暑い夏、赤い車。~フィアット・パンダ~
「タクちゃーん!喉渇かない?」
「えー?何ー?」
エンジンの音で何も聞こえない。こっちも大きな声で聞き返す。
「ちょっとコンビニ寄っていこうよ!」
「了解!」
夏休み、栃木のおもちゃのまちというメルヘンな地名にある大学に通う友達が湘南の友達の家に行くということで、途中、高円寺に住んでいた僕を拾っていってくれた。おもちゃのまちといっても、玩具の工場がある場所なだけで、子供が心躍らせるような場所ではなく、冬は寒く、夏は暑いよくある地方の片田舎の街だったりする。そんな町に住む友達だから、休みの時くらいは勉学を忘れて青春したいらしい。地方出身の若者にありがちな「夏は湘南の海で遊ぶ」といったよくある想像上の青春スポットへ繰り出したいらしかった。
信号で止まっていると、走っている時ほどエンジン音はうるさくなく、何とか会話が出来る。カーステレオから流れるサザンも、走っている間は桑田さんが大声で歌わなければ聞こえないほどうるさいが、アイドリングの状態ではそこまでうるさくないので、交差点で停まっているときは大音量の音楽で周りの人達が訝し気な目でこちらを見る。まあ、夏気分が盛り上がって良いじゃない。まだ世間の荒波にもまれていない子供じみた浮かれ気分が、僕らをそんな気持ちにさせていたのかもしれない。
コンビニで飲み物を買って車に戻る。友達は、これから向かう湘南の友達に何時くらいにつきそうだと公衆電話から電話を掛けていた。当時はまだ携帯電話もそこまで普及していなかった。デジタル以前のアナログ回線の携帯電話は金属でできたりしていて、大分小型化されては来ていたものの、ずっしりと重く、値段も驚くような値段で誰もが持てるようなものではなかった。
「連絡ついたよ。」
友達は、ピピーっという音と共に電話機から出てくるテレフォンカードを財布に仕舞いながらそう言った。夏真っ盛りのお昼近く、日差しは強く、肌をじりじりと焦がすけど、日焼けすることも青春の証とばかり、わざと日焼けさせようと飲み物と一緒に買ったコパトーンを腕に塗って、日差しを浴びる。
ガチャ、バタン。
あ、しまった!と思った瞬間、ズドーン!という音と共に窓が全開になる。
「あー、タクちゃん、だから言ってたのにぃ!」
助手席側に回ってきた友達が、咥え煙草のまま、下まで落ちた窓ガラスを何とか指でつまみだそうとしていた。古い外国車にはよくある現象だが、ドアを強く締めた衝撃で、窓ガラスが下まで落ちてしまう。友達には注意しろと言われていたのに、つい忘れてしまい、ドアを強く締めてしまった。
慣れた様子で何とか全開になった窓ガラスをつまみ出した。2センチくらい下から出てくれば、後は5本の指を窓に押し付けて徐々に上に持ち上げていけばいい。上まで上げて窓が閉まった状態までいけば、そうそう落ちることはない。さっきまで少し暑いなと思って窓をちょっとだけ開けていたのを忘れてしまっていた。
真っ赤なフィアットパンダ。
前輪駆動の小さな自動車。
軽自動車と思ってしまうくらいの大きさで、四角い箱を2つくっつけたかのような簡素なボディ。四角いヘッドライトの間には、斜めのフィアットの意匠がちょっとお洒落だが、若い時の自分にはその格好良さは、今ほどわからなかった。
内装はチェックのパステルカラーのキャンバス地で作られたシートがいかにも外国車っぽい。当時はベンツやゴルフもファブリック地のシートが多く、かえって国産車の方が豪華に見えた。でも座ってみると長距離を移動するヨーロッパの車らしく、腰が痛くならずに座れることに驚いた。
「じゃあいこうか。」
コカ・コーラを一気に飲み干し、今度は優しくドアを閉める。オンボロだけど、エンジンは一発で掛かり、うなりを上げる。シフトを1速に入れ、クラッチをつないてアクセルを踏み込めば、車内はエンジン音で騒がしくなる。慣れない左ハンドルで、どうしても少し左側に寄りやすくなる。
ちょっと潮の香りがしてきたなと思ったら、遠くに湘南の海が見えてきた。黒くて重いキャンバストップを開ける。夏の日差しと吹き込む潮風が心地よい。先輩から20万円で押し付けられたイタリアの小さなボロ車。それでも、貧乏学生が仲間を乗せて夏の海へ行ったり、秋の紅葉を見に行ったり、それまで車を持てなかった青年が青春を過ごすには魔法のカーペットのような大切な存在だった。
「ヴォオオオン!フォォオオオオオオ!」
国道1号線を走っていたら、うるさいエンジン音がさらに大きくなって、まるでフェラーリのようなレーシングサウンドになった。
車を停めて、友達が車体をぐるぐる眺めて戻ってくる。
「マフラーどっかに落としてきたみたい。」
ま、イタリア車だもんね。しょうがないさ。それよりもうすぐカトチャン家だよ!先を急ごう!
僕らはそのまま数日間、爆音を響かせながらパンダと共に夏の湘南の日々を楽しんだ。
その後、あちこち壊れ始めたフィアットパンダ。マンガじゃないけど、最後にはドアがボロっと外れたらしい。今では考えられないけど、あの頃のイタリア車はそれくらい起きても不思議じゃなかった。
あれから二十年以上がたった。どうしても気になるフィアットパンダを中古車サイトで探してみると値段もあがり、程度はあまり良いものは見つからない。夏が来ると、あの頃のことをよく思い出す。
もう一度、あのフィアットパンダで、友達と夏の海へ走り出したい、そんな気がする。