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『ブラック企業で死にかけた経理係長、ギャル服店に拾われる』 ─拾ったのは、強気なギャル店長  作者: 月白ふゆ


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第3話 経理係長、売り場に立つ

朝、目が覚めた瞬間に、体が「会社へ行け」と命令してきた。


目覚ましをかけた記憶はないのに、脳の奥が決まった時刻に反射している。鳴海遼人は天井を見つめたまま、息をひとつ吐いた。胸の奥がざわつく。スマホが鳴る気がして落ち着かない。画面を伏せて置いたはずなのに、通知の振動だけが幻みたいに指先に残っている。


昨夜、鷹宮蘭奈に言われた言葉が、妙に鮮明だった。


出なくていい。寝ろ。水飲め。食べろ。病院。


そして最後に――手伝えば。


遼人は、起き上がるのに少し時間がかかった。体が重い。けれど昨日みたいに視界が暗くなる感じはない。頭痛は残っている。胃もまだ弱い。だが「もう一歩も動けない」ではない。そういう状態だと、自分は思っているよりずっと冷静に、選択肢を数え始める。


スマホを手に取った。


通知は、想像通りに並んでいた。社内チャットの赤いバッジ。メール。着信履歴。川添の名前が、二回。三回。


指が勝手に画面をスワイプしそうになって、遼人は止めた。止めた指に、妙な汗が滲む。


出なくていい。


その一言を、言葉としてじゃなく、手順として頭の中に落とす。出ない。開かない。今は、反射を断ち切る訓練だ。遼人はスマホをまた伏せて置き、洗面所へ行って顔を洗った。


冷たい水が頬を叩く。鏡に映る顔は、昨日より少しマシに見える。少し、だ。目の下の影は消えていない。頬もまだ痩せている。けれど、死にかけの顔ではなくなっている。


水を飲み、何かを口に入れようとして冷蔵庫を開けると、空気が冷たいだけだった。コンビニのサラダがひとつ残っていた。昨夜は食べられなかった。今日は、食べた。


噛むと、口の中がうまく動かない。咀嚼するという行為が、どこか遠い。味も薄い。けれど胃に落ちていく感じがあるだけで、少しだけ安心する。生きるための最低限の操作が、まだできる。


遼人はテーブルに座り、両手でマグカップを包むようにして、しばらく動かなかった。


行く場所。


蘭奈に言われた「うち、手伝えば」という提案は、厚意なのか、打算なのか、どちらでもいいのかもしれない。昨夜の彼女の言葉には、確かに現実があった。数字が弱い。利益の行方が分からない。店は回っているけれど、いつか死ぬ。


「死ぬ」という言葉を、彼女は飾りとして使わなかった。あれは、本当にそうなる未来を知っている人の言い方だった。


遼人は、もう一度スマホを見た。川添からの着信履歴の上に、知らない番号がひとつあった。人事かもしれない。営業かもしれない。どれでもいい。今は取らない。取らないと決めることが、遼人にとってはもうひとつの仕事だった。


息を整えて、ジャケットではなく、薄いコートを羽織った。財布と鍵を持ち、玄関を出る。


外の空気は冷たい。けれど、冬の冷たさは会社の蛍光灯の冷たさとは違う。刺さるのに、嫌じゃない。


遼人は電車に乗り、昨日倒れた場所へ向かった。理由は単純だった。断るにしても、答えるにしても、一度顔を出さなければ自分が落ち着かない。逃げる癖を、別の形に変えたかった。


Edge Girlsの看板は、昼でも派手だった。


夜に見た時よりも、むしろ鮮やかに感じる。ガラス越しに見える店内は明るく、低音の効いた音楽が外まで漏れていた。マネキンが着ている服は、相変わらず遼人の世界とは違う。布の量より主張が勝っている。けれど、嫌悪じゃない。ただ、慣れていないだけだ。


扉を開けた瞬間、香りが来る。柔軟剤、化粧品、布、そして少しの香水。人がいる店の匂い。


「いらっしゃいませー」


声が飛んできて、遼人は反射的に背筋を伸ばした。会社の「お疲れ様です」と同じく、挨拶は条件反射になっている。違うのは、ここでは挨拶が攻撃じゃないことだ。


「……あ」


レジの奥から顔を出したのは、白河陽那だった。今日は髪がふわっと巻かれていて、昨日よりもさらに“ゆるふわ”に見える。淡色のニットに、短い丈のスカート。胸元のシルエットが自然に目に入ってしまい、遼人は慌てて視線を逸らした。


その逸らし方まで見抜いたみたいに、陽那は口角を上げた。


「係長じゃーん。生きてる?」


「……生きてます」


「よかったぁ。昨日、店長ちょっと焦ってたよ」


「焦ってない」


声が後ろから飛んだ。遼人が振り向くと、鷹宮蘭奈がバックヤードから出てくるところだった。今日も攻めている。黒のタイトなトップスに、ラインの綺麗なボトム。昨日よりもさらに“店長”の姿勢だ。腕を組む癖も健在だった。


「来ると思った」


蘭奈はそれだけ言って、遼人を上から下まで一度だけ見た。体調の確認だろう。視線が仕事っぽいのに、妙に鋭い。


「……昨日は、すみませんでした」


遼人が言うと、陽那がすぐ横から小声で突っ込んだ。


「謝るの早いって、店長と同じこと言うやつじゃん」


蘭奈が陽那を睨む。


「ひな、余計なこと言わない」


「余計じゃないよ。店長、昨日言ってたじゃん。謝るなって」


「言ってない」


「言ってた」


遼人は二人のやり取りを聞きながら、呼吸が少しだけ楽になるのを感じた。ここでは会話が“詰め”じゃない。責めるための言葉じゃない。


蘭奈が顎でバックヤードを示した。


「奥、来て」


言い方は命令みたいなのに、遼人は嫌じゃなかった。むしろ、指示がある方が助かる。今の遼人は、自分で判断する余力がまだ少ない。


バックヤードに入ると、昨日と同じ匂いがした。服の匂い。段ボールの匂い。紙の匂い。そこで蘭奈が、短く言う。


「体調は?」


「……頭痛はあります。でも昨日みたいな感じじゃないです」


「病院は?」


遼人は一瞬詰まった。行くべきだと分かっている。けれど、病院に行くという段取りを自分に許すのが、まだ難しい。


「……今日は、行こうと思います」


蘭奈はそれを聞いて、少しだけ眉間の力を抜いた。


「うん。行け」


それから、思い出したように言う。


「店、見てみる?」


「……え」


「昨日言った。手伝えるなら、って。無理にとは言わない。でも、見て判断すればいい」


蘭奈の言葉は相変わらず直線的だ。だが、その直線の下に「来てくれて嬉しい」が隠れている気がして、遼人は自分の考えすぎだと打ち消した。


「見ていいなら……」


遼人が言うと、蘭奈は頷き、バックヤードの棚からエプロンを一枚取り出して投げてきた。黒い布に、店名が刺繍されている。


「これつけて。客前で倒れたら、二度と許さない」


「許さないって……」


「許さない」


蘭奈は言い切った。遼人はエプロンを受け取り、ぎこちなく腰に巻いた。結び目がうまく作れずにいると、陽那が横から手を出してきた。


「貸して」


距離が近い。遼人が身を引く間もなく、陽那がひょいっと紐を掴み、きゅっと結ぶ。指先の動きが柔らかい。けれど、手際は良い。慣れている。


「はい、できた。係長、こういうの苦手でしょ」


「……苦手です」


素直に言うと、陽那が満足そうに笑った。


「素直。いいね」


蘭奈が咳払いみたいに短く息を吐いた。


「ひな、接客戻れ」


「はーい。係長も、いらっしゃいませ、ちゃんと言ってよ」


陽那はそう言って売り場へ出ていった。出ていく背中が軽いのに、店の空気を変えていくのが分かる。あの子は、現場の“呼吸”だ。


蘭奈が遼人に言う。


「まず、売り場。慣れろ」


遼人は頷き、売り場へ出た。


一歩出た瞬間、目が忙しくなる。色、柄、布、光。ハンガーラックが並び、壁面には小物、棚には靴、レジ横にはアクセサリー。客の動きが速い。鏡の前で服を当て、友達と笑い、スマホで写真を撮る。声が明るい。音楽がそれを煽る。


遼人は、自分が完全に場違いだと理解した。


スーツではない。エプロンをしている。それでも、身体の線の“馴染み”が違う。客層の空気と自分の空気が、別物だ。遼人が立っているだけで、周囲の色が一瞬だけ鈍る気がした。


「いらっしゃいませー」


陽那の声が飛ぶ。すぐに別のスタッフが「いらっしゃいませ」と続ける。若い子が二人。ひとりは黒髪でクールに見える。もうひとりは明るい髪色で、動きが小さくて早い。バイトだろう。三人目はレジ奥でタグの整理をしている。彼女たちの動きは軽い。客と同じ速度で呼吸している。


その中に遼人だけが、別の速度で存在している。


「係長」


陽那が肩を軽く叩いた。遼人はびくっとする。


「ぼーっと立ってると置いてかれるよ。とりあえず、笑って。口角だけでいい」


「……笑う、ですか」


「うん。無理なら、目だけでも。目で“見てますよ”ってやる」


陽那は言いながら、自分はすでに客に寄っている。声のトーンが一段上がる。


「それ、今日入ったやつなんですけど、サイズ感ちょい小さめで、上はぴたっとする感じですー。試着します?」


客が頷き、陽那が試着室へ案内する。動きに迷いがない。説明も短い。必要な言葉だけで客を安心させている。


遼人は、立ち尽くしている自分が恥ずかしくなった。経理では、立ち尽くすことはない。やるべきことが常にある。数字は待ってくれない。だから動ける。でも、ここでは、数字が直接目の前にない。客の表情という“曖昧な情報”が相手だ。


蘭奈が遼人の横に立った。腕を組んだまま、売り場を見ている。視線が客とスタッフの動きを追っている。


「向いてない顔してる」


「……向いてないと思います」


正直に言うと、蘭奈が小さく鼻で笑った。


「最初から向いてるやついない。ひなは例外」


「例外なんですか」


「うん。あいつ、距離感おかしい」


距離感おかしい。遼人は思わず頷きそうになる。昨日からすでに分かる。近い。近いのに、不快じゃない。むしろ救われる瞬間がある。あれは技術だ。


蘭奈が続ける。


「係長は、売り場じゃなくていい。今日は“現場の空気”だけ吸え。あと、裏」


「裏、ですか」


「うち、裏が地獄」


蘭奈の言い方が妙に重くて、遼人は一瞬だけ背筋が伸びた。


そのタイミングで、客がレジ前に並び始めた。昼のピークだ。スタッフがレジを回し、声を出し、袋詰めをし、次の客へ繋ぐ。蘭奈が一歩前へ出る。判断が早い。補充が足りない棚へ指示を飛ばし、試着室が詰まりそうになると陽那が自然に回す。


遼人は、その“回り方”を見て、少し驚いた。


仕事が雑なわけじゃない。むしろ現場はよく回っている。客の満足も、スタッフの動きも、破綻していない。蘭奈は強気で、現場の中心に立っている。


ただ――数字がない。


あるのは感覚だ。勢いだ。思い出と真似と、場の反射。


遼人はふと、蘭奈の横顔を見た。客の前で笑うわけでもない。けれど、目は鋭く、迷いがないように見える。なのに、その目の奥に、時々ほんの小さな空白がある。あれは「怖さ」だ。遼人はそう思った。現場を止めたくない怖さ。自分の判断で店が死ぬ怖さ。


遼人は、どうしてそんなことを思ったのか分からない。けれど、見えてしまった。


ピークが過ぎ、店内が少し落ち着くと、蘭奈が遼人に顎で合図した。


「裏」


バックヤードに入ると、蘭奈は棚の下から、古びたノートを数冊と、レシートがぎっしり詰まった箱を引きずり出した。靴箱くらいの段ボール。中から紙が溢れそうになっている。


「これ」


遼人は一瞬、言葉を失った。


「……全部、ですか」


「全部」


蘭奈は言い切った。言い切り方はいつも通りなのに、目が泳ぐ。ほんの少しだけ。遼人は気づいたふりをしない。


「売上、仕入れ、家賃、光熱費、あと……なんか色々。ひながまとめてくれてる。でも、正直、意味分かってない」


遼人は箱の中のレシートを一枚取り出した。文字が薄れている。日付がバラバラだ。取引先名が略称だったり、手書きで何かが補足されていたりする。ノートには、売上の合計っぽい数字が書かれているが、根拠が飛んでいる。入金と出金のタイミングが分からない。現金と口座の区別も曖昧だ。


経理係長として、背中が冷たくなる。


この状態で一年回したのか。回せたのが奇跡に近い。いや、回せていないから「利益がどこに消えたか分からない」と言っていたのか。


「……これ、誰が」


遼人が聞くと、蘭奈が短く言った。


「ひな」


「白河さんが?」


「うん。あいつ、母ちゃんの時からいる」


遼人は顔を上げた。


「お母さん……?」


蘭奈の目が一瞬だけ硬くなる。言葉が詰まる。でも蘭奈は逃げない。逃げないために、強い声で言う。


「一年前に死んだ」


遼人は息を止めた。軽く聞ける話じゃない。どう反応すればいいか分からず、黙る。


蘭奈は、箱の縁を指で叩いた。落ち着かない癖だ。


「母ちゃん、平成のギャルでさ。シンママ。ここ、母ちゃんの店だった」


言い方は淡々としている。けれど、その淡々は感情がないわけじゃない。感情を閉じ込めるための淡々だ。


「事故で突然。で、店だけ残った。店も、借金も、取引先も。全部」


遼人は喉が乾くのを感じた。箱の中のレシートが、急に重いものに見える。紙切れじゃなく、蘭奈の一年だ。


「私は、数字とか無理。母ちゃんのやり方もよく分かんない。だから、見よう見まね。思い出して、真似して、回してきた。……ひなと」


その瞬間、バックヤードの扉が開いて、陽那が顔を出した。


「店長、今いける? 試着室――」


言いかけて、陽那が空気を読んで止まった。遼人と蘭奈の間にある箱とノートを見て、すぐに状況を理解する。その理解の速さが、彼女が“唯一残った人”である理由を表している。


「……あ、ごめん。あとでいい」


陽那が引っ込もうとすると、蘭奈が短く言った。


「ひな、来い」


陽那は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに入ってきた。背中の空気が少し変わる。普段のふわふわが、ほんの少しだけ落ち着いたものになる。


「係長、見た?」


「……見ました」


遼人が答えると、陽那は小さく肩をすくめた。


「ひどいでしょ」


笑って言うのに、笑っていない目をしていた。


「母の時代は、もっとちゃんとしてたの?」


遼人が聞くと、陽那は首を横に振った。


「ちゃんとしてたっていうか、母さん――蘭奈のお母さんは、やり方が“身体に入ってた”の。売れ筋も、仕入れも、支払いも。全部、頭じゃなくて感覚」


陽那がそう言うと、蘭奈が顔をしかめた。


「感覚って言うな。ちゃんとやってた」


「やってたよ。すごかった。だから余計に、蘭奈が一人で真似して回してるの見て、私、怖かった」


怖かった。その一言が、バックヤードの空気を変える。陽那が小悪魔みたいに弄る時の軽さじゃない。長く残る人の言葉だ。


蘭奈が目を逸らした。


「怖がるな。回ってる」


「回ってるけど、ギリギリ。蘭奈、ずっと寝てない」


「寝てる」


「寝てない。目が死んでたもん」


陽那は柔らかい顔のまま、容赦なく言った。言い切ってから、遼人に向き直る。


「だからさ、係長。数字できるなら、お願い。ほんとに」


お願い。陽那の口からそれが出るのは、重い。彼女は普段、お願いじゃなくて空気で動かす。そんな子が、言葉で頼んでいる。


遼人の胸の奥で、別の焦りが生まれた。


役に立たなきゃ。


それは会社で擦り込まれた焦りと似ている。けれど、決定的に違う点がある。ここでは「役に立たなきゃ」が、誰かに踏みつけられるためじゃなく、誰かを守るために発生している。


遼人は箱の中の紙をそっと戻し、ノートを開いた。売上の合計欄があり、その横に小さく「多分」と書いてある。手書きの文字が少し震えている。蘭奈の字だろう。


「……多分、って……」


遼人が呟くと、蘭奈が眉を吊り上げた。


「うるさい。だって分かんないんだもん」


その“だって”が、十九歳の素だった。強気な店長の顔じゃない。背負った子の顔だ。


遼人は、一度だけ深く息を吸ってから言った。


「まず、整理します。今すぐ全部は無理ですけど、現金と口座の流れ、支払いの締日、入金のサイクル、固定費……そこを見えるようにするだけで、だいぶ変わります」


言いながら、遼人は自分が“仕事の話”をしていることに気づいた。昨日まで、仕事の話をするだけで胃が縮んだのに、今は縮んでいない。むしろ呼吸が整う。役割があると、人は立て直しやすいのかもしれない。


蘭奈が腕を組み直した。


「できる?」


「……できます。たぶん」


遼人があえて蘭奈の真似をすると、陽那が吹き出した。蘭奈は睨むが、完全には怒れない顔をした。


「ふざけんな」


「ふざけてないです」


遼人は言い返してしまい、自分で驚く。蘭奈の口元がほんの一瞬だけ緩む。本人は緩んだことに気づいていないように、すぐに強い顔に戻った。


「じゃ、やって。週一でいい。……いや、最初だけ多めでもいい」


言い方がぶれる。強気なのに、欲が出る。遼人はそのぶれに、なぜか少し安心した。完璧に強い人じゃない。怖い人じゃない。普通に困っていて、普通に助けが欲しい人だ。


陽那が、遼人の横にぴたりと立った。距離が近い。近いのに、今回は“弄り”じゃない。


「係長」


「……係長、やめてください」


遼人が小さく言うと、陽那は目を丸くしてから、にやっと笑った。


「じゃあ、遼人さん」


その言い方が、妙に自然で、遼人は少しだけ口を閉じた。名前で呼ばれるだけで、会社の役職から一歩離れる感覚がある。


「遼人さん、今日無理しないでね。倒れたら、私が店長に怒られるから」


「怒られるのは、俺じゃないのか」


「店長、そういうとこ変に責任持つから」


陽那は軽く言って、蘭奈を見る。蘭奈は「別に」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。飲み込んだことだけが、全部を語る。


遼人はそこで、ひとつ理解した。


蘭奈は数字が苦手だから助けが欲しいんじゃない。数字が苦手なのに、一年前からずっと「自分が止まったら全部終わる」という責任を背負っているから、助けが必要なのだ。


そして陽那は、それを一番近くで見続けてきた唯一の人だ。


「……他のスタッフは」


遼人が店の方を見ながら聞くと、陽那がさらっと答えた。


「あと三人いるよ。入ってからの子。みんな頑張ってる。でも、母さんの時代を知ってるのは私だけ。だから自然と、バイトリーダーみたいになってる。勝手にね」


「勝手に、って」


「勝手に。だって、放置したら崩れるもん」


放置したら崩れる。遼人の胸が少しだけ痛んだ。その言葉は、東辰ソリューションズの経理にも当てはまる。けれど、ここでは崩れるものを“人”が支えている。あの会社では、崩れても誰も拾わない。


遼人は箱の蓋を閉め、ノートをまとめた。


「今日は……売り場は、難しいですけど」


「売り場はいい」


蘭奈が即答する。


「裏、やれ」


言い方は強い。けれど、その強さが遼人にはありがたい。仕事としての輪郭ができる。曖昧な期待じゃない。具体的な役割。


遼人は頷いた。


「……病院、行ってから。午後、また来てもいいですか」


蘭奈の目が一瞬だけ丸くなる。それからすぐに、いつものように腕を組んだ。


「来い」


短い。けれど、妙に重い。


陽那が嬉しそうに手を叩いた。


「やった。係長――じゃない、遼人さん、今日からEdge Girlsの裏方見習いじゃん」


「見習いって……」


「だって、まだ倒れそうな顔してるもん」


陽那はにこにこ言う。小悪魔の顔だ。でも、目はちゃんと遼人を見ている。危うさを見て、放置しない目だ。


遼人は、売り場の方から聞こえる「いらっしゃいませ」を背に、バックヤードの段ボールの匂いを吸い込んだ。


数字の地獄から、布と音楽の地獄へ移っただけかもしれない。


それでも――この地獄には、呼吸がある。


役に立たなきゃ、という焦りが、久しぶりに“生きる方向”へ向いている。


遼人は、スマホをポケットの中で握りしめた。会社の通知はまだ怖い。けれど今日、ひとつだけ自分で選んだ。


病院へ行く。その後、またここへ戻る。


その選択が、逃げじゃなく、前進になっている気がした。

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