第1話 数字の外側で、壊れかける
今回は、できるだけ普通の恋愛ものを書いてみました。
断罪も逆転も法廷もなく、世界も救いません。
あるのは、仕事で一度壊れかけた男と、強気で不器用な女と、少し意地の悪い優しさを持ったもう一人の女が、同じ場所で日常を続けていく話です。
恋愛としては地味で、進み方も遅いと思います。
大きな告白や派手な出来事はありませんが、
気づいたら距離が変わっていて、生活が揃っていく――
そんな関係を書いてみたかったのだと思います。
肩の力を抜いて、
日常の延長として読んでもらえたら嬉しいです。
ブラック企業、過労、責任の押し付け。
どれも珍しい話ではありません。
でも、それに耐え続けることが
美徳である必要はないと思っています。
※本作はフィクションです。
実在の企業・人物・団体とは関係ありません。
それでは、
鳴海遼人が拾われるところから、
どうぞお付き合いください。
蛍光灯の白は、夜になるほど鋭くなる。
東辰ソリューションズ株式会社、十三階。窓の外には都心の灯りが広がっているはずなのに、鳴海遼人の視界には、液晶の数字しか映っていなかった。白地に黒い桁。赤い警告。セルの角に小さく付いた三角形のエラー表示。目の奥が、ずっと乾いたまま瞬きだけを繰り返す。
月末。しかも四半期末。
「鳴海、これ、今日中な」
背後から飛んできた声は、叩きつけるみたいに短い。振り向くまでもなく、誰の声か分かる。課長の川添だ。声が大きいわけじゃないのに、いつも喉の奥がざらつく。
遼人は椅子から半分だけ体を起こし、返事を口に出す前に画面を一度見直した。資料は、ドンと机に置かれている。紙の束の角が、彼のキーボードを少し押した。キーボードの右端が、ほんの数ミリ机の縁からはみ出す。
「……内容、確認します」
「確認じゃねえよ。締めろ。営業が、明日朝イチで欲しいって言ってんだ。経理だろ? 数字は合ってりゃいい」
合ってりゃいい。そんな言葉を、経理に向かって平気で言う人間が、この会社にはいる。しかも上司として。
遼人は資料の表紙をめくった。見慣れた取引先名、見慣れない金額、そして見慣れない勘定科目。何より、添付されている稟議番号が空欄だった。
「稟議、これ……」
言いかけた瞬間、川添の笑いが鼻で鳴った。
「今さら言うな。現場で回ってんだよ。鳴海、お前は会社を止めたいのか?」
止めたいのか。止めたいのは、会社じゃない。自分の呼吸だ。
「分かりました。締めます」
そう答えた声は、自分のものなのに遠く聞こえた。川添は満足したように去っていく。スーツの裾が、蛍光灯の下でやけに黒く見えた。
遼人は、資料を読み込む。数字の出所を追い、伝票を引き、システムの画面を切り替え、検索欄に取引先コードを打ち込む。指が勝手に動く。仕事で身についた反射は、もう体の一部になっている。
なのに、どこかが追いついていなかった。
画面の端が滲む。文字が微妙に波打つ。目のピントを合わせようとすると、額の奥がきゅっと締まる。首筋が硬い。肩甲骨の間に小さな石を詰め込まれたみたいに、呼吸が浅い。
椅子の背にもたれると、背中の骨が軋む感じがした。遼人は背筋を伸ばして座り直す。伸ばすだけで、少し吐き気がした。
経理係長。二十七歳。
肩書きだけ聞けば、そこそこちゃんとした人間みたいに見えるだろう。けれど、現実は違う。係長という名の、便利な雑用係だ。上には課長がいる。だが課長は、責任を背負わない。上が背負わないぶん、下が背負う。正確に言うと、背負わされる。
本来は、決算の数字を守るのが経理の役目だ。数字は会社の骨だ。骨が歪めば、いずれ内臓が潰れる。
でもこの会社では、骨を守るより、骨を曲げてでも動かすことが評価される。期日が全て。期日を守るためなら、プロセスはどうでもいい。プロセスがどうでもいいから、問題が溜まる。溜まった問題は、いつも最後に経理に降ってくる。
遼人は、もう何度もそれを経験していた。
だから本当は分かっている。今この資料も、締めたら終わりじゃない。締めた瞬間に、何かが始まる。どこかで矛盾が噴き出し、その原因が、締めた自分に向く。
それでも、締める。
締めなければ、今日が終わらない。
終わらない日が続くと、人は、いつか壊れる。分かっているのに、壊れるまで止まれない。止まる方法を知らない。
それがブラック企業の一番怖いところだ、と遼人は思う。暴力より、脅しより、じわじわと「自分で自分を追い込む癖」を染み込ませる。
時計を見る。二十二時四十分。
周りの席は、半分以上が空いていた。いつも一緒に残っていた後輩も、今日は帰された。川添が「若手は帰せ」と言ったからだ。帰せと言いながら、仕事は増やす。矛盾が日常になっている。
「鳴海さん、これ、置いときますね」
さっきまでいた派遣の女性が、机の端にコンビニの小さな紙袋をそっと置いた。遼人は礼を言うタイミングを失い、画面を見たまま、小さく頭を下げただけになった。
彼女はそれでも気にせず、いつものように柔らかく笑った。
「無理しないでくださいね」
無理をしないで、という言葉が、ここでは最も現実味のない祈りに聞こえる。
遼人は紙袋を開けない。食べれば少しは回復するのかもしれない。でも食べるという行為には、体力が要る。今は、胃を動かす余裕がない。コーヒーだけが、ずっと机の上にある。冷えたブラック。苦みが舌に残って、口の中が乾く。
数字を締める。仕訳を起こす。未払を積む。仮勘定を振り替える。エクセルの表に、修正の印を付けていく。赤いセルが消えていく。消えるほど、別のところが赤くなる。
それでも、最後には、すべてが「合う」。
この会社で求められるのは、正しい数字じゃない。「合う数字」だ。
合うように作った数字は、いつか現実とズレる。そのズレを埋めるのは、いつも誰かの睡眠と胃と心臓だ。
遼人の胸の奥で、なにかが小さく折れる音がした気がした。実際に音がしたわけじゃない。けれど、確かに何かが折れた。折れたものが何か、分からない。分からないまま、手だけは動く。
二十三時を過ぎたころ、社内チャットの通知が鳴った。
「至急」
川添からだ。短いメッセージに、添付ファイルが付いている。遼人はクリックする前に、息を整えようとした。喉の奥がひゅっと鳴り、うまく空気が入らない。
ファイルを開く。そこには、別の案件の修正依頼が書かれていた。しかも、「明日朝まで」。
遼人は、画面を見つめたまま動けなくなる。
明日朝まで。
明日朝まで、という言葉が、何度も何度も彼の中で反響した。意味としては理解できる。実際にやるべき作業量も、だいたい分かる。分かるのに、頭の中でそれを処理できない。パソコンの前で固まったまま、時間だけが過ぎる。
椅子の肘掛けを握った。指先に力を入れたのに、腕が自分のものじゃないみたいだった。
遼人はゆっくりと立ち上がり、給湯室へ向かった。廊下の床が妙に柔らかく感じる。足の裏が、床に沈む。まるでこのビル全体が、遼人を飲み込もうとしているみたいだった。
給湯室の蛍光灯は、執務室よりも冷たい。水を飲む。コップのふちが歯に当たり、小さな音がする。水は冷たいのに、喉を通る感覚が薄い。
鏡があった。自分の顔が映っていた。
頬がこけている。目の下が暗い。唇の色が薄い。髪は整っているはずなのに、どこか乱れて見える。スーツの襟が、少しよれている。
遼人は鏡に向かって「大丈夫」と言おうとした。口が開いた。声は出なかった。
代わりに、腹の底から何かがせり上がる。吐き気。冷汗。視界の端が暗くなる。遼人は咄嗟に洗面台の縁を掴んだ。指が滑る。水滴がついていた。わずかに力を入れ直しただけで、手首が痛んだ。
――あ、これ、まずい。
体が先に理解した。頭は遅れてついてくる。
遼人は深く息を吸おうとした。吸えない。胸が硬い。心臓だけが速くなる。鼓動が喉にまで響く。耳の奥が熱い。世界の音が遠のく。
「鳴海?」
背後から声がした。誰かが給湯室に入ってきた。川添ではない。もう少し若い、男性の声。営業の誰かだろう。
遼人は振り向けない。振り向いたら、倒れる。そんな確信があった。
「……大丈夫です」
口はそう言った。でも、声は自分のものに聞こえなかった。
「顔、やばいっすよ。帰った方が……」
帰った方がいい。そんな当たり前の言葉が、どれほど救いになるか。この会社では、誰も言わない。言っても、帰れない。帰っても、仕事が残る。残った仕事は、翌日に倍になって戻る。
遼人は、洗面台に置いた手をゆっくり離した。指先が震える。震えを隠すために、ポケットに手を突っ込んだ。ポケットの中で、スマホが冷たい。
「……あと少しです」
営業の男は、何か言いかけたが、結局言わなかった。代わりに、ため息に近い息を吐いて、出ていった。
給湯室に一人になる。
遼人は鏡を見た。鏡の中の自分は、まだ立っている。でもそれは、立っているというより、倒れないように固まっているだけだった。自分が自分を支えている。支えられる側も自分だ。逃げ場がない。
そのとき、突然、気づいた。
このまま続けたら、本当に死ぬ。
比喩じゃない。ほんとに。死ぬ。
死ぬ、という言葉が、遼人の中で「現実の可能性」として立ち上がった瞬間、恐怖より先に、妙な静けさが来た。
――じゃあ、やめるしかない。
やめる。辞める。会社を。仕事を。
辞めるなんて簡単だ。退職届を書くだけ。提出するだけ。引き継ぎとか、手続きとか、そんなものは後でいい。死ぬよりは、ずっと軽い。
遼人は執務室に戻った。デスクの上の書類の山が、さっきより高く見える。椅子に座る。座った瞬間、背骨がわずかに鳴った。
退職届。どこかで見たフォーマット。社内ポータルにある。遼人は検索し、テンプレートを開いた。文字を打つ。
「一身上の都合により」
それは、嘘ではない。自分の都合だ。生きるという都合。
日付。氏名。所属。
指が震えていても、文字は打てる。体の反射が、ここでも役に立つのが皮肉だった。
プリンタの音が、夜のオフィスに響く。紙が吐き出される。白い紙に、黒い文字。自分の名前が、そこにある。
鳴海遼人。
遼人は印鑑を押した。朱肉の匂いが、妙に生々しい。押した赤が、紙の上で乾いていく。
そのまま立ち上がり、川添の席へ向かう。課長席は、窓際の角だ。権威の配置。そこに、退職届をそっと置いた。
置いた瞬間、世界が少しだけ軽くなった気がした。ほんの少し。まだ何も終わっていないのに、それでも、確かに軽い。
遼人は自席に戻り、荷物をまとめた。私物は少ない。財布、スマホ、社員証、名刺入れ。机の引き出しの奥に、痛み止めの箱があった。中身は半分以上空だ。遼人はそれを見つめて、箱ごと捨てようとして、やめた。結局ポケットに入れた。まだ依存が残っている。
オフィスを出る。エレベーターに乗る。鏡面の扉に、自分が映る。十三階から一階へ降りる間、耳が詰まったように感じた。無音の中で、心臓だけが鳴っている。
一階のロビーは、夜でも明るかった。警備員がテレビを見ている。遼人が通ると、軽く会釈してくる。その会釈が、妙に優しく見えた。
外へ出た瞬間、冬の空気が肺に刺さった。冷たい。冷たいのに、頭が少しだけ冴える。吐く息が白い。街はまだ動いている。終電前の人波。コンビニの明かり。タクシーのテールランプ。
遼人は歩き出した。どこへ行くのか、分からない。家はある。けれど家に帰っても、明日の朝が来るだけだ。明日の朝が来たら、会社から電話が鳴るだろう。川添が怒鳴るだろう。人事が面談を求めるだろう。引き継ぎだの損害だの、ありもしない法律用語を振りかざして脅すだろう。
そういう未来が、目の前に並ぶ。まるでエクセルの行みたいに。削除できない行。
遼人は横断歩道を渡った。足が重い。足の重さだけじゃない。背中に、会社のビルがまだ乗っている気がする。降りたはずなのに、感覚だけが残る。
信号待ちの間、ポケットの中でスマホが震えた。通知。社内チャット。きっと「至急」の続きだ。
遼人は見ない。見ないと決めた。決めたはずなのに、手が勝手にスマホを取り出しそうになる。依存は、意思より強い。
遼人は両手をポケットの中で握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みがあると、少しだけ現実に戻れる。
歩く。歩く。歩く。
どこかで、音楽が聞こえた。低音の効いたリズム。人の笑い声。夜の街の一角から、明るい空気が漏れている。遼人はそちらを見た。ネオンの看板が、視界の端でちらつく。読めない。目が疲れているのか、文字が踊る。
看板の下には、ガラス張りの店。ショーケースのように明るい。マネキンが着ている服は、遼人が普段見る世界とは違う。短い丈、強い色、主張のあるシルエット。誰かがそこから出てきて、笑いながらスマホを見ている。若い女の子たち。派手な髪色。ピアスの光。
遼人は、その明るさを直視できず、視線を外した。
外した瞬間、足が止まった。
止まっただけで、膝が抜けそうになる。
――あれ?
頭の中で、軽い疑問が浮かぶ。自分の体なのに、操作ができない。まるで電池が切れた機械みたいに、ふっと力が抜ける。
遼人は壁に手をついた。冷たいコンクリート。指先がかじかむ。息を吸おうとしたら、吸ったはずの空気が喉の途中で詰まった。胸が苦しい。視界が狭くなる。周囲の音が、ぐにゃりと歪む。
笑い声が遠い。車の音も遠い。ネオンの光だけが、やけに鮮やかで、滲む。
遼人は、もう一歩踏み出そうとした。踏み出したつもりだった。
しかし体が、前に倒れる。
倒れる瞬間だけ、妙にゆっくりだった。世界が斜めになり、光が流れ、音が遠ざかる。その中で、遼人は思った。
――ああ、これ、限界なんだな。
そして最後に、視界の端で、さっきのネオンの文字が一瞬だけ読めた気がした。
Edge Girls。
読めたのか、そう思っただけなのか。区別がつかないまま、遼人の意識は、街の明かりの中に沈んでいった。




