第五話 俺のチートは何だ問題
異世界転生ものにおける「チート能力」の扱いは、ジャンルによって大きく異なる。無双系では最初から与えられている。追放系では追放された後に開花する。ドラッグストア開業系では現代知識という形で内在していた。いずれにしても共通しているのは、主人公は「自分のチートが何か」を、わりと早い段階で把握しているということだ。転生直後にステータス画面が開いて確認するか、ピンチの場面で突然発動するか、師匠役のキャラクターが教えてくれるか。どの作品でも、主人公は物語の序盤のうちに「俺にはこれがある」と言える何かを手に入れる。
田中守は、まだ持っていなかった。
異世界五日目の朝。ステータス算出はいつもより早く終わった。
◆本日(異世界五日目)ステータス:
HP:71(良好。睡眠7時間、朝食あり)
MP:60(コーヒー済、本日クエスト難易度C)
本日のクエスト:既存客フォローの電話対応(難易度C)、内部資料の更新(難易度C)。警戒事項:幹部Aとの遭遇リスク・低(本日は外出予定あり)。——比較的、動きやすい日になる。
書き終えて、田中は手帳を閉じようとして、止まった。スキル欄を開いた。
◆スキル一覧(現在):
【異世界テンプレ全網羅】Lv.MAX
【フラグ察知】Lv.8
【鑑定】Lv.2(育成中)
【諦めない】Lv.1
チート:——未定義
「未定義」という文字を、しばらく見た。五日目だ。異世界の主人公なら、もうチートの輪郭くらいは見えている頃だ。しかし田中には、まだ何もない。スキルは全部、もともと自分にあったものをそう呼んでいるだけだ。特典ではない。転生ボーナスでもない。この世界に降り立つ前から、田中守に備わっていたか、あるいは備わっていなかったかのどちらかでしかない。
(……チートは、どこだ)
電車の中で、田中は手帳に新しいページを開いた。タイトルを書いた。「チート能力・候補リスト」。ペンを走らせる。
◆チート能力・候補リスト(検討中):
①無限魔力——なし(MPは毎日着実に消耗している)
②転生特典(神様からのギフト)——なし(神様が現れなかったので当然なし)
③ハーレム構築スキル——絶対にない(根拠は述べない)
④現代知識チート——微妙(知識はあるが、この世界で活かせているかは別問題)
⑤異世界テンプレ全網羅——これはスキルとして計上済み。チートとは別枠か
⑥不屈の精神——Lv.1の【諦めない】がそれに相当するか。ただしLv.1は低すぎる
⑦隠された才能——現時点では確認できていない。社内評価E
書き終えて、田中は一度読み返した。どれも弱い。無双系の主人公なら、①だけで物語が成立する。追放系の主人公なら、②があるから理不尽に耐えられる。田中には①も②も③も、ない。④は「微妙」、⑤は「別枠」、⑥は「Lv.1」、⑦は「確認できていない」。
(……俺のチートは、何だ)
電車が駅に着いた。田中はペンのキャップを閉めた。「何だ」という問いだけが、手帳の余白に残った。
午前中の業務は順調だった。既存客への電話を三件こなし、内部資料を更新し、黒沢との交戦も一回に抑えた(消耗MP:2。本日の黒沢は外出前で機嫌が安定していた)。お昼前に田中は給湯室へコーヒーを取りに行き、そこで相川柚葉と二度目の遭遇を果たした。
異世界アニメにおいて、ヒロインとの二度目の遭遇は重要だ。一度目は「出会い」だが、二度目は「関係の起点」になる。一度目で印象を残し、二度目でその印象が更新されるか、あるいは強化される。つまり今回は——
(二度目のフラグだ)
柚葉は給湯室のシンクで自分のマグカップを洗っていた。田中が入ってきたのに気づいて、一瞬だけ動きが止まった。昨日プリンター室で逃げた人間が翌日また現れた、という状況の処理に一秒かかったのだと、田中は分析した。
「あ」と柚葉が言った。
「どうも」と田中は言った。
それだけだった。田中はコーヒーメーカーに向かい、マグカップをセットした。柚葉はカップを洗い終えて、水を切っていた。沈黙が三秒続いた。
(……この沈黙、どう処理するべきか。昨日の状況を考えると鑑定を試みるのは——)
「あの」と柚葉が言った。
田中は振り向いた。
「昨日の——チートって、何ですか」
田中は少し考えてから、答えた。
「まだ、決まっていないです」
「決まっていない」
「はい。候補はいくつか考えているんですが、どれも決め手に欠けていて」
柚葉の眉が、また動いた。昨日と同じ動き方だった。
「決め手に欠けてるチートって」
「そうなんです。無双系みたいに最初からわかっていれば楽なんですが、俺の場合は自分で定義しないといけないので。何が特技なのか、何が武器になるのかを、まず自分で見つけないといけない」
コーヒーメーカーが音を立て始めた。柚葉はマグカップを持ったまま、少し考えるような顔をした。
「……自分の特技って、わかるものですか」
「それが問題で」と田中は言った。「わからないんです」
柚葉がまた少し考えた。
「田中さんって、仕事は何が得意ですか」
その問いに、田中は答えられなかった。
一秒。二秒。三秒。コーヒーメーカーの音だけが続いた。田中は答えようとして、何も出てこなかった。得意なこと。仕事の中で、得意だと言えること。社内評価E。月次報告書は提出できる。電話対応はできる。資料も作れる。でも、それは「できる」であって「得意」ではない。他の誰かがやっても同じ結果になる。田中でなければならない理由が、何もない。
(……ない)
顔に、出た。田中は自分でわかった。笑えない顔が、一瞬だけ出た。
柚葉は何も言わなかった。田中はすぐに「異世界テンプレの知識は多いです」と付け加えた。声が、少しだけ早かった。
「……そうですか」と柚葉は言った。それ以上は言わなかった。マグカップを持って、給湯室を出た。
田中はコーヒーを受け取りながら、手帳を取り出した。メモしようとして、何を書けばいいかわからなかった。ペンを持ったまま、少しの間、止まっていた。
(鑑定Lv.2が、また弾かれた。——ではなく)
(……相川柚葉に、聞かれた。得意なことは何か、と)
(答えが、なかった)
コーヒーを持って自席に戻る廊下を歩きながら、田中はチート候補リストを頭の中で見直した。どれも、弱い。どれも、田中でなければならない理由にならない。異世界テンプレを知っていることは確かに特技だ。でもそれは、この世界でどう機能するのか。黒沢に対して機能したか。相川柚葉の問いに、答えられたか。
答えられなかった。
午後の業務中、田中は三回チート候補リストを見直した。三回とも、答えは出なかった。ただ「未定義」という文字が、そのままそこにあった。
定時になって、田中は帰り支度をした。今日は黒沢との交戦が少なかった。消耗MPはいつよりも少ない。でも帰り際に手帳を開いたとき、田中はいつもより少し疲れた気がした。
◆本日の戦果:
電話対応:3件完了。内部資料:更新完了。幹部Aとの交戦:1回。消耗MP:2。
特筆事項:相川柚葉(企画部)との再接触。給湯室。所要時間:約3分。
問われた:「仕事の得意なことは何か」。——答えられなかった。
本日最終残MP:53。——生存。
「生存」と書いてから、田中は少し間を置いた。生存はした。でも今日の「生存」は、いつもとすこし種類が違う気がした。黒沢に削られたわけではない。いつもの重さがあったわけでもない。ただ、答えられなかった、という一点が、帰り道ずっと重さを持ち続けていた。
夜の通勤路。田中は横断歩道の前で信号を待ちながら、手帳に最後の一行を書こうとした。いつもなら「——まだ、○日目だ」で締める。でも今夜は、その前に何かを書くべき気がした。チート候補リストのページを開いた。七項目。全部に弱い言葉がついている。ペンを持って、八項目目を書こうとして——
書けなかった。
信号が青になった。田中は手帳を閉じて歩き始めた。
帰宅してスーツを脱ぎ、缶ビールを取り出した。テレビをつけると、今夜も異世界アニメがやっていた。主人公が自分のスキルを確認するシーンだった。画面に表示されるステータスボード。スキル欄に、光る文字でチート能力の名前が並んでいた。主人公は自分の能力の名前を読み上げ、「これが……俺のチートか」と呟いた。周囲が驚く。物語が動く。
田中はビールを飲みながら、画面を見ていた。
(……俺には、何がある)
今夜は、集中できなかった。アニメが終わって次の話が始まっても、田中の頭の中に相川柚葉の問いが残っていた。得意なことは何ですか、という問いが。答えられなかった自分の顔が、一瞬どんな顔をしたかが。
手帳を開いた。チート候補リストのページ。八項目目の空白を見た。ペンを取った。少しの間、止まった。それから、ゆっくりと閉じた。
◆チート:未定義
それだけが、そこにあった。
此の世界は、やはり複雑だ。——まだ、五日目だ。




