第15話 無理の再発
その日は、朝から空気が速かった。
Edge Girlsのシャッターが上がる音がいつもより少し大きく感じるのは、遼人の心拍が最初から上がっているせいだ。開店準備の手順はもう体に染みている。照明、スピーカー、釣銭、ラック、試着室。順番は迷わない。迷わないのに、今日の迷いは別のところにある。
納品が、ずれていた。
予定していた時間に来ない。来ないまま、午前の客が増える。増える理由も分かっている。近隣のイベント、SNSで流れた新作、天気の良さ。条件が揃っている。揃っているのに、納品だけが揃わない。揃わないと、売り場の計画が崩れる。崩れると、判断が飛ぶ。
鷹宮蘭奈の判断が飛ぶのは、珍しい。
蘭奈は決断が早い。早さは武器だ。武器なのに、今日の早さは刃こぼれしている。早いまま、雑になりかけている。雑になるのは怖さのサインだと遼人は知っていた。数字が崩れる時、人は決断の速さで誤魔化そうとする。
「これ、前に出す」
蘭奈が新作の代わりに旧作の強い色を前に持ってくる。客足が多い日は派手が刺さることもある。判断としては間違いじゃない。けれど今日は、その判断を支える“裏側”が追いついていない。
在庫が薄い。サイズが欠けている。返品棚の回転がまだ途中だ。値札の差し替えも間に合っていない。売り場だけ派手にしても、裏が追いつかなければ崩れる。
遼人は何も言わずに裏へ回った。
裏で帳尻を合わせ続ける日が、久しぶりに来た。
帳尻合わせは、遼人の得意技であり、悪癖でもある。ブラック企業の経理係長として生き延びるために身につけた「無理の技術」。崩れる前に走る。怒鳴られる前に整える。責任が落ちてくる前に拾う。拾って、拾って、拾って、最後に自分が消える。
それを、ここでやってはいけない。
頭では分かっている。
体が先に動く。
納品の遅れに合わせて、代替の品番を抜く。欠品のサイズを確認して、売り場に出す数を調整する。レジの動線を見ながら、補充を切らさない。返品棚の値札を差し替え、値引き基準を揃える。手が止まらない。
止まらないことが、怖い。
午前のピークが来た。
客が三組連続で試着室へ入り、レジには列ができ、問い合わせが重なる。陽那の声が軽いまま速くなる。蘭奈の指示が短く鋭くなる。二人が崩れないように、遼人は裏で全てを回し続ける。
「サイズ、ある?」
「色違い、ある?」
「これ、再入荷する?」
質問が飛ぶたびに遼人が裏へ走る。走って答える。答えて戻る。戻って補充する。補充して値札を整える。
汗が出る。喉が渇く。渇くのに、飲まない。
休憩を飛ばす。水を飲まない。呼吸が浅い。
本人は、気づかない。
気づく余裕がない、というより、気づかないことが生存戦略になっている。気づいたら止まってしまう。止まったら崩れる。崩れたら誰かが困る。困らせたら、また「役に立たなきゃ」が戻る。
戻したくないのに、戻る。
昼過ぎ、陽那がレジ裏から遼人を呼んだ。
「遼人さん、休憩回すよ。今行ける?」
遼人は即答した。
「大丈夫です。後で」
後で、という言葉が危険だと、遼人自身は知らない。後では来ない。後では、もう身体が止まらない。
陽那は一瞬、何か言いかけて飲み込んだ。いつもなら茶化す。いつもなら刺す。今日は刺さない。刺していい空気じゃないのを、陽那はすぐに察する。
蘭奈も忙しさの中で遼人の動きの速さを見ている。速さは頼もしい。頼もしいのに、今日の速さは“嫌な速さ”だ。ギリギリで走る人の速さ。追い詰められた人の速さ。
でも蘭奈も、まだ言葉にできない。
言葉にしたら、自分の弱さが出るからだ。頼っていることが露呈するからだ。怖いからだ。
午後のピークがもう一度来た。納品がようやく届いたのが、逆に追い打ちになる。届けば仕事が増える。検品、タグ、品番、棚入れ、売り場反映。遼人は裏へ飛び込み、段ボールを開け、リストを照合し、手を動かす。腕が重い。肩が硬い。視界が少し狭い。
それでも、止まらない。
閉店前の最後の波。レジに並ぶ客。試着室のカーテンが揺れる。蘭奈の声がいつもより低くなる。陽那の笑顔が少しだけ固くなる。遼人は裏で、帳尻を合わせ続ける。
そして、その事件は、ほんの一瞬で起きた。
閉店前。売り場の奥で、遼人が棚の補充にかがんだ時。
立ち上がろうとした瞬間、視界が一度だけ白く飛んだ。
音が遠のく。床が浮く。耳の奥がきゅっと詰まる。
倒れない。
倒れないが、危ない。
遼人は本能で棚に手をついて体を支えた。手のひらが冷たい。自分の手が冷たいことに、そこで初めて気づく。呼吸が浅い。吸えていない。吸えていないのに、吸っているふりをする癖が出る。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
その漏れを、蘭奈は逃さなかった。
蘭奈の視線が一瞬で遼人に刺さる。刺さった瞬間、蘭奈の中で何かが切り替わる。店長の顔。強気の顔。鎧の顔。それらの裏にある、怖さが表へ出る。
蘭奈は初めて、強い声を出した。
「……座って。今すぐ」
叱責じゃない。怒りじゃない。命令だ。
店長としての命令、という形を装っている。装っているのに、声の奥が震えている。怖い、と言っている声だ。
遼人が反射的に「大丈夫です」と言いかけた瞬間、蘭奈はさらに言葉を重ねた。
「大丈夫じゃない。座れ」
強い。強いのに、優しさじゃなく恐怖が滲む。遼人が崩れるのが怖い。崩れたら自分が何を感じるかが怖い。
陽那も、その声で空気を切り替えた。
遊びじゃない。
弄りじゃない。
いつもの軽さを引く。引いて、動く。
陽那は何も言わずにバックヤードへ走った。走って、水を持ってくる。さらに塩分。飴か、タブレットか、塩飴。手慣れた動き。店の人間としての動き。誰かが落ちそうな時の動き。
遼人は棚を離れて、レジ裏の椅子に座らされた。座らされる、という感覚が久しぶりだった。会社では座る権利がなかった。座ると怒鳴られた。座ると怠け者と言われた。座ることが怖かった。
ここでは違う。
座れ、は守る命令だった。
陽那が水を差し出す。
「飲んで。ゆっくり」
遼人は受け取ろうとして、指先が震えるのを感じた。震えるのに、自分では止められない。
蘭奈がその手を見て、固まった。
そして蘭奈が、遼人の手に触れた。
触れた瞬間に分かる。
冷たい。
指先が冷たい。血が回っていない冷たさ。張り詰めた冷たさ。無理をしている人間の冷たさ。
蘭奈の顔が固まる。
口数が減る。いつもならここで強気に何か言って誤魔化すのに、誤魔化せない。怖さが勝つ。母を失った記憶が一瞬だけ背中を撫でる。大事なものが突然いなくなる怖さが、蘭奈の腹の底に落ちる。
陽那が塩分を手渡す。
「これも。口に入れて」
遼人は頷いて、言われるまま口に入れる。甘じょっぱさが舌に広がり、少しだけ呼吸が戻る。戻るのに、胸の奥のざわつきは残る。自分が危なかったことを、遅れて理解してくる。
蘭奈は遼人の手から離れない。離すとまた冷たくなる気がして、離せない。離せないことを自覚すると、蘭奈はさらに固まる。こんな自分、店長じゃない。強気じゃない。ただの女だ。
遼人は、少し落ち着いてから、ようやく言葉を探した。
「……すみません」
その言葉が、いつもの癖だ。謝る。先に謝る。迷惑をかけたと決めつける。ブラックの世界で身についた反射。
遼人は続けようとした。
「すみません、迷惑を……」
言いかけた瞬間、蘭奈が被せた。
「迷惑とかじゃない」
強い声だった。
命令の強さとは違う。拒絶の強さでもない。
否定の強さだ。遼人が自分を傷つける言葉を言うことへの、反射の否定。
言った瞬間、蘭奈自身が驚いた顔をした。
自分の口から、そんな言葉が出ると思っていなかった。迷惑じゃない、と強く言う自分がいる。強気の店長を装う余裕もなく、ただ怖いから否定した。
怖い。
遼人がここで倒れて、いなくなるのが怖い。
その怖さを認めた瞬間、蘭奈は視線を逸らした。逸らして、胸を張る。突き出すほどに。癖で鎧を作ろうとする。けれど鎧が間に合わない。目の奥の動揺が残る。
陽那はその空気を読んで、何も言わない。
茶化さない。刺さない。笑わない。
ただ、遼人のコップの水が減っているかを見て、もう一度静かに言う。
「もう少し飲んで。呼吸、ゆっくりね」
遼人は頷いて水を飲んだ。喉が潤う。胸が少し戻る。戻ってきた分だけ、自分がどれだけ無理をしていたかが見えてくる。
そして、その無理を誰かが見ていたことも。
遼人はもう一度言いかけた。今度は謝罪じゃなく、説明をしようとした。
けれど言葉が出る前に、蘭奈が短く言った。
「今日は終わり。締めは私が見る。お前は……休め」
言葉遣いは強い。けれど内容は優しい。命令の形をした保護。店長としての指示を装って、実は手放したくないだけ。
遼人はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
「……はい」
返事が小さい。悔しさと安心が混ざる。役に立ちたいのに、立てない。立てないのに、守られてしまう。その矛盾が、胸の奥に甘い痛みを作る。
蘭奈はまだ遼人の手の冷たさを忘れられない。忘れられないから、顔が固いままだ。固いまま、いつもより少しだけ優しい声で言ってしまう。
「……無理すんな」
その言葉が出た瞬間、蘭奈はまた自分に驚いた。優しい言葉が口から出ることに、まだ慣れていない。乙女の自覚は遅いし、恐怖の自覚も遅い。
遼人が「すみません」と言いそうになる前に、蘭奈はもう一度強く言った。
「迷惑とかじゃない」
言ってから、蘭奈は自分の胸が苦しくなるのを感じた。
怖かった。
それだけだった。
それだけなのに、遼人に伝わってしまった気がした。伝わってしまったなら、もう引き返せない。
閉店前の危ない一瞬は、倒れないまま終わった。
けれど、その一瞬で空気は変わった。
遊びじゃない。
賭けじゃない。
生活の方へ踏み込んだ怖さが、ここにある。
そして蘭奈は、その怖さを口にしてしまった。
「迷惑とかじゃない」
強く言ってから、自分で驚いたまま、黙って遼人の手を離せなくなっていた。




