1話:やらぬ後悔より、やって後悔
――どこだ、ここ。
鼻をくすぐるパンの匂い。石畳を打つ馬車の車輪。遠くで鐘が低く鳴り響いていた。
視線を上げれば、木組みの家々と高い鐘楼。まるで絵本の中の中世ヨーロッパそのものだった。
……待てよ。俺、ついさっきまで確かに日本にいたよな?
しかも周囲をうろついてるのは――。
竜みたいな顔のやつ。
ケモ耳を生やした獣人。
悪魔の角が生えてる奴までいる。
さらに、市民らしき人間だけじゃなく、剣や杖を堂々と携えた……いかにも“冒険者”っぽい連中まで歩いていた。
「……うん、見間違いじゃない。つまり――これ、完全に異世界転生じゃねぇかぁぁぁぁ!?」
俺は頭を抱えた。
……つまり、俺……死んだってことか?
あんないきなり?
まだラノベの封すら切ってなかったんだぞ。
最後に親の顔も見てねぇし、数少ない友達と遊ぶ約束だって……。
……いや待て。落ち着け、俺。とりあえず状況整理だ。
現在17歳。高校二年生。俺こと木野内結斗は、平日の真っ昼間から学校をサボり、行きつけの本屋に入り浸っていた。
そこで顔なじみの店長に「お前が好きそうだろ」と渡されたのが――リアルすぎる世界地図が載ったラノベ。
テンションが上がって即購入。
その帰り、ウキウキ気分で自転車を漕いで、青信号の横断歩道を渡った、その瞬間。
――信号無視のトラックに跳ね飛ばされて。
気づけばここ。大広場らしき場所に立っていた。
「……信号が青でも左右確認しろって、小学校で教わったけどさ。まさかこういう形で実感するとは」
今、反省するべきはそこじゃないのは分かっている。
でも混乱しすぎて、俺の脳みそから出てくる言葉はそれしかなかった。
それでも――少しずつ、頭が冷えてきたな。
現状を整理できるくらいには。
「とりあえず……記憶はちゃんと残ってる。で、改めて周りの様子は……」
再度、周囲を見渡す。
すると視線が自然と上がり、近くの建物の壁へ。
そこには、この国のものらしき国旗が吊されていた。
「ん? 祭りでもやってんのか?」
国旗ってのは祝祭や記念日なんかに掲げるのが慣習だ。
もともとは王室や政府への忠誠を示すため、貴族が邸宅や公的施設に飾っていたものらしい。
「比率は一対二……で、右から茶色、黒、白の縦ストライプか」
イメージとしては、アイルランド国旗を思い浮かべてもらえればわかりやすいだろうか。
「あれの意味が気になるところだが……一旦置いとこう」
何も解決してないのに、つい一息ついてしまう。
「はぁ……にしても、俺、あっさり死んだよな」
人間は脆いとよく言うが……本当に、目を覚ます間もなく即死コースだとは。
偶然か、神の悪戯か。――人生、何が起こるかわからない。
せめて三分くらいは粘って生きてみたかった。意地でも。
……でも。不思議と、悲しさも寂しさもなかった。
だってこれ――異世界転生ものを見たことある奴なら、誰だって一度は夢見る展開じゃねぇか!
「よく考えたら……今、すげぇ夢のある状況じゃね?」
正直言うと、俺はこの手のジャンルの漫画やアニメはあまり詳しくない。
でも、“俺TUEEE”展開が定番だってことくらいは知ってる。
「……スキルとか。ステータスとか。俺だけの隠された力とか……そういうの、あるんじゃねぇの?」
本当なら耳元で神様が「貴様に授けし能力はこれだ!」とか言ってくれると思ってた。
……が、そんなイベントは無かったか。
異世界オタクの友達情報、意外と当てにならんかもしれん。
「あぁ……今ごろ、親指立ててニヤニヤしてんだろうな、あいつ」
脳裏に浮かぶのは、あの能天気な笑顔。
でも最近は、その友達ですら疎遠になって、俺はちょっと孤独気味だったんだよな。
――と、そんなセンチなことを考えてる場合じゃない。
今、もっと大事な問題がある。
金無し。言葉が通じるかも不明。文化も習慣も謎。
「下手すりゃ、一歩間違えたら即トラブル。からの死亡ルートだな」
特にここは中世ヨーロッパ風。
治安が良いなんて保証はない。
ここは慎重に行こう。まずは様子見。
できれば、誰かが話しかけてくれるのを待つのが一番安全……。
「そういや俺の姿って、前世のままなのか?」
ふと気づく。服は日本にいたときのまんま。
もし顔もそのままなら――「ザ・凡人」よりちょっとマシ、筋肉は普通レベル。
つまり、“平均的に国に詳しい男・木野内結斗”そのまんま、ってことになる。
一応自慢じゃないが、英語、韓国語、中国語あたりはそこそこ話せる。
……が、ここは異世界。取り柄が完全に無駄になった瞬間である。
けど、もしかしたら超絶イケメンに変わってるかもしれないじゃん?
「というわけで、鏡〜、鏡〜」
独り言を呟きながら周囲をキョロキョロしていると――。
「……ん? なんだ、あれ?」
広場の端にぽつんと立つ掲示板。そこに小さな人だかりができていた。
「……行ってみるか」
異世界で不用意に行動するのは危険。
でも、何もしないで成果ゼロってのもつまらない。
後で後悔するくらいなら、今動いた方がマシだ。
――『やらぬ後悔より、やって後悔』。
俺はそう自分に言い聞かせ、掲示板の方へと足を踏み出した。
いい加減、前向きに行こうじゃないか。
人混みの隙間を縫うように近づいてみると――貼られていたのは、一枚の真っ白な紙切れと……世界地図!?
「マジか。掲示板に地図を貼るとか……これを管理してる奴、センス良すぎだろ」
思わず食いつく俺。
眺めてみると、どこかで見覚えのある配置。
大陸は地球とよく似ているが、よく見るとところどころ違っているな。
――違うポイント、一つ目。
地球でいうアフリカ大陸のサイズが半分。代わりにその下側に、ほぼ同じ大きさの島がもう一つ。
――違うポイント、二つ目。
日本に似た島と朝鮮半島らしき土地が、完全に陸続き。
さらに北海道っぽい島は丸みを帯び、その周囲に五つほど小島が浮かんでいた。
――違うポイント、三つ目。
北アメリカと南アメリカらしき大陸が、海ではなく陸で繋がって長方形に。
しかもアラスカらしき土地は存在しない。
細部を見れば、ヨーロッパ大陸らしき部分の形が突起のように上下に尖っていて……イベリア半島が消えていた。
「ふぅ……世界地図はこれくらいでいいか。で、この隣の白紙は……なんだ?」
まさか、“選ばれし者にしか見えない魔法文字”とかが浮かび上がる……?
いやいや、そんな怪しいものを公の掲示板に貼るわけが――。
とにかく、この場に長居しても得るものはなさそうだ。
地図以外に心を惹かれる情報がなかったのは正直ガッカリだが……それでも、少し安心した気持ちもあった。
そう思い、踵を返しかけた――その瞬間。
俺の前に、“人の壁”が立ちはだかっていた。
というか……さっきより明らかに、この掲示板に人――いや、民衆がどんどん集まってきてる。
気づけば、俺の目の前は黒山の人だかり。
「……え? 出口……なくね?」
唖然としながらも現状を理解してしまう。
やべぇ。囲まれた。
「す、すまん! ちょっと通してくれ! すぐどくから!」
慌てて手で人混みをかき分けようとする――が。
誰一人として反応しない。
目も合わなければ、肩すら避けない。
これじゃまるで、俺の存在そのものが見えていないみたいじゃないか。
「……う、嘘だろ」
言葉が通じてないのか?
それとも本当に、存在感ゼロなのか?
虚しさに思わずため息を漏らした、その時――。
背後から、強烈な光。
「ん!?」
振り向くと――掲示板に貼られていた“白紙”が、眩く輝いていた。
※ヨーロッパの北西にある島国。通称「エメラルドの島」と呼ばれるほどの緑豊かな自然が特徴