元王者の凱旋~フォード・シエラ~
苛立っていた。
仕事が上手くいかなかった。
雇われの身分だった頃は、「あいつに任せておけば大丈夫。」「誰も手に負えないものでもあの人なら何とかしてくれる。」などともてはやされていた。だからと言って自分自身、傲慢になるわけではなかったものの、そういってくれることはありがたいと思ったし、それに見合う努力はしてきたつもりだった。
しかし、独立して、看板も無ければ新しい土地で、それも一人で経営をするというのは、自分一人の能力で何とかなるものではなかったし、もとより、自分の能力だけで皆が評価してくれていたわけではなかった。一人になって初めて、チームの皆の魅力が僕を活かしていたに過ぎなかったのだということに気が付いた。
「畜生…。」
自分の不甲斐なさと、状況判断の悪さと、頭から消えないクライアントさんのがっかりした表情が頭から離れない。そんなやるせない思いから逃げるように、そんな夜は決まって首都高にくり出した。
夜1時。
慢性的に渋滞している首都高速も、この時間になると少し車の台数は落ち着いてくる。トラックやタクシーが少なくなってくると、どこからともなく快音を響かせるスポーツカー達が集まってくる。
環状線内回りから湾岸線。むしゃくしゃした気持ちを振り払うかのように、夜の首都高を走った。黒いアスファルトとトンネル、そして、都内のビル街や工場地帯が見える夜景が、何故か無機質なものばかりなのに優しく感じて、その中に身を置いていると、ちょっとずつ自分の中の後悔を許せる思いがしてくる。
多分、夜の首都高に集まる人間たちは、みんな心にそんな闇を抱えているに違いない。
ひとしきり夜の都内を走り、最後にもう一周して家に帰ることに決めた。問題は解決することはないが、少しだけ楽になった気もした。窓を開け、煙草に火をつける。窓から入る風は、生暖かい夏の夜の空気の匂いがした。
「グォオオオオオオオ…」
三宅坂トンネル。後方から地響きのような轟音が迫ってくる。バックミラーにうつる小さな白い光が、その大きさを増すごとに、その排気音は音圧を増した。
車線を譲るように、右から左の車線に移る。どんな車なんだろう?右側に迫りくるその車を直に眺めた。
塊感のある真っ白なボディ。後ろにはT型の特徴的なウイング。室内にはロールバーが張り巡らされ、その車が只者ではないことを教えられる。
フォード・シエラRSコスワース。
初めて見た。いや、最初で最後、実物を見たのはあの日の夜だけだった。
ツーリングカー選手権、ラリーなど、出るレース連戦連勝で、スープラもスカイラインもなす術がなく、シエラに勝てるのはシエラしかないくらい強かった。ベースモデルは、ファミリーカーなのだが、それをレース用に仕立てると、こんなに迫力が出るものかと思うようなフォルムとなった。その数少ないフォロモゲーション・モデルが目の前にいる。それも、それをチューンしているのだから、何とも言えない異様な迫力があった。
三宅坂トンネルのオレンジ色のナトリウム灯が、シエラの白いボディに反射する。
前に出るとサンキューハザードを出してくれた。その瞬間、トンネルを抜けたシエラは、湾岸方面に加速して消えていった。
僕はその後ろ姿を見ながら、どこかホッとした気持ちになった。
今や伝説ともなったR32型スカイラインGT—Rが登場し、レース界はシエラから一気にR32の時代に代わり、その後のR32の活躍は、まさに伝説というににふさわしく、4年間29連勝という記録を打ち立てた。
でも、その夜に見たシエラは、美しく、獰猛で、堂々としていて、その威厳を身にまとっていたように見えた。新しい王者の出現と共に、レース界から姿を消した王は、僕にはかつての王者の強さと変わらない姿にみえた。レースカーと市販車は違うのだけど、何故かそのシエラから出るオーラは、王者そのままのように感じた。
王は死んでいなかった。
僕もちょっとした事でくよくよしている暇なんかないんだなと思わされた。シエラのその車体から溢れる気合は、勝ち続けていたあの時代そのままの迫力を見せつけていた。勝っても負けても自分の力のすべてを振り絞らなければならない。結果は自分以外の人間が出した答えにしか過ぎない。
「やるだけやらなきゃな…。」
僕の記憶に今もある、あのフォード・シエラRSコスワースの姿が忘れられない。
それからしばらくして、僕は首都高に走りに行かなくなった。
フォード・シエラRSコスワースの紹介ページ
https://www.automesseweb.jp/2020/07/21/439023