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始まるセカイ chapter2  作者: 黒華
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 「おにい、ちゃん」

 玄関の扉を開けた途端、兄は私に倒れかかってきた。

 「夕莉、ごめんな。お兄ちゃん、ちょっとドジっちまった」

 兄を抱き留めた私の手が、ぬめった何かに触れる。手のひらは赤く濡れている。

 「おにいちゃん、外ではなにが」

 「人が共喰いしてたんだよ。信じられないかもしれないが、マジで地獄だった」

 さっきから外では悲鳴と救急車のサイレンが響き渡っていた。私はヘッドホンをしてパソコンに向かっていたから、気付いたのはほんの三十分前だけれど。

 傷だらけの兄を部屋の奥まで運ぶ。狭いアパートに兄を寝かすと、この前酔いつぶれて帰ってきた日のことを思い出した。それは兄も同じだったらしい。

 「なんか、帰ってくると夕莉に介抱されてばかりだな」

 「お兄ちゃん、だらしないから」

 台所でタオルを濡らし、包帯やガーゼを準備する。素人の手には負えないことは一目でわかったけれど、それでも何もしないわけにはいかなかった。傷口の血を拭きとると、まるで獣に噛まれたかのような傷があった。それも何か所も。

 ――人の、共喰い。

 「夕莉、母さんには連絡とったか」

 「電話してみたけど、繋がらない」

 「こんな状況じゃ、無理も、ないな」

 兄が苦痛の声を上げる。早く助けを呼ばなきゃ。

 「待ってて、助けを呼んでくる」

 立ち上がろうとした私の手を兄が握る。

 「ここにいろ。外に出ちゃ、ダメだ」

 「それじゃお兄ちゃんが」

 「俺は、もうダメっぽい。さっきからどんどん寒くなってくるし、意識も、遠のいていく」

 兄の身体は血色を失い、灰色がかって見える。触れた身体から温かさを感じることはできない。

 「お兄ちゃん、死ぬの」

 兄が小さく噴きだす。痛みに顔をしかめながら笑う。

 「お前は、ストレート過ぎるんだよ。ちょっとはオブラートに包め」

 「そういうの、わからないもの」

 兄が咳き込み血を吐く。死ぬのか訊くにはどうすればいいの。

 「お前が、そういうの苦手なのはわかってる。でも、そういう気遣いができるように、ならないと、彼氏とかも、できないぞ」

 「そんなの、いらない」

 兄はやれやれと言って私の頭を撫でた。

 「夕莉は美人なんだからさ、もったいないぞ。高校生なんて、いっぱい遊んで、いっぱい恋愛するものだ」

 兄の左手にはリングが光っている。相手とも何度か会った。綺麗な人だ。来月から同棲する予定だったのに、これじゃ叶いそうもない。

 「恋愛とか、わからない」

 「これから、わかるさ。いいものだぞ、人を好きになって、人に好かれるっていうのは」

 また血を吐いた。激しい咳を繰り返す。

 「お前も、そのうち、わかる」

 「お兄ちゃん、私これからどうすればいいの」

 ぐったりと横たわった兄に生気はもう感じられない。天井をぼーっと見つめる兄の唇が微かに動く。

 「生きろ、夕莉。きっと、いいこと、ある」

 暫く時が止まった。兄は目も口も開けたまま、動かなくなった。涙は出なかった。胸の中でなにかがもやもやと渦巻いていたけれど、その感情がなんなのか私にはわからない。

 「お兄ちゃん、ごめんね。私、生きるから」

 こんな世界で生きていてもなにもないと思う。他人と合わせて生きていく世界。他人に縛られて生きていく世界。そこに私はいるの。どこにいったって私は浮いていた。孤立した。感情が表せなかった。その時に表すべき感情がわからなかった。だから私は一人になった。必要最低限のことをして、あとはパソコンの向こう側の世界で生きた。そこなら顔を合わさずに済むから。文字を打てば成り立つから。実力が数字で表示され、それによって私は称賛を得ることができたから。

 「誰も、いない」

 オンラインゲームのルームから人の姿が消えていた。国内外のプレイヤーがマッチングし銃の腕を競うい合うゲーム。そこから人がいなくなるなんて、見たことない。

 ――世界中で、こんなことが。

 窓の外。アパートの正面道路では人一人を押し倒して数人が貪り食べていた。車は事故っているし、家事も起きている。まるでゲームか映画の世界にきた感じ。

 ――これからどうしよう。

 そう思った時だった。私の背後で何かが動いた。

 「お兄ちゃん」

 ぼろぼろになったスーツ姿で立っているのはお兄ちゃんだ。いつも暢気で適当なことを言うお兄ちゃんだ。顔はいいし身長も高いからモテていたお兄ちゃんだ。でもフラれることも多くて、その度に慰めていたお兄ちゃんだ。それでも年内に結婚式を挙げようと決まった、幸せなお兄ちゃんだ。そして。

 ――さっき死んだお兄ちゃんだ。

 傾いた頭。半開きの目と口。そこから流れ落ちる赤い液体。

 「お兄ちゃん、死んじゃったんだね」

 私の問いに、兄は喰らいついてくることで答えてくれた。咄嗟に出した左腕に激痛が走る。まるで獣のように喰らいつき、肉を食い千切ろうとしてくる姿は、やっぱりこれは兄なんかじゃない。

 壁に押し付け、右腕で身体を叩いて逃げようともがく。でも流石に力では敵わない。ここままじゃ殺されてしまう。ふと目にとまったのは、兄のスーツから落ちたらしいオイルライターだ。母が就職祝いにプレゼントしたものだった。

 私の頭の中にはこの状況を打開することしかなかった。武器が欲しかった。だから兄の死体もろとも倒れてライターを手に取った。床を転がってなんとかマウントポジションをとり、オイルをかける。着火しようとしたら暴れられて部屋の隅まで弾き飛ばされてしまう。背中を壁に打ちつけ息ができない。背中の苦しみと腕の痛みで、自然と涙が流れてくる。

 ――私、死ぬの。

 私の血で顔を真っ赤に濡らした兄の死体が迫ってくる。ライターはオイルをまき散らして窓辺に転がっている。

 ――助からない。

 なんともつまらない人生だった。暗くて寂しい人生だった。楽しいと思えたのはオンラインで銃を撃ち合っていた時だけ。我ながら酷い人生。

 死を覚悟した時だった。兄の顔が突然燃えあがった。

 ――ライター?

 確かにオイルはかかっているけれど、火種になるものはなにもないはず。どうして発火したの。

 獣の叫び声が耳をつんざく。なんとか立ち上がり玄関に向かおうとする。しかし燃えた死体が飛び掛かってくる。焼け爛れた顔は、もう私の知らない化け物だった。

 ――ごめんなさい、お兄ちゃん。

 左腕で死体を突き飛ばす。その瞬間、触れた身体が火を噴いた。左腕から流れる血が床に落ちると、そこからも勢いよく火が出た。

 ――血が、燃えてる。

 死体はなおも私に近づいてくる。左腕で胸に触れ、すぐに離れた。直後爆音と衝撃が私を軽く吹き飛ばす。顔を上げると死体は窓を突き破り柵にぶつかって倒れていた。

 ――いったいどうなっているの。

 混乱で呆然としていると、玄関が激しく叩かれた。

 「誰かここにいるのか! 無事なら開けてくれ!」

 熱を帯びた左腕を庇いながら玄関に向かう。

 私の世界はこうして壊れた。爆音と共に。兄と共に。


 「夕莉ちゃん、起きて」

 「おねーちゃん、おきてー」

 目を開けると幼い顔が目と鼻の先にあった。

 「なにかあったの」

 「そろそろ学校に着くって。様子を見て、安全そうならそこで救助を待ちましょう」

 「安全な場所なんて、あるんですか」

 娘さんを膝からおろす。私を見ていた和美さんが優しく微笑む。

 「心配しないで、きっと大丈夫よ」

 私は何も言わずに窓の外を見た。どれくらい眠っていたのだろう、外はもう真っ暗だ。と言っても元から日は出ていなかったから暗かったけれど。

 「そろそろ高校だ。連中が少なけりゃいいんだがな」

 運転する剛さんが呟く。ハンドルをきるとグラウンドのフェンス越しに校舎が見えた。私の通っている学校より古いのか、夜っていうこともあってどことなく不気味な様相だ。

 「あれ、なにかしら」

 「グラウンドに連中が集まってるな」

 車の速度が上がる。正門から入り感染者の集団に近づいていく。暫く進むと剛さんが車を停めケータイを耳にあてる。

 「生存者だ! 一人が襲われてる、二号車はここに残って俺と救助。残りは周囲の安全確認と確保!」

 「あなた、気を付けてね」

 ドアを開けた剛さんが親指を立てる。運転席に和美さんが移動してアクセルを踏む。

 ――あの数に襲われたんじゃ助かるわけないじゃない。

 窓の向こう、感染者の群れを見る。その中に制服を着た男子が一人いた。

 「和美さん、停めて」

 「夕莉ちゃんどこ行くの、だめよ!」

 和美さんの言葉を無視しして車外に出る。他の人たちも感染者を各個倒していく中、囲まれていた制服の男子は明らかに普通じゃなかった。叫びながら感染者の群れに突っ込み、刃物のようなもので斬り殺していく。

 「てめえら、全員、殺す!」

 噛みつかれても、噛みつかれても、振りほどいては首を斬り、刃物を投げて感染者を殺していく。血だらけなのに、ぼろぼろなのに、その男子の姿は限りなく異様だ。一際大きな雄叫びが上がる。どこから出したのか二本の大きな赤い刃物を持って男子が感染者の群れに突っ込んでいく。

 「彼は何者だ。一人でこの数を圧倒してる」

 自動拳銃を握っている剛さんが隣に立つ。

 「もしかしたら君と同じ、なんらかの異能力をもっているのかもしれない」

 ――私と同じ、異能力。

 緊急用と渡されたナイフを抜き、左腕に突き刺す。闇の中で見ると真っ黒にも見える血がドクドクと流れてくる。

 「夕莉ちゃん、なにをする気だ」

 「少し、興味が湧いたんです」

 感染者の群れに歩いて行く。私に気付いた数体が近寄ってくる。左腕の血を払い感染者を濡らす。一拍置いて感染者たちは爆発の炎と衝撃でただの死体に還る。

 自らの血を発火させるチカラ―ブラッド・エクスプロード―で周囲の感染者を焼き払っていく。爆発が感染者の群れを蹂躙する。

 「お前らは、俺が、殺す」

 「その前に、あなたが死にそうじゃない」

 膝を突き、赤い刃物で身体を支えていた男子が私を見上げる。

 「あなたも、能力をもっているの」

 その問いに、男子は答えてくれなかった。刃物は赤い液体に変わり、男子はグラウンドの土の上に倒れ伏した。剛さんと数人が男子を抱え上げる。

 「生存者を確保! 残りの残党を頼む、油断するなよ!」

 血だらけの男子が運ばれていく。

 ――死んでないといいけど。

 残った感染者を焼いてから校舎に向かった。

 この世界には、少しだけ面白そうな奴がいるみたいね。


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