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転生できないので、此の世界を異世界にしました。 〜HP23・MP12・本日のクエスト:生存〜  作者: 深海周二


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8/11

第八話 クエスト、失敗

 異世界アニメにおける「ボス戦」前夜は、特別な重量を持つ。主人公は装備を整え、回復アイテムを補充し、これまで積み上げてきた経験値を確認する。準備が完璧なとき、物語は「それでもギリギリで勝つか、負けるか」に向かう。準備が完璧でないとき、物語は「準備が足りなかったことに気づく瞬間」に向かう。いずれにしても、ボス戦の朝は明確に「ボス戦の朝」だ。緊張がある。気合がある。そしてたいてい——今日で、何かが決まる。

 田中守の異世界二十一日目は、そういう朝だった。


◆本日(異世界二十一日目)ステータス:

 HP:74(睡眠7.5時間。朝食:卵かけご飯とみそ汁、栄養補給目的で特別に作った。天候:晴れ。プラス補正複数。)

 MP:68(コーヒー:二杯摂取済み。本日クエスト難易度:A。初の高難易度クエストにつき二杯で対応。)

 本日のクエスト:合同プロジェクト・先方確認会議(難易度A)。——今日で、方向が決まる。

 パーティー状態:良好。ヒーラー:相川柚葉(推定・信頼度上昇中)。サポート:山本さん(情報収集済み)。アタッカー:坂口(待機中)。

 作戦:先週の中間整理を基に、先方との関係維持を軸に据えた提案を提示する。メインクエストは「関係の確認と次フェーズへの橋渡し」。シンプルに、確実に。——いける。

◆特記事項:本日は必ず、記録に値する日になる。


 書き終えて、田中はしばらく読み返した。「記録に値する日になる」と書いたのは初めてだった。異世界一日目から二十一日間、本日の戦果は必ず「生存」か「経験値:微量」で締めてきた。今日は違う。手帳を閉じ、シャワーを浴びた。スーツはこの三週間で一番状態のいいものを選んだ。鏡の前で一度だけ自分の顔を見る。昨日と同じ田中守がいた。でも——今日は、戦いに行く顔をしている気がした。

「鑑定——」

 鏡に向かって小声で言った。しかし鏡は何も返してこなかった。想定の範囲内とする。


 株式会社ホドホド物産、本社ビル。エレベーターを降りて第三営業部のフロアに入ったとき、最初に気づいたのは山本さんの背筋だった。

 山本さんはいつも座り方が一定だ。背もたれに軽くもたれ、画面を見る角度が変わらない。今朝は、少しだけ前傾みだった。ほんのわずか。ただ——田中のフラグ察知スキルが、そこで一回反応した。

(……何かある)

 手帳を取り出そうとして、止めた。今日の朝は手帳よりステータスを安定させる方が先だ。自席につき、パソコンを起動する。メールを確認した。

 着信が一件あった。

 田中は読んだ。もう一度、読んだ。

 差出人:黒沢雄一。送信時刻:07:51。件名「今日の件について」。

 本文は短かった。

 「先方から昨日、いくつか確認が入ってました。今日の前に少し話せますか」

 田中は手帳を開いた。本日のステータス欄を見た。「HP:74」「MP:68」「今日で、方向が決まる」——正確だった。方向は、決まることになる。田中が思っていた向きとは、違う可能性があるが。

(フラグ察知スキル:反応確認。朝の段階で黒沢幹部からの接触。——難易度A、確定)

 メールに「少し待ってもらえますか」と返した。打ちながら、手帳の余白に一行だけ書いた。


◆本日の難易度:A→?。朝の時点でシナリオが変わる可能性あり。要注意。

 黒沢が自席から立ち上がり、こちらに向かってきた。スーツの上着を着たままだ。七時五十一分に来ていたとすれば、今朝は早かった。調子がいいときの黒沢は早く来る。そしてこの時間に来ていた黒沢は——今日の黒沢は、本気で動いている。


「田中くん、ちょっといい」

「はい」

 黒沢が隣の椅子を引いて座った。いつもは立ったまま話す。座った。田中の中で何かのゲージが、静かに下がり始めた。

「先方から昨日、俺のところに直接連絡が来て」

「はい」

「プロジェクトの方向性について、確認がしたいって。具体的には——提案の内容が、少し消極的に見えるって」

 田中は黒沢の顔を見た。黒沢は変わらない顔をしていた。悪意はない。ただ情報を伝えている。いつもと同じだ。だからこそ、今この一言の重さがどこにも引っかからずに、まっすぐ田中に届いた。

「消極的」と田中は言った。

「うん。先方は新しい提案を期待していたらしくて。既存関係の維持だけだと、このタイミングで合同プロジェクトを組む意味が薄いって印象を持ったみたいで」

 田中は何も言わなかった。

「今日の会議、一旦内容を仕切り直して、先方の意図の確認から始めた方がよさそう。相川さんにも話したい」

「……わかりました」

「うん。今日は本番じゃなくて確認の場、という整理にしよう」

 黒沢が立ち上がった。「あ、資料は先週のままで持ってきて。何が消極的に見えたかを確認してから話す方が早いと思うから」と言い、自席に戻った。

 田中はしばらく、画面を見ていた。

(……違う、か)

 手帳を閉じた。


 午後一時からの会議は、三十八分で終わった。

 速水が仕切り、黒沢が先方からの確認内容を共有し、柚葉が資料を広げ、田中と坂口が参加する形式だった。先方は確かに、新しい切り口を期待していた。既存関係を「守る」だけではなく、既存関係を「基盤として次を提案する」という構成を求めていた。今の資料は守る方に組み立てられている。来週以降、仕切り直しが必要になった。

 速水が言った。「ここまで進めてきた方向性で、良かったと思います。ただ先方の意図の確認が少し遅かった。次回はそこから入りましょう」

「現実的に考えて、来週の打ち合わせまでに組み直せる量ですか」と黒沢が坂口に聞いた。

「……やります」と坂口が言った。声に、さっきより張りがなかった。

 柚葉は「私の見通しが甘かったです」と言った。静かな声だった。責める調子ではない。ただ、事実として言った。

 田中は、何も言わなかった。

 会議が終わり、参加者が立ち上がった。坂口が早足で出た。速水が書類を抱えて出た。黒沢が田中の方を一度見て、何か言おうとして、言わなかった。それが黒沢なりの配慮なのかどうかは、田中にはわからなかった。

 柚葉が出口の近くで少しの間、立ち止まった。田中を見た。

「……また話しましょう」

 それだけ言って、柚葉は出た。

 田中は少しの間、出口を見ていた。

 それから、最後に会議室を出た。手帳はポケットに入ったままだった。

 エレベーターの前で、田中は三十秒待った。

 扉が開いた。中に入った。一階のボタンを押した。扉が閉まった。

 エレベーターが下降し始めた。

 いつもならここで何かが来る。(転移魔法陣——下降中)とか、(本日の交戦を整理する——)とか、何か書くべきことが浮かんでくるはずだった。

 何も来なかった。

 鏡になったエレベーターの扉に、田中守が映っていた。

 スーツ姿。今日一番いい状態のスーツ。フロアの蛍光灯を反射した顔。表情は、何もなかった。驚いていない。怒っていない。悲しんでもいない。ただ——何もない顔をした、二十七歳の会社員が立っていた。

 勇者でも、冒険者でも、なかった。

 田中守が、いた。

 一階に着いた。扉が開いた。田中は外に出た。

 夕方の廊下を歩きながら、田中はポケットの中の手帳に触れた。硬い表紙の感触があった。取り出さなかった。

 自席に戻り、パソコンを閉じた。帰り支度をした。フロアを出るとき、山本さんが「お疲れ様」と言った。「お疲れ様です」と田中は答えた。声は、いつもと同じ高さで出た。


 夜の通勤路。田中は横断歩道の前に立った。信号が赤だった。

 手帳を取り出した。開いた。今朝書いたステータス欄があった。「HP:74」「MP:68」「本日は必ず、記録に値する日になる」。

 ペンを取った。

 本日の戦果:——

 そこから先が、書けなかった。

 帰宅した。ジャケットをハンガーにかけた。冷蔵庫を開けたが、何も取り出さなかった。閉めた。テレビのリモコンに手が伸びかけて、止まった。

 テーブルの前に座った。手帳を開いた。七話の記録が目に入った。「クエスト思考の転用:機能した」。その文字を、しばらく見た。

 ペンを持った。「——敗」と書いた。

 そこで、ペンが止まった。

 止まったまま、動かなかった。

 部屋の中が静かだった。テレビも、アニメも、なかった。缶ビールも、なかった。ただ、テーブルの上に手帳があって、田中守がペンを持ったまま、動かずにいた。

 長い間、そうしていた。

 手帳の上に、「——敗」という半分の文字だけが残った。

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