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『ブラック企業で死にかけた経理係長、ギャル服店に拾われる』 ─拾ったのは、強気なギャル店長  作者: 月白ふゆ


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第9話 俺の判断です

赤字の数字は、紙の上にある限りただの線だ。


けれど、それが誰かの胸の中に落ちた瞬間、線は刃物になる。


月末のまとめを出した翌日から、蘭奈の動きはさらに鋭くなった。売り場では笑わないまま圧をかけ、スタッフの迷いを潰し、仕入れ先との連絡も一人で片づける。バックヤードでは必要以上に棚を整え、ラベルの角度まで揃える。自分の中の不安を、外の整頓で押さえ込もうとしているみたいだった。


そして落ち込んでいる時ほど、胸を張る。


服は相変わらず黒で、胸元の攻めもむしろ強くなる。深いカット、張ったライン、視線の逃げ道を奪う布の角度。誰かに見られるほど、強く見せたくなる。その強さが鎧だと、遼人だけが分かってしまっている。


遼人は、数字で支える準備を進めていた。


返品の再投入の導線、セット販売の組み方、値引きの基準、支払いタイミングの調整。どれも派手ではないが、確実に赤を薄くする施策。やれることはまだある。今は焦って“何か大きな手”を打つ必要はない。むしろ焦った手が、次の赤を呼ぶ。


問題は、数字よりも先に動くものだった。


店の外側、つまり「信用」。


仕入れ先は数字だけで生きている。支払いが一日遅れれば、それは悪意ではなく“危険”として見られる。銀行も、家賃の引き落としも、同じだ。赤字は許されても、遅れは許されない世界がある。


その日、失敗は数字の奥から突然、表に出てきた。


昼過ぎ。客足が一度落ち着いたタイミングで、バックヤードの電話が鳴った。


陽那がレジで応対していたが、バックヤードに入ってくる足音が速い。息が少し荒い。軽い小悪魔の歩き方じゃない。


「遼人さん」


呼び方がいつもより硬い。


「仕入れ先から。店長、名指し。声、やばい」


遼人は一瞬で理解した。来た。信用の刃が。


「僕が出ます」


遼人が受話器を取ろうとすると、蘭奈が売り場の奥から入ってきた。音もなく、でも圧だけで分かる。足音が止まった瞬間、空気が冷える。


今日も胸元が強い。いつもより強い。胸を張って、突き出すほどに。弱さを覆い隠すための鎧。


「私が出る」


短い。決断が早い。いつも通り早い。逃げ道は、ない。


「店長」


遼人は声だけで止めた。触れない距離のまま。


「僕も横にいます。メモ取ります」


「いらない」


即答。背負う癖だ。


遼人は息を吸って吐いて、言い方を変えた。


「僕がいないと、支払いの条件を確認できません。相手が言った数字を、店長が全部覚える必要はないです」


“覚える必要はない”という言い方は、“背負う必要はない”よりも刺さりが弱い。蘭奈の鎧を割らずに隙間を作れる。


蘭奈は一拍だけ止まった。決断が早い人の、珍しい間。次に、顎を少し上げた。


「……勝手にしろ」


許可。蘭奈なりの許可。


遼人は受話器を取り、スピーカーにせず、蘭奈にだけ聞こえる音量で受けた。相手の声は、想像より低く、想像より冷たかった。


支払いが遅れる可能性。今後の取引条件の見直し。最悪の場合の出荷停止。


言葉は丁寧なのに、刃がある。相手は怒っているのではなく、“リスク”を排除しようとしているだけだ。だからこそ冷たい。


蘭奈は、黙って聞いた。


黙って聞いて、胸をさらに張る。突き出すほどに。声を出さない代わりに、姿勢で抵抗している。


遼人は、横で紙にメモを取りながら、蘭奈の指先を見た。握りこぶしが強い。爪が掌に食い込んでいる。痛みで自分を保っている。


電話が切れた瞬間、蘭奈は紙を見ることもせず、短く言った。


「……大丈夫」


大丈夫という言葉が、逆に危うい。大丈夫じゃない時ほど出る言葉だ。


陽那が空気を読んで、わざと軽く言う。


「大丈夫じゃなさそうな顔してるよ、店長。胸はめちゃくちゃ元気だけど」


「うるさい」


いつもの返し。いつもの形。けれど、声が少しだけ乾いている。


遼人はメモを置き、言葉だけを整えた。


「条件を飲めば、取引は続きます。ただ、今月中に支払いの信用を戻す必要があります」


蘭奈が即答する。


「やる」


決断は早い。けれど、その早さは“前に進む”というより、“自分を追い込む”方向にも働く。


「私がやる」


蘭奈が重ねた。誰にも渡さないと言っている。


その夜、遼人は一人で残り、資金繰り表をさらに詰めた。支払いの順番、現金化の速度、返品の再投入、売上の波。数字は嘘をつかない。だが数字だけで店は救えない。店は人で回る。人が折れたら終わる。


だから、遼人は“人の折れ”を先に止めなければならなかった。


翌日、店に一通の封書が届いた。


仕入れ先からの「取引条件変更の書面」。要するに、次回から前金に近い条件になる。リスクをこっちに寄せる形だ。普通なら怒る。普通なら交渉する。けれど、今のEdge Girlsには怒る余裕がない。交渉する余裕もない。


陽那が封書を見て、眉をひそめた。


「これ、やばくない?」


蘭奈は、封書を奪うように取った。奪う動きが速い。怖さをごまかす速さ。


「やばくない」


速すぎる否定。


「やばいでしょ。だってこれ、次の仕入れ…」


「私が何とかする」


蘭奈は胸を張る。突き出すほどに。鎧。


遼人は、その瞬間に決めた。


ここで背負わせたら、次に折れるのは蘭奈だ。折れたら、店が終わる。赤字よりも先に終わる。


遼人は封書を受け取り、内容を確認し、そして静かに言った。


「交渉します」


蘭奈が眉を吊り上げる。


「私がする」


「相手は数字の話しかしません。僕がやった方が早い」


「勝手に決めるな」


「勝手じゃないです。店のためです」


蘭奈の目が鋭い。拒絶の目。近づけない線を引く目。


遼人はその線を越えないまま、別の角度から言った。


「店長は売り場を守ってください。今、店長が前に立たないと、売上が落ちます。売上が落ちたら、交渉材料が減ります」


“店長を必要とする理由”を言う。役割を渡す。背負いを奪うのではなく、別の重さを与える。蘭奈は“役割”なら受け取れる。


蘭奈は一拍止まり、顎を上げた。


「……分かった。売り場は私が見る」


言い方は強い。けれど、譲った。初めて譲った。


遼人はその場で仕入れ先へ電話を入れた。丁寧に、淡々と。感情を混ぜず、条件を整理し、相手の不安のポイントを言語化し、こちらが出せる保証を提示する。


支払いは遅れない。今月中にリカバリする。返品処理の改善で回転率を上げ、現金化の速度を上げる。仕入れ量は絞る。売れ筋に集中する。短期の計画を数字で示す。


相手の声が少しだけ柔らかくなる瞬間があった。数字の筋が通れば、相手は“リスクが減る”と判断する。それだけだ。そこに情はない。だからこそ、筋を通すしかない。


電話を切った後、遼人は小さく息を吐いた。


条件は完全には戻らないが、最悪の前金は回避できた。段階的に戻す道筋ができた。これで店は息ができる。


その時、蘭奈がバックヤードに入ってきた。


胸を張っている。突き出すほどに。今日も攻めのまま。けれど、さっきまでの硬さが少しだけ違う。怒りではなく、何かを飲み込んだ硬さ。


「……どうだった」


短い。素っ気ない。距離を保つ言葉。


遼人は淡々と答えた。


「最悪は回避できました。条件は厳しくなりますが、段階的に戻せます」


蘭奈の目が一瞬だけ揺れる。揺れたのに、すぐに逸らす。逸らして胸を張る。鎧のループ。


「……ふーん」


それだけ言って、売り場へ戻ろうとする。感情を置いていこうとする。


遼人はそこで、踏み込んだ。


「店長」


蘭奈が止まる。


「これ、店長の判断ミスじゃないです」


蘭奈の背中が硬くなる。


「言い訳いらない」


「言い訳じゃないです。正確に言うなら、判断の幅が狭い状態で、大きい判断を迫られていた。だからリスクが見えにくかった。それだけです」


蘭奈が振り向く。目が鋭い。


「結局、私が悪いって言ってんじゃん」


遼人は首を横に振った。


「悪い、じゃない。負荷が高かった。背負いすぎていた。背負いすぎると、視野が狭くなります」


蘭奈は言い返そうとして、言葉を探して、見つからない。見つからないから胸を張る。突き出すほどに。


遼人は続けた。


「僕が来る前から、店長はずっと一人で回してた。数字も、仕入れも、売り場も、全部。無理がある形だった。今はその形を変えられる。変えるために、僕がいる」


その「いる」が、少しだけ重い言葉になってしまったのを遼人は感じた。言い過ぎたかもしれない。蘭奈の距離線を揺らしすぎたかもしれない。


蘭奈は、少しだけ唇を噛んだ。


「……仕事だろ」


逃げ道。いつもの。


遼人は小さく頷いた。


「そうです。仕事です」


その返しに、蘭奈の目が一瞬止まる。寂しさに似た色がよぎる。自分だけの逃げ道だと思っていた言葉を、相手が使うと、逃げ場が少しだけ狭くなる。


その日から、店は“表面上は”いつも通りに回った。


客は来る。売れる。笑う。陽那が回し、蘭奈が前に立ち、遼人が裏を支える。固定された関係が、固定された動きで店を守っていく。


だが、信用の刃は一度出ると、別のところからも出てくる。


三日後、今度は家賃管理会社から電話が来た。


今月の引き落としがエラーになった、という連絡。口座残高はゼロではない。だが、タイミングが悪い。返品処理の入金のズレと、支払いの集中が重なって、引き落としの瞬間だけ足りなくなっていた。


遼人は電話口で謝罪し、再引き落としの手続きを確認し、すぐに資金の配置を変えた。だが、連絡は連絡として、店に残る。


「店長さんに伝えてくださいね」


言われた瞬間、遼人の背中が冷えた。


ここで蘭奈に伝えれば、蘭奈はまた背負う。背負って、胸を張って、笑って、そして夜に折れる。


遼人は、店の奥で蘭奈を見た。


蘭奈は今日も胸を張っている。突き出すほどに。攻めの服で、前に立っている。客に向ける強さの裏側に、すでに疲れの影がある。目の奥が少しだけ乾いている。


遼人は、その場で決めた。


これは、責任を“切り替える”必要がある。


蘭奈が背負う責任を、遼人が引き受けるのではない。遼人が“自分の仕事として”前に出ることで、蘭奈の背負い方を変える。それが補佐の本当の仕事だ。


その日の閉店後、遼人は蘭奈に話を通した。


バックヤード。レジ締め表の上に、家賃の件のメモを置く。遼人は淡々と説明した。タイミングの問題であること、再引き落としで問題ないこと、今後の資金配置で防げること。


蘭奈は黙って聞いていた。


黙って聞いて、胸を張る。突き出すほどに。鎧。


「……誰にも言うな」


またそれだ。背負う癖。


遼人は首を横に振った。


「言いません。僕が処理します」


「私の店だろ」


「僕の判断で、資金の配置を変えます。店長の判断を使いません」


蘭奈の眉が動く。


「何それ」


遼人は静かに言った。


「責任は僕が持ちます」


蘭奈の目が鋭くなる。


「お前が持てるわけない」


「持てます。少なくとも、数字の責任は」


蘭奈は息を吸って、吐いて、言い返そうとして、言葉が見つからない。見つからないから胸を張る。突き出すほどに。鎧のループが速い。


そして翌朝、その“責任”を試す場面が突然来た。


開店前。店にスーツ姿の男が二人、入ってきた。家賃管理会社の担当と、オーナー側の代理。丁寧だが、目は冷たい。信用の刃だ。


「店長さん、いらっしゃいますか」


陽那が凍った顔をする。蘭奈が奥から出てきた。今日も黒。胸元が深い。胸を張っている。突き出すほどに。落ち込んでいる時の鎧。


「私が店長」


蘭奈が短く言う。声は強い。だが、男たちはそれに怯まない。怯まない種類の相手だ。


「先日の引き落としの件で確認に参りました。今後同様のことがあると…」


“今後同様のことがあると”。


言葉が丁寧なほど、脅しの匂いが濃い。


陽那が一歩引く。蘭奈が胸を張る。突き出すほどに。だが、口元が少しだけ硬い。言葉が早く出ない。蘭奈は強いが、こういう“信用の場”は得意ではない。彼女の戦場は売り場だ。


遼人は一歩前に出た。


自然に出られた自分に、遼人は少し驚いた。けれど、驚いている暇はない。


「私が担当しています」


遼人が言うと、男が眉を上げた。


「担当?」


遼人は名刺を持っていない。だから、言葉で“役割”を提示するしかない。


「店の資金管理と、支払いの調整を担当しています。引き落としエラーは資金配置の判断ミスでした。再引き落としの手続きは完了しています。今後は、引き落とし用の口座に最低残高を固定することで防ぎます」


男たちの目が、遼人を測る。測る目だ。こいつは分かっているのか、という目。


蘭奈が口を挟もうとした。


「それは…」


遼人は、蘭奈の言葉を“奪う”形にならないように、しかしはっきりと前に出た。


「俺の判断です」


“俺”という一人称が口から出た瞬間、遼人は自分でも少しだけ驚いた。


普段の遼人は、もっと丁寧で、もっと距離を置いた言い方をする。だがこの場は、丁寧さだけでは守れない。責任の位置を明確にする必要がある。


責任の位置が曖昧だと、相手は一番弱い場所に刃を入れる。今、弱い場所は蘭奈だ。胸を張っているのに、内側が揺れている。そこに刃が入れば、折れる。


遼人は続けた。


「店長の判断ではありません。私が、資金の配置を誤りました。今後の対策も私が実行します。店は問題なく継続できます」


男が少し黙った。相手は“責任者”を探している。責任者が前に出れば、刃を収めることもある。少なくとも、刃を向ける先が定まる。


「……分かりました。では、次回同様のことがあれば、正式な文書で…」


遼人は頷いた。


「承知しています」


男たちが帰った後、店内の空気が戻るまでに数秒かかった。


陽那が息を吐いた。


「……やば。心臓止まるかと思った」


遼人は「大丈夫」と言いかけて、言わなかった。大丈夫は薄い。代わりに、現実の言葉を言った。


「対策はできます。もう起こしません」


陽那が頷く。頷いた後、蘭奈を見た。


蘭奈は、動かなかった。


胸を張ったまま固まっている。突き出すほどに。鎧の姿勢のまま、言葉だけが消えている。


遼人が振り向くと、蘭奈の目がこちらを見ていた。


いつも鋭いのに、今は鋭さがない。強気の刃が抜けて、代わりに“ぽかん”とした空白がある。


蘭奈が、初めて言葉を失っている。


遼人は、胸の奥が少し痛くなった。責任を被るというのは、格好良さじゃない。必要だからやるだけだ。だが、蘭奈にとってはそれが“裏切り”に見える可能性もあった。自分の店の責任を、勝手に取られた。そう感じてもおかしくない。


遼人は、慎重に言葉を置いた。


「店長」


蘭奈の喉が動いた。声が出そうで出ない。代わりに、胸が少しだけ上下する。呼吸が浅い。


「……なんで」


ようやく出た言葉は、短くて、弱かった。


なんで。


責めるなんでじゃない。理解できないなんでだ。


遼人は答えた。


「折れてほしくなかったからです」


言い過ぎたかもしれない、と遼人は一瞬で思った。だが、もう引けない。引いたら、言葉が嘘になる。


蘭奈の目が見開かれる。見開かれたまま、声が止まる。言葉が出ない。胸を張っていた鎧が、一瞬だけ揺らぐ。揺らいだのに、すぐに胸を張り直す。突き出すほどに。癖だ。守りの癖。


陽那が、いつもの確信犯の顔ではなく、少しだけ真面目な顔で言った。


「店長、遼人さん、今の…かっこよかったよ。マジで」


蘭奈は陽那を見ない。見ないで遼人だけを見る。


「……私の店だ」


ようやく出た言葉は、強気の形をしていた。けれど、その強気の裏に、揺れがある。


遼人は頷いた。


「はい。店長の店です。だから守ります」


蘭奈の口が開きかける。何か言おうとして、言葉にならない。視線が落ちる。落ちる先が、遼人の胸元あたりで止まる。止まって、慌てて逸らす。逸らしながら、胸元の布を指で引く。自分の攻めを意識した仕草。いつもは武器だったのに、今は防具みたいに見える。


遼人は、そこで初めて確信した。


信頼が、転換した。


今までの信頼は「仕事ができるから」だった。数字が整うから。現場が回るから。助かるから。


今日の信頼は、それとは質が違う。


“自分の弱さを見られても、逃げなかった”という信頼だ。しかも、その弱さを責めずに、前に出て刃を受けた。その事実が、蘭奈の中の何かをひっくり返している。


蘭奈は小さく息を吸った。吐く。吐く時に、胸がわずかに沈む。胸を張る鎧が、一瞬だけ緩む。


「……勝手にやるな」


そう言った。怒っているような言い方なのに、声が震えていた。怒りの震えじゃない。感情が追いつかない震えだ。


遼人は静かに言った。


「次からは、先に言います。でも今日だけは、間に合わなかった」


蘭奈が何か言おうとして、また言葉を失う。唇が動く。動くのに、音が出ない。強気な店長が、こんなふうに言葉を落とすのを、遼人は初めて見た。


陽那が空気を読むように言った。


「私、売り場の準備する。二人、話して」


そして、さっと離れた。確信犯のくせに、こういう時は引き際が上手い。場を渡すのが上手い。


バックヤードの扉が閉まる。静かになる。


蘭奈は、遼人と向き合ったまま、胸を張っている。突き出すほどに。けれど、目が少しだけ潤んでいるように見える。潤んでいるのに、瞬きを増やして誤魔化す。誤魔化すほどに、呼吸が浅い。


遼人は言った。


「店長。赤字は、店長だけの責任じゃないです。俺も、もう店の人です。店の責任は、俺も持ちます」


また“俺”が出た。遼人の中で何かが変わっている。係長じゃない。会社の人じゃない。Edge Girlsの人として、前に出る言葉だ。


蘭奈は、しばらく黙った。


黙って、胸を張って、突き出すほどに。鎧で立っているのに、目だけが弱い。


そして、ようやく小さく言った。


「……怖かった」


たったそれだけ。けれど、その一言は、今までのどんな強気よりも重かった。


遼人は息を吸って吐いた。言葉を急がない。急げば、また蘭奈は鎧に戻る。


「怖いのは普通です」


蘭奈はすぐに言い返せなかった。言い返せない。強気の台詞が見つからない。だから、初めて言葉を失う。


遼人は続けた。


「怖いなら、怖いって言っていい。背負う必要はない。背負うのは、俺もやる」


蘭奈の喉が動く。目が揺れる。揺れたまま、胸を張り直そうとして、張り直しきれない。鎧が少しだけずれる。


「……お前」


蘭奈が言った。呼び方が乱れる。いつもの距離の言葉じゃない。


遼人は黙って待った。


蘭奈は、言葉を探して、結局見つからず、唇を噛んだ。噛んだ後、最後に短く言った。


「……ありがとう」


初めてだった。蘭奈が、逃げ道の「仕事」を使わずに、真正面から言った。


遼人の胸の奥が熱くなる。熱くなるのに、焦らない。焦らないで受け取れる。受け取れることが、遼人にとっても転換点だった。


「どういたしまして」


遼人がそう返すと、蘭奈は一瞬だけ笑いそうになった。笑いそうになって、すぐに隠す。いつもの癖。


「……調子乗んな」


「乗りません」


「乗れ」


矛盾した言葉が出た。蘭奈自身が、自分の言葉に驚いた顔をする。驚いて、また胸を張る。突き出すほどに。けれど、その鎧はさっきより少しだけ柔らかい。


遼人は、その柔らかさを見てしまって、視線を落とした。落とした先にあるのは、レジ締め表と、資金繰り表と、今日のメモ。


紙は整っている。


そして今日、ようやく人も少しだけ整った。


失敗は突然くる。


けれど、突然の刃を受けたことで、信頼は質を変える。


蘭奈が距離を保ってきた線は、まだ残っている。胸元の攻めも、まだ武器のままだ。けれど、その武器の裏に隠れていた弱さを、遼人は初めて“共有”できた気がした。


店の人になる、というのは、棚を整えることでも、売り場に立つことでもない。


刃が来た時に前に出ることだ。


そしてその刃が、蘭奈の心を折る前に、自分が受けると決めることだ。


遼人は静かに思った。


もう戻れない。係長には。


そして、それでいい。

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