第5話 強気な店長は、決断が早い
翌日の朝、遼人は“会社に行かない”という選択を、もう一度やり直した。
目が覚めた瞬間、身体が勝手にスーツを探す。次に、スマホを確認して「至急」に反応しようとする。反射は相変わらず強い。けれど、昨日と違うのは、反射に気づけることだった。
息を吸って、吐く。水を飲む。薬を飲む。軽く何かを口に入れる。自分の身体に手順を与える。会社の手順じゃない、生きるための手順。
その上で、遼人は机に向かい、簡単なフォーマットを作った。レジ締め表。日別売上の記録。現金残高とキャッシュレスの内訳。入金予定。確認者の欄を二つ。どれも細かい工夫だが、こういう細部が店を守ることを、遼人は知っていた。
プリントアウトして、ファイルに挟む。背中が少しだけ軽い。役に立たなきゃという焦りは消えない。でも今の焦りは、息を止めるほどのものじゃない。呼吸しながら扱える程度に、薄くなっている。
昼過ぎ、遼人はEdge Girlsの扉を開けた。
店内にはすでに客がいて、音楽が流れていた。昨日よりも、空気に慣れている自分がいる。慣れたというより、「慣れよう」と身体が構えている。
「いらっしゃいませー」
陽那の声が飛んでくる。相変わらず店内の呼吸を握っている声だ。遼人が会釈すると、陽那はわざとらしく目を輝かせた。
「遼人さん、今日の顔、昨日より生きてる。点数つけるなら六十五点」
「低いですね」
「伸びしろ。店長に褒められるとすぐ上がるよ」
そう言って、陽那は小さく笑った。笑い方が軽いのに、言葉は妙に核心を突く。
遼人が返しに迷っていると、バックヤードの方から足音がして、蘭奈が出てきた。今日は黒のセットアップに近い服で、攻めのラインがさらに強い。髪もきっちりまとめている。腕を組む癖はそのまま。顔はいつもの“強気な店長”だ。
「来た」
短い。確認というより、到着の認定。
遼人はファイルを持ち上げた。
「レジ締め表、作ってきました。今日から回せる形にしてあります」
蘭奈の目が一瞬だけ丸くなる。それからすぐに腕を組み直して、いつもの顔に戻る。
「早い」
「僕の得意分野なので」
「……ふーん」
ふーん、と言う割に、ファイルを見る目が速い。視線が真剣だ。自分の店の骨組みを初めて触るみたいな顔をしている。
陽那が横から覗き込み、わざとらしくため息をついた。
「え、店長、遼人さんのこと見る目がもう“仕事”じゃないじゃん」
「仕事だよ」
蘭奈が即答する。速い。逃げるように速い。
「へー。じゃあ私、仕事として邪魔しよーっと」
陽那はにこにこ言いながら、遼人の腕に軽く触れた。袖の上から、指先がちょんと乗るだけの触れ方。軽いのに、距離感がバグっている。
遼人は反射的に身を引きそうになって、止めた。引いたら、陽那の思うつぼだ。引いたら、変に意識しているのがバレる。
蘭奈の視線が、陽那の指先に一瞬だけ落ちる。ほんの一瞬。すぐに逸れる。逸れたのに、顎が少しだけ上がる。強がりの合図みたいに。
「ひな。売り場戻れ」
「はーい。でも遼人さん、裏行く前に一回、売り場立って」
陽那はさらっと言った。立って、という言葉が、遼人の胃を軽く縮ませる。昨日の戸惑いが蘇る。けれど今日は逃げないと決めた。逃げない形で、自分の領域を作る。
「短時間なら」
遼人がそう言うと、蘭奈が即座に言った。
「無理ならやめろ」
言い方は命令なのに、内容は保護だ。遼人は小さく頷いた。
売り場に出ると、客の視線が一瞬だけ遼人に引っかかる。男がいること自体が珍しいわけではないが、エプロンをつけた男は珍しいのだろう。遼人は口角を少しだけ上げ、陽那に教えられた通り“目で見てます”を作った。
「いらっしゃいませ」
声は小さい。けれど出せた。それだけで自分に合格を出したくなる。合格を出したくなる自分に、また驚く。
陽那はすでに客の横へ入り、試着の案内をしていた。言葉が短く、明確で、迷いがない。新しく入ったスタッフたちも動いている。ぎこちないが、必死だ。ひとりがレジで少し詰まると、蘭奈がすぐに補助へ入る。決断が早い。迷う時間がない。迷えば現場が止まると知っている動き。
「それ、袋大きめで。タグは切らないで入れて」
蘭奈は言いながら、手だけで処理を終わらせた。客に対して笑顔を作るわけではない。けれど、動きに隙がないから客は安心する。強気な女がレジにいると、妙に“ちゃんとしてる店”に見える。
遼人は、その瞬間に理解した。
蘭奈は、迷わないのではない。迷う暇を自分に与えないだけだ。迷えば怖いものが見えるから。だから、決断を早くすることで、自分を守っている。
客が少し引いたタイミングで、蘭奈が遼人に目を向けた。
「裏、来い」
合図が短い。遼人はすぐに頷いて、バックヤードへ戻った。
机にファイルを広げると、蘭奈は椅子に座らず、立ったまま腕を組んだ。立ったままの方が強くいられる。そういう癖がある人だ。
「これ、今日から?」
「今日から回せます。入力は簡単にしました。誰でもできるように。最後に店長か白河さんが確認してサイン」
「サインとか、やったことない」
「やったことないから、やるんです」
遼人が淡々と言うと、蘭奈が一瞬だけ目を細めた。
「ムカつく言い方」
「すみません。癖です」
遼人が即座に返すと、蘭奈の口元がほんの一瞬だけ動く。笑いじゃない。緩みだ。
そこへ陽那が、わざと“忙しい顔”で入ってきた。
「店長、ちょい相談。今日の夕方、インスタの投稿どうする? 新作、どれ推す?」
蘭奈の目が鋭くなる。経営判断の顔だ。遼人はその変化に少し驚いた。彼女は数字が苦手でも、現場の意思決定は速い。
「新作の黒。トップに固定。あと、セット売りできるやつ。今週、客の反応いい」
「了解。じゃあ、モデル誰使う?」
「ひな。お前」
陽那がぱちっと瞬きして、次ににやっと笑った。
「え、私? 店長、私のこと好きじゃん」
「好きじゃない。映えるから」
蘭奈は即答する。速い。否定が速い。陽那は楽しそうに笑って、今度は遼人の隣に寄った。寄り方が自然すぎる。距離が一段近い。
「遼人さん、どう思う? 私、映える?」
「……映えると思います」
遼人が正直に言うと、陽那は嬉しそうに肩を揺らした。
「ほら、店長。遼人さんが言ってる。私、映えるって」
「だから仕事だって」
蘭奈の声が少し硬い。硬いのに、目が陽那と遼人の距離を見てしまっている。見てから逸らす。逸らしてから腕を組み直す。防御のループ。
遼人は、陽那の“確信犯”を理解した。
この子は面白がっている。二人の距離を。蘭奈の反応を。遼人の戸惑いを。けれど面白がり方が悪意じゃない。観察と遊びだ。むしろ、蘭奈が不器用に抱え込むのを、少しでも軽くしようとしているようにも見える。
「投稿は夕方。ひな、売り場の空き時間で撮る。背景は試着室前じゃなくて、奥の壁」
蘭奈が即断する。迷いがない。陽那は「はいはい店長」と返しながら、わざと遼人の肩に軽く額を寄せた。
「ね、遼人さん。店長、決めるの早いよね。かっこいい」
触れる。軽い。甘い。完全に見せつけだ。
遼人は固まらないように、呼吸を続けた。視線を泳がせないように、机のフォーマットを見るふりをした。けれど、蘭奈の空気が一段だけ冷たくなるのは分かった。怒りではない。焦りに近い。自分でも扱い方が分からない感情が出る時の空気だ。
蘭奈は陽那を睨む。
「ひな。ふざけんな」
「ふざけてないよ。だって、遼人さん、ちゃんと働いてくれてるし。褒めるの大事。ね?」
陽那が遼人に微笑む。近い。笑顔が柔らかいのに、目が小悪魔だ。遼人は、これは試されていると感じた。蘭奈の前で、自分がどう振る舞うか。陽那はそれを遊びにしている。
遼人は、陽那の肩に触れない。代わりに、距離を無理に離さず、言葉だけを整えた。
「僕は、裏の整備をするだけです。売り場を回しているのは店長と白河さんです」
その言葉に、陽那が少しだけ目を丸くした。想定よりも真面目に返された顔。
蘭奈は、さらに一瞬だけ目を丸くする。自分が褒められた形になったからだ。すぐに腕を組み直して隠す。
「……当たり前」
蘭奈は短く言う。短いのに、声の硬さが少しだけ抜けた。
陽那は、わざとらしく頬を膨らませた。
「えー、店長、そういうとこ。褒められたら素直に受け取れない病」
「病じゃない」
「病だよ。遼人さん、店長ってさ、ほんと乙女」
「言うな!」
蘭奈の声が少し大きくなる。バックヤードの空気がびりっとする。けれどそれは、衝突ではなく、照れが爆発した音に近い。
遼人は、その瞬間に確信した。
陽那の弄りは軽いが、方向は決まっている。蘭奈を“ひとりで抱え込ませない”方向。遼人に“遠慮しすぎて引かせない”方向。二人を同じ場に置き続けるための、確信犯。
陽那が去ると、バックヤードに二人だけが残った。蘭奈は腕を組んだまま、視線を机に落とす。怒っているふりをしているが、怒りきれていない。むしろ落ち着かない。
遼人はフォーマットの説明を続けた。余計な感情を混ぜない。仕事の話に戻す。それが、今の自分にできる“補佐”だ。
「確認欄は、必ず二人にしました。白河さんが締めて、店長が見るか、逆でもいい。どちらかが欠けたら回らない仕組みにすると、ズレが減ります」
「……ひな、嫌がらない?」
「嫌がると思います。でも、必要です」
「嫌がるのは、面倒だから?」
蘭奈の質問は鋭い。人の心理を見る目がある。
「面倒もあります。あと、今まで感覚でやれていたことが、手順に縛られるのが嫌、というのもあります。けど、手順は縛りじゃなくて“守り”です」
蘭奈は小さく舌打ちした。
「守りとか、言葉がむずい」
「分かりやすく言うなら、揉めないためです」
「それなら分かる」
即断即決。理解のポイントを見つけたら、すぐに採用する。遼人は内心で少し驚いた。蘭奈は数字が苦手でも、判断の軸を持っている。問題は、その軸が“現場”に偏っていて、“裏”がまだ弱いだけだ。
遼人はもう一枚、支払い一覧の叩き台も出した。家賃、光熱費、仕入れ先の締日と支払日を並べ、口座残高の最低ラインを仮で設定してある。
蘭奈がそれを見て、眉を寄せた。
「最低ライン、こんなに要る?」
「要ります。仕入れの波がある店は、最低ラインが高い方が安全です」
「安全ばっか言うな。うち、攻める店だし」
蘭奈が即座に返す。ここが彼女の本音だ。攻めたい。守りに入ったら母の店じゃなくなる気がする。その恐れがある。
遼人は頷いた。
「攻めるための安全です。攻める店こそ、足場が必要です」
蘭奈が目を細める。ムカつく顔だ。でも、否定しきれない顔でもある。
「……言い方、またムカつく」
「すみません」
「謝るな」
「すみませんは謝りじゃなくて、癖です」
遼人が淡々と言うと、蘭奈は一瞬だけ口元を押さえた。笑いそうになったのを隠す動き。遼人は見てしまって、視線を机へ逃がした。気づかないふりが一番いい。
その後、売り場の動きに合わせて、蘭奈は次々に決断を出した。
夕方の投稿内容。週末のフェアの打ち出し。新しく入ったスタッフのシフト調整。売れ筋の棚替え。返品対応の判断。どれも迷いがない。迷う時間があるなら先に決めて、走りながら修正する。経営としては粗いが、現場としては強い。勢いで回る店の中心に彼女がいる。
遼人は、その隣で“決断の後始末”をした。
決めたことが数字にどう反映されるかを考え、必要な記録を作り、無理が出そうな箇所をメモし、後で提案できる形に整える。主役にならない。口を挟みすぎない。けれど危ないところは見逃さない。そのバランスが、遼人にとっての補佐だった。
夕方、陽那の撮影が始まった。
奥の壁の前で、陽那が新作のトップスを着て立つ。ライトも何もないのに、彼女は自然に“映える”角度を作る。表情の作り方も、距離の詰め方も上手い。店長が「お前が映える」と言うのは、確かに合理的だった。
蘭奈はスマホを構え、撮影を進める。言葉が短い。
「もっと顎上げて。目線、カメラ。そこで止まれ」
陽那は素直に従う。従いながら、視線だけを遼人に投げた。遼人が視線を逸らさないでいると、陽那はさらに笑う。笑いながら、わざと遼人の近くに寄ってポーズを取る。
「遼人さん、ちょっとこっち来て」
遼人は一瞬戸惑った。客もいないバックヤードに近いスペースだが、蘭奈は撮っている。陽那の意図は明白だ。
遼人が動けずにいると、陽那は軽く遼人の袖を引いた。引き方が甘い。触れ方が軽い。けれど確実に距離を縮める。
蘭奈のシャッター音が一拍だけ止まった。止まって、すぐに再開する。再開の速さが、彼女の強がりだ。
「遼人さん、そこ立って」
陽那が指示する。指示というより誘導だ。遼人が立つと、陽那がその隣に身体を寄せる。肩が触れる。胸の柔らかさが薄い布越しに近い。遼人の身体が反射で固まりそうになる。
その瞬間、陽那が小声で囁いた。
「大丈夫。店長、見てるだけ。可愛いから」
可愛いから、という言葉が刺さる。誰が、誰を。遼人は混乱しそうになって、息を整える。息を整えながら、陽那の思惑を理解する。
陽那は、“店長が見ている”状況を作っている。蘭奈の中の何かを引き出そうとしている。
蘭奈は黙って撮る。黙って撮るが、指先が少し乱暴だ。タップの強さが増える。シャッター音の間隔が短くなる。焦りが速度に出る。
撮影が終わると、陽那は満足そうにスマホを覗き込んだ。
「ね、店長。今の、めっちゃ良い。遼人さんの“真面目な顔”が逆に映える」
「……客寄せかよ」
蘭奈が低く言う。声音が少しだけ硬い。
「客寄せじゃないよ。遼人さん、裏方見習いだから“店の人感”出るじゃん。リアル」
陽那は正論で押す。押しながら、遼人の腕にまた軽く触れる。今度は指先が滑るみたいに、肘のあたりをなぞる。甘い。わざとだ。
蘭奈の目が一瞬だけ細くなる。
「ひな。触りすぎ」
陽那がぱちっと瞬きして、それからにやっと笑った。
「え、店長、嫉妬?」
「違う」
即答。速すぎる否定。
「じゃあ何?」
「……距離感が変」
「距離感は元から変だよ、私」
陽那は笑い、遼人に向き直る。
「遼人さん、店長ってさ、決めるの早いでしょ。すごいよね。でも、こういう時だけ遅いの。面白いよね」
“こういう時”が何を指すのか、遼人は言葉で聞かなくても分かった。蘭奈の頬が、ほんの少しだけ赤くなる。赤くなったのに、腕を組んで持ち直す。
「遅くない」
「遅い。ほら、今だって。遼人さんに何か言いたい顔してるのに言わない」
「言いたいことなんてない」
蘭奈の言葉は短いが、目が落ち着かない。遼人はそこに“くっそ乙女”を見てしまう。強気で、決断が早いのに、感情の決断は遅い。遅いというより、怖くて踏み込めない。
遼人は、補佐に徹するべきだと思った。けれど、補佐に徹するとは、黙ることではない。必要な時に必要な言葉を入れることでもある。
遼人は、視線を蘭奈に向けた。
「撮影、ありがとうございました。……店長の指示、分かりやすかったです」
言った瞬間、陽那が目を丸くする。想定より真面目な方向で刺された顔。
蘭奈の目が一瞬だけ止まる。止まって、すぐに逸れる。逸れてから、腕を組み直す。
「仕事だから」
また出た。仕事。
陽那が嬉しそうに笑う。
「店長、仕事って言えば照れなくて済むと思ってる」
「済む」
「図太」
「図太くない」
蘭奈の言葉が少しだけ大きい。怒っているようで、照れの色が強い。遼人はその空気に飲まれないように、手元のメモを確認するふりをした。今は、ここで踏み込みすぎるのは危険だ。早すぎる。まだ序盤だ。ジレ甘は、焦らした方が効く。
閉店後、バックヤードで簡単なミーティングをした。
レジ締め表の回し方を、遼人が説明する。陽那が実際に手を動かし、他のスタッフも覗き込む。蘭奈は腕を組んだまま、聞いている。聞いているが、途中で口を挟む。意思決定が早い人の癖だ。疑問が出たらその場で潰す。
「これ、毎日?」
「毎日です」
「面倒じゃない?」
「面倒です。でも面倒をやらないと、後でもっと面倒になります」
「それは嫌」
「じゃあ、今やるのが最短です」
蘭奈は少しだけ口を尖らせた。子どもっぽい。けれど次の瞬間には頷く。
「分かった。やる」
決断が早い。遼人はその速さに助けられる。決まれば進む。進めば形になる。形になれば、蘭奈の怖さが少しずつ減る。
ミーティングが終わり、他のスタッフが帰っていくと、バックヤードに残ったのは遼人、蘭奈、陽那の三人だった。陽那はわざとらしく伸びをして、体のラインを強調するみたいに背中を反らせた。確信犯だ。
「はー、今日も疲れた。遼人さん、えらい。店長もえらい」
「一緒にするな」
蘭奈が即座に言う。
「一緒だよ。店回して、裏整えて、もう最強じゃん」
陽那が軽く言い、遼人の肩にぽんと手を置いた。ぽん、という軽い触れ方。でも、これも見せつけだ。蘭奈の視線が一瞬だけそれを追う。
遼人は、陽那の手を振り払わない。振り払えば余計に意識しているのがバレる。代わりに、言葉で距離を整えた。
「白河さんも、助かっています。現場の回し方は、僕にはできない」
陽那が目を細める。
「え、遼人さん、私のこと褒めた?」
「事実です」
「うれし。じゃあ、もっと褒めて」
「調子に乗らないでください」
遼人が淡々と言うと、陽那が笑う。蘭奈はそのやり取りを見て、少しだけ眉を寄せた。
「……仲良いな」
ぽろっと出た言葉だった。本人も出たことに驚いたのか、すぐに言い直す。
「いや、仕事だからだろ」
陽那が、にやっとする。
「店長、今の、かわい」
「うるさい」
蘭奈は腕を組み、背中を少しだけ反らした。強気の姿勢。でも、頬が少し熱い。遼人はそれを見てしまって、目線を落とした。見たら、妙に胸がざわつく。これは危険なざわつきだ。
陽那は、最後に追い打ちをかけるみたいに言った。
「店長さ、決断早いのに、遼人さんのことだけ決断遅いの、ずるいよ」
蘭奈の目が鋭くなる。
「何言ってんの」
「言葉通り。遼人さん拾ったの、店長じゃん。拾ったなら責任持って最後まで面倒見なよ」
責任、という単語に蘭奈が反射する。責任感が強いからこそ刺さる。
「……面倒見てる」
小さく言った。遼人の耳にだけ届くくらいの声。
陽那が満足そうに笑う。
「うん。それでいい」
そして、さらっと帰り支度を始める。残った空気を二人に渡してから去る。確信犯なのに、引き際が上手い。バイトリーダーの手腕だ。
陽那が店を出ていくと、バックヤードが急に静かになった。音楽も止まっている。段ボールの匂いと、今日一日の汗と、布の匂いだけが残る。
蘭奈は腕を組んだまま、少しだけ視線を泳がせた。決断が早い人が、決断をしない時間。遼人は、その時間を無理に埋めない方がいいと直感した。埋めたら、蘭奈はまた鎧に戻る。
けれど、蘭奈の方から短く言った。
「……今日、ありがと」
遼人は驚いて顔を上げた。
「仕事だろ、と言うと思ってました」
蘭奈が眉を吊り上げる。
「言わない日もある」
言い方は強いが、耳が少しだけ赤い。遼人は小さく頷いた。
「こちらこそ。僕も、ここにいると……呼吸ができます」
蘭奈が一瞬だけ固まる。次に、視線を逸らしながら言った。
「……倒れるなよ」
それは命令じゃなく、祈りに近い。
遼人は、胸の奥で何かが柔らかくなるのを感じた。強気な店長は決断が早い。その速さで店を守っている。けれど本当に守りたいものに触れると、途端に遅くなる。怖くなる。乙女になる。
遼人は補佐に徹する。数字で足場を作る。言葉で空気を整える。踏み込みすぎず、逃げすぎず、ここに立つ。
そして陽那は、それを面白がりながら、確信犯で二人の距離を揺らしていく。軽い甘さと、わざとらしいボディタッチで、蘭奈の感情を表に引っ張り出す。
まだ衝突はしない。
けれど、もう線は動き始めている。
“拾われた側”だったはずの遼人が、いつの間にか、店と店長の足場になり始めている。その事実が、甘い匂いよりも強く、遼人の胸に残った。




