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『ブラック企業で死にかけた経理係長、ギャル服店に拾われる』 ─拾ったのは、強気なギャル店長  作者: 月白ふゆ


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第13話 揃っていく生活

朝、目が覚めた瞬間に「終わった」と思わなくなった。


鳴海遼人は、布団の中で一度だけ呼吸を確かめてから起き上がる。以前なら、目が開いた瞬間に胃が縮み、スマホの通知の数だけで喉が詰まった。起きること自体が、負けの始まりみたいだった。


今は違う。


窓の外がまだ薄暗いことに、少しだけ安心できる。急かされていない。追い立てられていない。時間が自分の手元にある。台所で湯を沸かし、カップに白湯を注ぐ。飲むとき、胃が痛くない。痛くないことに驚かなくなったことが、もっと驚きだった。


服を着る手も迷わない。何を着ても怒鳴られない場所へ行くからだ。スーツの首元を締める必要もない。肩を固める必要もない。今日の自分は、誰かに潰されるために出勤するわけじゃない。


それでも、遼人の中に残る癖はまだある。


家を出る前に、無意識にスマホを確認してしまう。通知が増えていないか。会社から何か来ていないか。怖さの残り火が、指先に残っている。


けれどその指先は、すぐ別の“確かさ”に触れる。


ポケットの中の鍵。Edge Girlsの鍵だ。


金属の冷たさが、妙に落ち着く。会社のカードキーとは違う。入るための鍵じゃなく、開けるための鍵。誰かの許可で入る場所じゃなく、自分が開ける場所だ。


駅のホームで電車を待ちながら、遼人はふと思った。最近、自分の歩幅が少しだけ大きくなっている。人混みに押されて縮こまることが減った。息が浅くならない。肩が上がらない。


そして店の前に立った時、手が迷わない。


シャッター脇の鍵穴に鍵を差し込む。回す。カチリと鳴る音。扉が少しだけ開く。そこから店の匂いが流れ出す。布と香水と、段ボールと、音楽の残り香。


遼人は、静かに扉を開けた。


店内の照明を順に点ける。スピーカーの電源を入れる。まだ音は出さない。先に空気を整える。マネキンの位置をざっと確認し、床の目立つゴミを拾う。ほんの数分の作業なのに、心が落ち着く。


整う、という感覚が、ようやく生活に戻ってきていた。


ほどなくして、扉がもう一度開く音がした。入ってきたのは白河陽那だった。ゆるふわの雰囲気のくせに、動きは無駄がなく、挨拶はいつも軽い。


「おはよ。早っ。もう開けたの?」


「あ、おはようございます。はい。いつもこのくらいです」


「もう当たり前になってるの、すご」


陽那は笑いながらレジ周りに直行し、釣銭の確認を始めた。遼人はその横で、今日の入荷チェック表を取り出して、品番を照合する。以前なら、朝の作業を始めるだけで緊張していたのに、今は“やることがある”ことが落ち着く理由になっている。


バックヤードから足音がした。


速い。迷いがない。空気が一段締まる。


鷹宮蘭奈が入ってきた。


黒の攻めファッションは今日も健在で、胸元のラインが強い。けれど最近、遼人はそれを“武器”として見るだけじゃなく、そこに込められた癖まで読み取ってしまう。落ち込んでいる時ほど胸を張る。今日は張り方が一定で、鎧が重すぎない。


蘭奈は売り場を一瞥してから、短く言った。


「おはよ」


その言い方が、ほんの少しだけ柔らかい。本人は自覚していない顔をしている。


「おはようございます」


遼人が答えると、蘭奈は頷いた。頷いて、腕を組みかけて、やめた。最近、腕を組む頻度が減っている。理由は分からないふりをしているが、たぶん分かっている。


「今日の開店準備、分担確認する」


店長っぽい指示だ。蘭奈は“店長っぽく”言うとき、語尾が少しだけ硬くなる。背伸びの硬さ。


遼人は一拍も置かずに返す。


「はい。僕が入口の新作ラックと値札差し替え、バックヤードの入荷チェックやって、白河さんはレジ周りと小物、店長はマネキンと試着室の最終確認で大丈夫ですか」


陽那が釣銭ケースを持ったまま、くすっと笑った。


「店長、先に全部言われたじゃん」


蘭奈の眉がわずかに動く。悔しそうというより、反射的に強気を作る動き。


「……それでいい」


短い。けれど、以前みたいな拒絶じゃない。“任せる”の短さだ。


遼人はそのまま入口のラックに向かい、昨日の売れ筋と今日の新作の配置を入れ替える。客の目線が最初にぶつかる場所に、強いアイテムを置く。次に、試着へ誘導するアイテムを置く。最後に、小物で単価を上げる導線を作る。数字の考え方が、そのまま売り場の組み方になる。


音楽が流れ始める。店の顔が戻ってくる。


開店準備の空気は、もう“戦場の緊張”じゃない。生活のリズムになりつつあった。


扉を開ける時間も、照明を点ける順番も、ラックを整える手の動きも、だんだん揃ってきている。揃うと、心が揃う。


午前中の客足はほどほどで、常連が数人、新規が数組。陽那は軽いテンポで声をかけ、蘭奈は短く刺す言葉で決め、遼人は必要な時だけ裏から前に出る。


「それ、サイズある?」


迷っている客が問うと、遼人は即座にバックヤードへ回り、該当品番の在庫を探し当て、タグを確認して戻る。以前なら“間違えたらどうしよう”が先に来た。今は“見ればいい”になっている。見れば分かる。分かるなら動ける。動けば助かる。


助かる、という感覚が、遼人の生活の中で増えている。


昼前、売り場が落ち着いたタイミングで、蘭奈が小さく顎を動かした。


「休憩、回す」


店長っぽい指示。店長っぽいというより、もう店長の指示になっている。


「僕、先に行きます。戻ったら日報の簡易版、入力しておきます」


遼人がそう言うと、陽那が目を丸くした。


「日報?」


「簡易でいいかなって。売れ筋、客層、返品の気配、在庫の危ないところ。三行くらいでも残すと、次の判断が早くなります」


蘭奈は一瞬だけ黙った。日報は“会社っぽい”響きがあるからだ。蘭奈は会社の匂いを嫌う。母の店を守る感覚は、もっと生活に近い。


けれど遼人が言う日報は、管理のためじゃなく、生活のためのメモだ。未来の自分を助けるための小さな手すり。


蘭奈は短く言った。


「……やれ」


許可。短いけれど、重い許可。


遼人は休憩室代わりのバックヤードの一角で軽く食べ、白湯を飲む。胃が痛くない。食べられることが、ちゃんと生きている証拠になる。


戻ってくると、陽那が当たり前のようにレジ前に立っていた。蘭奈は棚の奥でタグを確認している。遼人はノートを開き、簡易日報を三行だけ書く。今日は新作の反応が良いこと、試着率が上がっていること、返品棚の回転が見えたこと。


それだけで、店の今日が“形”になる。


午後の客が増え、忙しさが上がると、ルーティンがさらに効いてくる。誰がどこを見るかが揃っているから、忙しさが暴力にならない。


レジが混めば陽那が回し、試着が増えれば蘭奈が決め、バックヤードが詰まれば遼人が捌く。三人の動きが自然に噛み合う。噛み合うと、空気が荒れない。


そして、その空気の中でだけ、余計なものが浮かび上がる。


昼休憩の二巡目。客足がまた落ち着いた頃、陽那がレジの奥で紙コップを手にしながら、さらっと言った。


「てかさ、出勤時間も退勤時間も一緒とか、店長もウチももう夫婦じゃん」


言い方が軽い。軽いのに、刺す場所は正確だ。陽那はいつもそうだ。


遼人は反射的に答えた。


「違います」


即答できた。できたのに、語尾が弱い。断言の形をしているのに、息が少しだけ抜ける。自分でもその弱さに気づいてしまい、遼人は紙コップの縁を無意識に指でなぞった。


陽那は笑う。


「ほら、弱い。今の『違います』、半分『そうかも』入ってた」


「入ってないです」


「入ってるって。店長、今の聞いた?」


振られた蘭奈は、棚の奥でタグを見たまま動きを止めた。


いつもなら即否定する。いつもなら「夫婦じゃない」と速攻で切る。今日の蘭奈は、切れない。


否定できず、少しだけ間が空く。


その間のせいで、言葉が“本当”になる気配が増す。


蘭奈は、息を一つ吐いて、話題を仕事に戻した。


「返品棚、今日もう一回回転見ろ」


逃げ道が仕事。蘭奈のいつもの防御。けれど、その防御が“動揺しているからこそ”だと陽那には丸見えで、遼人にも、たぶん分かってしまう。


遼人は頷いた。


「はい。午後の波が引いたら、値引き基準も確認します」


陽那が口元だけで笑う。小悪魔の笑い。確信犯の笑い。けれど、目は優しい。奪わないと決めた人の目だ。


売り場に戻ると、蘭奈はいつも通り胸を張り、いつも通り短く指示を出した。攻めのファッションも、強気の圧も、変わらない。


ただ一つだけ、変わっていることがある。


遼人の顔色を、蘭奈が無意識に一度だけ見ていた。水分を飲んだか、息が浅くないか、それだけを確かめるように、ほんの一瞬視線が寄る。


それは1秒にも満たないくらいの小さな動きなのに、遼人の胸にははっきり残った。


夕方。客が引いていく。閉店の準備が始まる。


締め作業も、もう迷わない。レジの集計、釣銭の確認、売上の記録、返品の記録、簡易日報。三人の手が勝手に動く。勝手に動くというのは、ルーティンになったということだ。


整っていく生活は、言葉より先に体に染みる。


陽那が先に「お疲れ」と言って上着を羽織る。退勤前に、以前よりほんの少しだけ距離を詰めて、遼人の腕に軽く触れる。触れて、何でもない顔で帰る。


扉の鈴が鳴り、店の中は二人になる。


沈黙が来る。来ても、苦じゃない。


むしろ、同じ空間で同じ呼吸をしていることが、当たり前になってきている。


遼人はファイルを棚に戻し、最後の確認をしてから言った。


「明日も同じ時間で大丈夫です」


その言葉は、予定確認の形をしているのに、生活の確認でもあった。ここに来る。ここを開ける。ここで整える。その繰り返しを、続けられるという確認。


蘭奈は一拍だけ置いて、短く返した。


「……うん」


短い返事。目を逸らす。逸らす先は、遼人の顔じゃなく、棚のラベルでもなく、床でもなく、どこでもいい場所。逸らして誤魔化す。誤魔化すのに、拒絶じゃない。


遼人はその「うん」を受け取って、静かに頷いた。


そこへ、帰りかけの陽那が扉のガラス越しにちらっと振り返った。ほんの一瞬だけ、二人の距離と空気を見て、口元をニヤりと歪める。


何も言わない。言わないのに、分かっている顔だ。


扉の向こうで手をひらひら振って、陽那は去っていく。


店内に残るのは、二人分の静けさ。


鍵を閉める手が迷わない。明日も同じ時間でいいと言える。短い「うん」が返ってくる。


揃っていく生活は、恋みたいに派手じゃない。


けれど、派手じゃないからこそ、じわじわと逃げ道を塞いでくる。


戻れなくなる。悪い意味じゃなく、戻りたくなくなる。


遼人がシャッターに手をかけると、蘭奈が隣に立った。肩が触れそうで触れない距離。触れないのに、温度だけが分かる距離。


二人でシャッターを下ろす音は、今日も少しだけ小さく感じた。

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