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『ブラック企業で死にかけた経理係長、ギャル服店に拾われる』 ─拾ったのは、強気なギャル店長  作者: 月白ふゆ


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第4話 数字が語る違和感

病院は、白くて静かだった。


遼人は受付で保険証を出し、問診票に「めまい」「失神」「動悸」「睡眠不足」と書いた。書きながら、手が少しだけ震えるのを誤魔化すように字を丁寧に整えた。待合室の椅子に座ると、周囲の人の咳や新聞をめくる音が、妙に現実的に耳に入る。会社の蛍光灯みたいに攻撃的な白じゃないのに、白さそのものが落ち着かない。


呼ばれて診察室に入ると、医師は淡々と質問をした。いつから眠れていないか。食事はどうか。仕事の時間は。倒れる直前は何をしていたか。遼人は必要な情報だけを答えた。余計な感情を入れないように、数字を報告する時と同じ調子で。


血圧は低めで、脈は速い。採血と心電図を取り、点滴を一本。医師は「いわゆる過労による自律神経の乱れでしょう」と言い、念のために数日後の再診と、無理をしないことを繰り返した。睡眠導入の軽い薬も出た。


無理をしないでくださいね、と医師が言った瞬間、遼人は頷いた。頷けてしまう自分が少し怖い。会社では、同じ言葉を何度も聞いた。上司からではなく、同僚や派遣さんから。けれど「無理をしないで」は、あの場所では手続きにすぎない。言った側が罪悪感を減らすための言葉で、言われた側を救う言葉ではなかった。


ここでは違うはずなのに、身体はまだ信じられないらしい。


点滴が終わる頃には、頭の痛みが少しだけ軽くなった。足元のふらつきも、朝よりはましだ。遼人は会計を済ませ、薬局で薬を受け取って外へ出た。冬の空気が刺さる。けれど、胸の奥がほんの少しだけ静かになっている。


スマホを見ると、着信はさらに増えていた。メールの件数も増えている。会社の番号だけでなく、知らない番号も増えている。胸の奥が一瞬で固くなるが、遼人は画面を伏せた。


出ない。


今日の課題は、これだ。


遼人はEdge Girlsへ向かった。午後の光の中で見る店は、朝よりもさらに派手に見えた。けれど、その派手さが不思議と嫌じゃない。色が強いのに、こちらを追い詰めてこない。自分が勝手に怯えているだけだ。


扉を開けると、低音の音楽と「いらっしゃいませー」が迎えた。


レジにいたのは陽那で、遼人を見るなり目を細めた。


「おかえり。生還報告は?」


遼人は思わず口角が動きそうになって、ぎこちなく頷いた。


「病院、行ってきました。点滴と検査で……過労だそうです」


「ほらね。過労って言われると、なんかムカつくよね。努力の証みたいに扱われるやつ」


陽那は軽く言うが、その目は笑っていない。遼人は、彼女の小悪魔っぽさの裏にある“本気”を感じてしまう。弄るのは趣味でも、放置はしない。そういう目だ。


「店長いる?」


陽那が顎でバックヤードを示した。


「いるよ。奥。あ、遼人さん。今日、倒れそうならすぐ言って。店長に怒られるの私だから」


「怒られるの、白河さんなんですか」


「うん。店長、変な責任感あるから」


陽那はさらっと言い、すぐに客の方へ向き直って声色を変えた。切り替えが早い。現場の呼吸を止めない人の動きだ。


遼人はバックヤードへ入った。段ボールの匂いと布の匂いが、また肺に入る。蘭奈は棚の前で腕を組み、伝票の束を睨んでいた。睨んでいるというより、眺めている。眺めているのに、答えが出ない顔。


遼人の足音に気づくと、蘭奈は顔を上げた。一瞬だけ目が丸くなる。昨日と同じ反応。すぐに強い顔に戻る。


「病院、どうだった」


遼人は薬局の袋を持ち上げた。


「点滴と検査して、過労だそうです。しばらくは睡眠と食事を優先して、と。再診もあります」


蘭奈は小さく頷いた。それだけなのに、遼人は胸の奥が少しだけ温かくなる。気にしている。気にしていることを、ちゃんと確認してくれる。会社では、体調を確認する言葉は出ても、確認の“続き”がなかった。言って終わり。見て見ぬふり。遼人が倒れても、仕事は止まらない。


「じゃあ、無理すんな」


「はい」


「……はい、って素直だな」


蘭奈の言い方が少しだけ柔らかい。自分で柔らかくしたことに気づいたのか、すぐに咳払いみたいな息を吐いて、棚の方へ戻る。


「で、見るんだろ。数字」


遼人は頷いた。


「できる範囲で。今日は全体像だけでも掴みたいです」


蘭奈が段ボール箱を足で引き寄せた。昨日のレシート箱だ。


「じゃあ、これ。母ちゃんの時代のも混ざってる。捨て方も分かんないし、ひなが取っとけって言うから」


言い方は雑なのに、その雑さの裏に「捨てるのが怖い」が見える。遼人はそれを指摘しない。


遼人は机を借り、ノートを広げた。まずは、分類だ。感情を入れず、作業に落とす。そうすると頭が動く。自分の中の機械が少しずつ回り始める。


支出、仕入れ、家賃、光熱費、広告、雑費。現金、口座、カード。締日、支払日。入金のタイミング。売上の形――現金、キャッシュレス、ネット。


レシートの束を一枚ずつ見ていくと、すぐに違和感が出た。


仕入れの比率が高い。売上に対して、仕入れが妙に膨らんでいる月がある。季節物の入れ替えとしても、波が大きすぎる。しかも、その月は売上も伸びていない。仕入れたのに売れていない。だとすると在庫が残っているはずだが、棚の回転を見る限り、在庫が倉庫に山積みになっている感じでもない。


「……捨ててる?」


遼人が呟くと、蘭奈が即座に反応した。


「捨ててない」


「じゃあ、どこに」


蘭奈は眉を寄せた。


「……分かんない。売れたんじゃないの」


遼人はノートの数字を指で叩いた。売上の合計欄。そこに書かれた数字と、レシートの合計が合っていない。ズレは小さい月もあるが、ある月は大きい。しかも、ズレ方が一定ではない。


現金の扱いが曖昧だ。


遼人は口座の入出金明細も見た。月末に現金がまとめて入金されている日がある。日付はバラバラ。金額もバラバラ。売上入金としては説明できるが、ならなぜ毎日ではなく、まとめてなのか。現金を店に溜めている期間がある。防犯の観点でも危ないし、資金繰りとしても透明性がない。


遼人は、背中に冷たいものが走った。


「……危ない」


思わず声に出た。


蘭奈が腕を組み直す。防御の姿勢だ。


「なにが」


遼人は言葉を選んだ。相手は十九歳だ。しかも一年前に、母親を突然失っている。店を回すだけでも限界だったはずだ。そこへ「危ない」と言うのは、責めることになりかねない。


でも、数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも人だ。数字が語る違和感を無視するのは、遼人にとっては“やってはいけない仕事”だった。


「現金の管理が曖昧です。売上の合計と、実際の入金が合ってない月がある。仕入れの波も大きい。……これ、どこかで漏れてる可能性があります」


蘭奈の目が鋭くなる。


「漏れてるって、盗まれてるってこと?」


「可能性、です。断定はできません。けど、仕組みが弱いと、意図がなくてもズレます。ズレが続くと、いつか資金が足りなくなる」


「今まで足りてた」


蘭奈は即答した。即答の速さが、逆に“怖さ”を隠している。


「今まで大丈夫だった。回ってた。家賃も払えてた。仕入れもできてた」


遼人は頷いた。否定しない。回っていたのは事実だ。現場は回っている。客も来る。スタッフも動く。だからこそ怖い。回っているように見えるから、問題が隠れる。


「回っていたのは、蘭奈さんが無理して回したからです」


遼人は、あえて名前の後に“さん”をつけた。距離を置くことで、責めていないと示す。


「でも、今後も回る保証はありません。資金繰りが目に見えていない状態で、仕入れの判断を感覚だけでやると、どこかで詰まります」


蘭奈が鼻で笑った。


「感覚だけじゃない。売れ筋は分かる」


「売れ筋が分かるのと、資金が足りるのは別です」


遼人の言葉が少しだけ硬くなる。自分でも分かる。硬くなるのは、仕事の癖だ。危ないものを危ないと言う癖。だが、ここは会社じゃない。相手は上司じゃない。遼人は一度息を吐いて、少しだけ柔らかい言い方に戻した。


「売れ筋を当てるのは、蘭奈さんの強みです。現場は回ってる。そこは本当にすごい。……でも、数字が弱いままだと、強みが活かせなくなります」


蘭奈の口が、ほんの少しだけ開いた。褒められ慣れていない反応だ。すぐに閉じて、また強い顔に戻る。


「じゃあ、どうすればいいの」


その問いが出た瞬間、遼人は少しだけ安心した。突っぱねたいなら「うるさい」で終わる。そうしないということは、蘭奈も薄々分かっている。怖いのだ。自分の手の中で店が死ぬのが。


遼人はノートのページをめくり、簡単な図を書いた。売上→入金→支出→残高。流れ。見える化。現金と口座を分ける。レジ締めのルール。入金の頻度。支払いの締日と支払日を一覧にする。固定費の把握。仕入れは“枠”で決める。


「まず、現金の扱いを固定します。レジ締めの時に現金残高を記録して、翌日、一定以上なら必ず入金。入金の記録と、売上の記録をリンクさせる。それだけでズレは減ります」


蘭奈は腕を組んだまま、図を見ている。理解しているのか、していないのか分からない顔だ。けれど、目は逸らさない。


「次に、支払いの締日を一覧にします。家賃、光熱費、仕入れ先。支払い予定を先に見える化して、売上が落ちても耐えられるラインを決める。仕入れは、そのラインを超えない範囲でやる」


「仕入れを制限したら、売れなくなる」


蘭奈がすぐに返す。ここは店長の領域だ。譲れない。


遼人は頷いた。


「だから、制限じゃなくて“枠”です。枠の中なら自由。枠を超えるなら、理由と見込みを残す。母親のやり方が感覚なら、蘭奈さんは感覚を“記録”に変える。真似じゃなく、自分のやり方にできる」


蘭奈の目が一瞬だけ揺れた。


母の真似。自分のやり方。そこに触れられると、痛いのだろう。遼人はそれ以上踏み込まず、話を戻す。


「あと、仕入れの波が大きい月があります。これ、何か理由ありますか」


蘭奈は目線を上に向けた。記憶を掘る癖だ。


「……母ちゃんの命日」


遼人は、言葉を止めた。


蘭奈は続ける。言い方は雑なのに、内容は生々しい。


「一年前のその月、店を引き継いだ。母ちゃんがいないのに、店があるのがムカついて。なんか、全部変えたくて。強い店にしたくて。……いっぱい仕入れた」


遼人はノートに書かれた数字を見た。仕入れが膨らんで、売上が追いついていない。気持ちだけが先に走った月。数字はそのまま残る。


蘭奈は自嘲気味に言った。


「で、売れなかった。売れなくて、焦って、また仕入れた。……バカだよね」


「バカじゃないです」


遼人は即答した。自分でも驚くほど速かった。


蘭奈が睨む。


「慰めいらない」


「慰めじゃないです。気持ちが先に動くのは普通です。……ただ、数字は後からでも追えます。今から整えればいい」


蘭奈は言い返さない。言い返さない代わりに、机の端を指で叩いた。落ち着かない癖。責任が浮き上がってくると、身体が動く。


そこへ、バックヤードの扉がノックされ、陽那が顔を出した。


「店長、今大丈夫? ちょっとだけ」


蘭奈が眉を吊り上げる。


「なに」


「客、ちょい増えた。あと、あの子がレジで詰まってる」


陽那の声は軽いが、内容は的確だ。彼女は現場を止めないために、必要な情報だけを持ち込む。


蘭奈が立ち上がる。椅子が小さく鳴る。


「分かった。行く」


出ていく前に、蘭奈は遼人に目だけで言う。待ってろ、と。


遼人は頷いた。


陽那も出ていこうとして、ふと遼人を見た。目が笑っている。


「ね、遼人さん。店長、今ちょっとだけ不機嫌でしょ」


「……そう見えます」


「うん。でもあれ、怒ってるんじゃなくて、怖いだけ」


陽那はさらっと言った。さらっと言うのに、核心に触れる。


「怖い?」


「うん。数字ってさ、逃げないじゃん。現場は勢いで誤魔化せるけど、数字は誤魔化すと死ぬ。だから店長、数字が苦手っていうより、数字に“怒られる”のが怖いの」


陽那はそこまで言って、軽く肩をすくめた。


「ま、でも遼人さんがいるなら、だいぶマシ。店長、頼るの下手だから、ちょっと強めに引っ張ってあげて」


「……僕が?」


「うん。係長って、引っ張るの得意でしょ」


陽那は言い切って、売り場へ戻った。距離感がバグっているのに、ちゃんと人を見ている。小悪魔なのに、責任感がある。そのギャップが、遼人の中に引っかかる。


遼人は机に戻り、残りのレシートを分類し続けた。作業を進めれば進めるほど、違和感が増える。


広告費が毎月一定ではない。しかも、店の宣伝というより、個人名義っぽい支払いが混ざっている。誰かのサブスク。誰かの買い物。雑費に紛れているが、明細が曖昧だ。悪意があるとは限らない。けれど、ルールがないと、こういうものは増える。


もう一つ、仕入れ先が増えすぎている。母親の時代は数社に絞っていた形跡があるのに、今は細かい仕入れが散っている。送料と手数料が積み上がって、利益を削っている。現場は商品が増えて楽しいかもしれないが、数字は確実に苦しくなる。


遼人は、背筋を伸ばして深呼吸した。


ここで口を出すべきか。出し方を間違えたら、蘭奈は防御に入る。防御に入ったら、聞いてもらえない。聞いてもらえないと、整えようがない。整えられないなら、遼人がここにいる意味が薄れる。


役に立たなきゃ。


焦りが胸の奥で動く。会社で刷り込まれた焦り。けれど、今はその焦りを“手順”に変える必要がある。感情をぶつけない。事実を積む。提案を出す。相手の領域を尊重する。


しばらくして蘭奈が戻ってきた。売り場の匂いと、少しだけ汗の匂いを連れて。腕を組む癖はそのまま。けれど、目が少しだけ忙しい。現場の余韻が残っている。


「どう」


遼人は、まとめたメモを差し出した。A4の紙に箇条書き。会社の癖で、要点だけを抜く。


「気になった点を整理しました。大きく三つです。現金管理、仕入れの波、支払いのルール。あと、細かいところで広告費と雑費が曖昧です」


蘭奈は紙を受け取り、目を走らせた。読む速度が速い。頭は回るタイプだ。数字が苦手なのではなく、数字の“管理”が苦手なだけなのかもしれない。


読み終わると、蘭奈は紙を机に置き、短く言った。


「今まで大丈夫だった」


やっぱり、そこへ戻る。


遼人は頷いた。否定しない。


「大丈夫だった、は事実です。でも、それは蘭奈さんと白河さんが現場で無理して支えたからです。仕組みとして大丈夫だったわけじゃない」


蘭奈の目が細くなる。


「仕組みが弱いって、責めてる?」


遼人は、即座に首を横に振った。


「責めてません。責めたら意味がないです。……現場は強い。だから、裏を固めればもっと強くなる」


蘭奈は腕を組み直した。防御の姿勢。でも、完全に閉じていない。言葉が出てくる分、まだ対話だ。


「裏を固めるって、具体的に?」


遼人は少しだけ安心して、手順を出した。


「まず、今月からでもいいので、レジ締め表を作ります。現金残高、キャッシュレス売上、日別売上、入金予定。毎日、同じ手順で記録する。次に、支払い一覧。家賃と光熱費は固定なので簡単です。仕入れ先は、優先順位をつけて絞る。送料と手数料を減らす」


蘭奈が眉を吊り上げた。


「仕入れ先を絞るのは無理。うちは攻める店。固定したら死ぬ」


攻める店。そこは譲れない。遼人は理解する。彼女が引き継いだのは“ギャルの店”だ。勢いが命だ。保守に寄せたら、母の店ではなくなる気がするのだろう。


「攻めるのはそのままでいいです」


遼人は言った。


「ただ、攻めるなら、どこで攻めて、どこで守るかを決めないと、攻めが続かない。……店長が攻めてるのに、裏が守らないと、攻めが止まります」


蘭奈が一瞬だけ黙った。目が動く。考えている。


「……言い方、ムカつく」


出てきた言葉は、それだった。ムカつく。子どもっぽいのに、正直だ。


遼人は謝らなかった。謝ったら、言葉の芯が折れる。代わりに、少しだけ柔らかく言い直した。


「すみません。言い方は、直します。でも、内容は同じです」


蘭奈は鼻で笑った。


「直さなくていい。……でも、勝手に決めないで」


遼人は頷く。


「はい。決めるのは店長です。僕は、数字の見える化と、危ないポイントの指摘をします。最終判断は蘭奈さん」


蘭奈は、その言葉を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。防御が緩む瞬間が分かる。彼女は、支配されるのが嫌なのではない。母の店を、自分の手から奪われるのが怖いのだ。


「……じゃあさ」


蘭奈が言う。指で机を叩く癖がまた出る。


「危ないって言ったやつ。盗まれてるとか。そういうの、ほんとにあるの?」


遼人は言葉を慎重に選んだ。


「断定はできません。けど、ルールがないと、意図がなくてもズレます。ズレが続くと、結果として誰かが得して、誰かが損します。……それが一番怖い」


蘭奈の目が鋭くなる。怖いの意味を理解している目だ。


「じゃあ、どうする」


「まず、ルールを作ります。誰が何を触っていいか。現金は誰が管理するか。レジ締めは誰が確認するか。確認は二重にする。白河さんが今まとめてくれてるなら、白河さんを中心に、でも店長も最低限は見えるように」


蘭奈が眉を寄せた。


「ひなに負担かけたくない」


その言葉が出た瞬間、遼人は少しだけ胸が温かくなる。蘭奈は強気で雑なのに、根っこが優しい。だから余計に、抱え込む。


「負担を減らすためにも、仕組みを作るんです」


遼人は静かに言った。


「今はひとりの頑張りで回ってる。でも、頑張りは続かない。続かなかった時に、店が崩れる。店が崩れたら、一番傷つくのは……」


遼人はそこで言葉を止めた。誰が傷つくかは言わなくても分かる。蘭奈だ。母の店を守ろうとして、守れなかった自分を責める蘭奈だ。


蘭奈は一瞬だけ唇を噛んだ。噛んで、すぐに強い顔に戻る。強い顔に戻るのに、声が少しだけ小さくなる。


「……分かった。やる」


遼人は驚いて顔を上げた。


蘭奈は目を逸らしたまま続ける。


「でも、いきなり全部は無理。脳みそ拒否する。だから、段階的に」


脳みそ拒否する。遼人は心の中で、小さく笑った。言い方が若い。十九歳だ。


「段階的でいいです。まず一週間、レジ締め表だけ。次に支払い一覧。仕入れ枠は、その後に一緒に決めましょう」


蘭奈が頷いた。頷いた後に、ふっと顔をしかめる。


「……でも」


でも、が来た。ここが本題だ。


「店のこと、あんまり“危ない”って言いすぎないで。……母ちゃんの店、危ないって言われるの、嫌」


その言葉が、遼人の胸に落ちた。


蘭奈の強気は、鎧だ。鎧の下にあるのは、母の店を守りたい子どもの気持ちだ。乙女というより、まだ“娘”だ。遼人はそこに触れたくて、触れたら壊れる気がして、触れ方が分からない。


「分かりました」


遼人は短く言った。


「言い方、考えます。……危ない、じゃなくて、整える、にします」


蘭奈が、少しだけ目を丸くした。たぶん、そんな返答を想定していなかった。


「……整える」


蘭奈はその言葉を小さく繰り返し、少しだけ口角を動かした。笑いではない。ほっとした時の緩み。


そこへ、バックヤードの扉がまた開いて、陽那が入ってきた。


「やば。空気、真面目じゃん」


陽那はにこにこ言いながらも、机の上のメモとレシートの山を見て、状況を瞬時に把握する。


「え、遼人さん、もう見抜いた? さすが係長……じゃない、遼人さん」


わざとらしく言い直す。確信犯の弄りだ。蘭奈が睨む。


「ひな、うるさい」


「え、店長、今ちょっと顔やわい。なに、褒められた?」


「褒められてない」


「褒められてたよ。現場強いって言われてた」


陽那はさらっと暴露する。蘭奈が「言ってない」と言いかけて、口を閉じた。言っていたのだ。遼人はその反応で確信する。蘭奈は褒められると弱い。照れで攻撃的になる。


陽那は机の上のメモを覗き込み、指で一箇所を指した。


「現金管理のとこ、これ、やっといた方がいい。今、現金入れるタイミング、私の感覚だから。ほんとは怖い」


「怖いって言うな」


蘭奈が即座に言う。


「怖いよ。だって、母さんがいた時は“母さんが全部把握してた”から、私が怖がる必要なかった。今は、私が怖がる番」


陽那は笑わない。言葉が静かだ。ずっと残った人の言葉。


蘭奈が顔を背ける。背けながらも、返さない。返せない。


遼人は、その沈黙の間に、現場の強さと裏の脆さが一本の線で繋がっているのを見た。蘭奈が一年前から真似と記憶で回してきたという事実が、急に“努力”としてではなく“危うさ”として胸に刺さる。


「……蘭奈さん」


遼人が呼ぶと、蘭奈は「なに」と短く返した。


「今まで大丈夫だったのは、運が良かったのもあります」


蘭奈の目が鋭くなる。言い方を間違えたか、と遼人は瞬時に思う。けれど、遼人は言葉を続けた。続け方を、ちゃんと選ぶ。


「運が良かったっていうのは、蘭奈さんが“運を拾う動き”をしてきたって意味です。現場を止めなかった。客を離さなかった。スタッフを回した。……それがあるから、今、整える価値がある」


蘭奈の目が、ほんの少しだけ揺れた。揺れて、すぐに腕を組み直す。


「……変な言い方」


「僕もそう思います」


遼人が正直に言うと、陽那が吹き出した。吹き出し方が小悪魔のそれだ。真面目な空気に針を刺して、適度に抜く。


「ねえ店長、遼人さん、意外と返すよ」


「返すな」


「返したくなるんだよ。店長、圧あるから」


「圧じゃない」


「圧だよ」


陽那は笑いながら、扉の方へ戻る。戻り際に、振り返って遼人に言った。


「遼人さん、今日はここまででいい。病院行った日だし。店長、止めないと普通にやらせるでしょ」


蘭奈が眉を吊り上げる。


「止めない。本人が決める」


陽那が目を細めた。


「ほら、そういうとこ。責任感、変」


「変じゃない」


「変だよ。でも、嫌いじゃない」


陽那はそう言って、売り場へ消えた。


残されたバックヤードの空気は、少しだけ柔らかくなった。衝突未満の棘が、陽那の軽さで丸くなる。


遼人は時計を見た。思ったより時間が過ぎている。体も少し重くなってきた。点滴の効果が切れ始めたのかもしれない。無理をすれば続けられる。でも、それをやったら意味がない。自分は今、別の生き方を練習している。


「……今日は、ここまでにします」


遼人が言うと、蘭奈は即座に返さなかった。返さないことが珍しい。けれど、彼女はすぐに頷いた。


「うん。帰れ」


「帰れ、って……」


「帰れ。寝ろ。水飲め。食え」


昨日と同じ命令。命令なのに、遼人は少しだけ笑いそうになった。笑えないけれど、胸が柔らかくなる。


「……明日、レジ締め表のフォーマット作ってきます」


「来るの?」


蘭奈の目が一瞬だけ丸くなる。さっきまでの強気が、ほんの一瞬だけ消える。すぐに腕を組んで取り繕う。


「別に、来なくてもいいけど」


「来ます。……できる範囲で」


遼人がそう言うと、蘭奈は顔を背けた。耳が少しだけ赤い気がした。照れなのか、疲れなのか、遼人にはまだ判断がつかない。


「……勝手にしろ」


蘭奈はそう言って、机の端のレシート箱を遼人から遠ざけるみたいに押した。触らなくていい、と言っているようで、触れられるのが怖いだけにも見える。


遼人はエプロンを外し、紐を結び直して畳んだ。陽那が朝みたいに結んでくれた結び目が、まだ綺麗に残っていた。妙なところで胸が詰まる。誰かが自分のために手を動かすという行為に、まだ慣れていない。


バックヤードを出ると、売り場の音楽が少しだけ遠く感じる。客の笑い声が飛ぶ。スタッフの声が飛ぶ。蘭奈が前に出て、店を回している気配がある。陽那が試着室を回している気配もある。新しいスタッフたちが、まだぎこちないけれど必死に動いている気配も。


遼人は、店の扉の前で一度だけ振り返った。


蘭奈が客の前で短く指示を出している。強い。強いのに、さっきの「母の店、危ないって言われるの嫌」という言葉が、遼人の胸に残っている。その言葉があるから、遼人は気づいてしまった。


この店は、数字より先に、人が支えている。


だからこそ、数字を整える価値がある。


遼人が外へ出ると、冬の空気が頬を冷やした。スマホがポケットの中で震える。会社かもしれない。どうでもいい。遼人は息を吸い、吐いて、歩き出した。


衝突はしていない。けれど、線は引かれた。


“今まで大丈夫だった”という過去と、“このままじゃ危ない”という未来。


その間に、遼人が立つ場所ができてしまった。


役に立たなきゃ、という焦りが、また胸の奥で動く。けれど今度は、焦りが自分を殺す方向ではなく、誰かの明日を守る方向へ向いている。


それが救いなのか、罠なのかは、まだ分からない。


ただひとつだけ確かなのは、蘭奈が一年前から必死に握りしめてきたものが、数字によって初めて形になるかもしれない、ということだった。

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