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『ブラック企業で死にかけた経理係長、ギャル服店に拾われる』 ─拾ったのは、強気なギャル店長  作者: 月白ふゆ


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第8話 失敗は、突然くる

失敗は、いつも「じわじわ」ではなく、「突然」くる。


店が回り始めた、と皆が思い始めた頃に限って。


棚のラベルが揃い、欠品が減り、レジ締めの数字が並び、客に「選びやすい」と言われる日が増えて――それが日常になりかけた、そのタイミングで。


Edge Girlsのバックヤードに、ひとつの箱が増えた。


目立たない色の段ボール。無地に近い。けれどラベルだけは整っている。遼人が作ったルールに従った貼り方だ。だからこそ余計に、遼人の目には“異物”に見えた。


入荷の控えに、聞き慣れない仕入れ先の名前がある。単価が妙にいい。数量が妙に多い。品目は今までより少しだけ尖っている。刺さる人には刺さる、というタイプの“攻め”だ。


遼人はそれを見て、喉の奥が少し乾いた。


攻めが悪いわけじゃない。蘭奈の店は攻める店だ。攻めを止めれば、らしさが死ぬ。けれど攻めには必ず、背中を支える足場がいる。


足場の高さに対して、ジャンプが大きすぎる。


「これ、入ったんだ」


陽那が段ボールを覗き込み、目を輝かせた。


「やば。店長、マジ攻めたね。これ、映える」


「売れる」


少し離れたところで、蘭奈が腕を組んだまま言った。即断の声。迷いがない声。店長の声。


今日も黒だった。胸元は相変わらず攻めている。布が胸の形を拾い、鎖骨がすっと出ている。視線の逃げ場がないのに、蘭奈は何でもない顔をして立っている。


遼人は棚に視線を固定した。棚は安全だ。数字は安全だ。


「売れる根拠は?」


遼人が淡々と聞くと、蘭奈の眉が少しだけ動いた。


「根拠とか、いる?」


「要ります。大量なので」


蘭奈は鼻で笑った。


「客の顔見てりゃ分かる」


その返しは、蘭奈らしい。現場の嗅覚。売り場の圧。そこに彼女の強さがある。だからこそ、遼人は言葉を選んだ。否定ではなく、支える言葉を。


「刺さる客はいます。ただ、回転が読めないジャンルです。最初は少量で反応を見るのが安全でした」


「安全ばっか言うな」


「攻めるための安全です」


またムカつく言い方をしてしまった、と遼人は内心で思った。蘭奈は案の定、舌打ちをする。


「その言い方、ほんと腹立つ」


「すみません。癖です」


「謝るな」


「癖です」


陽那が吹き出した。場が軽くなる。軽くなるのに、遼人の胸は軽くならない。


蘭奈は、そこで会話を切った。


「売り場出す。今日から推す」


早い。いつも通り早い。決まれば走る。走りながら修正する。それが蘭奈のやり方だ。


遼人は頷いた。


「分かりました。売れ筋の棚替え、僕がやります」


反対はしない。反対して止められる段階はもう過ぎている。決まったなら、被害を最小にする方向へ動く。補佐はそういう仕事だ。


その週末、店は確かに賑わった。


新作を前面に出し、陽那がインスタで煽り、蘭奈が売り場で圧をかける。客は笑い、試着が増え、レジは回る。見た目だけなら、成功だった。


けれど遼人は、レジ締め表の横にある“返品”の欄がじわじわ増えているのを見逃さなかった。


最初は「サイズが合わなかった」。次に「思ったより素材が違った」。その次は「着てみたら似合わなかった」。


尖った服は、刺さると強い。刺さらないと、戻ってくる。


しかも、その尖りは“価格”にも出る。単価がいい分、返品の戻りも重い。売上が上がって見えるだけで、実際には薄い氷の上を走っている。


その氷が割れるのに、時間はかからなかった。


月末のまとめを作った夜。


バックヤードの机に座り、遼人が数字を整えていくうち、胃の奥が冷えていくのを感じた。


売上は悪くない。粗利も表面上は出ている。けれど、支出が跳ねている。仕入れの一括支払いが重い。返品の処理が追いつかず、売上計上と現金の実態がずれている。販促の追加コストが乗っている。さらに、値引きで回転を上げた分、利益が削れている。


合計すると――赤。


遼人は、指先が少し震えるのを感じた。震えを止めるために、深く息を吸って吐いた。


怖いのは赤字じゃない。赤字は数字だ。扱える。


怖いのは、これが誰の判断で、誰が責任を背負うかということだ。


遼人は顔を上げた。バックヤードにはもう誰もいない。売り場の灯りも落ちている。音楽も止まっている。段ボールの匂いだけが残る。


蘭奈は、今日も最後まで残っていた。けれどさっき、遼人に「先帰れ」と言った。


珍しい言い方だった。命令の形で、拒否だった。


遼人はその時、すぐに気づくべきだったのかもしれない。


失敗は、突然くる。けれど兆しは、いつもその前にある。


翌日、遼人は朝一で店に入った。


陽那がまだ来ていない時間帯。蘭奈はすでにいた。バックヤードではなく、売り場に立っている。開店前の店内で、ひとりで棚を見つめていた。


背筋が伸びている。胸を張っている。今日の服も黒で、胸元はさらに攻めている。いつも以上に布が胸を押し上げ、視線がそこに吸われそうになるほどだ。


落ち込んでいる時ほど、胸を張る。


まるで「弱いところなんてない」と言い張るみたいに。


遼人は静かに近づき、声をかけた。


「おはようございます」


蘭奈は振り向かないまま、短く返した。


「早い」


「昨日、途中で帰されました」


その言葉に、蘭奈の肩がほんの少しだけ動いた。反応。けれど振り向かない。


「倒れるなって言っただろ」


「倒れる前に、見るべきものがあります」


遼人は一歩だけ距離を詰めた。詰めたといっても、触れない距離。蘭奈が保ってきた線を越えない距離。


「月末の数字、出ました」


その言葉で、蘭奈の背中が一瞬だけ硬くなる。硬くなったのに、胸をさらに張る。顎を少しだけ上げる。鎧の姿勢。


「……ふーん」


「赤字です」


遼人が淡々と言った瞬間、蘭奈は初めて振り向いた。


目が鋭い。いつもの判断の目。けれど、奥の奥が揺れている。揺れを隠すために、強く見開いている。


「……それ、誰にも言うな」


遼人は息を止めそうになり、止めなかった。


「なぜですか」


「騒ぐな。ひなが余計なこと言う。スタッフも不安になる」


「不安になるのは、何も知らない時の方です」


遼人が言うと、蘭奈は睨んだ。


「口答えすんな」


「補佐です」


遼人が返すと、蘭奈の目が一瞬だけ揺れる。“補佐”という言葉が、彼女の中で何かを刺すのが分かった。補佐がいるということは、背負う必要がないということになる。背負うことで保ってきた彼女のバランスが、崩れる。


蘭奈は、息を吸って、吐いて、それでも強気の姿勢を崩さなかった。


「……私の判断ミスだ」


言葉が短い。断罪に近い。自分を責める速さが、決断の速さと同じだ。


「原因はひとつじゃありません」


遼人は静かに言った。ここで「店長のせいです」と言えば、蘭奈は鎧を固めて終わる。自分を罰して、誰も寄せ付けない。


遼人は“扱える形”に落とす必要があった。数字は、そのためにある。


「仕入れが大きかった。返品率が高かった。値引きが早かった。販促費が乗った。支払いタイミングが悪かった。全部、組み合わさって赤になりました」


蘭奈の眉がわずかに動く。責められていない、と理解した顔。それでも、すぐに強がりに戻る。


「だから何。赤は赤だろ」


「赤は赤です。でも、潰れる赤じゃないです」


遼人が言うと、蘭奈が一瞬だけ目を丸くした。


「……潰れる赤、って何だよ」


「資金が回らない赤です。今はまだ回ります。回るように調整できます」


遼人は、作ってきた簡単な資金繰り表を差し出した。必要最低ライン、支払い日、入金のタイミング、返品処理のスケジュール。数字が並ぶだけで、恐怖が“形”になる。


形になれば、扱える。


蘭奈は紙を取った。指が少しだけ強張っている。強張りを隠すように、胸をさらに張る。紙の上に影が落ちる。胸元の攻めが、妙に目に入る。


遼人は視線を紙に落としたまま続けた。


「今月は、在庫の回転を上げて現金化します。値引きはやり方を変える。投げ売りじゃなく、セットで利益を残す。返品は“戻ってきた瞬間に再投入”できる形にして、棚の死体を減らす。来月の仕入れは絞ります。攻めるのは、売れ筋だけ」


蘭奈は紙を睨むように見ていた。睨んでいるのに、頬が少しだけ白い。眠れていない顔だ。


「……ひなに言うなよ」


またそれだ。隠す。背負う。


遼人は静かに首を横に振った。


「陽那さんには、必要な範囲で共有します。現場の動きを変えないと、数字だけいじっても意味がない」


蘭奈の目が鋭くなる。


「勝手に決めるな」


「店長が決めてください。ただ、店長ひとりで背負うと、もっと危なくなります」


その言葉で、蘭奈の表情が一瞬だけ割れた。


強気の殻に、ひびが入る。


「……背負うのは当たり前だろ。私が店長だ」


その声は強い。けれど、強さの底に、怖さがある。母の店を守れなかったらどうする。自分の判断で店が潰れたらどうする。怖くて、それでも逃げられない。


遼人は、そこで初めて少しだけ踏み込む言い方をした。


「店長だから、背負うんじゃないです。店長だから、頼っていい」


蘭奈が息を止めるのが分かった。


止めた息を吐き出すまでに、一拍の間があった。決断が早い人の、遅い時間。


「……頼るとか」


蘭奈は笑おうとした。笑えなかった。代わりに、胸を張って、顎を上げた。突き出すみたいに。弱さを隠すために。


遼人はその姿勢を見て、胸が痛くなった。


落ち込んでる時ほど、胸を張る。


強く見せれば、怖さが消えると思っている。消えないのに。


その日の昼、陽那が店に入ってきた瞬間、空気の違いにすぐ気づいた。


陽那は軽い。けれど鈍くない。むしろ鋭い。残り続けた人の嗅覚がある。


「……店長、なんかあった?」


明るい声で聞く。明るい声なのに、目が真剣だ。


蘭奈は即答する。


「何もない」


速すぎる否定。陽那はそこで追い詰めない。追い詰めると蘭奈が固まるのを知っている。


代わりに陽那は、遼人をちらりと見た。


遼人は小さく頷いた。言葉は出さない。ここで共有の仕方を間違えると、蘭奈は自分を罰して壊れる。


陽那は察した顔で、わざとらしく笑った。


「そっか。じゃあ今日も攻めよ。店長、胸やばいし」


「うるさい」


蘭奈が言う。いつもの返し。いつもの形。


でも、遼人には分かる。蘭奈の“うるさい”が、今日は少しだけ震えている。怒りじゃない。怖さの揺れだ。


陽那は、わざと軽い調子で続けた。


「遼人さん、今日売り場立てる?」


「立てます」


遼人が答えると、陽那は満足そうに頷いた。


「よし。三人で回す。固定で」


固定。その言葉が、今日の遼人には重かった。固定された関係の中で、誰かが倒れそうになった時、固定は支えにも、重しにもなる。


蘭奈は距離を保ったまま、売り場の中央に立った。


胸を張り、突き出すほどに。攻めた胸元が、まるで鎧の前面みたいに見える。見せているのに、心は閉じている。閉じているのに、誰かに見つけてほしいようにも見える。


遼人は、数字を知ってしまった。だから、ただの“攻めファッション”として見られない。


陽那は、数字を知らない。けれど、空気で分かる。


三人が並んで立つと、店は回る。売り場が回る。客は笑う。レジは回る。表面はいつも通りの成功に見える。


だからこそ、失敗は突然くる。


表面が整っていると、内側の崩れが見えにくい。


閉店後、遼人はバックヤードで返品の処理を進めながら、蘭奈の背中を見た。蘭奈は売り場の片付けをひとりでやろうとする。誰にも手を出させないみたいに。背負う癖が出ている。


陽那が軽く言った。


「店長、片付け一緒にやるよ」


「いらない」


「いらないって言うほど疲れてる顔してる」


蘭奈が胸を張る。


「疲れてない」


言い張るほどに、肩が固い。


陽那は追い詰めない。代わりに、遼人に目をやる。遼人が小さく頷くと、陽那は言い方を変えた。


「じゃあ、店長。私、片付け“したい”。だって店のこと好きだし」


したい、という言葉は、蘭奈の防御を少しだけ溶かす。命令じゃない。押し付けじゃない。自分の意思として差し出される言葉。


蘭奈は一瞬だけ固まって、それでもすぐに強気に戻る。


「……勝手にしろ」


許可。蘭奈なりの許可。


その小さな許可が、遼人には救いに見えた。まだ折れていない。まだ、誰かを拒絶しきれていない。


でも、夜。


店のシャッターが降り、最後に遼人がバックヤードの灯りを落とした時、蘭奈がひとり、売り場の鏡の前に立っているのが見えた。


胸を張っている。突き出すほどに。鏡の中の自分に、強い顔をさせている。


それは、誰にも見せない弱さの裏返しだ。


遼人は声をかけようとして、やめた。


今、言葉をかければ、蘭奈はたぶん笑って誤魔化す。仕事だと言う。大丈夫だと言う。鎧を固める。


だから遼人は、静かに“見ている”という形を選んだ。


背負わせないために、まずは逃げ道を奪わない。


数字は、明日も逃げない。現実は、今日よりも明日扱いやすくできる。


蘭奈が鏡から目を逸らし、遼人の存在に気づいた。


一瞬、目が揺れた。


揺れたのに、胸を張る。さらに張る。突き出すほどに。


「……見んな」


小さく言った。命令みたいに。


遼人は、視線を逸らさずに、しかし柔らかく言った。


「見てません。店の人として、確認してるだけです」


蘭奈の眉が少しだけ動く。仕事という逃げ道を、遼人が差し出した形になる。


蘭奈は、ほんの少しだけ息を吐いた。


「……仕事なら、いい」


それだけ言って、踵を返した。歩幅が速い。逃げるみたいに速い。


失敗は突然くる。


そして、その失敗がもたらす“弱さ”は、もっと突然、心を刺す。


この赤字は、まだ致命傷じゃない。


けれど蘭奈が「誰にも言わず背負う」という癖が、今後の致命傷になる。


遼人は、その伏線をはっきり見た。


見えてしまったから、もう放っておけない。


放っておけないのに、踏み込み方を間違えれば壊れる。


遼人はバックヤードの灯りを消し、暗い売り場を最後に一度だけ振り返った。


そこにはもう、誰もいない。


けれど、強く張られた胸のラインだけが、妙に目に残っていた。


弱さを隠すための、強さの形。


その形が、これから先、どこまで持つのか。


失敗は突然くる。


だから、支える側は、突然に備えるしかない。

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