている桐谷が見えた。けれど私には風の音しか聞こえなかった。