第三話「幹部A、黒沢雄一Lv.34との遭遇」
異世界アニメには「強敵との初遭遇」という重要な場面がある。主人公がそのキャラクターを初めて目にした瞬間に、画面の空気が変わる。BGMが低くなり、カメラがゆっくりと寄っていく。視聴者は「ああ、こいつが今後の障壁になるんだな」と直感的に理解する。それが、強敵初登場の作法だ。田中守の場合、そのBGMはキーボードの打鍵音だった。
異世界三日目の朝。田中は自席でメールの返信をさばきながら、今日のクエストの段取りを頭の中で整理していた。午前中に先方への提案書を仕上げ、午後の打ち合わせに備える。難易度B。手帳には「幹部Aとの遭遇リスク:中。要警戒」と書いてあった。
その予測は、甘かった。
「田中くん、ちょっといい?」
振り向くと、黒沢雄一が立っていた。
(幹部A——接触。本日三度目。午前十時十二分)
田中はすでに今朝の黒沢の動向を把握していた。出社時刻:八時四十分(通常より二十分早い)。朝礼での発言:三回(うち二回は数字の訂正)。表情:硬め。つまり、今日の黒沢は調子がいい。調子がいいときの黒沢は、細かいところまで目が届く。細かいところまで目が届く黒沢は、いちばん手に負えない。
(本日の黒沢幹部:HP高め・攻撃精度:最大値付近。——警戒レベルを引き上げる)
「この提案書なんだけど」と黒沢が言いながら、田中の画面を覗き込んだ。
「ここの数字の根拠、どこから持ってきた?」
「先月の実績データからです」
「先月って、改定前のやつ?」
田中の手が一瞬止まった。
「……確認します」
「うん、改定後のやつで計算し直した方がいいと思うから」
黒沢が自席に戻った。その背中を見ながら、田中は静かに手帳を開いた。
◆幹部Aとの交戦③:数値根拠の確認攻撃×1。改定データの見落とし発覚。作業差し戻し発生。消耗MP:6。時間ロス:推定40分。
改定後のデータを探し、数字を入れ直した。四十二分かかった。
問題は、黒沢に悪意がないことだ。田中はそれを三日間かけて確信しつつあった。黒沢雄一という人間は、仕事の精度を上げることに純粋に関心がある。田中の提案書の数字が古いデータに基づいていれば、それを指摘するのは当然だと思っている。相手がどう感じるかには、思考が及ばない。善意による消耗——これが最も対処の難しい攻撃だ。
昼前に提案書が完成した。田中は一息ついて、コーヒーを取りに給湯室へ向かった。
廊下を歩きながら、田中は今日の黒沢との交戦を整理した。交戦回数:三回。総消耗MP:十四。いずれも黒沢に悪意はない。ただ正確で、ただ速く、ただ数字に強い。あのタイプが異世界アニメに登場する場合、たいてい「追放系」か「ざまぁ系」の敵役だ。主人公を見下し、切り捨て、後から痛い目を見る側の人間。しかし——
(奴の弱点は、何だ)
コーヒーを淹れながら、田中はそれを考えた。黒沢の攻撃パターンは三日間で把握できた。数値の精度への執着、情報の非対称性の活用、確認という形を取った圧力。これらはすべて、黒沢が「根拠のある正しさ」を武器にしているということを意味する。
ならば弱点は——根拠のある反論、だ。
田中は手帳に書いた。
◆黒沢幹部・弱点分析(暫定):
攻撃の核心:「根拠ある正しさ」による制圧
弱点(推定):同等以上の根拠を持った反論
対策:数字の精度を上げる。データの出典を常に確認する。先手を取る。
「なに書いてるの」
声がして、田中は顔を上げた。山本さんが隣でお湯を沸かしていた。
「分析です」
「分析」と山本さんが繰り返した。特に興味なさそうな声だった。
「黒沢くんのこと?」
田中は少し驚いた。
「……わかりますか」
「三日間ずっと見てたから」と山本さんは言った。
「あの人ね、悪い人じゃないよ。ただ、正しいことしか見えないの」
それはすでに田中が導き出した結論と同じだった。田中は「そうですね」と答えた。山本さんはコーヒーを持って給湯室を出た。
(山本さん:鑑定更新——情報収集Lv.予想以上。有力な情報源の可能性あり)
田中もコーヒーを持って席に戻った。
午後の打ち合わせは順調だった。提案書の数字を差し替えたことで、むしろ内容が締まった。先方の担当者にも好感触だった。打ち合わせを終えて席に戻ると、黒沢が「どうだった」と聞いてきた。
「感触は良かったです」
「数字直しといてよかったね」
黒沢が言った。悪意はない。本当にそう思っているだけだ。田中は「おかげさまで」と答えた。
(消耗MP:2。——しかし今回は、手帳の分析が機能した。差し引きプラスだ)
定時を少し過ぎた頃、田中は帰り支度を始めた。周囲の席が少しずつ空いていく。黒沢はまだいた。デスクに向かって、何かの資料を読んでいる。
田中は立ち上がりながら、ふと黒沢の横顔を見た。
何かが、引っかかった。
黒沢の顔が、いつもと違った。仕事をしているのに、どこか——遠いところを見ているような目をしていた。資料を読んでいるはずなのに、視線が紙の上で止まっている。ほんの数秒のことだった。次の瞬間には黒沢はまたペンを動かし始め、田中の知っている「幹部A」の顔に戻っていた。
田中は何も言わなかった。カバンを持って、フロアを出た。
エレベーターを待ちながら、さっきの黒沢の顔を思い出した。あの目は、何だったのか。鑑定スキルが弾かれた——いや、違う。弾かれたのではなく、見えてしまった気がした。鑑定しようとしたわけでもないのに、何かが見えた。
(……奴は、何を考えていたんだ)
エレベーターが来た。田中は乗り込みながら、手帳を開いた。
◆黒沢幹部との交戦③・追記:
定時後、黒沢幹部に「虚しそうな顔」を確認。5秒程度。詳細不明。
——幹部Aの鑑定、未完了。次回に持ち越す。
書き終えて、田中はエレベーターの扉が閉まるのを見た。
追放系の幹部は、なぜあんな顔をするのだろう。物語の中では、ただ強くて、ただ正しくて、ただ主人公を見下す側にいる。でも——今日の黒沢の、あの五秒間は、何だったのか。
答えは出なかった。
夜の通勤路を歩きながら、田中は手帳に本日の総括を書いた。
◆本日の戦果:
提案書、完了。幹部Aとの交戦:3回。総消耗MP:16。
弱点分析:完了(暫定)。山本さんより情報収集:完了。
打ち合わせ結果:良好。——生存。
それから、少し考えてから一行付け足した。
◆特記事項:黒沢幹部の鑑定、未完了。——しかし奴は、なぜ強いのか。次回までに分析する。
手帳を閉じた。
此の世界は、やはり複雑だ。異世界アニメでは、幹部は幹部として登場し、幹部として機能し、最後に主人公に倒される。でも此の世界の幹部は、ときどきあんな顔をする。
田中はカバンを持ち直して、歩き続けた。——まだ、三日目だ。




