第6話 役に立つという感覚
店の裏は、音が違う。
売り場の低音と笑い声は、扉一枚で切れる。代わりに聞こえるのは、段ボールが擦れる音、ハンガーの金具が触れる音、紙がめくられる音。それと、息だ。人が慌ただしく動く時の息。
閉店後、バックヤードに並べられた箱を見た瞬間、遼人は思った。
数字が語っていた“違和感”の正体は、ここにも埋まっている。
在庫――見えない金。
売れているように見えて、棚にない。棚にあるのに、売れていない。発注したのに、どこにもない。あるはずの在庫が、どこかで消えている。消えているというより、埋もれている。埋もれている在庫は、利益ではなく死体になる。
「これさ」
蘭奈が腕を組んだまま、箱の山を顎で示した。いつもの強気な顔のままなのに、どこか不機嫌っぽい。
「在庫って、どうにかなる?」
遼人は、すぐに頷かなかった。どうにかなる、と言うのは簡単だ。けれど“どうにかする”には段取りがいる。現場を止めずに、スタッフの負担を増やしすぎずに、しかも蘭奈の“攻める店”を殺さずに。
「なります」
遼人は短く言った。短く言うのは、彼女の速度に合わせるためだ。
「でも、いきなり完璧は無理です。まず、やることを減らして、見える化して、それから絞ります」
蘭奈が眉を吊り上げる。
「やること減らす? 攻めるのに?」
「攻めるために、です」
またムカつく言い方をしてしまった、と遼人は内心で思った。案の定、蘭奈は鼻で笑った。
「その言い方、ほんと腹立つ」
「すみません。癖です」
「謝るな」
「謝りじゃなくて、癖です」
遼人が淡々と言うと、蘭奈は一瞬だけ口元を押さえた。笑いそうになったのを隠す動き。隠したのに、耳が少し赤い。
遼人は見なかったふりをして、段ボールの一つに手を伸ばした。ラベルは貼ってある。だが雑だ。略称。色も統一されていない。何が入っているか、開けるまで確信が持てない。
「白河さん」
遼人が呼ぶと、売り場の片付けをしていた陽那が顔を出した。
「なに、遼人さん。今から地獄?」
「地獄です」
即答すると、陽那が嬉しそうに笑った。嬉しそうに笑うのに、目は真剣に箱の山を見る。現場を回す人の目だ。
「で、何する?」
遼人は、最初の一手だけを言った。
「まず、棚卸しの“やり方”を決めます。全部数える前に、種類を固定します。人気の定番と、季節物と、雑貨で分ける。それと、置き場を決める」
「置き場はあるよ?」
陽那が軽く言う。蘭奈も頷く。
「ある。適当に入れてるだけ」
適当に入れてるだけ。そこに全てがある。
「適当をやめます」
遼人は言った。今日は譲らない。
「ただ、やり方は簡単にします。箱の外に“中身の種類”が分かるラベルを統一して貼る。棚の段ごとにカテゴリを固定する。発注する時は、必ずそのカテゴリの在庫を確認してから」
蘭奈が腕を組み直す。
「面倒」
「面倒です。でも、面倒を先にやると、後が楽になります」
「それ、昨日も聞いた」
「事実なので」
蘭奈が舌打ちした。
「ムカつく」
それでも拒否しない。拒否しないことが、遼人にとっては“許可”だった。
翌日から、在庫の改善は始まった。
遼人は出勤時間をずらし、開店前の一時間だけ店に入った。病院でも「せめて午前中は休め」と言われたが、遼人は自分の身体の限界を、もう少しだけ慎重に測りながら動くことにした。無理はしない。短時間で区切る。続けられる形にする。それが今の練習だ。
開店前の店内は静かで、照明がまだ完全には点いていない。マネキンが暗がりに浮かんでいて、少し怖い。けれどバックヤードに入ると、段ボールの匂いが遼人の頭を仕事モードへ切り替える。匂いがスイッチになっているのが、自分でも分かる。
棚を見て、遼人は最初に“死んでいる場所”を見つけた。
上段の奥。箱が積まれていて、手前に新しい箱が置かれ、奥の箱は触られていない。埃の薄い膜がある。そこに金が眠っている。眠っているというより、腐っている。
「これ、いつの?」
遼人が箱を引っ張り出すと、陽那が横から覗き込んだ。
「えーっと……たぶん、去年の冬?」
「去年の冬……」
「うん。店長が『これ攻めたい』って仕入れてた」
陽那は笑いながら言う。笑いながら、ちゃんと蘭奈を守る言い方をしている。“攻めたい”と言うことで、責任を失敗ではなく意思決定に見せている。
遼人は箱を開けた。中身は、派手な柄のアウター。今の売り場のテイストより少し古い。素材も重い。たぶん今の客層には刺さりにくい。
「これ、売れた数、分かります?」
陽那は首を横に振った。
「分かんない。売り場に出したり下げたり、してた」
蘭奈が遅れて入ってきた。今日はやけに攻めた黒のトップスだ。胸元が深く、布のラインが胸の形を強調する。鎖骨から谷間がはっきり見える。店長というより、攻める女だ。
遼人は一瞬、視線を落とした。見てしまうと、仕事の集中が崩れる。崩れるのが怖い。
「なに、その顔」
蘭奈がすぐに言った。気づくのが早い。
「……いえ。箱、古いのが出てきました」
誤魔化す。陽那が横で、わざとらしく笑う。
「店長、今日胸すごいもんね。遼人さん、目の置き場ないよね」
「ひな!」
蘭奈の声が少しだけ大きくなる。遼人は心の中で呻いた。確信犯が、今日も最速で刺してくる。
陽那は悪びれず、にこにこしている。
「え、だって事実だし。店長、攻めファッション好きでしょ。攻めるなら、見られる覚悟いるよ」
「覚悟とかいらない。仕事だ」
「仕事って言えば照れなくて済むと思ってる」
「うるさい」
蘭奈は腕を組んだ。腕を組むと胸がさらに強調される。遼人は視線を棚に固定した。棚だけを見る。棚は裏切らない。
遼人は話を戻した。
「この箱、在庫として死にかけです。今季に回すなら、売り方を変えないと動きません。……このままだと資金が寝ます」
蘭奈は眉を寄せる。
「寝る、って」
「売れない在庫は、金が止まってるのと同じです」
「でも、出せば売れるかもしれない」
「可能性はあります。だから、出すなら“狙って出す”にします」
遼人はメモに簡単な分類を書いた。A、B、C。売れる速度で分ける。
「売れるやつはA。回転が速い。これは切らしたら損です。たまに売れるのはB。これは数を持ちすぎない。動かないのはC。これは処分か、セット売りか、打ち出しを変える」
蘭奈が鼻で笑う。
「経理っぽい」
「経理です」
「ムカつく」
「すみません」
「謝るな」
「癖です」
また同じ。陽那が肩を揺らして笑い、蘭奈が睨む。いつもの形。けれど、この形が、遼人には少しだけ安心になり始めていた。緊張が緩む。呼吸ができる。
遼人は棚の段ごとに紙を貼り、カテゴリを固定した。トップス、ボトム、アウター、雑貨。サイズがあるものはサイズ別。色ではなく種類でまとめる。探す時間を減らすためだ。
次に、ルールをひとつだけ作った。
「発注する前に、必ず“同カテゴリの棚”を確認する。確認したら、チェックをつける。チェックがない発注はしない」
蘭奈が即断する。
「分かった。やる」
判断が早い。言い方は強いが、決まれば動く。この店の速さだ。遼人はその速さに乗って、仕組みを滑り込ませる。補佐とは、相手の速度を利用することでもある。
一週間で、目に見える変化が出た。
まず、欠品が減った。
売り場で陽那が「この色、在庫あります?」と聞かれ、いつもならバックヤードを漁っていたのが、棚のラベルを見て一発で取れるようになった。探す時間が減り、接客のリズムが途切れない。客が迷っている時間が短くなる。試着が増える。試着が増えれば購買が増える。現場の呼吸が、数字に繋がる。
次に、仕入れの無駄が減った。
蘭奈が「これ追加で取る」と言いかけた時、遼人がラベルを示す。
「このカテゴリ、在庫まだあります。まずこっちを回して、動きを見てからでも遅くない」
蘭奈は一瞬ムッとするが、すぐに「分かった」と言う。悔しさが顔に出る。でも、止まる。決断が早い人は、修正も早い。修正できる人は強い。
そして、三つ目。
“消えていた在庫”が、消えていなかったことが分かった。
ある日の昼、蘭奈が売り場から戻ってきて、苛立った声を出した。
「例のトップス、またないって言われた」
例のトップス。最近よく出る、黒のクロップド。胸元のカットが攻めていて、客の反応がいい。蘭奈が推しているやつだ。
「昨日入荷したはずだろ」
「入荷はしました」
遼人は仕入れ伝票を見て、入荷数を確認した。確かに入っている。ところが棚にない。売り場にもない。レジにも通っていない。つまり、入荷したのに売れていない。なのに、見当たらない。
遼人の背中が冷たくなる。
盗難――という言葉が頭をよぎる。
だが、遼人はすぐにその単語を飲み込んだ。まだ断定できない。まず確認だ。
「入荷箱、見ます」
バックヤードへ行き、該当カテゴリの棚を見る。ない。なら、別の場所に入っている可能性がある。適当が残っている場所だ。遼人は棚の上段の奥を見た。そこに、ラベルなしの箱が一つ紛れている。触られていない埃。
箱を開けると、例のトップスがきれいに詰まっていた。
「……ここか」
遼人が呟くと、陽那が後ろで息を吸った。
「うわ。これ、私、入れたかも」
陽那の声が小さくなる。責められると思った声だ。遼人は首を横に振る。
「責めてません。これが“ルールの穴”です。入荷した時の置き場が固定されてない」
蘭奈が箱を覗き込み、顔をしかめた。
「……私だって、たぶん同じことやってた」
認めるのが早い。そこが蘭奈の強さだ。強がりながらも、現実を見てしまう。
遼人はすぐにルールを追加した。
「入荷した箱は、必ず“入荷棚”に一時置き。そこでラベル貼ってから分類棚に移す。ラベルがない箱は棚に置かない」
陽那が勢いよく頷く。
「やる。これなら私でもできる」
蘭奈も頷いた。
「やる」
その日の夕方、売り場に例のトップスが補充され、目に見えて売れた。陽那が試着を回し、蘭奈が強気に押し、客が笑う。レジの回転が上がる。キャッシュレスの比率が増え、現金残高も安定する。
遼人はレジ締め表の数字を見て、息を吐いた。
綺麗に繋がっている。
売上と入金が、ちゃんと並ぶ。支出予定が見える。残高の最低ラインが守れる。まだ完璧ではない。けれど、“危うさ”が薄くなっている。
その夜、閉店後のバックヤードで、陽那が突然手を止めた。
「遼人さん」
呼び方がいつもより少しだけ柔らかい。弄りの声じゃない。遼人は顔を上げた。
陽那は、段ボールのラベルを手に持ったまま、ぽつりと言った。
「……ありがとう」
遼人は、一瞬言葉が出なかった。
ありがとう。
その単語を、仕事で真正面から受け取ったことが、どれくらい久しぶりか分からない。会社では、感謝は形式だった。報告の最後に付く飾りで、責任逃れの免罪符で、言った瞬間に消えるものだった。
陽那の「ありがとう」は、消えない重さがある。目が、ちゃんと遼人を見ている。軽さの奥に、芯がある。
「助かった」
陽那は続けた。
「私、ずっと怖かったんだ。売れてるのに金が残らない感じ。何かミスってる感じ。でも、店止められないから、分からないまま走ってた」
遼人は喉が少しだけ詰まるのを感じた。返事が遅れる。
「……僕は、僕の仕事をしただけです」
遼人がそう言うと、陽那が眉を下げて笑った。
「それが助かったって言ってるの。ね、店長」
陽那が振り向くと、蘭奈が腕を組んだまま立っていた。今日も服が攻めている。黒のトップスが胸を強調し、鎖骨のラインが妙に艶っぽい。しかも、仕事終わりなのに崩れていない。攻めのまま立っている。
蘭奈は陽那に視線を向け、次に遼人を見る。視線が一瞬、遼人の喉元あたりで止まり、すぐに逸れる。
「……助かった」
小さく言った。信じられないくらい小さい声。
遼人は、息を止めそうになった。止めない。ここで止めたら、また自分が戻ってしまう。
「ありがとうございます」
遼人は、ちゃんと受け取った。受け取る練習だ。
蘭奈が眉を吊り上げる。
「礼とかいらない。……仕事だろ」
いつもの逃げ道。仕事。
陽那がにやっとする。
「ほら出た。店長、照れるとすぐそれ」
「照れてない」
「照れてる」
「照れてない」
蘭奈が言い張る。言い張るのに、耳が赤い。遼人は見てしまって、視線を紙に落とした。紙を見る。紙は安全地帯だ。
陽那は確信犯らしく、最後に甘い一刺しを入れてくる。
「でもさ、遼人さんが来てから、店長の顔、ちょい柔らかくなった」
蘭奈が即座に言い返す。
「なってない」
「なってるよ。だって今日、客に“ありがとう”って言われた時、店長、嬉しそうだった」
「嬉しくない」
「嬉しい顔してた」
陽那は笑いながら、蘭奈の肩を軽く叩いた。その手つきが親しい。母の時代からいる人の距離だ。
蘭奈はその手を振り払わない。振り払わない代わりに、遼人へ矛先を向けるみたいに言った。
「……遼人」
突然、名前で呼ばれた。
遼人の背中が少しだけ硬くなる。係長じゃない。鳴海さんでもない。遼人。呼ばれ方が違うと、胸の奥が違う場所に触れる。
「はい」
「明日、時間ある?」
蘭奈の目が真っ直ぐで、早い決断の目だ。けれど、声は少しだけ慎重だ。決断が早い人の、珍しい慎重さ。
遼人は頷いた。
「午前は病院の再診があります。でも、午後なら」
「午後でいい」
蘭奈は即断した。そこまではいつも通り。
次に、ほんの一拍だけ間があった。蘭奈は腕を組み直し、胸が少し持ち上がる。布のラインが強く出る。遼人は視線を落とした。落としたのに、気配で分かる。蘭奈が、自分の“攻め”を意識している。意識しているのに、やめない。やめないのに、頬が少し熱い。
「……飯」
蘭奈が小さく言った。
「奢る。……今日の分」
陽那が目を丸くした。次の瞬間、悪魔みたいに笑う。
「え、店長、遼人さん誘ってる。事件」
「事件じゃない。お礼だ」
「お礼、言えたじゃん」
「……言ってない」
言ってたのに、言ってないと言う。乙女の逃げ道。
遼人は、心の奥で何かがほどけるのを感じた。
仕事で感謝される。
その感覚が、こんなにも身体に効くのかと、遼人は思った。会社で擦り減った部分が、ほんの少しだけ戻ってくる。戻ってくると同時に、怖さもある。これに依存したら危ない。役に立つことでしか自分を保てない癖が、また顔を出すかもしれない。
でも、今はそれを怖がるだけじゃなく、扱う練習ができる場所がある。
「……ありがとうございます」
遼人は言った。言いながら、少しだけ笑った。口角がちゃんと上がった自覚がある。
蘭奈が一瞬だけ固まる。笑いを見たみたいな顔。そのまま腕を組み直して、いつもの強気へ戻る。
「笑うな。変な顔」
「変な顔じゃないです」
「変だ」
「店長も変です」
遼人が言い返してしまい、自分で驚いた。陽那が吹き出す。蘭奈の目が大きくなる。大きくなった後、すぐに睨む。
「……言うようになったな」
「陽那さんのせいです」
遼人が言うと、陽那が胸を張った。
「私の教育の賜物。店長、遼人さん、ちょい生意気になったよ」
「生意気でいい。倒れるよりマシ」
蘭奈がぽろっと言った。
その一言が、遼人の胸に落ちた。
倒れるよりマシ。
強気な店長の言葉なのに、祈りみたいだ。守りたいものに触れた時の、遅い決断。蘭奈の中で何かが芽を出している。黒の乙女が、鎧の下で芽生え始めている。
自分がそれを見てしまうことが、怖い。
それでも――目を逸らせない。
閉店後の店内で、蘭奈は灯りを落としながら、最後に一度だけ遼人を見た。視線が早い。決断が早い人の視線。けれど、その目の奥が少しだけ揺れている。揺れているのに、すぐに逸らさない。
「明日、遅れんなよ」
言い方は命令だ。
「はい」
遼人が頷くと、蘭奈は「よし」と小さく言い、扉へ向かった。背中が強気なのに、肩が少しだけ軽い。
陽那はその背中を見送り、遼人の横で小声で囁いた。
「ね。店長、今ちょっと幸せそう」
遼人は返事をしなかった。返事をしたら、何かが決定してしまいそうだった。
代わりに、レジ締め表をファイルに戻し、丁寧にクリップで留めた。紙が整うと、心が少し整う。けれど、紙では整わない部分が、胸の奥で静かに育っている。
役に立つという感覚。
それは、救いでもあり、危険でもある。
けれど、今日初めて、遼人はその感覚を“誇り”として受け取れた気がした。誰かのために働いて、ちゃんと感謝される。ちゃんと見られている。ちゃんと拾われている。
そして蘭奈の攻めた胸元が、妙に目に残る。
見ないようにしても、残る。残ってしまうことが、遼人には少し怖かった。
黒の乙女が芽生え始めたのは、蘭奈だけじゃないのかもしれないと、そんなことを考えてしまう自分が、さらに怖かった。




