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孫の手紙が、七年前から女の子の字です

掲載日:2026/09/25

「孫の手紙がね、七年前から、女の子の字なのよ」


 公証人のペンが、紙の上で止まった。

 止まる音というものがある。

 さっきまで続いていた細い引っかき音が途切れて、代わりに、衣擦れと小さな咳払いが聞こえた。


「……失礼ですが、奥様。お目は」


「ええ、見えないわ。光と影くらいしか」


 わたくしは、窓のほうへ顔を向けた。

 そちらが明るいことは分かる。

 今朝は曇っているらしく、明るさが薄く、ぼんやりと広がっていた。


「見えないのに字の話をするのは、おかしいかしら」


「いえ、その……」


 王都から呼んだ公証人だった。

 声の感じでは四十くらい。

 言葉を選ぶのに、いちいち時間のかかる人だった。

 そういう人は嫌いではない。


 昨日は、日曜だった。


 わたくしは朝から、窓辺の椅子にいた。

 明るいほうへ顔を向けて、門の鈴を待った。

 郵便の馬は、坂の下で一度、蹄(ひづめ)の音を緩める。

 それから鈴が鳴る。

 七年、日曜の昼前には、必ず鳴った。

 十時を告げる館の時計が鳴って、それから、十時半。

 十一時を過ぎたころ、坂を上ってくる蹄の音がして、わたくしは膝の上で指を組んだ。

 けれどその音は緩むことなく、館の門を通り過ぎていった。

 ただの荷馬車だった。

 侍女がお茶を運んできたとき、「風が冷たいようね。門の閂(かんぬき)はちゃんとかかっているかしら」と、見に行く口実を作った。

 戻ってきた侍女は「ええ、しっかり閉まっておりますよ」とだけ言った。

 郵便受けのことは言わなかった。

 昼が来て、過ぎた。

 窓の明るさが、少しずつ横へずれていった。

 頬に当たる日が薄くなり、膝掛けが冷えた。

 夕方、クレメンスが部屋に入ってきた。

 足音で分かる。

 クレメンスは、扉を閉めるとき、取っ手を最後まで押さえて音を立てない。


「奥様」


 少し、間があった。


「……届きませんでした」


 七年で、はじめての日曜だった。


 理由なら、知っていた。

 数日前に、息子から手紙が来ていた。

 クレメンスが読み上げたそれは短くて、用件は二つしかなかった。

 ユリアンと、ハイデン家の令嬢との婚約を解いたこと。

 それから、来月の支払いのこと。

 あの子は、捨てられたのだ。

 そして、あの子は書くのをやめた。

 当然だわ、と思った。

 当然のことが、こんなに寒いとは知らなかった。


「以前の遺言では、奥様が御実家からお持ちになった財産は、『孫ユリアンと、その妻に』となっております」


 公証人が、紙をめくった。


「これを、どなたに」


「書いた人によ」


「……書いた人、と申しますと」


「日曜ごとに、わたくしに手紙を書いてくれた人」


 公証人は、また黙った。


「奥様。そのお手紙は、お孫様のお名前で出されていたのでは。名義の上では……」


「名義のことなら、よく知っているわ」


 わたくしは笑った。


「だから、わたくしの名義で書くのよ」


 公証人が、長く息を吐いた。

 呆れたのか、感心したのかは分からない。


「……侯爵家は、その、奥様の御財産で、これまで」


「借金を埋めてきたのでしょう。知っているわ。息子が最後にくれた手紙も、借金の相談だったもの」


 今度は、公証人がはっきりと咳き込んだ。

 笑いをこらえたのだと思う。


 新しい一行を、公証人が読み上げた。

 七年間、日曜ごとにわたくしに手紙をくれた、ルイーゼ・ハイデンに。

 館の者たちへの年金は、そのまま残した。


「読み上げは、わたくしが生きているうちにしてちょうだい。家の者を集めて、その場で本人に受け取らせるの」


「ご存命のうちに、ですか」


「わたくしが死んだあとでは、あの子は来ないわ。それに、息子が握りつぶすもの」


 公証人がわたくしの手を取って、紙の上の線まで導いた。

 ペンを握るのは、久しぶりだった。

 自分の名前を、見えないまま書いた。

 最後の字が右へ傾いていくのが、指の腹に伝わった。


「確かに、承りました」


 書類を巻く音がした。


「その方には、お知らせを?」


「……これから書くわ」


 そう答えてから、気がついた。

 何と書けばいいのだろう。

 七年、あの子に手紙を書いてきた。

 それなのにわたくしは、一度も、あの子の名前を宛名に書いたことがなかった。



    *



 七年前、あの子の声を、はじめて聞いた。


 孫の婚約が決まった日で、わたくしはまだ、少しは見えていた。

 庭の斜面の菫の前にいた。

 足もとの紫が、水をこぼした絵の具のように、にじんで揺れていた。

 菫は、わたくしが嫁ぐときに、実家の庭から移したものだ。

 六十年、毎年咲いた。

 咲いていることは分かる。

 けれど、どんな色なのかは、もう分からなかった。


「菫は、どんな色かしら。わたくしには、もうよく見えないの」


 通りかかった小さな足音に、そう訊いた。

 答えたのは、少女の声だった。

 紫にもいろいろあって、日の当たるほうは少し青く、影のほうは夜みたいに深いこと。

 花びらの付け根だけが白いこと。

 ゆっくりで、一つずつ確かめるような話し方だった。

 その後ろで、孫のユリアンが、靴の先で砂利を蹴っていた。

 退屈なときの音だ。

 あの子は小さいころから、それを隠したことがない。


 帰りぎわ、わたくしは孫に頼んだ。

 日曜ごとに、手紙をちょうだい、と。


 夫が亡くなって、十年あまりが経っていた。

 夫は若いころ、遠征で何年も家を空けた。

 そのあいだ、日曜ごとに手紙をくれた。

 ひどい字だった。

 剣の柄を握る太い指で、細いペンを無理やりつまんだような、角張った字だった。

 そして一行目は、いつも同じだった。

 庭の菫は咲いたか。

 わたくしが実家の庭を恋しがっているのを、あの人は知っていたのだ。

 「庭の菫は咲いたか」のあとには、戦況のことなど一つも書かれていなかった。

 野営地の天幕の隙間から吹き込む風の寒さや、川で獲れた魚がまずかったこと、馬が干し草を食べ飽きて不機嫌なこと。

 そんなくだらないことばかりが、インクの染みだらけの紙に並んでいた。

 まだ目がよく見えていたわたくしは、薄暗いランプの明かりの下で、その不格好な文字を指でなぞりながら、何度も吹き出して読んだものだった。

 返事にはいつも、「菫はまだです。あなたが帰るまで咲かないように、言い聞かせてあります」と嘘を書いた。

 夫が死んで、日曜は静かになった。

 孫の手紙など、来るとは思っていなかった。

 来たら儲けもの、くらいのつもりだった。


 最初の日曜に、手紙が来た。


 館で字の読める者は、家令(かれい)と、老医師と、その弟子しかいなかった。

 家令は息子の手の者で、読ませたことはすべて息子に伝わる。

 老医師は、わたくしと同じくらい目が悪い。

 それで、弟子を呼んだ。

 クレメンスという、二十歳の若者だった。

 平民の出で、老医師の処方も記録も、ほとんどこの子が書いているらしかった。

 署名だけは、先生の名前で。


「お読みして、よろしいのですか」


 硬い声だった。

 緊張すると、語尾が少し上ずる。


「読んでちょうだい。孫の手紙よ」


 封を切る音がした。

 紙を開く音。

 短い沈黙。


「お祖母様。お庭の菫は、もう咲きましたか。王都では、まだ咲いていません。咲いたら、何色だったか、お手紙に書きます。ぼくは元気です。ユリアン」


 若者は、「ぼく」を少しも笑わずに読んだ。


 お庭の菫は、もう咲きましたか。

 膝の上で、手が勝手に握られた。

 十年、誰もわたくしに、それを訊かなかった。

 見えない目から、何かが落ちた。

 拭おうとして、やめた。

 見えないのだから、見られていても分からない。

 若者は何も言わなかった。

 紙を持ったまま、待っていた。

 しばらくして、若者が言った。


「奥様。……これは、お孫様の字では、ないと思います」


「どうして分かるの」


「丸い字です。一字ずつ、とても丁寧で。ペン先を紙に押しつけるように書いてあります」


 ためらうような間があった。


「これは、女の子の字です」


 誰の字か、わたくしにはすぐに分かった。

 菫の色を、見たままに話してくれた子だ。

 ユリアンが、婚約者に書かせたのだ。


 叱るのは簡単だった。

 息子に知らせれば、それで終わる。

 けれど、そうすれば叱られるのは、あの子だ。

 恥をかくのは孫でも、孫はきっと、あの子のせいにする。

 そして、手紙は止まる。

 黙っていよう、と決めた。

 あの子のためだ。

 わたくしは、若者のほうへ顔を向けた。


「返事を書いてちょうだい。わたくしが言うとおりに」


「わたしが、ですか」


「ほかに誰がいるの」


 ペンとインクを用意する音がした。


「宛名は、ユリアンへ」


「はい」


「でも、これはルイーゼに書くの」


 ペンの音が、止まった。


「孫の婚約者よ。ルイーゼ・ハイデン。……誰にも言わないでちょうだい」


 若者は、しばらく黙っていた。

 それから、はい、と言った。

 今度は、語尾が上ずらなかった。


「ユリアンへ。菫はまだです。咲いたら、あなたが見た色を教えてちょうだい」


 あなたが見た色。

 孫が読んでも、あの子が読んでも、意味の通る言葉を選んだ。


「署名は、どういたしましょう」


「代筆だと分かるようにして。あなたの名前で」


「わたしの名前は、要りません。どなたも読みませんから」


「あの子が読むわ」


 若者が、息を止めた。


「孫はね、封も切らずに、あの子に回すわよ。あの子の怠け癖なら、生まれたときから知っているもの」


 小さく、笑うような息が聞こえた。

 この若者が笑うのを聞いたのは、それが最初だった。

 ペンが、短く動いた。


「……頭文字だけ、書きました」


 代筆 C.

 それが、七年続く署名になった。



    *



 日曜が、音を取り戻した。


 昼前に、坂の下で蹄が緩む。

 門の鈴。

 廊下を来る足音。

 封を切る音。

 そして、クレメンスの声。

 あの子の手紙には、見たものが書いてあった。

 王都の空の色。

 市場に並ぶ果物。

 雨の匂い。

 目の見えない人に届くのだからと思ったのか、何でも細かく書いてあった。

 夏の終わりの林檎は、まだ青くて、手のひらにのせるとひんやりと重い。

 晩秋の雨の日には、黄色い銀杏の葉が石畳に張りついて、馬車の車輪が通るたびに、湿った音を立てる。

 わたくしは、それを見た。

 目で、ではない。

 けれど、見た。


 夜になると、わたくしは手紙の箱を膝にのせた。

 一通ずつ取り出して、紙の上に指を置く。

 インクは読めない。

 けれど、羽根ペンは紙に溝を残す。

 指の腹で、その溝をなぞった。

 一年目の手紙は、紙の裏まで跡が抜けそうなほど、強く押しつけて書いてあった。

 十三の子が、息を詰めて書いた字だ。

 二年目、三年目と、溝は浅く、なめらかになった。

 字のつながりが速くなった。

 あの子が大きくなっていくのが、指で分かった。

 どの手紙も、末尾は同じ名前で終わっていた。

 ユリアン。

 わたくしの指がいちばんよく覚えたのは、あの子の手が書く、孫の名前だった。

 はじめのほうの手紙ほど、紙はやわらかくなり、角が丸くなっていった。

 二年目の秋、一度だけ、ひどく溝の乱れた手紙があった。

 いつもは几帳面にそろっている文字が、ところどころ小さく震え、インクが滲んで紙がふやけたような跡が残っていた。

 あの子の家で何があったのか、わたくしには分からない。

 ただ、手紙には王都の街路樹の葉が落ちて寒々しいことだけが、短く綴られていた。

 誰にも褒められず、ただ文字が丁寧だというだけで代筆を押しつけられていたあの子が、その日どんな顔で机に向かっていたか。

 指先に伝わる震えだけで、胸が痛むほど分かった。

 わたくしはクレメンスに言った。

 「宛名は、ユリアンへ」。

 そして、こう続けさせた。


『あなたの文字は、静かで、とても温かいわ。わたくしには見えなくても、ちゃんと届いているのよ』


 その次の日曜に届いた手紙は、いつもよりずっと深く、しっかりと紙にペンが押しつけられていた。


 三年目の冬、老医師が亡くなった。

 クレメンスが、わたくしの侍医になった。

 わたくしは公証人を呼んで、遺言を作った。

 実家から持ってきた財産は、孫ユリアンと、その妻に。

 公証人が帰ったあと、クレメンスが言った。


「なぜ、お名前を書かれないのです」


「名前を書いたら、あの子は受け取らないわ。そういう子よ」


 それから、少しだけ、本当のことを足した。


「……それに、書いたら、手紙が止まるかもしれないでしょう」


 クレメンスは、何も言わなかった。


 その春、わたくしは返事に、こう書かせた。


『あなたの見る菫の色が、わたくしは好きよ』


 孫がこの館に来たのは、七年で一度きりだった。

 四年目の秋、父親の使いで、書類に署名をもらいに来たのだ。


「先週の林檎の手紙、よく書けていたわ」


 孫は、椅子の上で身じろぎした。


「林檎? ……ああ、ええ。林檎ね」


 それで、分かった。

 この子は、一通も読んでいない。

 自分の名前で出された手紙も、自分に宛てた返事も。

 それでも次の日曜、わたくしは宛名を「ユリアンへ」と書かせた。

 その次の日曜も。

 一通でも開いてくれたら、と思わなかったと言えば、嘘になる。


 五年目の冬のことだった。


「寒くないようにね」


 そう言って、わたくしは口を閉じた。

 ペンの音が、止まらなかった。

 短く、迷うように、もう一行ぶん続いた。


「今、何を足したの」


 クレメンスが、ペンを置いた。


「……『あなたは冬に手が冷える子でしょう』と。二か月前のお手紙に、そうありましたので」


 わたくしは、忘れていた。

 あの子が一度だけ、ついでのように書いた一行だった。

 この人は、それを覚えていた。

 あの子の言葉を、一つも落とさずに持っている人がいる。


「消しましょうか」


「いいえ」


 わたくしは、窓のほうを向いた。


「そのままでいいわ」


 それから、クレメンスの声は少しずつ変わっていった。

 読み上げが、ほんの少しゆっくりになった。

 ある一行のところで、息が止まる日があった。

 あの子が雨の匂いを書いた日や、菫のことを書いた日だった。

 字も、きっと同じようにやわらかくなっていたのだろう。

 わたくしには見えない。

 けれど、声がそうなっていくのは聞こえた。


 変化は、声だけではなかった。

 日曜の朝になると、この若者からはいつも、微かに石鹸の清潔な匂いと、ぴんと糊のきいた麻の襟の擦れる音がした。

 手紙を受け取りに廊下を歩いてくる足音も、平日の往診のときより、ほんの少しだけ歩幅が狭く、せわしない。

 部屋に入ってくると、紙を開く前に、いつも決まって小さく一度、咳払いをするようになった。


「クレメンス。日曜の往診は、ずいぶん身支度に余念がないのね」


 一度そう言ってからかうと、若者は息を詰まらせ、「……医師たるもの、清潔が第一ですから」と、真面目くさった声で言い返してきた。

 見えなくても、耳まで赤いのが分かる声だった。

 それ以上言うのは、やめておいた。


 いつか、二人に名前を返そう、と思った。

 孫の婚儀が済んだら。

 春が来たら。

 菫が咲いたら。

 わたくしは、その「いつか」を、毎年、先へ延ばした。



    *



 遺言を書き換えたその午後、わたくしはクレメンスを呼んだ。


 ペンを用意する音がした。

 インク壺の蓋が開く音。


「宛名は」


 そこで、言葉が止まった。

 七年、毎週言ってきた名前だった。

 口述の前に、ルイーゼに、と。

 けれど、それはこの部屋の中だけの名前だった。

 紙の上に書かせたことは、一度もない。


「……宛名は、ルイーゼ・ハイデン様」


 ペン先が紙に触れて、そのまま止まった。

 長い間があった。

 それから、ゆっくりと、ペンが動きだした。

 七年で、この人がはじめて書く宛名だった。


 一度目は、遺言のことを書かせた。

 読み返させて、首を振った。


「消して。これでは、あの子は来ないわ」


 財産のために来たと思われるくらいなら、あの子は来ない。

 二度目は、詫びを書かせた。

 七年、知っていて黙っていたこと。


「消して。これでは、あの子が詫びに来てしまう」


 クレメンスが、小さく息を漏らした。

 笑ったのだと思う。

 わたくしも笑った。

 笑いながら、情けなかった。

 七年分の手紙を受け取っておいて、たった一通が書けない。


 その日は、それで終わった。

 翌日も、書けなかった。

 夜、わたくしは咳をした。

 長い咳だった。

 クレメンスが背中をさすり、薬を飲ませた。

 そのあとで、何か言いかけて、やめた。

 言われなくても、分かっていた。


 三日目の朝、わたくしは言った。


「本当のことだけ、書いてちょうだい」


  日曜の手紙が届きませんでした。

  七年で、はじめてのことです。

  ユリアンのことは、聞きました。

  ルイーゼ、一度だけ、会いに来てくださらない? 菫が咲くまで、待てそうにないの。


 最後の一行で、ペンが少し震えた。

 この人は侍医だ。

 それが本当のことだと、わたくしより先に知っている。


「……ヘルミーネ」


 署名を言って、わたくしは口を閉じた。

 ペンの音が、続いた。

 短く書いて、止まる。

 ためらうように、また続く。

 わたくしは、何も訊かなかった。

 窓のほうへ顔を向けて、聞こえないふりをした。

 七年、黙ってきた。

 その沈黙が、今度は、誰かを送り出すためのものになった気がした。

 封をする音がした。


「急ぎの便で出してちょうだい」



    *



 二日後の夕刻、坂の下で車輪の音が止まった。


 玄関で話し声がして、やがて、階段をのぼる足音が二つ聞こえた。

 一つは、聞き慣れた革靴。

 もう一つは、軽くて、少し急いでいた。

 途中で、軽いほうがつまずいた。

 重いほうが止まった。

 それから二つとも、またのぼってきた。

 扉が開いた。


「ルイーゼ・ハイデンでございます」


 七年、クレメンスの声で聞いてきた言葉の、本当の持ち主の声だった。


「ルイーゼね」


 わたくしは笑った。


「手紙と同じ話し方をするのね」


 言葉の選び方も、間の置き方も、七年、読み上げで聞いてきたものと同じだった。


 あの子は膝をついて、騙していたと詫びた。

 わたくしは笑って、一通目で分かっていたと言った。

 一通目を、クレメンスに読ませた。

 お祖母様と呼んでちょうだい、とも言った。

 あの子の手を取った。

 冷たかった。

 冬に手が冷える子、と思った。

 窓辺の机では、クレメンスが夕方の薬の記録をつけていた。

 そのペンの音を聞きながら、あの子が言った。


「……代筆の、C.さん」


 ペンの音が、止まった。


「クレメンスです」


 クレメンスが自分の名前を名乗るのを、わたくしは七年ではじめて聞いた。


 その夜、馬車がもう一台着いた。

 息子と、孫と、孫の新しい相手だった。

 明日の朝の読み上げのために、わたくしが呼んだのだ。


「何でお前がここにいる」


 孫の声が、戸口で尖った。


「遺産目当てか」


「違います」


「あの手紙は、俺の名前で出した、俺の手紙だ。お前は字を書いただけだろう」


 息子が、疲れた声で言った。


「ハイデン嬢。あなたはもう、この家の者ではない。出ていきなさい」


「お黙りなさい」


 言いたいことは、まだあった。

 あの手紙は、あなたの手紙ではない。

 あなたは、一通も読んでいない。

 けれど、息の代わりに咳が出た。

 咳は止まらなかった。

 体が前へ折れた。

 クレメンスの手が背中に当たった。

 遠くで、扉の閉まる音がした。


 気がつくと、薬の苦さが舌に残っていた。

 枕元に、息子がいた。


「明日の読み上げは、延期します。母上のお体が第一です」


 やさしい声だった。

 この子がやさしい声を出すのは、何かを片づけたいときだ。

 あの子を帰すための延期だと、分かった。

 言い返す息が、なかった。

 息子が出ていった。


 わたくしには、灯りは要らない。

 けれどその夜、部屋の灯りは遅くまで点いていた。

 クレメンスが薬を調え、記録をつけていた。

 一度、湯を取りに出ていって、長いこと戻らなかった。


 夜更けに、戻ってきた。

 足音が、いつもより重かった。

 何かを抱えている。


「広間に、これが置いてありました」


 卓の上に、木の箱が置かれる音がした。

 蓋の上に札が一枚のっている、とクレメンスは言った。


「読んで」


「……『ユリアン様へ』と。あの方の字で」


 手を伸ばした。

 クレメンスが、札をわたくしの指の下に置いた。

 指の腹で、溝をなぞった。

 知っている字だった。

 七年、毎晩なぞってきた、あの子の手が書く、孫の名前。


 あの子は、返事の束を置いて、出ていくつもりなのだ。

 自分は、はじめから代わりにすぎなかったと言い聞かせて。

 誰が、あの子にそう教えたのだろう。

 孫だろうか。

 息子だろうか。

 違う。

 三百六十四通の返事の宛名を、「ユリアンへ」と書かせ続けたのは、わたくしだ。

 あの子のためだと思っていた。

 黙っていることが、やさしさだと。

 本当は、日曜を失いたくなかっただけだ。

 夫の問いが、あの子の字で帰ってきた。

 それを手放すのが怖くて、七年、あの子の名前をどこにも書かなかった。

 目が見えなくても、名前は呼べた。

 呼ばなかったのは、わたくしだった。


「奥様」


 クレメンスの声が、低かった。


「今夜は、お休みください。読み上げは、お体が戻ってからでも」


「戻るの?」


 答えがなかった。


「次に今夜のような発作が来れば、そのときは……」


「菫までは?」


 答えが、なかった。

 それが、答えだった。


 延期すれば、菫を待てるかもしれない。

 あと何日か、うまくいけば何十日か。

 この体で、もう一度、あの子の言葉で菫を見られるかもしれない。

 そのかわり、あの子は夜明けに去る。

 わたくしは、七年分の「いつか」を数えた。

 孫の婚儀が済んだら。

 春が来たら。

 菫が咲いたら。

 今夜「いつか」を選べば、それはもう来ない。


「夜が明けたら、公証人を呼んでちょうだい」


「奥様」


「息子も、ユリアンも起こして。皆を、この部屋に」


 クレメンスは、しばらく黙っていた。

 それから、はい、と言った。

 七年前と同じ、上ずらない声だった。

 わたくしは、もう一度、札をなでた。


「……宛名が、違うわね」


 誰に言ったのでもなかった。

 クレメンスは、答えなかった。


 夜明け前、窓の下の砂利を、誰かが走っていく音がした。

 クレメンスが走る音を、わたくしは七年、一度も聞いたことがなかった。



    *



 足音が、二つ戻ってきた。


 扉の前で、一度止まった。

 低い声が、何か短く言った。

 聞き取れなかった。

 聞き取れなくていい、と思った。

 寝室には、もう皆がそろっていた。

 公証人。

 息子。

 孫。

 孫の相手。

 あの子が、枕元の卓に箱を置いた。

 わたくしの箱の隣に。

 木と木の触れ合う、小さな音がした。

 三百六十四通と、三百六十四通。

 七年分の日曜が、わたくしの耳のすぐそばで、並んでいた。


「ユリアン」


 わたくしは言った。


「一通目の手紙で、あなたはわたくしに、何を訊いたかしら」


「……は?」


「一通目よ。あなたが書いてくれた、最初の手紙」


 一つでいいから、答えてほしかった。

 林檎でも、雨でも、空の色でもいい。

 七年のうちの、一通でいいから。


「お、お加減はいかがですか、とか……」


 わたくしは、少しのあいだ目を閉じた。


「菫は咲いたか、と訊いたのよ」


 あの子のほうへ、顔を向けた。


「そうよね、ルイーゼ」


「……はい」


 公証人が、書類を広げる音がした。


「爵位、ならびに侯爵家に属する土地は、法の定めにより、嫡男ユリアン殿が継がれます」


 孫が、ほっと息をつくのが聞こえた。


「次に、先代侯爵夫人が御実家よりお持ちになった財産について。これは夫人個人のものであり、夫人の遺言によります」


 公証人は、一度、言葉を切った。


「以前の遺言では、『孫ユリアンと、その妻に』とありました。五日前に、書き換えられております」


 孫が、顔を上げる気配がした。


「『七年間、日曜ごとにわたくしに手紙をくれた、ルイーゼ・ハイデンに』。なお、館の使用人には、別に年金を遺すとあります」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


「ふざけるな」


 孫の声が、裏返った。


「あの手紙は、俺の名前で出したものだ。名義は俺だ!」


「ええ」


 わたくしは、静かに言った。


「だから七年、あなたの名前に宛てて、返事を書いたわ」


 孫のほうへ、顔を向けた。


「一通でも、読んだ?」


 罰のつもりで訊いたのではなかった。

 最後に、もう一度だけ、訊いてみたかった。

 孫は、何も言わなかった。

 息をする音だけが、聞こえた。


「奥様の返事は、すべてわたしが代筆しました」


 クレメンスが言った。


「宛名は、ユリアン様です。けれど奥様は、毎週、口述を始める前に、必ずこうおっしゃいました」


 少しだけ、間があった。


「『ルイーゼに』」


 七年、聞くだけだった人が、はじめて皆の前で、その名前を声にした。


「三百六十四回、わたしは、その名前を聞きました」


 紙の擦れる音がした。

 あの子が、書類を押し戻したのだ。


「いただけません」


 声が震えていた。


「わたしは、ユリアン様のお名前で書いただけです。見返りがほしくて書いたのでは——」


「では」


 わたくしは言った。


「わたくしの七年は、誰に宛てた返事だったの?」


 部屋が、静かになった。


「あなたが受け取らないなら、わたくしの三百六十四通は、宛先のない手紙になるわ」


 それは、あの子への問いだった。

 そして、わたくしの告白だった。

 わたくしも七年、あなたの名前を宛名に書かなかった。

 だから今、呼んでいる。

 残りの命を、ここに置いて。


 窓の外で、鳥が鳴いた。

 長い静けさのあとで、ペンの音がした。

 紙を引っかく、細い音。

 わたくしは、その速さを知っていた。

 七年、指でなぞってきた溝の、音だった。


 手を伸ばした。

 公証人が、書類をわたくしの手の下に滑らせた。

 インクは、まだ乾ききっていなかった。

 指先で、そっとなぞった。

 ユリアンではなかった。

 七年、わたくしの指が覚えてきたのは、あの子の手が書いた、孫の名前だった。

 これは違う。

 もっと長くて、少し震えていて、最後の一字だけ、強く押しつけてあった。

 十三のころの、あの筆圧で。

 あの子の手が、あの子の名前を書いた。

 わたくしは、それを、はじめて読んだ。


「……あなたの名前ね」


 指先が、少し湿っていた。

 あの子のインクが、移ったのだと思う。


 衣擦れの音がして、扉が閉まった。

 孫の相手が、出ていったらしい。

 財産のない侯爵家に嫁ぐなんて聞いていない、と言い残して。


「婚約者に、七年も代筆させていたのか」


 息子が、孫に言った。

 孫は、答えなかった。

 わたくしは、息子のほうへ顔を向けた。

 この子もまた、かつては小さな手で、わたくしのドレスの裾を握っていたのだ。

 まだ目が見えていたころ、遠征から届く夫の手紙を読み聞かせると、真似をして拙い字で手紙を書こうとした日もあった。

 いつか成長して親元を離れたら、この子からも手紙が届くのだろうか、とあのころは思ったものだった。

 けれど大人になった息子が寄こすのは、金を無心する事務的な手紙ばかり。

 この子にとっても手紙とは、心を通わせるものではなく、要求を伝えるための書類でしかなかったのだ。

 そう育ててしまったのは、ほかならぬわたくしなのかもしれなかった。

 喉まで出かかった言葉があった。

 あなたは七年、わたくしに一通も書かなかったけれど。

 それは、口に出さずにおいた。



    *



 その夜、わたくしはあの子に頼んだ。


「最後に一通、書いてちょうだい。今度は、あなたの名前で」


 窓辺の机で、ペンの音がした。

 長い手紙ではなかった。

 クレメンスが、それを読み上げた。


  お祖母様。

  丘の菫は、まだ咲いていません。

  けれど、いちばん日当たりのいい斜面のつぼみが一つだけ、先を紫に染めはじめています。

  日の当たるほうは少し青くて、影のほうは夜みたいに深い色です。

  七年前、お庭で見たのと同じ色です。

  明日か、明後日には、きっと開きます。

  咲いたら、何色だったか、またお伝えします。

                ルイーゼ


 七年前の、にじんだ紫を思い出した。

 しばらく黙って、それから、わたくしは笑った。


「……やっと、宛名と差出人がそろったわね」


 クレメンスが、手紙を畳む音がした。

 わたくしは、顔を少しだけ、そちらへ向けた。


「クレメンス。あなたも、そろそろ自分の名前で書きなさい」


 紙を畳む音が、一度だけ止まった。

 それ以上は、言わなかった。

 七年、わたくしの言葉を一つも落とさずに書いてきた人だ。

 あとは、自分の言葉を書けばいい。


 あの子は館に留まり、毎朝、丘の菫を見に行ってくれた。

 部屋に戻ってくると、冷たい外の匂いとともに、「お祖母様、まだです」と静かに告げた。

 そのたびにわたくしは、まだ待てるわね、と微笑んだ。

 薬が効いてうとうとと微睡(まどろ)む昼下がり、枕元の遠くで、小さな話し声がすることがあった。

 ルイーゼの、一つひとつの言葉を確かめるような、落ち着いた声。

 それに答えるクレメンスの声は、いつもの冷静な侍医のものではなくて、どこか困ったように低く、けれどやわらかかった。

 何かを言い淀んでは、語尾がほんの少しだけ上ずる。

 二十歳のころ、はじめて孫の手紙を読んだときと同じ癖だった。

 ふいに、衣擦れの音が重なり、小さな笑い声がこぼれた。

 何を話しているのかまでは聞き取れなかったけれど、二人のあいだに流れる沈黙は、少しも冷たくなかった。

 掛け布を握るわたくしの手のひらに、春のやわらかな日差しが、ほんのりと温もりを落としていた。


 三日後の朝、窓が明るかった。

 瞼の裏まで、白く明るい。

 春の光だ、と思った。

 甘い、冷たい匂いがした。


「窓を、開けてちょうだい」


 留め金の外れる音。

 蝶番(ちょうつがい)のきしむ音。

 冷たい風が、頬に触れた。

 匂いが、濃くなった。


 庭の菫は咲いたか。


 耳の奥で、あの人の声がした。

 ひどい字の、毎週同じ問い。

 咲いたわ、と答えようとして、答える先が、もうすぐそこにあることに気がついた。


 見えなくても、色は知っている。

 日の当たるほうは少し青くて、影のほうは夜みたいに深い。

 花びらの付け根だけが、白い。


 あの子が、教えてくれたから。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


前作、孫の側から見た同じ七年は、こちらです。


『婚約者の代筆をやめたら、お祖母様が遺言を書き換えました』

https://ncode.syosetu.com/n3697mu/

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