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第十四話 藤堂家の朝①

「フードマンのバカー!」


 わんと耳鳴りでもしそうな甲高い声がリビングに響き渡った。

 朝、二階から降りてくるなり、今にもドアを蹴り破らん勢いでリビングに入ってきたのは、紺のセーラー服を着た小柄な少女だった。

 顎下のラインで切りそろえた栗色のボブヘアがよく似合う、愛くるしい顔立ち。ぱっちりとした大きな目は、なんの恐れも知らないかのような眩い輝きを放ち、小ぶりの唇は瑞々しく潤っている。まだ、大人への階段に足をかけたばかりの――齢十五の彼女。ふっくらとした頰にはまだ幼さが残っているが、それでも、あと数年もすれば息を呑むような美女に育つのだろう、とそんな予感をさせる。

 そんな可憐な少女が、持っているスマホを今にも壁に叩きつけんかという、ただならぬ雰囲気を漂わせて立っていた。その背に、ごうごうと燃え盛る怒りの炎が見えるよう。

 それをダイニングテーブルに座って、じっと眺める少年がいた。ブレザーの制服をかっちりと着こなし、ぴんと背筋を伸ばしてトーストをかじるその居住まいは、品行方正そのもの。十八という年頃に似合わず、さっぱりとした短い黒髪にも遊び心は何ひとつ伺えず、その聡明そうな落ち着いた顔立ちは、思慮深さを伺わせる。黒縁メガネも合間って、真面目一徹を絵に描いたような少年だ。

 彼はふいに、諦めたようにため息つくと、


「今度はなに、えのん?」


 その声にばっと振り返ると、えのんは「聞いてよ、伊織お兄ちゃん!」と乱暴な足取りで少年――伊織のもとへと歩み寄ってくる。


「メールも電話も無視、LINENなんか既読すらつかないの。ひどくない!?」


 スマホをダイニングテーブルに叩きつけるようにして置きながら、えのんは伊織に当たり散らすように怒号を上げた。

 しかし、伊織はいたって冷静にトーストを齧り、


「仕方ないだろ。先月からフードマンは『お役目』に入ってる。今回は《始祖》の一族の中に潜り込んでるって話だ。ケータイも『お役目』用のを持って行っているだろうし。連絡つくわけないよ」

「でもさ」と、えのんは引き下がることもなく、ばん、とダイニングテーブルに両手を置いた。「今日、バレンタインなんだよ!? そんな日くらい『お役目』休んでえのんに連絡くれてもよくない!?」

「……は?」


 ずっと平静を保っていた彼も、これにはぽかんと大口開けて固まってしまった。

 メガネの奥で目をぱちくりとさせ、彼はまじまじとえのんを見上げた。


「ごめん。さっぱり、分からない。バレンタインって、祝日だっけ? バレンタインだから『お役目』を休め、てどういう論理……」

「だって、チョコ渡したいもん」

「渡したいもんって……」と伊織は頰を引きつらせる。

「毎年、手作りチョコ渡してるんだもん。フードマンだって、えのんが今日、チョコ用意してるって分かってるはずなんだよ。『お役目』があって会えないならそれは仕方ないけどさ……会えない、て連絡くらいほしいよ」


 急に勢いをなくしてしおらしくなった彼女は、やはり十五歳の少女そのもの。いじけたように唇を尖らせ、しゅんと俯いてしまった。

 そんな彼女に、伊織は気遣うように微笑みかける。


「フードマンに連絡取れないか、九十九に聞いてみるよ」


 途端にえのんは顔を上げ、ぱあっと花咲くように満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう、伊織お兄ちゃん!」


 ちょうどそのとき、リビングの扉が開き、


「おはよう」と形の良い坊主頭をぽりぽりと掻きながら、熊のような図体をした男が冬眠から覚めたようにのっそりと現れた。「相変わらず、朝から元気だねぇ、えのん」

「おはよう、尚成(ひさのり)パパ!」


 くるっと振り返ったえのんはすっかり上機嫌。リビングに現れたときとは大違いだ。そんな様子に伊織は苦笑を漏らしつつ、「おはよう、父さん」と男を迎えた。


「卵でも焼こうか」と立ち上がろうとした伊織に、「いや、いい」と男――伊織の父、藤堂尚成は短く答える。


 その穏やかな人相は、聖人のごとく。物静かなようで、きりっと凛々しい。長年、鍛錬によって培われた徳の高さがうかがえるよう。彼が現れただけで、その場の空気がぴしっと引き締まるような、そんな気さえする。

 彼こそ、《デンティスト》を率いる益田八雲が公私ともに全幅の信頼を置く、実質、《デンティスト》のナンバーツーの男だ。


「ところで、えのん」と伊織の向かいにどっかりと座りながら、尚成は手に携えてきた新聞を広げた。「夕べは遅くまで何をしていたのかな。台所のほうから、とてもいい香りがしていた気がするんだが」


 その瞬間、伊織は凛々しい眉をぐっと険しく顰めた。尊敬の念などすっかり消え去った冷ややかな目で父親を睨み付ける。そんな視線を遮るように新聞を顔の前に掲げて、尚成は「今朝は甘いものが食べたい気分だ」などとぶつくさと続ける。

 もはや、白々しいほどの『おねだり』だ。

 もちろん、えのんもお見通しなのだろう、くすりと笑むと、ひらりと身を翻して冷蔵庫へと向かった。


「そんな尚成パパには……」


 歌うようにそう言って、えのんが冷蔵庫から取り出してきたのは――。


「今年は、ガトーショコラにしてみました!」


 誇らしげに言って、えのんは尚成の前にハート型に焼かれたガトーショコラをそっと置いた。手のひらサイズのそれは、透明の袋とピンクのリボンで可愛らしくラッピングされている。


「ハッピーバレンタイン」尚成の傍に立ち、えのんは後ろに手を組み、恥ずかしそうに言い添えた。「いつもありがとう、おとーさん」


 新聞紙をよけてちらりとそのガトーショコラを見、尚成は堪えきれなくなったように「うう」と目頭を押さえた。


「泣くの!?」と、伊織はぎょっとして声をあげる。「どんだけ……」


 言いかけ、はたりと伊織は言葉を切った。「ああ」と何か納得したように表情を曇らせると目を側める。「最後……なんだな」


「最後? なにが?」


 いまいち、状況が分かっていない様子のえのんに、伊織は言いづらそうに「来年は」と切り出した。


「来年のバレンタインは……えのんはもう京都だ。こうしてウチで作ったチョコをもらえるのも、これで最後だから――」


 しんみりと言う伊織の声を「大丈夫だよ」とえのんはけろりと遮った。


「えのんは京都なんて行かないもん」

「は……?」


 伊織だけでなく――新聞紙に顔を埋めるようにして泣きべそをかいていた尚成も、その瞬間、ばっと顔を上げ、まさに豆鉄砲を食らった鳩のような顔でえのんに振り返った。


「な……なんだって?」

「だから」とえのんは天真爛漫に尚成に微笑んで、「えのん、京都なんて行かない」

「いや……行かない、って……そんなこと許されるはずないだろ!?」あまりのことに固まってしまっている父親に代わり、伊織は立ち上がってまくし立てた。「君は魔女なんだ。本来なら、救出したときに《京徒》に引き渡すはずだったのを、中学卒業まで待っていてもらうことになって……」

「えのんの血を吸ったヴァンパイアが、《京徒》のお姫様より力を持っちゃうのが嫌なんでしょ? えのんは魔女で、魔女の血にはもんのすごーい魔力が宿ってるから。だから、えのんを京都の結界の中に閉じ込めておきたい――てことなんだよね? えのんの魔力をヴァンパイアに奪われないようにするために」


 事の重大さを分かっているんだか、分かっていないんだか。

 えのんの言葉に間違いはない。多少、語彙に問題はあるものの、内容は合っている。しかし、実に軽いというか。その声色には何の緊張感も危機感もない。まるで他人事だ。

 伊織も尚成も言葉も出ない様子で唖然としてしまったのはそのせいだろう。

 そんな二人ににこりと愛くるしい笑みを向け、えのんは自信満々に言った。


「要はえのんがヴァンパイアに血を吸われなきゃいいんでしょ。――だから、えのん、天草(ここ)で《デンティスト》になる」

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