第2話 拾う側は、軽い
意識が戻った最初の感覚は、甘い匂いだった。
香水じゃない。砂糖の匂いでもない。もっと生っぽい、布と熱と、少しだけ洗剤が混じった匂い。どこかで焚いた柔軟剤の残り香みたいなものが、鼻の奥に張り付いている。
次に耳に入ってきたのは、低くて一定のリズムだった。エアコンの送風音か、遠くの冷蔵庫のモーター音か。街の騒がしさとは違う、閉じた空間の音。
鳴海遼人は、まぶたを開けようとして、眉間が勝手にしかめられた。
光が眩しい。目に刺さるほどじゃないけれど、疲れきった瞳には十分すぎる明るさだった。視界の端で白い天井が揺れている。揺れているというより、まだ焦点が合っていない。
「……起きた?」
声は、思ったより近かった。
遼人は反射的に体を起こそうとした。すると、頭の中で鈍い衝撃が鳴る。胃がきゅっと縮み、吐き気がせり上がる。息が詰まって、喉の奥がひゅっと鳴った。
「動かないで。マジで」
次の声は、今度は少し低くて、強い。言い切りの圧がある。遼人はその圧に押されるように、動きを止めた。
頬の下にタオルが敷かれているのが分かった。自分は横になっている。床ではない。硬すぎないマット。枕は薄い。頭の後ろが少し沈む感覚がある。
「水、飲める?」
視界が少しずつ整っていく。目の前に、ペットボトルが差し出された。キャップは外れていて、飲み口に小さな紙コップが添えられている。
遼人は喉を動かした。乾いている。舌がざらつく。
「……すみません」
声が出たことに、少しだけ安心した。自分がまだ現実の中にいる証拠みたいで。
「謝るの早いって」
ペットボトルを持っている手首に、細いブレスレットがいくつか揺れている。爪は長くないのに艶がある。手の動きが無駄なくて、妙に慣れている。
遼人は紙コップを受け取ろうとして、指先が震えた。握力が戻っていない。コップが揺れ、少しだけ水がこぼれた。
「ほら、だから」
その手が、遼人の手を上から支えた。冷たくはない。体温がある。支え方が、強引じゃないのに逃げ道がない。
遼人はそのまま、少しずつ水を飲んだ。冷たい水が喉を通り、胃に落ちていく感覚がある。ようやく自分の身体が、そこにあると感じられた。
「気分、どう?」
遼人はゆっくり呼吸を整えた。胸の苦しさは薄れている。頭痛はある。でも、さっきのような視界の暗さはない。
「……まだ、少し……」
「だよね。倒れたんだから」
倒れた。その言葉が、遼人の頭の中で繋がる。街の光。ネオン。足が止まって、世界が斜めになって、――Edge Girlsという文字。
遼人は視線を動かした。
ここは、狭い部屋だった。壁にハンガーラックがあり、透明のビニールカバーをかけた服が並んでいる。ダンボール箱が積まれ、ガムテープが貼られたままのものもある。棚にはタグ、レシート用紙、ペン、ハサミ。小さな事務スペース。奥にスタッフ用のロッカー。床には、段ボールを畳んだ束。
店の裏。バックヤード。
つまり、あれは夢じゃない。自分は本当に倒れて、ここに運ばれた。
遼人は一度、息を吐いた。吐いた息が震える。そこに、さっき支えた手の持ち主が腕を組む気配があった。
視線を上げると、その人が見えた。
黒。正確には、ただの黒じゃない。艶のある黒。髪も、まつ毛も、目のラインも、全体が強い。肌は健康的に焼けていて、頬が少しだけ赤い。年齢は若い。けれど、表情が大人びている。
服装は――攻めていた。
タイトなトップスと、ボディラインを強調するパンツ。足元はしっかりしたブーツ。店の裏なのに、気を抜いた感じがない。むしろ、いつでも外に出られる戦闘態勢みたいな格好だ。
その強さの中心にある目が、遼人をまっすぐ見下ろしている。
「名前、言える?」
遼人は反射的に答えた。
「鳴海……遼人です」
「年齢」
「二十七」
「仕事は?」
遼人は言い淀んだ。言い淀むこと自体が、嫌だった。けれど言うと、戻ってしまいそうだった。あの蛍光灯と、赤いセルと、川添の声に。
「……経理です。係長……でした」
最後の「でした」は、言ってから少しだけ胸が楽になった。言葉にしたことで、戻れない場所になっていく。
黒い目が一瞬だけ細くなる。
「……係長が、こんなとこで倒れるんだ」
声は強いままなのに、どこか感情の置き場が分からないみたいな間があった。遼人はその間に、なぜか腹の底が冷えた。相手が怒っているわけじゃない。心配とも違う。もっと別の、言葉にならないもの。
そのとき、バックヤードの扉が開いた。
「店長、起きた?」
入ってきたのは、空気の明るい声だった。甘い。柔らかい。誰かが来ただけで、この部屋の温度が変わる。
次に視界に入ったのは、淡い色のふわっとした髪。明るい茶色というより、柔らかいベージュに近い。大きめのニットに、短いスカート。全体がゆるくて、それなのに存在感が強い。服のシルエットが、自然に視線を取っていく。
遼人は意識的に視線を外した。見たら、妙な自意識が出る。今の自分には余計だ。
「わ、ほんとだ。起きてる」
その子がにこにこしながら近づいてくる。笑顔はふわふわしているのに、目は遼人の状態を一瞬で測っている。見た目に反して、観察が鋭い。
「大丈夫? え、ほんとに倒れてたの? ドラマじゃん」
「ドラマにしないで」
店長、と呼ばれた黒い子が、即座に言い切った。声が低い。圧がある。
「ごめんごめん。でも、急に人倒れてたらびっくりするって」
ふわふわの子は悪びれない。軽いまま、遼人の枕元にしゃがんだ。距離が近い。近いけれど、不快じゃない。むしろ、相手のペースが速すぎて、こちらが反応する前に次へ進む。
「お水飲めた? えらーい。吐き気とかある?」
「……少し、あります」
「そっかぁ。じゃ、無理に起きないでね。あ、私、白河陽那。ひな。スタッフ」
ひな。軽い自己紹介のくせに、なぜか耳に残る。名前も、声も、笑い方も。
遼人が小さく頭を下げると、ひなは嬉しそうに目を細めた。
「礼儀正し。係長って感じ」
「係長は、やめた」
店長が短く言った。
ひながぱちっと瞬きした。すぐに、口角が上がる。ああ、今この子、何かを掴んだ。遼人はそう感じた。掴んだものを、今はまだ手の中で転がしている。すぐには投げない。投げるタイミングを選んでいる。
「へぇ。じゃあ、今は何?」
「……今は」
遼人は答えられなかった。自分で退職届を置いたはずなのに、まだ実感がない。会社の外に出ても、会社が背中に乗っている感覚が消えない。自分が何者かを聞かれて、言葉が出ないのは、そのせいだ。
代わりに店長が答えた。
「今は、うちのバックヤードで倒れてる人」
「雑」
ひなが笑った。笑いながら、紙袋を取り出す。中から、ゼリー飲料と、塩分タブレットみたいなもの。慣れた手つきで遼人に差し出す。
「とりあえずこれ。噛まなくていいやつ」
「……ありがとうございます」
遼人が受け取ろうとすると、店長が先に手を出した。ひなの指先が一瞬止まる。目だけが笑う。表情は変わらないのに、「あ、今の見た」って顔をする。
店長は気づいていないのか、気づかないふりなのか、ゼリーのキャップを開けて遼人の手元へ渡す。遼人は受け取って、少しずつ飲んだ。甘さが、胃に落ちる。体が微かに戻っていく感覚がある。
「救急車呼ぼうと思ったんだけど」
店長が、腕を組んだまま言った。腕を組む姿勢が癖になっている。強く見せるための姿勢。でも、今はどこか落ち着かない。
「目、開いたし、水飲めたし、歩けるならタクシーで帰す。でも、歩けないなら、呼ぶ。どっち?」
選択肢を投げる。判断を迫る。経営者の癖だ、と遼人は思った。迷っている時間が一番ロスだと知っている人の言い方。
遼人は、喉を動かした。
帰る。どこへ。家はある。でも家に帰れば、きっとスマホが鳴る。会社の番号が出る。出なければ、メールが来る。出なければ、また「至急」が来る。そこから逃げるために、今夜は歩いていたのに。
「……少し、休めば……歩けると思います」
「オッケ」
店長は即答した。即答のくせに、目が遼人を離れない。冷たい監視じゃなくて、倒れられると困る、という現実的な心配に近い視線。
ひなが、背伸びするように立ち上がり、店長の耳元に少しだけ顔を寄せた。
「店長、めっちゃ見てる」
「見てない」
「見てるって。心配してる顔」
「仕事だって言ってんじゃん」
「はいはい、仕事ねー」
ひなの声は軽い。軽いのに、刺さる。店長は返さない。返せない。返したら、言葉が本音に触れると分かっているみたいに。
遼人は、そのやり取りをぼんやり聞きながら、自分が今いる場所の異物感を噛みしめた。
会社の会議室では、こんなやり取りはない。軽口を叩いたら評価が下がる。心配したら負ける。誰もが防御だけで生きている。
なのにここは、軽口が飛び、怒りが飛び、でも空気は死んでいない。
「……店長」
遼人が呼ぶと、店長は即座に視線を戻した。
「なに」
「……すみません、迷惑を……」
「謝るの早いって」
さっきと同じ言葉が返ってきた。今回は店長の方から。
遼人は苦笑しそうになって、口角が動かなかった。顔の筋肉が固い。笑う筋肉が久しく使われていない感じがする。
「どこで倒れたの?」
ひなが、ゼリーの空袋を回収しながら訊いた。
遼人は思い出そうとした。歩いていた。光が眩しくて。Edge Girlsの看板が見えて。それで、足が止まって。
「……この店の前です。看板……見えた気がして」
「気がして、じゃなくて見えてたよ。店、派手だもん」
ひなはさらっと言ってから、遼人の顔をじっと見た。視線が真っ直ぐで、子どもっぽくない。
「うちさ、派手だけど、変な人は放置できないんだよね」
「変な人って言うな」
店長が即座に突っ込む。
「変じゃん。倒れてるんだもん」
「だからって言い方」
「でもさ、店長。救急車呼ぶって言ってたの、めっちゃ優しいじゃん」
「優しくない。リスク管理」
「はいはい、リスクねー」
ひなが笑って、今度は遼人に向き直る。
「店長ね、鷹宮蘭奈。ラナ。うちの店長」
遼人は、ようやく名前を聞いた気がした。
鷹宮蘭奈。
鷹、という字のせいか、目の鋭さと合っている。なのに蘭奈という音は柔らかい。強さの中に、ふっと隙がある名前。
「……鷹宮さん。助けていただいて、ありがとうございます」
「だから謝らなくていい」
蘭奈は言い切る。言い切ってから、目を逸らした。ほんの一瞬だけ。遼人は見逃さなかった。逸らした理由が分からない。でも、逸らしたという事実が、妙に心に残る。
ひなは、逸らした瞬間を、絶対見逃していない顔をしていた。笑っていないのに、目が笑っている。
「係長さ」
ひなが言う。遼人は反射的に肩がこわばる。係長、という呼び方が、会社の蛍光灯を連れてくる。
「係長ってさ、今日、何食べた?」
「……え?」
唐突すぎて、遼人の脳が追いつかない。
「なんか、倒れる人ってさ、だいたい食べてないじゃん。ゼリー飲んでる時、胃がびっくりしてたもん」
「……昼に、パンを……」
「朝は?」
遼人は答えに詰まった。朝。いつだったか、記憶が曖昧だ。コーヒーは飲んだ。コーヒーは何杯も。水はあまり飲んでいない。何かを口に入れた気もする。でも、胃が覚えていない。
「覚えてないなら、食べてないってこと」
ひなは断定する。断定の仕方が、かわいい顔に似合わないほど冷静だった。
蘭奈が、少しだけ眉を寄せた。
「……そういう会社?」
遼人は、胸の奥が、きゅっと縮むのを感じた。問いは軽いのに、刺さる。そういう会社。そういう会社だった、と言えばいい。でも、その一言で、自分がそこにいた時間全部を認めることになる。
遼人は、息を吐いてから、言った。
「……そういう会社です」
言葉にした瞬間、喉の奥が熱くなった。涙じゃない。涙になる前の、ただの熱。感情が、形になる前に、喉に引っかかる。
蘭奈は口を開きかけて、閉じた。言葉が見つからない顔だ。強気なはずなのに、今だけは決断が遅い。
ひなが代わりに、軽く言う。
「じゃ、辞めたんだ?」
遼人は一瞬だけ動揺した。なぜ分かった。いや、分かる。倒れるほど追い込まれて、ここに来て、今、過去形で話している。状況証拠だ。
「……辞めました。今日」
「今日は早いね」
「今日しか無理でした」
その言い方が、遼人の本音だった。今日しか無理だった。明日になったら、また動けなくなる。今日しか、退職届を置けなかった。
蘭奈が、視線を戻した。強い目で遼人を見ている。そこに、決める目がある。
「じゃあ、しばらく休みな」
「……休み、ですか」
遼人は思わず繰り返した。休みという単語が、現実味を持っていない。休むという行為が、贅沢に見える。罪に見える。
「休まないと、また倒れる。二回目はヤバい」
蘭奈は真面目に言う。真面目な口調なのに、語尾の圧は強い。命令に近い。
ひなが、腕を組んだ蘭奈の横に立って、わざとらしく首を傾げた。
「店長、面倒見良すぎじゃない?」
「仕事」
「まだ言う?」
「まだ言う」
「かわい」
「かわいくない」
二人の会話は軽いのに、遼人はそこに救われている自分を感じた。今、責められていない。追い詰められていない。成果を求められていない。代わりに、呼吸の仕方を取り戻せと言われている。
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
「家、どこ」
蘭奈が訊く。これも、決断のための質問だ。曖昧に答えると、曖昧に扱われる。だから遼人は、住所の駅名を言った。
「……○○線の、△△駅です」
「遠い?」
「……タクシーだと、少し……」
「じゃあ、送る」
「え」
遼人が思わず声を出すと、蘭奈は眉を吊り上げた。
「何。嫌?」
「嫌じゃなくて……」
「じゃあ送る。人倒れさせたまま帰せない」
「人倒れさせたって」
ひなが突っ込む。「倒れたのは係長だし」と付け足しながら、もうスマホを取り出している。画面をタップし、地図アプリを開き、何かを確認する動きがやたら速い。
「店長、今日車? バイク?」
「車」
「じゃ、私、店閉める。店長、送ってきて」
「ひな、ひとりで閉めるの危なくない?」
蘭奈が言うと、ひなは目を丸くした。次の瞬間、口角が上がる。
「え、店長が心配してくれた」
「心配っていうか……」
「やば。嬉し」
「仕事」
「また出た。仕事って言えばなんでも許されると思ってるタイプ」
「許される」
「図太」
ひなは笑いながらも、手早くやることを決めている。鍵、レジ締め、簡単な片付け。バックヤードの端に置いてあったコートをひょいと掴み、蘭奈に投げた。
「寒いから。それと、係長、立てる?」
遼人は返事より先に体を起こした。起き上がると、確認するように頭痛がズキッと来る。視界がふらつく。胃がまだ不安定だ。だが、さっきよりはマシだった。
「……大丈夫、です」
「大丈夫って言う人ほど大丈夫じゃないやつ」
ひなは断言し、遼人の腕に軽く触れて支えようとした。触れた瞬間、蘭奈の視線が一段鋭くなる。遼人は気づいた。ひなは絶対気づいている。
ひなは笑顔のまま、さらに距離を詰めた。
「係長ってさ、店長いる時だけ、声ちっちゃくない?」
「……そうですか」
「うん。私の前だと普通なのに」
遼人は意味が分からない。分からないが、蘭奈の空気が少しだけ硬くなるのは分かる。硬くなって、そして逃げるように、蘭奈はコートを羽織りながら言った。
「立てるなら、さっさと外出る。空気吸った方がいい」
命令口調で、逃げる。強気で、逃げる。その矛盾が、遼人の中に引っかかった。
遼人は靴を履いた。足元が少しふらつく。ひなが片手で支え、もう片手でシャッターの鍵を確認する。店の表に出ると、夜風が頬を撫でた。冷たい。冷たいのに、頭が少しだけ冴える。
ネオンが見えた。
Edge Girls。
今度は、ちゃんと読めた。
店の外観は、遼人が普段いる世界と別物だった。派手な看板。ガラス越しに見えるマネキン。短い丈の服。強い色。店内にはまだ少し音楽が残っていて、低音が足元から響く。
ここは、異世界じゃない。現代日本だ。ただ、遼人がこれまで属していなかった現代だ。
駐車場に停められた車へ向かう間、蘭奈は遼人の歩幅に合わせてくれた。合わせてくれているのに、口は強いまま。
「ゆっくり歩け。転んだらマジで怒る」
「……はい」
返事が小さくなる。遼人は自分で気づいて、少しだけ苦笑しそうになる。でも笑えない。
車の助手席に座ると、シートの柔らかさが体に沁みた。蘭奈は運転席に乗り込み、シートベルトを確認する。動きが無駄なくて、車内でも「店長」のままだ。
ひなは外から顔を覗き込んだ。
「店長、絶対ちゃんと送ってね」
「当たり前」
「係長、連絡先いる? なんかあったら言って」
ひなは遼人に向かってスマホをちらっと見せた。交換しよう、と軽く言っている。遼人は少し迷った。連絡先を増やすこと自体に抵抗がある。会社のチャットに支配されていたからだ。
迷っていると、蘭奈が口を開いた。
「今はいい。まず帰って寝ろ」
ひなが眉を上げる。
「店長、厳し」
「厳しくない。普通」
「普通って言う人ほど普通じゃない」
「うるさい」
ひなは楽しそうに笑って、最後に蘭奈へ顔を寄せた。運転席の窓越しに、口元だけで何か言う。遼人には聞こえない。ただ、蘭奈の耳が少しだけ赤くなるのが見えた。
「行ってら」
ひなが手を振る。
蘭奈はエンジンをかけ、車を出した。夜道のライトが流れる。車内は静かだ。音楽は流れていない。代わりに、空調の音と、エンジンの低い唸りだけ。
遼人は窓の外を見た。街の灯りが流れていく。さっき倒れた場所も、もう見えない。
「……すみません」
遼人が言うと、蘭奈はハンドルを握ったまま、短く返す。
「だから謝るな」
「でも……」
「でもじゃない。倒れるのは、悪いことじゃない」
その言葉が、遼人の胸に引っかかった。
倒れるのは、悪いことじゃない。
会社では、倒れるのは罪だった。自己管理ができない証拠。根性が足りない証拠。評価が下がる証拠。だから、倒れる前に隠す。倒れそうな自分を、さらに追い詰めて、倒れない形にする。
蘭奈は、そういう世界を知らないのか。いや、知っているかもしれない。でも少なくとも、遼人を罪人扱いしない。
「……あなたは」
遼人は言いかけて、名前を呼べないことに気づく。鷹宮さん、と呼ぶと距離がある。蘭奈、と呼ぶほど近くない。
蘭奈が、ちらっと横目で遼人を見た。
「なに」
「……どうして、助けたんですか」
自分でも、変な質問だと思った。助ける理由なんて、なくてもいい。でも、理由が欲しい。理由がないと、自分はまた「借り」を背負う。借りは返さなければならない。返せないと、追い詰められる。そういう癖が、もう体に染みている。
蘭奈は前を見たまま、少しだけ間を置いた。
「倒れてたから」
「それだけですか」
「それだけ」
言い切った。言い切ってから、少しだけ声が柔らかくなる。
「……うちの前で倒れたんだよ。見なかったことにできない」
遼人はその言葉を、胸の奥に落とした。見なかったことにできない。その感覚は、遼人も知っている。経理の仕事は、見なかったことにできない矛盾を拾い続ける仕事だ。でも、会社のために拾っても、会社は遼人を見なかったことにする。
なのにこの子は、見なかったことにしない。
車が赤信号で止まった。ブレーキが滑らかに効く。蘭奈の横顔が、信号の赤い光に照らされる。強いライン。けれど、口元が少しだけ硬い。緊張しているのか、何かを考えているのか。
「……会社、ほんとに辞めたの」
不意に蘭奈が言った。
遼人は頷いた。
「退職届、置いてきました」
「置いてきたって……出したってこと?」
「……はい」
「即日?」
「……はい」
蘭奈は一瞬だけ口を開けて、閉じた。驚きと、理解できないものを見る顔。けれど次に出た言葉は、意外に静かだった。
「……よくやったじゃん」
遼人は思わず息を止めた。よくやった。そんな言葉を、誰かから言われることがあるんだろうか。退職届を出したことが、褒められることとして扱われる世界があるのか。
「よくやった、って……」
「死ぬよりマシ。死んだら終わり」
蘭奈はそれだけ言って、信号が青に変わると車を動かした。言葉の温度は低いのに、内容は生々しい。死ぬよりマシ。彼女の言葉は、遼人の中で現実に触れている。
遼人は窓の外を見たまま、喉の奥がまた熱くなるのを感じた。今度は、さっきよりも少しだけ形に近い熱。
「……ありがとうございます」
「だから謝るな」
「これは謝ってないです」
遼人はそう言い返した。言い返したことに、自分で驚く。今の自分は、誰かに言い返す余裕なんてないと思っていた。
蘭奈が、ほんの少しだけ口角を上げた。笑ったというほどじゃない。けれど、硬さが一瞬だけほどける。
「……じゃあ、ありがとでいい」
遼人は小さく頷いた。
目的の駅が近づく。遼人の家の近くの道に入ると、街灯が少なくなり、車内が少し暗くなる。暗くなるほど、遼人は現実に引き戻される。家に着いたら、また一人だ。スマホが鳴るかもしれない。明日が来るかもしれない。会社の番号が出るかもしれない。
その恐怖が、また首をもたげる。
蘭奈が、遼人の家の前に車を停めた。ハザードが点滅する。夜の静けさの中で、カチカチという音が妙に大きい。
「着いた」
遼人はシートベルトを外した。立ち上がろうとして、ふらっとする。まだ完全には戻っていない。
蘭奈が、助手席側に手を伸ばし、ドアを少しだけ押さえた。
「待って」
遼人は動きを止めた。
蘭奈は、言葉を探している顔をした。強気な顔じゃない。何かを言わなきゃいけないのに、最適解が見つからない顔。経営者の顔じゃなくて、十九歳の顔。
「……明日」
蘭奈が言った。
遼人の胸が、きゅっとする。明日。その単語が、会社を連れてくる。
「……明日、会社から来ても、出なくていい」
蘭奈は、遼人の目を見ないまま言った。視線が前を向いている。ハンドルのあたり。逃げるみたいに。
「出たら、また引っ張られる。引っ張られたら、また倒れる」
遼人は、喉が詰まって声が出なかった。
蘭奈は続ける。続ける声が、少しだけ速い。照れ隠しみたいに、論理で固める。
「だから、出ない。寝る。水飲む。食べる。あと、病院行け。できれば」
「……はい」
遼人がやっと返事をすると、蘭奈はようやく遼人を見る。視線が鋭い。鋭いのに、奥が揺れている。
「で」
蘭奈は息を吸って、言った。
「……もし、行く場所ないなら」
遼人の心臓が、一拍だけ強く鳴った。
行く場所がない。まだ言っていないのに、見抜かれている。いや、倒れた男が、いきなり辞めたと言ったら、普通は想像がつく。
蘭奈は言い切る。
「うち、手伝えば」
遼人は言葉を失った。
「……え」
「経理できるなら、うち助かる。マジで」
蘭奈は早口になった。強気で押し切る時の癖。だけど、その強気の裏に、少しだけ怯えがある。拒否されたくない怯え。
「別に、今すぐ働けって話じゃない。休んでからでいい。週一でもいい。できる範囲でいい。給料もちゃんと出す。変なこと言わない。……言わない」
最後の「言わない」が、少しだけ小さくなった。
遼人は、頭の中で何かが止まるのを感じた。
仕事。もう二度と、と思ったはずなのに。けれどそれは、東辰ソリューションズの仕事が怖いのであって、仕事そのものが怖いわけじゃないのかもしれない。いや、怖い。怖いが、今の自分に必要なのは、役割だ。会社に使われる役割じゃない。生きるための、最低限の役割。
「……どうして、そこまで」
遼人がかすれた声で言うと、蘭奈は眉を吊り上げた。
「そこまでじゃない。うちも困ってる」
「困ってる、って……」
「うち、数字弱い」
言い切った。強い目で言い切った。自分の弱点を、武器みたいに言う。妙な潔さがある。
「店は回ってる。客も来る。服も売れる。でも、利益がどこに消えてるか分からない。ひなが感覚で回してるけど、それだけだといつか死ぬ」
死ぬ、という言葉を蘭奈が使うと、遼人の中で現実味が増す。彼女は大げさに言っていない。本当にそうなる未来を見ている。
「だから、必要。経理。係長、みたいな人」
係長、という単語がまた出た。けれど今回は、蛍光灯の匂いがしなかった。役職としてじゃなく、人の特性として呼ばれている。
遼人は、ゆっくりと息を吐いた。
「……僕、今……まともに動けるか、分からないです」
正直に言った。正直に言える相手がいることに、自分で驚く。
蘭奈は頷いた。
「分かってる」
「……迷惑かけるかもしれません」
「迷惑は、かけるもんじゃない。起きるもん」
蘭奈は、そう言った。言い方が妙に大人びている。現場で決断してきた人の言葉だ。
遼人は、胸の中で何かがほどけるのを感じた。ほどけると同時に、怖さも出る。受け入れたら、また何かを失うかもしれない。でも、今は失うものがほとんどない。
遼人は、車のドアに手をかけたまま、言った。
「……少しだけ。考えてもいいですか」
蘭奈は即答しなかった。即答しないことが、彼女の中では珍しい。彼女は目を逸らし、ハザードの点滅を眺めるみたいに前を見て、それから短く言った。
「……いいよ」
そして、強がるみたいに付け足す。
「別に、断ってもいい。うちは、困るけど」
困るけど、で止める。そこで止められることが、蘭奈の強さなのか、弱さなのか、遼人にはまだ分からない。
遼人はドアを開けた。冷たい夜気が頬に当たる。立ち上がると、まだ少しふらつく。だが、倒れるほどじゃない。
「……送ってくれて、ありがとうございました」
「だから、ありがとでいいって」
蘭奈が、ほんの少しだけ口角を上げた。
遼人は家の玄関へ向かった。鍵を開け、ドアを押し、暗い部屋に入る。いつもの自分の部屋。なのに、今日は少しだけ違って見える。街の明かりがカーテンの隙間から入って、部屋の輪郭を柔らかくしている。
背後で、車のエンジン音が少しだけ大きくなった。蘭奈が帰るのだろう。遼人は振り返り、車のテールランプが遠ざかっていくのを見た。
赤い光が、静かな夜に溶ける。
遼人はドアを閉め、鍵をかけた。玄関の靴を脱ぐだけで、足が重い。体が、ようやく「休んでいい」と理解し始めている。
スマホがポケットの中で震えた。
反射的に取り出しそうになって、遼人は手を止めた。
出なくていい。
蘭奈の声が、耳の奥に残っている。強気な声。逃げるみたいな声。でも、あの声は確かに、遼人を会社から引き剥がそうとしていた。
遼人はスマホをテーブルに伏せて置いた。画面を見ない。通知の内容を想像しない。
代わりに、キッチンへ行き、水を飲んだ。コップ一杯。もう一杯。胃が驚かないように、少しずつ。
それから、冷蔵庫を開けた。何もない。コンビニのサラダが一つ、賞味期限ギリギリで残っている。遼人はそれを見つめて、笑いそうになった。笑えない。でも、苦くない。皮肉に近い感覚が、少しだけ戻ってきた。
ベッドに倒れ込む。枕が柔らかい。目を閉じると、すぐに闇が来た。
闇の中で、ネオンの文字が浮かぶ。
Edge Girls。
そして、その文字の前で腕を組む、強い目の十九歳が浮かぶ。
手伝えば。
言い方は軽いのに、妙に重い言葉。
遼人は眠りに落ちる直前、心のどこかで、小さな数字を数えた。
明日、会社の通知に出ない。
それだけで、自分の命が一日延びる。
その一日を、どこで使うか。
まだ答えはない。
けれど、答えの候補が、夜の街の片隅に、ひとつ増えてしまったことだけは確かだった。




