第九話 HP23・MP12、それでも・・・
田中守には、何も来なかった。
——あの夜、「北」の字は結局書かれなかった。
ただ翌朝、目が覚めた。それだけだった。
手帳を手に取った。ページを開いた。ペンを持った。HP算出根拠——と書こうとして、止まった。睡眠時間を数えようとした。布団の中で目を開けたまま天井を見ていた時間と、目を閉じていた時間の区別が、つかなかった。朝食は。食欲がなかった。天候は。窓を見る気がしなかった。精神的消耗は——
手帳を閉じた。外ポケットには入れなかった。カバンの奥に入れた。
会社へ行った。
その日は静かに過ぎた。黒沢から一度声をかけられた。答えた。坂口が「プロジェクト、来週仕切り直しですね」と言った。「そうですね」と答えた。柚葉からメールが来た。内容を確認して、短く返した。速水と廊下ですれ違った。うなずいた。速水もうなずいた。
手帳は一度も開かなかった。
定時になった。帰り支度をした。エレベーターの前で三十秒待った。扉の鏡に、田中守が映っていた。いつもならここで何かが来る。(転移魔法陣——)とか(本日の交戦を整理する——)とか。今日は何も来なかった。田中守が立っているだけだった。
帰宅した。ジャケットをハンガーにかけた。冷蔵庫を開けたが、閉めた。テレビのリモコンに手が伸びて、止まった。テーブルの前に座った。
カバンの奥から手帳を取り出した。
昨夜のページが開いた。「——敗」という文字が、そこにあった。その先が、ない。
田中は少しの間、その文字を見た。それから、前のページを繰り始めた。二十一日分の記録が、几帳面な字で並んでいた。HP。MP。クエスト。交戦記録。本日の戦果。
五日目のページが出てきた。「チート:未定義」。
その文字を見た。
(……チートは、まだない)
それまで押しこめていたものが、ゆっくりと動き始めた。社内評価E。得意なことは何ですか、と聞かれて答えられなかった日。「田中でなければならない理由が、何もない」と思った夜。あの問いは今も、答えが出ていない。
十四日目のページが出てきた。「——うまくいった。気がした。」
気がした、と書いてある。柚葉が笑った。フラグが立ったかもしれない——とも書いてある。でも「気がした」だ。「証明した」とは書いていない。此の世界のどこにも、証明がない。黒沢を論破したか。プロジェクトを成功させたか。誰かに必要とされたか。
(……証明が、ない)
一日目のページが出てきた。「此の世界は、異世界だ。——俺がそう決めた」。
深夜一人で決めた言葉だ。神様は来なかった。トラックも来なかった。俺は二十七歳になっただけだった。誰も必要としていなかった。だから手帳を開いた。此の世界を異世界にすると決めた。
それから二十一日間。
黒沢に削られた日も。速水の呪いを感じた日も。柚葉の鑑定が弾かれた日も。チートの名前が見つからなかった日も。得意なことを答えられなかった日も。
書いた。
(……書き続けた)
田中は手帳を持ったまま、少し考えた。書き続けた、ということは何を意味するのか。毎朝HPとMPを算出したことに、何の意味があるのか。黒沢を論破したか。プロジェクトを成功させたか。誰かに必要とされたか。
何も、起きていない。
ただ——書いた。
(……それだけのことだ)
それだけのことが、二十一日間、続いた。成果がなくても。証明がなくても。誰も必要としていなくても。毎朝ページを開いた。毎夜記録した。どんな日も「生存」と書いた。
田中は今朝書けなかったページに戻った。白いページ。「HP——」の先が出てこなかった場所。ペンを取った。計算を始めた。
睡眠時間:六時間。朝食:コーヒーのみ。天候:晴れ。精神的消耗:——測るまでもない。プロジェクト仕切り直し。異世界語りが止まった朝。
HP:23。
今まで書いてきた中で、最低の数字だった。でも——出た。
MP:12。
それも、最低だった。でも出た。
◆本日(異世界二十二日目)ステータス:
HP:23
MP:12
本日のクエスト:——生存。
田中は書いた数字を、じっと見た。二十三と、十二。最低値が、今夜ここに出た。
それからスキル欄を開いた。【諦めない】Lv.1、と書いてある。
田中はそれを見た。長い間、見た。
Lv.1。根拠はない、ただしLv.0はさすがにない気がしたので暫定1とする——と一日目に書いた。今でも根拠はない。論破した実績はない。プロジェクトを成功させた実績はない。誰かに認められた実績もない。
でも——二十一日間、続いた。
これが証拠にならないことはわかっている。「続いた」ということと「諦めなかった」ということは、同じではないかもしれない。惰性で続いただけかもしれない。
でも。
田中はペンを取った。【諦めない】の隣に書いた。
◆スキル【諦めない】:Lv.2——たぶん。証明できないけど、俺はそう信じることにした。
書き終えて、田中はしばらく、その一行を見た。証明できない。誰かに認めてもらえるわけでもない。手帳の中だけの記録だ。HP23、MP12のこの夜にも、俺はここにいる。数字は最低だ。でも書いた。書いたということは——まだ、ここにいる。
此の世界は、異世界だ。俺がそう決めた。それは、まだ変わっていない。
田中はページを閉じた。手帳を閉じた。テーブルの上に置いた。テレビをつけなかった。缶ビールも取り出さなかった。そのまま布団に入った。
翌朝、田中は六時三十分に目を覚ました。手帳を手に取り、ページを開いた。昨夜書いた「HP23・MP12」と、「【諦めない】Lv.2——たぶん。証明できないけど、俺はそう信じることにした」という一行が、そこにあった。夢ではなかった。
新しいページを開いた。ペンを取った。計算を始めた。昨日よりは、数字が動いた。書いた。クエストを書いた。手帳を閉じた。コーヒーを飲んだ。ジャケットを着た。カバンに手帳を入れた。外ポケットに。玄関の扉を開けた。外は晴れていた。
俺のHPは23だった。でも——勇者は、立った。




