夢雫3
黒夢二、 青劇
「はあ、はあ、はあ、はあ!」
気持ち悪い。
「はあ、はあ、はあ、はあ!」
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
「はあ、はあ、はあ、はあ…………ううっ、うっ、うう」
違うの。
気持ち悪いんじゃない。悲しくて、恐くて、……頭がおかしくなる!
「う、うう、うう……」
もう、訳が分からない。どうして、どうしてよ!?
「うう、うう……ソーマ」
助けて。颯真。私もう、何が何だか分からない。助けて!
「ソーマ」
颯真、颯真の所へ行きたい。颯真。颯真以外のこと、考えたくないよ。
もう、颯真のこと以外、考えられない。
「あんな、あんなの……もう、いや」
考えたら、思い出したら……頭がおかしくなる。いやっ!
「ソーマ……」
颯真の家。どこだっけ。家、そう言えば一度も行ったことないんだ。でも、住所は聞いた。アドレス帳に入力した覚えがある。
ゴソゴソ。
「?」
ゴソゴソゴソッ!
「……うそ、どっかに落とした?」
端末は体のどこを探しても見つからない。嘘でしょ!?嘘でしょ!!なんで、なんでこんな時に!?
「はあ、はあ、はあ、はあ」
冷静になろうとする。でも、たぶん、無理。でもそれでも、冷静に考えてみる。
「……」
頭の中の夜空に、さっき颯真と二人で見た冬の花火が上がる。それが瞬く間に消えて、そして……真っ暗。今私を包む冷たい闇と同じように、頭の中が黒く塗りつぶされる。
「助けて、ソーマ」
財布や携帯端末を入れたバッグが手元にない。それはつまり、自分がいま何も持ち合わせていないことを意味する。
「……ソーマ……会いたいよ……」
急いで、あまりに急いでいたせいで、バッグは置いてきちゃった。じゃあ、またあそこに戻る?
「……」
無理。もう、無理。あんな、所、無理。
「大丈夫ですか?」
「!?」
突然声を掛けられ、肩に手がかかる。
「キャーッ!」
知らない人。少し低い声。男の声!?男の手!?男!男!!
「えっ、ちょっと」
触らないでっ。汚くて怖い!
「あっ、はあ、はあ……すいません」
手を払いのけて、我に返る。深夜の冷気が首筋から背中に流れ込み、震える体にしみこむ。
私、何してんだ……本当に、どうかしてる。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。ごめんなさい。大丈夫です」
私の言葉に対して、背の高い、帽子を目深にきちんとかぶった男性らしき人は相手への不審を一応隠すような笑みで返す。いやらしくも優しくもないその笑みを見て、私は混乱している自分をようやく冷静に見始めることができる。確かに、この人にとって私は不審者だ。
「何かあったんですか?」
あるいは、不信者。
「いや、大丈夫です。大丈夫ですから」
よく見ると、相手の格好はお巡りさんのそれだった。不審者に対して声をかけてくるのは無理もない。そういう仕事だもの。
「そうですか」
お巡りさんの笑顔は少しずつ消え、怪訝そうな目で私を見始める。そんな私は身分を証明するものも持っていない……しかも、靴も履いていない。気づかなかった。どれだけ動揺していたんだろう。
「お姉さん。名前は?」
眉間を人差し指でポリポリと書いた後、お巡りさんは改めて私の名を尋ねてくる。
「え、私……ヤナギミズキ、です」
夜凪水希。たぶん呪われた名前。
「保険証とか、免許証とかありますか?」
「私、高校生です」
「高校生がこんな夜遅く、しかも裸足でどうしてこんな所にいるんですか?」
お巡りさんは自分の左肩にくっついている無線機のようなものをちらっと見た後、当然と言えば当然の質問をしてくる。
「それは、その……」
「とりあえず署でお話を聞きますから、来てください」
肩の無線機のボタンを押し、何かを噴き込むようにして連絡した後、私は近くに止めてあったらしいミニパトカーに乗せられた。
「……」
逆らう気にもならなかった。もう、いいや。話せば逆に、楽になるかもしれない。それから、それから、颯真の住所を教えてもらおう。電話の番号は覚えている。電話して、それで、颯真に来てもらおう。颯真に会いたい。やっぱり話すのは、颯真にしよう。颯真に話して、それで、颯真に、抱きしめてもらいたい。颯真に抱きしめられたら、きっと何もかも、よくなる気がする。
「とりあえず、これでもどうぞ」
パトカーが小さな交番に着いた。パトカーから降ろされ、交番内でスリッパをもらい、椅子に座らされ、私はお巡りさんから熱いほうじ茶をもらう。黙ってそれを一口すすった。
「落ち着きましたか」
灰色の業務机の前に腰を下ろし黒いデスクトップを開いたあと白いマウスをいじりながら、お巡りさんがこっちを見ずに尋ねる。
「はい。ありがとうございます」
ネチネチした人間を見るより、今はこういう人の傍にいる方がかえって落ち着く気がした。聴取の前の儀礼的な挨拶が、かえって私の頭を冴えさせる。
「……」
イライラするくらい明るい蛍光灯の下にいるのは、私とお巡りさん。そのお巡りさんの様子をじっと見つめる。目深な帽子の下の、白い額に小さな鼻。銀色に光る眼鏡。不自然な緑の瞳。……緑?カラーコンタクト?お巡りさんが?
?
体の中で今、何かが……笑った?
「そろそろ時間か」
「……え?」
警察官の格好をした緑の瞳は腕時計を見、意味の分からないことを言った。あれ、変な耳。
「身をくるむ体系と秩序はある日突然音もなく崩れ去る。そして一糸まとわぬ自分を見て誰もが気づく。世界はあまりにバラバラで混沌としている。自らの生そのもののように」
何あれ、長くて、尖ってる。……まわりが、まわり出す。どうして?あれ?
「!?」
ドクンッ!!
苦しい。
「ウォナンがなじむまで、苦しむだろうが、直に分からなくなる。くくく、思いつめていたのだろう。生きることに」
「はあ、はあ、はあ……」
何を、したの私に。この人。
「在るか無いか」
え?
「あやふやだったお前の“生”に意味を与えた。それだけだ」
お茶の入った湯呑が手から落ちる。呼吸することもできず、苦しくて座った椅子から転げ落ちる。湯呑の中から、蜘蛛のようなものが出てきて床をカタカタと歩いていく。蜘蛛には翅が生えていて、その翅が動き、私の方へ飛んでくる。
「死の恐怖はお前にどんな幻を投じている?罪の苦悶が消えゆく快楽はお前にどんな幻を這わせている?」
ゾビュビュッ!
「……」
翅蜘蛛は私の顔にくっつくと、カタカタと移動し、耳元でがさついたあと、耳の奥に入ってきた。
「……」
体を動かしたいけれど、動かせない。
「もはや泣くことも、不幸を言うことも、失望することもない」
頭の中を這いまわるような音が全身に響いて気持ち悪いけれど、体を動かせない。
ゴソゴソゴソゴソゴソゴソゴソゴソゴッ!!!!!!
「……」
お巡りさんの姿が歪む。誰これ?男?女?太ってる?痩せてる?誰……何……
「誰にでも会わせてやろう。どうせみな逝きつくところは同じなのだから。フフフ、フフッ、フフフ……」
痛みが、消える。私……気持ちイイ……
何これ……気モチイイ……
ワタシ……誰……
「何も考えないことだ。考えられぬようになることだ。想起することこそ悪の根源である」
アア……食ベタイ……ゼン部……
「想起は過去を現在に重ねる。未来を希望ある、開かれた時間と勘違いさせる。だが全ては虚妄。不幸の視点に過ぎない」
ソーマ……タベタイナ……タベテ……イッショニナル……
ゼンブ、タベタイ……ダイジナソーマ、ニ、タベラレタイクライ、タベタイ………
「救済の秘儀とは想起を捨て死に突き進むことにほかならぬ」
ソーマ……ソー……
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「さて。思いの果ては尽き、駒は成った。では始めよう。一刻も無駄にすることなく」