第十一話 幹部たちの、正体
異世界アニメにおける「幹部との決着」は、たいてい戦闘で決まる。主人公が覚醒し、幹部の攻撃を跳ね返し、最後に一撃を叩き込む。倒れた幹部が「なぜだ……お前のような者に」と呟く。主人公は答えない。ただ前を向いている。決着は、力と力のぶつかり合いで決まる。それが、異世界の作法だ。
此の世界の決着が、どういう形で来るのかは、田中守にはわかっていなかった。ただ——今日が、その日になる気がした。
◆本日(異世界四十日目)ステータス:
HP算出根拠:睡眠7時間(良好)/朝食:納豆ご飯(摂取済み)/天候:曇り(マイナス2)/フラグ察知スキル:朝から強く反応(マイナス補正相殺)→総合算出——HP:67
MP算出根拠:コーヒー済(プラス10)/本日クエスト難易度:A(全幹部集結、過去最高難易度)/フラグ察知スキル・朝からの過負荷反応(マイナス補正・大)/精神的緊張(マイナス補正)→総合算出——MP:31
警戒事項:幹部A・幹部B、両名と接触する可能性が高い。フラグ察知スキルの反応、過去最大値に近い。
書き終えて、田中は手帳を閉じた。フラグ察知スキルが朝から反応し続けている。胃の辺りがうっすら緊張しているやつだ。今日の合同プロジェクト最終確認会議には、速水が出席する。黒沢も出席する。田中と柚葉も出席する。全員が同じ部屋に入る。
(……全幹部が集結する回だ)
異世界アニメでそれが起きたとき、主人公に残された選択肢は多くない。逃げるか、戦うか。田中はコーヒーを飲みながら、もう一度手帳を開いた。スキル欄の下に、一行書き足した。
◆本日の作戦メモ:
幹部A・黒沢雄一——弱点は根拠のある反論。四十日分の交戦データと分析がある。使える。
幹部B・速水千晶——鑑定、まだ完全には通っていない。ただ先週の「そう」は、何かが変わっていた。——今日、何かが見える気がする。
書き終えて、田中は手帳を外ポケットに入れた。電車が駅に着いた。
株式会社ホドホド物産、本社ビル。エレベーターを降りて廊下を歩きながら、田中は現在のMPを確認した。
(……MP:31)
会議は午後一時からだ。今は午前九時二十分。まだ四時間ある。そのあいだに黒沢との交戦が一回か二回入る可能性が高い。消耗を計算すると、会議開始時点でのMP残量は二十前後になるかもしれない。
(……MP:31で、ボスに挑む準備はできているか)
田中は少しの間、廊下の中で立ち止まった。
(——できている。たぶん)
「たぶん」という留保が気になったが、異世界アニメの主人公もたいてい「たぶん」の状態でボス部屋に入る。準備が完璧な主人公より、「たぶん」の主人公の方が、物語は面白くなる。田中はそう判断して、歩き始めた。
午前中は静かに進んだ。黒沢との交戦は予測通り一回(消耗MP:4。会議資料の数字について確認。通常攻撃パターン)。柚葉から会議の最終確認メールが来て、田中が返信した。坂口が「今日の会議、なんか緊張しますね」と言った。田中は「想定の範囲内です」と答えた。
(想定の範囲内かどうかはわからないが、そう言った方が転生者らしい)
昼前に、田中は給湯室でコーヒーを淹れながら手帳を開いた。
◆会議前・MP確認:
現在MP:35(黒沢幹部との交戦①消耗マイナス4、コーヒー回復プラス8)。
会議開始まで:約90分。
予測消耗(会議前):追加交戦リスク低。MP維持見込み。
会議本番予測消耗:難易度A、両幹部出席、MP消耗:15〜20見込み。
——戦える。
「戦える」と書いて、田中はペンを置いた。四十日前、此の世界に降り立ったばかりの朝、田中は自分のHPとMPを初めて手帳に書いた。あのときと今で、何が変わったか。数値は変わる。スキルはLv.が上がった。チートの名前が決まった。でも——此の世界が異世界だという認識は、変わっていない。むしろ、強くなっている気がした。
午後一時、会議室に入った。
テーブルに六人が並んだ。上座に速水。その隣に黒沢。向かいに柚葉と田中。坂口と、企画部の若手がひとり。
(全幹部——集結)
速水が資料を開いた。
「じゃあ始めましょう。今日で提案内容を確定させます。先方への持ち込みは来週。そこから逆算して、今日中に全員の認識を揃えます」
淀みがなかった。効率的だった。しかし今日の速水は、先週の会議より何かが違った。「現実的に考えれば」という言葉が、まだ出ていなかった。田中はそれをフラグ察知スキルの端で確認しながら、資料に目を落とした。
会議は順調に進んだ。柚葉が提案の骨格を説明し、田中が営業側のデータを補足した。坂口が先方の要望についての確認を報告した。黒沢が数字の根拠を確認した。速水が全体を整理した。三十分が過ぎた。
黒沢が、田中の資料の一か所を指した。
「田中くん、ここの数字なんだけど」
「はい」
「この比較対象、去年の同時期との比較になってるけど——前回提案のときも同じ指摘をしたよね。先方が求めてるのは業界平均との比較じゃないかな」
田中は資料を見た。黒沢の言っていることは、正確ではなかった。前回提案のとき、黒沢は「業界平均との比較」を求めたのではなく、「データの出典を明確にすること」を求めていた。それは別の話だ。そして今回の比較対象については、先方の担当者から「去年との比較が見たい」という要望が先週のメールで来ていた。田中は、そのメールを受け取っていた。黒沢は受け取っていない可能性があった。
(……根拠のある反論——使える)
田中は手帳を取り出さなかった。代わりに、静かに答えた。
「先週の木曜日に、先方の担当者から『去年の同時期との比較データが欲しい』という要望がメールで来ています。そちらへの対応として、この形にしました。メールのコピーをお送りします」
黒沢が、少しの間、止まった。
一秒。二秒。
「……そうか」
それだけだった。黒沢は資料に目を戻し、次の確認に移った。悪意はない。ただ確認していた。そして確認の結果、田中の方に根拠があるとわかった。それだけのことだ。
しかし——田中はその一秒に、何かを見た。
黒沢の顔が、あの日と同じ顔をしていた。三日目の定時後、黒沢が一人で窓の外を見ていた、あの五秒間と——同じ顔だった。虚しそうな、というより、何かを探して、出てこない、という顔だった。「そうか」と言った瞬間だけ、それが出た。次の瞬間にはもう、いつもの黒沢に戻っていた。
(……今だ)
会議の流れを壊すタイミングではなかった。速水がすでに次の議題に移っていた。田中は議題を追いながら、頭の端でそれを処理した。
会議が終わったのは、午後二時四十分だった。提案内容が確定した。来週の先方への持ち込みに向けて、役割分担が決まった。速水が「お疲れ様でした」と言い、全員が立ち上がった。
人が出始めた。坂口が企画部の若手と話しながら出た。柚葉が田中に目で「後でメール」と伝えて出た。速水が資料を束ねている。
黒沢が、田中の隣に立った。荷物をまとめながら、特に田中を見ていない。田中は手帳をカバンに入れながら、隣の気配を確認した。
(……今だ)
「黒沢さん」と田中は言った。
黒沢が顔を上げた。
「さっきの件、根拠はメールで確認できます。後ほど転送します」
「うん、頼む」と黒沢は言った。それから少し間があった。「……田中くん、最近資料の精度上がったね」
褒めているのか確認しているのか、声のトーンでは判断できなかった。黒沢はたいていそういう言い方をする。
「ありがとうございます」と田中は言った。それから、続けた。「黒沢さんの指摘が根拠になっているので」
黒沢が、少しの間、田中を見た。
「……俺の」
「はい。交戦——いや、やり取りの中で、どこに根拠が必要かが見えてくるので。おかげで、先手が取れるようになりました」
黒沢の顔が、また動いた。あの顔だった。一瞬だけ出て、消えた。
田中は、もう一歩だけ、踏み込むことにした。
「黒沢さんって——自分が間違えることを、怖いと思いますか」
黒沢が止まった。
今度は、三秒止まった。
「……なんで」
「さっき、俺が根拠を出したとき。一瞬だけ、怖そうな顔をしたので」
黒沢は何も言わなかった。否定もしなかった。田中はそれを確認して、続けた。
「違ったら申し訳ないんですが——根拠のある正しさで動いている人って、根拠が崩れたとき、自分ごと崩れる気がするので。黒沢さんがいつも正確なのは、それが怖いからじゃないかと思って」
沈黙が、四秒続いた。
「……あなた自身が怖いからじゃないですか、って聞きたかったんですか」
黒沢が言った。声のトーンが、いつもと少し違った。低さは同じだ。でも何かが、一枚、剥がれていた。
「はい」と田中は答えた。
「……変なやつだな、お前」
黒沢はそれだけ言って、資料を持って会議室を出た。怒っていなかった。否定もしていなかった。ただ——出た。
田中は会議室に一人残った。
(……鑑定スキルが、通った)
何が通ったのか、正確には言語化できなかった。でも、四十日分の交戦データと三日目の「虚しそうな顔」が、今日一本の線でつながった気がした。田中は手帳を取り出し、一行書いた。
◆黒沢幹部:鑑定更新——根拠ある正しさの奥に、間違えることへの恐れがある。悪役ではない。ただの人間だ。
書いてから、廊下に出た。
廊下の端に、速水がいた。
壁に背をつけて、スマートフォンを見ていた。田中が出てきたのに気づいて、顔を上げた。何かを待っていたわけではなさそうだった。ただ、そこにいた。
「お疲れ様でした」と田中は言った。
「うん」と速水は言った。スマートフォンをしまった。少しの間、田中を見た。
田中はその視線を受けながら、速水の鑑定を試みた。四十日目のこの廊下で、今日の速水は——会議中に「現実的に考えれば」と言わなかった。坂口の発言を遮らなかった。田中が黒沢に反論したとき、速水は一秒だけ田中を見て、何も言わずに次の議題に移った。あの「そう」が変わっていた先週から、さらに何かが動いている。
「今日の会議、よかったと思う」と速水が言った。
「ありがとうございます」
「田中くん、プロジェクト入った最初の頃と、今で、だいぶ違うな」
「そうですか」
「うん」
速水が少しの間、黙った。廊下の蛍光灯の音だけがしていた。
「……お前は、昔の俺に似てる」
田中は何も言わなかった。
速水が何かを言いかけて、言わなかった。似てる、という言葉の中に何が入っているのか——ただ本気で動いていたという過去の姿なのか、何かに傷ついた記憶なのか、田中には判断できなかった。でも今は、聞かない方がいい気がした。
速水が、かすかに頷いた。それだけで廊下を歩き始めた。田中はその背中を見送った。
会議室のドアが、廊下の向こうで音を立てて閉まった。
田中は一人、廊下に立っていた。
(……鑑定スキルが、また何かを見た)
今日は二回、見た。黒沢のときと、速水のときと。どちらも——幹部の奥に、幹部ではない何かが見えた。黒沢の「根拠が崩れることへの恐れ」。速水の「昔の俺に似てる」という言葉。どちらも、異世界アニメのテンプレには書いていないやつだ。幹部は幹部として登場し、倒されるために存在する。でも此の世界の幹部たちは——倒す前に、傷を持っている。
帰り道、田中は横断歩道の前に立った。信号が赤だった。手帳を取り出して、開いた。
ペンを走らせた。
◆本日の戦果:
合同プロジェクト最終確認会議:完了。提案内容確定。来週、先方へ。
幹部Aとの交戦:2回。消耗MP合計:7。うち1回——根拠のある反論を使用。
幹部Bとの接触:会議後、廊下にて。消耗MP:0。
本日最終残MP:39。——生存。経験値:大。
「経験値:大」と書いた。
それから、新しい行を開いた。
◆鑑定・最終更新:
幹部A・黒沢雄一:根拠ある正しさの奥に、間違えることへの恐れがある。——ただの人間。
幹部B・速水千晶:「昔の俺に似てる」と言った。何を見ていたのかは、まだわからない。——ただの人間。
俺も、ただの人間だ。
書いて、少しの間、止まった。ただの人間が三人、同じ会社にいる。黒沢は根拠で戦っている。速水は過去の何かを抱えている。田中は手帳に書いている。どれも、たいした話ではない。
でも。
田中はペンを取って、もう一行書いた。
◆——でも、此の世界は異世界だ。
信号が青になった。




