第10話 陽那は見ている
朝の店は、昨日の続きみたいな顔をしている。
シャッターが上がる音。照明が点く音。スピーカーの低い立ち上がり。マネキンの影が床に伸びて、ハンガーの金具が軽く鳴る。Edge Girlsの一日が始まる合図は、どれも同じだ。
なのに、同じじゃない。
陽那は、出勤して最初に空気の“引っかかり”を確かめる癖がある。母の代からこの店を見てきた人間の嗅覚は、数字より先に温度差を拾う。客が増える前の静かな時間ほど、その差ははっきり出る。
今日は、引っかかりがあった。
遼人が、レジ横の棚を整えながら視線を上げる回数が減っている。落ち着いた、というより“決めている”。何かが起きても慌てない顔。昨日までの彼は、慌てないようにしている顔だった。今日は、慌てない顔だ。
そして、蘭奈。
蘭奈は相変わらず、黒の攻めファッションで店の真ん中に立っている。胸元のカットは深い。布が胸の形を拾い、鎖骨の線が目を引く。落ち込んでいる時ほど胸を張る癖はまだ抜けていない。むしろ今日も、張っている。突き出すほどに。
でも、硬さが違う。
昨日までの“張り”は鎧だった。今日は、鎧のままだけど、その下にある呼吸が少しだけ見える。張りながら、息を吐いている。強く見せることで自分を殺すんじゃなくて、強く見せた上で生きている。
その変化は、遼人が前に出た日から始まっている。
陽那は、それを見ている。
見ているから、確信してしまう。
二人は、もう前と同じじゃない。
レジの釣銭を確認している遼人の指先は、落ち着いている。必要な時だけ速くなる。目線は売り場にも行くけれど、戻り方が迷わない。迷わないというのは、居場所があるということだ。
店の人、になっている。
陽那が笑いながら近づいて、わざと軽く言った。
「ねえ、遼人さん。もう“係長”って呼ぶと怒る?」
遼人は少しだけ眉を動かしてから、口元だけで笑った。
「怒りません。……でも、戻りそうにはなります」
正直に言うようになった。その正直さは、弱さじゃない。信頼の上に乗る正直さだ。
陽那は、それが嬉しかった。嬉しいのに、嬉しいと言うのは照れ臭い。だからいつものように刺す。
「じゃあ、やめとこ。係長って呼ぶと、店長が機嫌悪くなるし」
奥で棚を見ていた蘭奈が、即座に反応する。
「悪くならない」
速い。反射的。否定が先に出る。
陽那は肩を揺らして笑った。
「ほら、すぐ反応する。見てるじゃん」
蘭奈は腕を組む。胸が強調される。攻めの鎧。けれど、今日はその腕組みが“壁”というより“姿勢”に見えた。壁じゃなく姿勢なら、少しだけ近づける。
遼人は、視線をレジの表に落としたまま淡々と言った。
「白河さん。朝から煽らないでください」
「煽ってないよ。確認。二人の変化の確認」
陽那は笑って、わざと遼人の肩に軽く触れた。触れる距離は、いつも通り。甘い確信犯の距離。遼人は振り払わない。振り払わないことが、最近の“普通”になっている。
蘭奈の視線が、一瞬だけそこへ落ちる。
落ちて、すぐ逸れる。
逸れるのに、胸を張る。突き出すほどに。いつもの癖。だけど今日は、その癖が少しだけ可愛い側に転んで見える。陽那は内心で小さく笑った。
蘭奈の“乙女”が、また一段出てきている。
遼人はそれを見ないふりをする。見ないふりをしながら、見ている。陽那には分かる。見てないふりが上手くなっただけで、意識はしている。
だから、陽那はそこで自分の立ち位置を決めた。
来るなら来い。
でも奪わない。
奪って勝っても、店が壊れる。蘭奈が壊れる。遼人が戻る。そうなったら、陽那はこの店で生きてきた自分を許せなくなる。
陽那は、奪わない代わりに“試す”。
二人がちゃんと進むなら、後ろから押す。
二人が止まるなら、笑いながら背中を蹴る。
二人が逃げそうなら、逃げ道を塞がずに、帰ってくる場所を作る。
それが陽那の「賭け」だった。
開店してすぐ、客が入り始めた。
若い女の子が二人、入口の新作ラックで立ち止まる。陽那がすぐに近づき、短い言葉で流れを作る。「それ似合う」「こっちもある」「試着いける」。迷いが消えると、客は動く。動けば売れる。
蘭奈は売り場の中央に立ち、視線だけで店全体を支配する。声は少ない。けれど少ない言葉が刺さる。「それでいい」「こっち」「着ろ」。押しが強い。押しが強いのに嫌じゃないのは、蘭奈が“似合う未来”を見せるからだ。
遼人は売り場の端で、値札の差し替えをしながら客の導線を見ていた。値札ひとつで客の滞在時間が変わる。滞在時間が変われば試着が増える。試着が増えれば購買が増える。数字の流れを頭の中で組み立てる顔は、もう“係長”のそれじゃない。
“店の人”の顔だ。
陽那は、レジの前でわざと大きく伸びをした。
ゆるふわの仕草。ふわっとした笑顔。けれど身体は真逆で、胸の存在感が強い。蘭奈より大きい胸。隠しきれない差。伸びをすれば、当然アピールになる。
確信犯。
陽那は自分で分かっていて、わざとやる。
遼人の視線が一瞬だけ陽那の方に流れた。すぐに戻る。でも、その“一瞬”を陽那は逃さない。遼人が人間であることの証拠だ。
そして、その“一瞬”を蘭奈も逃さない。
蘭奈の目が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。鋭くなるのに、何も言わない。言わないで、胸を張る。突き出すほどに。競争ではない。だけど、そこに小さな火は確かにある。
陽那は、それを見て内心で頷いた。
よし。
火がある。
火があるなら、動く。
陽那はレジに来た客の会計をしながら、わざと遼人に声をかけた。
「遼人さん、これ、在庫どこだっけ?」
遼人は即答する。
「トップス棚の奥です。ラベル、二段目」
その答え方が、もう現場の人間だ。迷いがない。しかも言い方が短い。売り場のテンポに合わせている。
「ありがと。やっぱ頼りになる」
陽那はわざと甘く言った。声の温度を上げる。確信犯の弄り。客の前ではやらない。スタッフの前でだけ、やる。蘭奈に“見える形”でやる。
蘭奈が遠くから聞いていて、わざとらしく鼻で笑った。
「調子に乗らせるな」
陽那はレジの奥で、わざと目を丸くして見せた。
「え、店長。今、嫉妬?」
「してない」
速い否定。速いほど図星に見える。
陽那は肩を揺らして笑った。
「じゃあ、遼人さん。店長、嫉妬してないって」
遼人は困ったように眉を下げた。
「白河さん、やめてください」
「やめない。だって面白いもん」
陽那は笑いながら、わざと胸を張った。張るだけで存在感が増す。蘭奈の“攻め”とは違う、陽那の“見せつけ”だ。
遼人の視線がまた一瞬だけ流れる。すぐ戻る。戻るけれど、頬がほんの少し赤い。自覚がある赤さ。
陽那は、その赤さを見て確信した。
遼人は今、誰かに向ける感情を取り戻し始めている。
それが蘭奈に向くなら、押す。
それが自分に向くなら……受け止める。でも、奪わない。
陽那の賭けは、そこでさらに明確になった。
閉店後、店内が静かになった。
客の匂いが抜け、音楽も止まり、照明が少し落ちる。レジ締めの時間。遼人が締め表を整え、陽那が横で確認し、蘭奈が少し離れて腕を組んで見る。
この距離感も、もう固定だ。
けれど今日、蘭奈の距離に小さな穴が空いた。
遼人が数字を確認して、必要なメモを書き足し、ファイルに戻す。その流れが終わったタイミングで、蘭奈がふいに言った。
「……遼人」
名前で呼ぶ声が、昨日より少しだけ柔らかい。
遼人が顔を上げる。
「はい」
蘭奈は、一拍だけ間を置いた。決断が早い人の、珍しい間。言葉を選ぶ間。
「今日さ」
短い出だし。いつもならそこで命令が来る。けれど今日は違った。
「……見てた」
遼人の眉が少しだけ動く。
「何をですか」
蘭奈は一瞬、言葉に詰まった。詰まって、胸を張る。突き出すほどに。鎧の癖。けれど、言い切るまで逃げない。
「……ひなの胸」
陽那が吹き出した。
「え、店長、そこ認めるんだ」
「認めてない」
速い否定。けれど、否定しきれていない。
蘭奈は頬を少しだけ赤くして、視線を逸らしながら続けた。
「見てたっていうか……お前が、見たか見てないか、見てた」
言っていることがややこしい。けれど意味は単純だ。
遼人が何を見ているかを、蘭奈が見ている。
遼人の胸がわずかに詰まるのが、陽那にも分かった。言葉を失いかけた顔。
陽那は、そこへわざと刺しにいく。
「遼人さん、見てた?」
遼人は少しだけ息を吸って、吐いて、正直に言った。
「……一瞬だけ、です」
陽那が嬉しそうに笑う。
「素直。いいね」
蘭奈は、そこで怒らなかった。
怒る代わりに、胸を張った。突き出すほどに。そして、信じられないくらい小さく言った。
「……見たけりゃ、見てもいい」
陽那の目が丸くなる。
遼人の目も丸くなる。
蘭奈は、言ってしまった自分に驚いた顔をして、すぐに強気に戻ろうとする。強気に戻ろうとして、戻りきれない。頬が赤いまま。
「ただし」
蘭奈が言葉を足す。条件をつければ、鎧が保てる。
「……堂々と見るな。腹立つから」
陽那が笑いを堪えきれず、肩を揺らした。
「何それ。見てもいいけど堂々と見るなって、乙女すぎ」
「乙女じゃない」
「乙女だよ。店長、ほんと乙女」
蘭奈は睨む。睨むのに、目が強くない。照れの睨みだ。
遼人は、その会話の中心にいるのに、いつも通りうまく言葉が出ない。責任を被る時は言えるのに、こういう時は言葉が詰まる。人間らしい詰まり方だ。
陽那は、そこで自分のスタンスをはっきりさせることにした。
ここから先は、曖昧にすると壊れる。笑いで誤魔化せる段階が終わりかけている。
陽那はレジ締め表を片付け、手を軽く叩いた。
「よし。じゃあ私、宣言する」
蘭奈が眉を上げる。
「何を」
陽那はにこっと笑った。いつもの小悪魔の笑顔。けれど、目は真面目だ。
「遼人さん。来るなら来い。うち、歓迎する」
遼人の背中が少しだけ硬くなる。来るなら来い、という言葉が刺さる。誘いにも挑発にも聞こえる。
陽那はそこで、もう一段言葉を足した。
「でも、奪わない」
空気が一瞬だけ止まった。
奪わない。
その言葉は、軽い陽那の口から出ると、逆に重い。
蘭奈の目が陽那を捉える。警戒というより、確認の目だ。陽那の本気を測る目。
陽那は笑ったまま、でも逃げずに続けた。
「店長のこと、私、ずっと見てきたから。店長の店、奪う気はない。店長の大事なもの、奪う気もない」
蘭奈が息を止めかけて、止めなかった。胸が少しだけ上下する。鎧の下の呼吸。
陽那は、そこでわざと胸を張った。突き出すほどに。自分の武器を使う。自分が“女”であることも、ちゃんと場に置く。奪わないと言いながら、牽制はする。賭けは賭けだからだ。
「でもさ」
陽那は遼人を見た。遼人は目を逸らせない。
「遼人さんが来たら、私は楽しい。私の胸も見ていい。店長が許可出してるし」
「出してない!」
蘭奈が即座に否定する。速いほど照れに見える。
陽那は笑う。
「ほら、店長、今の反応。やっぱ見てほしいんじゃん」
蘭奈は言い返そうとして、言葉を探して、見つからない。見つからないから胸を張る。突き出すほどに。鎧の癖。
遼人が小さく咳払いをした。空気を戻すための咳払い。
「白河さん」
遼人が言うと、陽那は少しだけ顔を柔らかくした。
「うん。分かってる」
陽那は軽い女に見える。でも軽さの奥で、線を引ける。引くべき線を引ける。
「奪わないって、そういうこと。私が勝ちたいのは、店長に勝つことじゃない。遼人さんが“戻らない”こと」
遼人の胸が少しだけ熱くなる。陽那は、そこを見ている。
会社に戻ることが怖いことも、係長という呼び名に戻りそうになることも、そして“居場所ができた時ほど失うのが怖い”ことも。
陽那は全部、笑いながら見ている。
蘭奈が、静かに言った。
「……ひな」
呼び方が柔らかい。母の代からの呼び方。
「奪わないなら、好きにしろ」
許可みたいな言い方。強気の皮を被った、信頼の言葉。
陽那は嬉しそうに笑った。
「うん。好きにする。でも、店長の前ではやりすぎない。……たぶん」
「たぶんって何だ」
「確信犯だから」
陽那が胸を張って言うと、蘭奈がため息をついた。ため息が、昨日より軽い。遼人はその軽さを見て、少しだけ安心した。
蘭奈は、遼人に視線を向けた。
今日は逸らす速度が少し遅い。遅いということは、逃げないということだ。
「……さっきの話」
蘭奈が言う。さっきの、見たけりゃ見てもいい、の話。
遼人が息を吸って、吐いて、言葉を選ぶ。
「見ていいと言われると、逆に困ります」
陽那がすぐ笑う。
「真面目か」
蘭奈は頬を赤くしたまま、強気の形を作る。
「困るなら、見るな」
「……でも、見ていいとも言いましたよね」
遼人が返すと、蘭奈の目が一瞬止まった。遼人がこういう返しをするのは珍しい。陽那の影響もあるし、蘭奈が少しずつ“受け取れる”ようになった影響もある。
蘭奈は、視線を逸らして胸元の布を指で軽く引いた。攻めのラインを整える仕草。武器を整える仕草。でも今日はそれが、照れ隠しにも見える。
「……見たいなら、素直に見ろ」
言い直した。
「ただし」
また条件をつける。鎧の支え。
「私の前で、ひなの胸ばっか見るな」
陽那が大笑いした。
「うわ、店長。完全にそれ」
蘭奈が睨む。
「うるさい」
遼人は言葉を失いかけて、でも失わずに言った。
「……分かりました」
その返事が、何を分かりましたと言っているのか、本人にも分からない。分からないのに、蘭奈の胸の奥に何かが落ちたのが見えた。強気の仮面の奥で、ほっとした顔をする一瞬。
陽那は、その一瞬を見て確信を深めた。
信頼は転換した。
そして今、関係がもう一段、固定され始めている。
蘭奈は距離を保つことで守ってきた線を、少しだけ動かし始めた。遼人は店の人として前に出る言葉を覚え始めた。陽那は奪わないと決めた上で、賭けを張り続けると決めた。
閉店後の店内で、三人の配置がいつも通りに戻る。
レジ締め表がファイルに収まり、棚のラベルが揃い、最後の照明が落ちる。
陽那は扉の前で振り返り、遼人にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「ね。遼人さん。怖くなったら、ちゃんと言って」
遼人が目を上げると、陽那はいつもの小悪魔の笑顔をしているのに、目だけが真面目だった。
「言ったら、私、笑って止めるから。店長も、笑いながら止めるから」
遼人は、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
陽那は肩をすくめる。
「礼はいらない。仕事。……って言えば、店長と同じ逃げ道でしょ」
そう言って、陽那は去っていった。
残ったのは、遼人と蘭奈。
蘭奈は相変わらず胸を張っている。突き出すほどに。攻めの鎧はまだ強い。けれど今日、その鎧の下にあるものが少しだけ見えた。
「……遼人」
蘭奈が呼ぶ。距離のある呼び方。でも、昨日より柔らかい。
遼人が振り向く。
「はい」
蘭奈は一拍置いて、言った。
「見てもいいって言ったの、忘れるな」
遼人は言葉を失いそうになり、飲み込んで答えた。
「忘れません」
蘭奈は鼻で笑った。
「素直か」
「店長が言ったからです」
「……調子に乗るな」
いつもの強気。
けれど、そこに微かな笑いが混じっていた。
陽那の賭けは、今日、形になった。
来るなら来い。
でも奪わない。
奪わない代わりに、見せる。胸も、笑いも、覚悟も。
そして、店長が初めて“見ていい”と言った。
それはただの挑発じゃない。
距離を保ちながら、少しだけ線を動かす合図。
固定された関係が、次の段階へ進む合図だった。




