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鬼の嫁乞い  作者: 久里
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 雷に打たれたような感覚だった。

 一目惚れというには随分と生々しく、恋というにはあまりにも暴力的。けれどこれを恋と言わないのなら、何をそう定義すれば良いのか分からなくなるほどに強く心を奪われた。


【魂の番】、【運命】などという言葉を思い出す。

 昨日まで、ほんの少し前までは馬鹿げた迷信だと本気で思っていた現象。

 けれど今になっては、最早【番】の為に命を落としたという愚かなトカゲさえも笑えない。

 むしろ、なるほどと納得さえ覚えるのだ。このような激情を抱く相手のためなら、確かに、己が命すら軽く思えてしまうだろう。


 ああ。まさか、まさかと思う。

 いっそ笑いがこみ上げてくるほどおかしかった。

 何せ温羅(うら)は、人に恨まれ、人に憎まれ、人に嫌悪される黄昏山の主。鬼神とさえ恐れられる、既に百年を生きた正真正銘の人外の鬼。


 そんな温羅の【運命】が、よりにもよって太陽の神の娘。

 帝の血を引くやんごとなき姫君であるなど、全く数奇な運命もあったものである。







 ▪︎


「幼いお前を置いていってしまうことだけが心残りだ。国も政治も、きっと弟やその子供達が上手くやるだろう。けれどお前を守ってくれる父は、私以外には居ないのだから……」


 記憶の中にある父はそう言って、右の手でそっと綾子の頬を包むように撫でてくれた。

 大きな手のひらだった。いつもはあたたかかったのに、その時はすごく冷たくて驚いたことを覚えている。


 先代の東宮(皇太子)、輝くようだと讃えられるほどに美しかったひと。

 生まれ育った環境か、それとも立場のせいか、どれだけ温和に微笑んでも本当の意味で誰かに心を傾けることのなかったひと。


 唯一血を分けた綾子だけが例外だった。

 父は綾子の幼い頃から、随分と綾子のことを気にかけて守ってくれた。「東宮殿下のご寵愛は、すっかり姫様が独り占めしてしまわれた」と侍女達がくすくすと話の種にしてしまうほど、この上なく愛してくれたのだ。


 綾子もまた、そんな父が大好きだった。

 綾子は母を生まれてすぐに亡くしている。けれど綾子は母を恋しく思っても、その為に泣くことはなかった。

 母が居なくても平気だったのは、きっとそれだけ父が綾子のことを気遣ってくれたためであった。


「良いかい、綾子。誰も信じてはいけないよ。親族でさえ、お前のお祖父様である帝でさえ、きっと容易くお前を食い物にしてしまうだろう」

「いや、怖い!お父様、お願いお父様、そんなことをおっしゃらないで。いつもみたいに、『私だけを信じるんだよ』って言って……」

「そうだね。私も、ずっとお前にそう言えたのなら、どれだけ良かったことか。けれど最早そのような時間は残されていない。可愛い私の姫君。ずっとお前を守ってやりたかった」


 心から悔やむような言葉が、力無く溢された。

 いつもの父ならば決して言わない言葉。綾子がますます悲しくなって涙を流せば、父の親指がそっと綾子の涙を拭う。


「けれど私はもうお前を守ってはやれない。これからはお前が、たった一人で立って行かなければならないんだ。良いね、綾子。誰も信じてはいけないよ。誰も愛してはいけない。それだけはどうか、忘れないでおくれ。私の唯一の娘。可愛い綾子。私がこの世に遺す、たったひとつの未練……」


 私は、お前だけが大切だった、と。

 それが綾子と父が交わした最後の会話であった。

 父はそれから数日と立たないうちに容態を急変させ、帰らぬ人となったのだ。

 最期の頃には陰陽師達が祈祷のために父の周囲を固めていたから、綾子は父を見送ることも出来なかった。


 それが、もう何年も前のこと。


 あれから随分と時が経った。綾子はその間にすっかりと大人と言って良い年頃となり、今では伊勢に住んでいる。

 綾子は伊勢の斎王に選ばれたのだ。


 数年前、綾子にとっての祖父に当たる先代の帝が崩御した。

 新しい帝として即位したのは、綾子にとって叔父にあたる、父の異母弟。


 新しい帝が立つということは、斎王もまた新しくなるということである。

 斎王とは、皇家の血を引く未婚の女子の中から、占いによって定められる巫女。斎宮とも呼ばれ、都に座す帝に代わり、伊勢の神宮で天照大御神に仕えることを使命とする。

 帝に変わって、親族の女が祭事を執り行うのだ。


 簡単な話である。

 父を亡くして二年が経った頃、祖父もまた崩御し新しい帝と新しい斎王が必要になり、綾子は占いによって斎王に選ばれた。

 母もなく父もない綾子は、数人の女房を連れ立ってこの伊勢に来たのである。


 はじめは不慣れな暮らしに苦労したものだが、伊勢での暮らしも慣れてみれば悪いものではなかった。華やかな都とは違う静かな暮らしは、案外綾子の性に合っていたのだ。


 だと、言うのに。


「伊勢の海の 波にたとへむ 我が心 夜さへ知らで 君にぞぞめく……」


 いつの間にか部屋にあった文。

 綾子はそれを広げて呟くようにして読み上げると、困ったように眉を下げてため息を吐いた。


 伊勢の海の 波にたとへむ 我が心

 夜さへ知らで 君にぞぞめく


『私の心は、あなたのことを思ってときめき続けています。伊勢の海の絶え間なく打ち寄せる波のように、夜さえ眠ることもできないほどに』という意味の歌。つまり、恋文である。


 そしてこれは、何も最初の一枚目というわけではない。

 ここのところ、綾子の元にはどことも知れず文が届くようになっていたのだ。


 仮にもここは伊勢。仮にも斎王の宮。都とは訳が違う。綾子を想う男など居るはずも無ければ、この手紙を誰にも知られず、まさか綾子の部屋に届けることもまた不可能のはずの場所。

 だというのに、手紙は途切れることなく届き続けているのである。少し前、祭事のために綾子が外に出た時からひっきりなしに。


 これはここ最近の綾子の悩みの種でもあり、女房達の恐れの理由でもあった。

 あり得ない筈の現象は恐怖を呼び寄せる。この間など女房の一人が「よもや斎宮(いつきのみや)様が人外のものに目を付けられたのではないか」と錯乱して、宥めるのにも随分と時間が掛かった。

 急遽、秘密裏に陰陽師達を呼び寄せて祈祷も行わせたが、今の所その効果は発揮されていない。


 困ったことである。

 少し前までの静かで穏やかな暮らしはどこへやら。伊勢の屋敷にはすっかり重苦しい緊張感が漂って、女房達は何をするにも怯えている。

 無理もない。一度、一日中部屋を見張らせてもいつの間にか手紙が現れたのだ。部屋を移っても無駄であった。これでは人外のものに目をつけられていないと言う方が無理があるというもの。怯えるなと言う方が酷であろう。


「何と不吉な……。斎宮(いつきのみや)様、やはりここは一度身を隠されるべきではありませんか?」

「けれど命婦(みょうぶ)。帝より斎王の役目を賜ったわたくしが、どうしてここを離れられましょうか」

「ですが、斎宮様。このままでは斎宮様の御身が……!」

「今のところは手紙が届くばかりで、無害といえば無害ですから。様子を見ましょう。あまり騒がしくしては、帝の御威光を傷付けてしまうことにもなりかねません」


 綾子がそう言うと、命婦もまたそれを理解しているのだろう。グッと押し黙り、悲痛な顔で唇を噛み締める。

 綾子と共に伊勢に来てくれた命婦は、綾子の女房の一人、つまり身の回りの世話をしてくれる使用人である。

 けれど女房となるだけあって、身分も教養もある女性だ。政治的な感覚も、ある程度は分かる。


 今の情勢。仮にも今代の帝に合わせて、占いで選ばれた斎王が怪しげなものに付け狙われているなど、あまり良いこととは言えないだろう。中には帝の資質を疑うものまで現れかねない。

 ただでさえ、今の帝は東宮(皇太子)の時代から、先代の東宮であった綾子の父と比べられているのだ。


 輝ける方とさえ讃えられたあのひとは、血筋といい資質といい完璧という字を体現した様な人だった。

 綾子だって、何度「先の東宮殿下がご存命であれば、どれだけ……」という言葉を聞いたかは分からない。これ以上帝の心労のもとを増やことは、綾子とて偲びないと思うのである。


「けれど、そうですね。せめてこの手紙の送り主がどの様な者か分かったのなら、対処のしようもあるものを……」


 困った様に目を伏せる表情をしながら、綾子はしみじみとため息を吐いた。

 広げられた文を見る。実に見事な、雅やかな文字であった。これだけの字を書くことができ、この様な歌を詠むことのできるものであれば、たとえ人ではなくとも知恵のあるものではあろう。

 対話が出来たらどれだけ良いか。願わくば、事情を話せば理解して引き下がってくれるようなものであれば良い。

 どうせ綾子は斎王である間は誰とも恋など出来ないし、そうでなくとも、父の遺言がある。誰かを愛することも出来ないのだ。


 本当に。この文の送り手は、一体どの様な者であるのか。

 綾子はまた、何度目になるかも分からないため息を吐きながらそんなことを考えた。


 まさかこの恋文をしたためている男が、世に鬼神と恐れられ忌み嫌われる黄昏山の鬼。

 温羅(うら)であるとは思いもせず


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