夢男
おれは『夢男』だ。誰かにそう呼ばれているわけじゃないが、いずれはそんなふうに都市伝説のような存在として、人々の間で恐怖とともに語られるようになるだろう。
男も女も、子供も老人も、おれに逆らうことはできない。やりたい放題だ。警察だろうが軍隊だろうが、絶対におれを止めることはできない。なぜなら、おれの犯行は“夢の中”で行われるからだ。
そう、おれは他人の夢に入り込み、自由に行動できるのだ。
この能力に目覚めたのは、つい最近のことだ。原因はわからない。だが、他人の夢に入る条件は単純明快だ。現実世界でその人に一度触れるだけでいい。
赤の他人でも、たいして難しいことじゃない。おれはよく、小銭をわざと落として拾わせる。手が触れた瞬間、ビリッと静電気めいた刺激が走る。それが、条件達成のサインだ。
あとは眠りにつくだけ。もちろん、相手も眠っている必要があるがな。だが、それさえ満たせば、夢の世界での支配権は完全におれのものだ。
――やめて!
――やめろお!
――助けて!
夢の中では、やりたいことが何でもできる。手錠や鞭など、自分の記憶にある範囲なら、どんな道具でも即座に出現させられる。
しかも、普通の夢と同じように、夢から覚めればその記憶はぼんやりとしか残らず、それも徐々に薄れていく。
これは、以前会社の女性社員で試したから間違いない。まあ、さんざん好き勝手やった結果、彼女はおれに対して潜在的な嫌悪感を持つようになってしまったらしく、おれを避けるようになってしまったがな。
だが、それも大した問題じゃない。女なんて他にいくらでもいるし、それに最近は男を痛めつけるほうがずっと楽しくなっていた。
今夜のターゲットは、街で目に留まった冴えない中年の男だ。
地味なスーツに、疲れ切った背中。夢の中でも、男は同じように寂れた公園のベンチに座っていた。背を丸め、地面をぼんやり見つめている。全身から陰鬱な空気が滲み出ていた。ああ、嗜虐心がじりじりと体の奥で煮えたぎってくる。
「よお!」
おれが声をかけると、男は驚き、パッと顔を上げた。目の奥に、ぼんやりと不安が浮かんでいる。
「……あ、どうも」
「なんだよ、なんだよ、しけたツラしてよお。もっと楽しくやろうぜ」
「あ、ちょ、やめてくださいよ……」
挨拶代わりに軽くヘッドロックをかましてやると、男は困ったように笑った。想像通りだ。こういう情けない反応がたまらない。
おれは指を鳴らした。すると、男の目の前に突然、金属の装飾が施された大きな宝箱が出現した。
「ほら、開けてみろよ」
促すと、男は戸惑いながらも、「わあ、いいんですか?」と少し顔を緩ませて、ゆっくりと蓋を開けた。夢の中では理性が緩み、子供みたいに単純で無防備になるものだ。
箱の中身は空っぽだった。当然だ。おれがそう決めたからな。
男の顔に浮かんでいた期待が、みるみるしぼんでいく。その顔がおかしくて、おれは腹を抱えて笑った。ああ、毒蛇でも仕込んでおけばもっと面白かったかもしれない。開けた瞬間、鼻先に噛みつかせるのだ。
だが、初手はこの程度でいい。初っ端から刺激を与えすぎると、夢から覚めてしまうことがあるのだ。
「おいおい、何が入ってると思ったんだよお。エロいのか? ん? このこの」
おれがからかうと、男は苦笑いして答えた。
「ははは……まあ、たぶん希望かな」
「……はあ?」
おっと危ない、危ない。こっちが夢から覚めるところだった。なんだ、その答えと顔は。達観したような感じを出しやがって。クソイラつく野郎だ。
おれは次に、男を巨大迷路に放り込んだ。狼の群れを放ち、床と壁には無数のスイッチを仕込んだ。踏むと壁が迫り、水が流れ込み、炎が噴き上がる。思いつく限りの罠と恐怖を詰め込んでやった。
男は逃げ惑いながら罠を起動させ、苦しみ、何度も情けない悲鳴を上げた。だが、どれも一時的なもので、すぐに火が消えたように、すんと落ち着きを取り戻した。男にはどこか受け入れているような、醒めた空気があった。
おれは苛立ちながら訊ねた。
「おい、なんでそんなに平気な顔してんだ? 苦しいだろ?」
男は静かに、ぼそりと答えた。
「私の現実のほうが、よっぽど地獄だったからね……」
おれは鼻で笑った。なら、もっと深い地獄を見せてやるまでだ。
男の爪を一枚ずつ剥ぎ、ナイフで皮膚を削ぎ、喉を裂き、内臓をえぐり、焼けた鉄で片目を潰す。ピンセットでゴキブリを一匹ずつ喉の奥へ詰め込み、ヤギにファックさせてやった。
夢の中だから、どれだけ傷つけても、すぐに治せる。おれは古今東西の拷問器具を片っ端から召喚し、ひたすら男を痛めつけ続けた。
ようやく、全身を血と焦げと膿で覆った男が、膝をついて呻き声を漏らした。
「どうだ? これでもまだ現実のほうが地獄か?」
「い、いや……確かに……地獄らしくなってきた……」
男は四つ這いのまま、呻くように答えた。これだ、これ。おれは満足感を噛み締め、空を見上げた。
「……しかし、お前もなかなかタフな男じゃないか。これだけ痛めつけたのに、まだ夢から覚めないとはな」
そう言うと、男はボロボロの顔を上げ、わずかに笑った。
「ははは……タフか。まあ、そうかもな。でも……生きているうちに誰かにそう褒められたかったな」
言いながら、男は首筋をゆっくり撫でた。するとそこに、じわじわとロープの模様が浮かび上がった。
その瞬間、おれは気づいた。
この男は――自殺の最中だったのだ。
おれが入り込んだのは、意識がゆっくりと絶たれていく、その最中の夢だったのだ。死に向かう途中で漂っていた、最後のゆらぎの中に入り込んでしまった。
これは、まずい――。
おれはすぐさま夢から抜け出そうとした。だが、できない。
そ、そうだ。いつもなら、相手が目覚めて終わっていた。だが、この男はもう目覚めることはない。
おれは出られない。
この夢。この地獄。男の絶望の残滓に満ちた世界から、永遠に。
景色が、じわじわと赤黒く淀み始めた――。