第四話 手帳の中身を見られた件
異世界アニメにおけるヒロインの初登場は、たいてい劇的だ。空から落ちてくる。路地裏で追い詰められている。異世界の最初の朝、主人公の隣で目を覚ます。どのパターンであれ、共通しているのは「演出がある」ということだ。BGMが変わる。カメラが引く。視聴者は「あ、この子が重要キャラだ」と一瞬でわかる。
田中守のヒロイン初登場は、コピー機の前だった。
異世界四日目の朝。田中は月次の営業資料を十五部コピーするため、第三営業部のフロアから廊下を進み、共有のプリンター室へ向かっていた。手帳はカバンの外ポケットに入れていた。いつでも取り出せるように。それが今朝から始めた習慣だ。今日のステータス算出は、珍しく短かった。
◆本日(異世界四日目)ステータス:
HP:64(睡眠・朝食・天候で算出、その他微調整あり)
MP:62(コーヒー済、本日クエスト難易度C)
本日のクエスト:月次営業資料の作成・配布(難易度C)。——比較的、安全な日になるはずだ。
安全な日になるはずだ、と書いた。異世界アニメでそう書いた日は、たいてい安全ではない。しかし田中はその法則を、今朝の時点ではまだ失念していた。
プリンター室には先客がいた。コピー機の前に立った女性が、こちらに背を向けたまま設定を変えている。短い黒髪。立ち姿に無駄がない。白いシャツの袖がきちんとまくられていた。
(このフロアのメンバーではない——)
田中は記憶を照合した。第三営業部のメンバーは二十四名、全員の背格好はすでに把握済みだ。この女性は第三営業部ではない。別のギルド——別の部署の人間だ。
(鑑定——)
設定を変えながら、その女性が振り向いた。田中は「鑑定」をかけようとして、止まった。うまく、かからなかった。第一印象はあった。二十代中盤、企画系かバックオフィス系、仕事ができそう。ここまでは出た。しかしその先が——出なかった。いつもなら自動的に続く「幹部候補A型」とか「中立の情報提供者」とか「今後の交戦リスク:低」といった分類が、何も浮かんでこなかった。
(……なぜだ)
「あ、すみません。もう少しかかりますか」と田中は言った。
「あと三分くらいです」と女性が答えた。「よかったら使ってください、同時に動かせるので」
「ありがとうございます」
田中は隣のもう一台のコピー機にカードをかざし、部数と枚数を設定し始めた。
(分析継続——)
横目で様子を確認する。立ち方が速い。コピーをセットする動作に迷いがない。ボタンを押すタイミングが、設定を終えるより〇・五秒早い。つまり——設定しながら次の動作を既に準備している。
(……高レベルだ)
田中はそっと手帳を取り出し、一行書こうとした。手帳をコピー機の天板に置き、ページを開く。ペンを走らせ始めたところで——
「……何書いてるんですか、それ」
声がした。田中は顔を上げた。女性がこちらを見ていた。田中の手帳を、もっと正確に言えば手帳に書かれた内容を、目を細めて読もうとしていた。
(……読まれた)
田中は手帳の内容を確認した。今開いているページには、今朝書いたステータス算出が並んでいる。「HP:64」「MP:62」「本日のクエスト:月次営業資料の作成・配布(難易度C)」。
「ステータスです」と田中は答えた。
「……ステータス」と女性が繰り返した。声のトーンが一段下がった。
「はい。毎朝算出しています。HPとMPと本日のクエストを記録して、一日の行動指針にします」
女性の眉が、ごく微妙に動いた。
(——鑑定スキルが、反応しない。何かが、わからない)
「……あの、会社の話ですよね、今」
「はい」
「HPとMPって」
「体調と精神力です。毎朝算出根拠とともに記録しています。今日のHP算出根拠は睡眠時間と朝食と天候と幹部との接触予測の四項目で、MPはコーヒーの摂取と当日クエストの難易度と前日の心理的余剰で——」
「幹部」と女性が言った。「幹部って、誰ですか」
「同期の黒沢です。魔王軍第一幹部に分類しています」
女性の顔が、ほんの少し引いた。ほんの少し、というのは正確ではないかもしれない。もう少し引いていた可能性がある。しかし田中はその変化に、このとき気づかなかった。
「魔王軍」と女性が言った。
「はい。悪役という意味ではないです。追放系の——ご存知ですか、追放系」
「……知ってます」
「追放系の幹部役として分類しています。悪意はなく、自分が正しいと確信しているだけという設定で、弱点は根拠のある反論です。三日間の交戦データから導き出した分析なので、精度はそこそこ高いと思います」
女性の顔が、また引いた。今度は確実に引いた。田中にはまだ、その変化が届いていなかった。
「……設定」
「はい」
「三日間の交戦データ」
「はい、エクセルとこの手帳で管理しています。消耗MPの推移と攻撃パターンの記録です」
(——しかし、この人の反応が読めない。鑑定スキルが機能していない。なぜだ)
女性がコピー機から取り出した資料を抱え直した。きちんと揃えた紙の束を、胸の前で持っている。その表情を田中は読もうとした。引いている——そこまではわかる。でも何を考えているのかが、まったく出てこなかった。
「あの、企画部の方ですか」と田中は聞いた。このフロアにいない人間で、立ち振る舞いから企画系の可能性が高いと踏んでいた。
「そうですが」
「相川さん、ですか。二十六歳の」
「……なんで知ってるんですか」と女性——相川柚葉の声が、わずかに低くなった。
「社内名簿で」と田中は言った。「新しいフロアのメンバーを確認するとき、全員分確認するので」
「全員」
「はい。接触可能性のある人物はできるだけ事前に鑑定しておきたいので」
柚葉の口が、少しの間、開いたまま止まった。田中はその間に手帳に一行書き込もうとした。
「あの、鑑定って」
「人物観察と分析のスキルです。現在Lv.2で育成中なんですが——」田中は柚葉の方を向いた。「相川さんには、うまくかからないんです。今朝からずっと試みているんですが、分類が出てこない」
「……試みてるんですか、今」
「はい」
柚葉が一歩、後ろに下がった。
田中はその動作を観察しながら、分類を試みた。「驚いている」「引いている」「困惑している」——そこまでは出る。しかしその先が、やはり出てこなかった。通常なら「フレンドリー型」「警戒型」「中立型」「交渉可能型」といった分類が出てくる。相川柚葉には、どれも当てはまらない気がした。あるいは当てはまりすぎる気がした。よくわからなかった。
「……あなた、なんていう人ですか」
「田中守です、第三営業部の」と田中は答えた。「よろしければ今後、情報交換などもできればと思っているんですが。相川さんのスキルが高いのは立ち振る舞いから明らかなので、パーティー候補として——」
「あ、すみません、用事を思い出したので」
柚葉が言った。コピーした資料を抱えて、そのままプリンター室を出て行った。足取りは速かった。
田中はその後ろ姿を見送った。
(……去った)
コピー機が終了音を鳴らした。田中は紙を取り出し、手帳を開いた。ペンを持ち、真剣な顔で一行書いた。それから小さく首を傾けた。もう一行書き足した。また首を傾けた。最終的に書き直した内容は、最初の一行とほぼ同じだった。
◆企画部・相川柚葉——初接触記録:
所要時間:約4分。接触内容:ステータス手帳についての質問あり、異世界テンプレについての説明(途中)。
鑑定結果:——弾かれた。分類不能。
特記事項:鑑定Lv.2では処理できない何かがある。強敵の予感がする。
書き終えて、田中は手帳を閉じた。強敵、と書いた。完全に誤読していた。
午後の業務は静かに進んだ。田中は月次資料の配布を終え、メールの処理をし、黒沢との交戦を一回こなし(消耗MP:3)、定時に近い時間に椅子の背もたれに寄りかかった。今日の接触のうち、頭に残るのが相川柚葉だった。なぜかは言語化できなかった。黒沢との交戦のように明確なダメージもなかった。ただ——あの四分間が、なんとなく引っかかる。
(鑑定が弾かれるのは、初めてだ)
これまで田中が鑑定を試みた人物は、全員なんらかの形で分類できていた。黒沢は「追放系幹部」。速水先輩は「元エース型・守り入り」。山本さんは「堅実Lv.MAX型」。総務の佐藤さんは「ギルド受付・情報収集Lv.8」。どんな人間も、異世界テンプレのどこかに当てはまる。相川柚葉には、当てはまらなかった。
(……思い通りにならない相手、か)
田中はペンを取り、手帳の端にその一行を書き足した。「鑑定できない=俺の想定外の相手。……思い通りにならない相手、か」。書いてから、その意味について少しだけ考えた。考えたが、答えは出なかった。
その頃、企画部のフロアでは、相川柚葉が自席でコーヒーを飲んでいた。
提出用の資料を確認しながら、頭のどこかがさっきの会話を繰り返していた。HPとMP。毎朝算出根拠とともに記録。黒沢という同期を魔王軍第一幹部と呼んでいる男。鑑定Lv.2で育成中。パーティー候補として。
……なんで気になるんだろ。
柚葉は資料に目を戻した。おかしい人だった。それは間違いない。社内名簿を全員分確認して接触可能性のある人物を事前に鑑定しておくとか、コピー機の前でステータスを書き込んでいるとか、どう考えてもおかしい。引いた。確実に引いた。なのに——
なんで気になるんだろ。
柚葉はコーヒーを飲んだ。答えは出なかった。出なかったので、資料の続きを確認した。
夜の通勤路。田中は歩きながら手帳を開いた。
◆本日の戦果:
月次資料、配布完了。幹部Aとの交戦:1回。消耗MP:3。その他業務:完了。
特筆事項:相川柚葉(企画部・26歳)との初接触。鑑定:弾かれた。
本日最終残MP:54。——生存。
書き終えてから、「特筆事項」の行をもう一度見た。鑑定が弾かれた人間と、これからどう向き合えばいいのか。異世界アニメには、そういうキャラクターが必ず一人いる。主人公の想定を超えてくる相手。テンプレが通じない相手。そういう相手との出会いは、たいてい——
(フラグ、だ)
田中は足を止めた。横断歩道の前だった。信号が赤だ。手帳に、最後の一行を書いた。
◆追記:鑑定スキルが弾かれた唯一の人物。——強敵の予感、あるいは。
「あるいは」と書いて、その先を書かなかった。書けなかったのではなく、まだ言語化できなかっただけだ。少なくとも田中はそう思っていた。信号が青になった。
此の世界は、やはり複雑だ。——まだ、四日目だ。




