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『ブラック企業で死にかけた経理係長、ギャル服店に拾われる』 ─拾ったのは、強気なギャル店長  作者: 月白ふゆ


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第16話 手放したくない

翌朝の空は、昨日ほど忙しそうな色をしていなかった。


それでも遼人は、いつもと同じ時間に目が覚めた。目覚ましより先に。身体が「起きろ」と言う癖が抜けない。昨日の危ない瞬間の余韻が残っているのに、起きてしまう。休むという選択肢が、頭の中にあっても薄い。薄いまま、手は湯を沸かし、白湯を飲み、服を着る。


胃は、少し重い。


けれど痛くはない。


痛くないから、行けると判断してしまう。判断してしまうのが悪い癖だ。ブラック企業で生き延びるために身につけた「動けるなら動く」の癖。動けるなら動いて、先に整える。整えれば安心する。安心が欲しいから動く。


ポケットの中で鍵が鳴る。


Edge Girlsの鍵。


冷たさが、昨日とは違う意味で遼人を落ち着かせる。ここは怒鳴られない。ここは空気を整えられる。ここは、生活の匂いがする。


だから遼人は、出勤してしまう。


店の前に立つ。シャッター脇の鍵穴に鍵を差し込む。カチリ、と鳴る音がして、扉が開く。店の匂いが流れ出す。


遼人は、いつも通り照明を点けた。


そして、店の中央に立って息を吸った。


昨日の自分は危なかった。


危ないことを、自分でも分かっている。


分かっているのに、ここにいることがまず安心で、安心が優先されてしまう。良くない。けれど、遼人の脳はまだ“休む”を安全だと認識できない。休むと追い詰められる。休むと責任が落ちる。休むと価値が下がる。そんな古い回路が残っている。


遼人は棚を整え、入口のラックを軽く直し、レジ周りを拭いた。


そこへ、扉の鈴が鳴る。


速い足音。空気が締まる。


蘭奈だ。


鷹宮蘭奈が入ってきた瞬間、視線が遼人に刺さった。刺さって、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。安心だ。確かに安心している。


そしてすぐに、苛立ちが乗る。


安心してしまった自分への苛立ちと、来てしまった遼人への苛立ち。


蘭奈は胸を張る。突き出すほどに。いつもの鎧を作ってから、短く言った。


「……来たな」


「おはようございます」


遼人が答えると、蘭奈は眉を上げた。


「おはようじゃない。休め」


即断即決。店長の命令の形。昨日の延長線。守るための命令。


遼人は一拍だけ迷ってから、言った。


「大丈夫です。昨日は……すみません。でも、今日は落ち着いてます」


蘭奈の眉がさらに動く。落ち着いてる、と言える自信が腹立つ。落ち着いてると自分で判断できる時点で、危ない。危ないから、蘭奈はまた強く言う。


「休めって言ってる」


「店の開店準備だけでも」


遼人がそう言った瞬間、蘭奈の胸の奥に小さなざわつきが走った。


店の。


遼人の口から、「店」が自然に出た。


ここに来てまだ長くないはずなのに、遼人は“ここ”を自分の世界として言っている。会社じゃない。借り物じゃない。逃げ場でもない。ただの避難所でもない。


店の。


その言い方は、遼人がここに根を張り始めている証拠だった。


蘭奈は、その証拠に一瞬だけ嬉しくなりそうになって、すぐ苛立ちで押し潰した。


嬉しくなるのが腹立つ。


嬉しいからこそ怖い。


怖いからこそ、苛立ちになる。


「数字、数字って」


蘭奈が吐き捨てるように言うと、遼人はすぐに否定しない。否定しない代わりに、淡々と説明しようとする。いつもの悪い癖だ。説明で場を整えようとする。


「昨日の納品ズレで、今日の在庫が少し危ないです。午前中の導線を作っておかないと、また無理が出ます。僕がいる方が、店が楽になります」


僕がいる方が、店が楽になります。


その言い方は、遼人の役に立ちたい癖そのものなのに、“会社に役に立つ”とは違う響きがあった。ここでは、誰かに搾り取られるための有用性じゃない。店の呼吸を整えるための有用性だ。


それでも、蘭奈は引けない。


昨日の手の冷たさが、まだ掌に残っている。


蘭奈は遼人の顔色を見た。見てしまう。自分でも気づかないまま、呼吸の深さ、水分の気配、目の焦点を拾ってしまう。拾ってしまうのは、昨日怖かったからだ。


そして、そこでふと気づく。


この人がいなくなるのが怖い。


それは店のためだけじゃない。


店が回らなくなる怖さもある。数字が崩れる怖さもある。母の店がまた危うくなる怖さもある。


でも、それだけじゃない。


遼人がいなくなるのが怖い。


遼人という人間が、ここから消えるのが怖い。


気づいた瞬間、蘭奈の胸が一気に熱くなった。熱くなるのに、言葉が出ない。出せない。出したら終わる気がする。


十九歳の自分が、二十七歳の男に何を言うのか。


“怖い”なんて言えるのか。


“手放したくない”なんて言えるのか。


そんなの、拒絶されたら終わる。拒絶の想像が先に立つ。笑われる想像。困られる想像。重いと言われる想像。全部、勝手に脳内で再生される。


蘭奈は胸を張る。突き出すほどに。鎧を作る。鎧の中に熱さを押し込める。


「……今日、短縮」


言葉を選び損ねたまま、店長っぽい指示に逃げる。


「短縮、ですか?」


「お前、休憩二回取れ。水飲め。勝手に飛ばしたらブチ切れる」


ブチ切れる、という言い方だけ強い。でも中身は完全に保護だ。保護を命令の形にしている。店長として、という顔を装っている。


遼人は一瞬、目を丸くしてから頷いた。


「分かりました。……ありがとうございます」


ありがとう、と言われた瞬間、蘭奈は心臓が跳ねた。


守るために言った指示に、感謝される。会社ならあり得ない。会社なら「当然だろ」と返される。ここでは、ありがとうが返ってくる。ありがとうが返ってくると、蘭奈の鎧が少し揺れる。


揺れたところに、扉の鈴が鳴った。


白河陽那が入ってきた。ゆるふわ巨乳白ギャル。いつも通りの笑顔。いつも通りの軽さ。けれど今日は、視線が少しだけ鋭い。昨日の空気を知っている目だ。


陽那は店内の空気を一瞬で読み取る。遼人の顔色、蘭奈の鎧の硬さ、自分の役割。全部を読んだ上で、わざと軽く言った。


「店長、今日めっちゃ優しいじゃん」


蘭奈は即答する。


「うるさい」


いつもの返し。強気の形。


でも否定できない。優しくない、と言えない。言えないのは、自分でも優しくしている自覚があるからだ。


陽那は口元だけで笑った。


「うん、うるさいって言う時点で優しい」


「意味分かんない」


「分かんなくていいって」


陽那はそう言って、普段ならもう一刺し入れるところを、今日は入れなかった。代わりに、レジ裏へ行って水を用意した。塩分タブレットも一緒に。昨日の“遊びじゃない”空気を、今日も引きずるように、ちゃんと世話をする。


遼人が気づいて「大丈夫です」と言いかける前に、陽那は軽く遮った。


「大丈夫かどうか決めるの、今日は店長ね」


蘭奈が少しだけ目を丸くした。陽那が自分の側に立っている。いつもは茶化す側なのに、今日は店長を立てている。遊びじゃないからだ。


午前の営業が始まる。客足は昨日ほどじゃない。けれど納品ズレの後処理がある。遼人は裏で検品を進めながら、蘭奈の指示に合わせて売り場に出す順番を調整する。


そして蘭奈は、遼人を見てしまう。


無意識に。


顔色。呼吸。水分。目の焦点。


それを一瞬で拾って、すぐ目を逸らす。逸らして胸を張る。突き出すほどに。鎧で誤魔化す。


誤魔化しながら、心の中ではずっと同じ言葉が回っている。


いなくなるのが怖い。


店のためだけじゃない。


でも言えない。


言えないから、命令を増やす。


「水飲め」


「休憩行け」


「今日は裏の作業、私も見る」


蘭奈がそう言った時、遼人は少し驚いた顔をした。蘭奈が裏を“見る”と言うのは、得意じゃないからだ。数字が苦手な蘭奈が、あえて踏み込んでくる。


遼人はそれをありがたく受け取った。


「助かります。店長が見てくれるなら、僕も無理しないで済みます」


その言葉がまた蘭奈を刺す。


無理しないで済みます。


無理をしていた自覚が遼人にもある。あるのに、それでも出勤してくる。やっぱり癖だ。悪い癖だ。直さないと危ない。


昼の休憩。遼人が水を飲んでいるのを、蘭奈は売り場の奥からちらっと確認した。確認して、安心してしまう。


安心してしまった瞬間、苛立つ。


安心するほど、自分が遼人に依存しそうで怖い。依存はしたくない。強気でいたい。店長でいたい。十九歳の自分が、店の柱でなきゃいけない。


なのに、柱の横にもう一本柱が立ってしまったみたいで、少し楽で、少し怖い。


夕方。閉店の準備に入る頃には、遼人の呼吸は朝より深くなっていた。陽那が水を差し出し続け、蘭奈が命令で休憩を取らせ、遼人がそれに従った。従えたこと自体が、昨日までと違う。


閉店後、三人で締め作業をする。レジの集計、返品のチェック、簡易日報。遼人が数字を整える横で、陽那が静かに小物を片付け、蘭奈が棚を戻す。


陽那が先に上着を羽織る前、蘭奈の方を見て、いつもより優しい目で言った。


「店長、今日は合格」


「何が」


「優しさの使い方」


蘭奈は反射で「うるさい」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。飲み込んだ自分に驚く。驚いたまま、胸を張る。突き出すほどに。鎧を作る。


陽那はそれ以上言わずに帰っていった。扉の鈴が鳴り、店の中は二人になる。


沈黙が来る。


苦じゃない。けれど今日は、沈黙が少し重い。


蘭奈の胸の中の言葉が増えすぎているからだ。


遼人がファイルを棚に戻し、最後の確認をしている。その横顔を見て、蘭奈の喉の奥に言葉がせり上がる。


無理、させたくない。


言いかけて、飲み込む。


十九歳の自分が言うには、重すぎる。


二十七歳の男に言うには、立場が分からない。


言ったら拒絶される想像が、また勝つ。


蘭奈は息を吐いて、代わりに命令を選んだ。命令なら言える。店長としてなら言える。怖いのを隠せる。


「……明日、時間ずらせ」


遼人が振り向く。


「え?」


蘭奈は目を逸らしたまま続ける。


「朝、少し遅く来い。開店準備、私とひなでやる。お前は……来るなら、無理すんな」


最後の一言だけ、命令の形が少し崩れた。優しさが漏れた。漏れたことに蘭奈は気づいて、また胸を張る。突き出すほどに。


遼人は一拍置いて、静かに頷いた。


「分かりました。……ありがとうございます」


ありがとう、と言われて、蘭奈の胸がまた熱くなる。


熱くなるのに、言えない。


手放したくない、とは言えない。


だから、命令だけ残す。


「明日、時間ずらせ」


それが、蘭奈の精一杯だった。

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