表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Wind Breaker  作者: 雨野 鉱
7/19

五滴

五、  使命

「目、覚めた?」

 声が聞こえる……。そう感じた。それはあるいは夢?声じゃなくて森を渡る風の感じがしないでもない。土と樹木の香りを運ぶ爽やかな風の感じ………

「……!」

 バラバラに働いていた五感が急速に咬み合い出し、俺は慌てて目を開く。

「泣いたり笑ったり、あなたって寝ていても忙しいのね」

 ミリタリーコートは着ていなかった。けれど俺の目の前で顔を覗き込んできたその女は、やっぱり金髪だった。

「丸一日。寝ていたわよ、あれから」

 “あれ”――。

 夢、じゃなかったか。そうだろう。体の中には確かに刃物を握り、骨肉に刃を当てた重さが生々しく残っている。

 俺は間違いなく殺した。怪物を……水希を……。

「多少こちらが手助けしたとはいえ、ウォナンに寄生された生物を殺せる人間がいるなんて……。ふっ、見込み通りって感じかしら」

 金髪女は俺を覗きこむのをやめ、椅子に腰かけるとそう言ってほほ笑んだ。今まで見た限りで一番静かな笑顔だった。

 見たことのない部屋は、こぎれいだった。最初はホテルの一室かと思ったけれど、タンスや棚があるのを見て、何となく個人が所有する部屋だと分かった。けれどそこに生活感はまったく感じられなかった。白い壁紙の箱の中、淡い象牙色の絨毯がフローリングの上に皺なく敷かれ、化粧品のない鏡台がポツンと置かれ、同じく上に何も載せられていないタンスが置かれ、俺が横になっていたらしいベッドが置かれ、脚の短い綺麗なテーブルが置かれ、稼働していないエアコンが壁につけられ、黄緑のカーテンが窓の前に引かれている。モデルルームのように典型的で、完璧で、よそよそしい。何かの手違いでニワトリの卵の中に閉じ込められたウズラの胚のように、俺も、俺から目を離さない金髪女も、とにかくここにはなじんでいなかった。

「何か飲む?」

 姿勢はそのまま、唇だけを動かし、女が言う。

「ここは、どこですか?」

「私の家。この国のこの街で生活するための拠点よ」

 金髪女は立ち上がり、スタスタとどこかへ行く。すぐに戻ってきた時には、手に五百ミリのペットボトルが握られていた。液は無色。たぶん水。

「どうぞ。少なくとも私は毒を入れていないわ」

 妙な冗談を言ってボトルを俺に手渡す。受け取り、蓋をあけ、水を飲む。

「毒が入っていたとしても、濾過すら可能なのかしら。あなたは。うふ」

飲むつもりは最初なかったけれど、喉に流し込んでいるうちに体が水を欲し始めた。一息ついてボトルを見た時には半分が無かった。

「ふぅ……ありがとうございます」

 女の意味不明な独り言は無視して礼だけ告げる。

「イオスよ」

 少しだけ首を左に傾けた女の金髪が揺れる。

「え?」

「私を他と識別する言称。あなたたち風に言えば名前。イオス。正確にはイオス・テレジ……ごめんなさい。忘れたわ。とにかく私の名はイオス」

「……」

 自分に危害を加えてきた女に突然自己紹介されて、正直何を言えばいいのか分からなかった。何を企んでいるんだ?

「あなたの名は?」

 イオスと名乗った女は首を元に戻して言った。

「……ノモリガミ。ノモリガミソーマといいます」

 教えていいかどうか迷ったけど、決心して口にする。

「ノモリガミ、ソーマ……ノモリガミソーマ……ソーマ」

 牛が食べた草を何度も胃から口に戻し反芻するように女は俺の名を何度も繰り返す。

「ソーマと呼んでいい?それが一番呼びやすい」

「……どうぞ」

 名字はともかく、気安く下の名を呼ばれるのはあまりいい気がしない。けれどそれより、だ。そんなことをとやかく言っている場合じゃない。頭が正常に働き出すと気になることがあふれてくる。こいつが何か知っているなら聞かないと。

 ……。

「どうかしたの?」

「いえ」

 その前に……

 イオス――。

 その名に、ひっかかるものがある。

自分の頭の中を、その名は初めて通過したわけじゃない。

俺の中の“俺”がそう呟く。けれど「じゃあいつ通過した」と聞いても、“俺”は黙して語らない。その“俺”を捕まえようと意識を集中させると、閃光のように不思議な物体が網膜の奥に浮かんだ。何かの、機械の部品のようなシルエットに思えた。ドキッとすると、もうその時にはシルエットも“俺”も跡形もなくいなくなっていた。どこに行ったのか最初から探そうとしていた時、俺を「ソーマ」と呼ぶ金髪女……イオスが目の前にいた。

「謝るわ」

 名前を呼ばれた後、イオスは言った。

「?」

 突然切り出したイオスの言葉に、正直に驚く。

「謝るって」

「ファーストアタック。夜の公園でいきなりあなたを襲った時のことを謝罪する。殺し返されて腹が立ったけれど、やっぱり殺そうとしたこっちが悪い」

「殺……え?」

 殺そうとしたのは、分かる。あの夜の公園で殺意というものを嫌というほど味わった。殺意に対してあれほど敏感に反応できた理由は分からないけれど、とにかく殺意を全身で感じて、全身で戦った。そして……やっぱり、俺は殺した。同級生二人を犠牲にしてこの人を……。

 じゃあ、なんでここにいるんだ。こいつは。

「あの後、どうなったんですか?」

「私?」

 イオスの眉が上げる。「そんなことに興味あるなんて不思議」という形をとる。

「はい」

「死んだわ」

 事も無げにイオスは言う。馬鹿げてる。死んで、どうして今俺の目の前にいるんだ。この部屋はあの世で間借りしたのか?

「少なからず持っているの。ありあわせの命を」

 眉が戻る。イオスの視線が真っ白な部屋の壁をふと彷徨い、そして寂しげな笑みが頬に浮かぶ。少しだけ舌を出し、唇を舐めたかと思うと、また元の表情に戻る。

「それを代償にして、甦ったわ。もっとも代償は残り一つの命の大部分をも削ったけれど」

 「そんなことはもうどうでもいいの」とイオスは言葉で付け加えて、立ち上がる。引いてあるカーテンの傍まで移動し、カーテンをのける。結露を起こした窓は鉛色にひんやりと光っている。イオスが窓ガラスに触れると水滴が一滴残らず消え、窓の外の鉛色の雨景色が現れた。イオスの背中を見る。一つしかないはずの命をいくつか持っていたという女の存在を改めて意識する。コイツは冗談抜きで、普通じゃないんだ。

「それなりに強かったでしょ?私」

 殺されて甦った当人が背中越しにたずねる。

「それはその……はい」

 他に何と言っていいのか分からず、背中を向けるイオスにそう答える。

「殺すことには自信があったの。その辺をフラフラしている連中よりはスキルもキャリアも上よ。それでもあの日あの夜、私はソーマに敗れ、命を消費した。見たこともない義式で見たことのある擬式を展開するソーマに」

「……」

「歩けるようになった後、私はソーマを探した。それで見つけて、記憶にあるようにウォナンと戦わせた。理由は……そうね、ウォナンと戦って多少弱ったあなたとならこうやってまともに話せると考えたから。でも勘違いしないで。ウォナンを投入したのは私じゃない。だけどウォナンの巣を発見し、それをソーマに連絡してそこに導いたのは間違いなく私。そして私にかわってソーマがウォナンに止めを刺した」

「ウォナン……」

 俺の名を反芻したイオスのように、俺は頭の中でその言葉を幾度も繰り返す。脳神経の網の中を何度も行き来させる。得られる情報は徹底的に頭に刷り込みたい。

「ウォナンとはシルフの幼生、すなわち子どものこと。シルフの幼生“こっちの世界”にいる間は何かに寄生しないとその存在を保てない。だから何者かに寄生する。今回は偶然か必然か、あなたの知り合いに寄生した。確かヤナギミヅキとかいう人間に」

 夜凪水希という言葉に思考が止まる。無重力状態になり、パラパラと崩れていく。胸が苦しい。鼓動だけが全身を支配する。

水希。俺の好きだった、俺を好きと言ってくれた、俺が殺した、水希……。

「……」

 時が止まっているのか、イオスの言葉は続かない。いや、止まってなんていない。俺が勝手に止まっただけだ。俺のせいで時間が止まった水希の隣に立とうとしたから、そう感じただけだ。

「ウォナンが自分からヤナギミズキに寄生した確率は極めて低い」

 声がして、俺の中の水希が急速に遠ざかる。次第にいろいろなものが形を取り戻す。重力が元に戻る。

「ミズキ……」

 遠ざかっていく面影人の名前を口にして、俺は元の世界に戻る。出そうになった涙を目で呑み込む。

「シルフの幼生が自分の力で“こっちの世界”に来ることなんてできない。ウォナンを連れてきたタチの悪い奴がいるということ。その悪い奴が何らかの理由をもってしてヤナギミズキを選び、ウォナンを植え付けた。彼女が選ばれた理由は分からない。けれどウォナンを動植物に植え付ける目的は知れている。そういう事例は世界のいたるところで頻発しているから」

「ちょっと、待って下さい!」

 小さな部屋に反響した自分の声は緊張していた。

「待つわ。いくらでも。そして何でも語るわ。知っている限りなら。どこからでも、何度でも語る。ソーマに納得してもらえるまで」

 窓際に立つイオスが体をこっちに向ける。少しうつむき、瞑想しているかのように、目を伏せている。背後で再び結露がジワジワと始まる。

「……」

 混乱する頭を整理するために、同じく目をつむる。ただしギュッと瞑る。けれどそこにはただの闇しかなかった。どの方向に向かえば何があるのかさえ分からない。あるのは眼球に張り付く瞼の皮だけだった。

 あきらめて、目を開く。

「まず……こっちの世界とかって、何ですか」

 言う。

 そんなことを始めに聞いてどうする。言った直後にそう思ったけれど、とにかく腑に落ちない言葉を片っ端から聞けばいいと思い直して、相手の言葉を待った。

「ソーマのようなサピエンスが支配層を称している世界。それが“こっち”。私達を基準にして言えばシルフの住まない世界。対してウォナンは“あっち”。支配層がサピエンスではなくシルフの世界。ドワーフは“こっち”ではオマケ。“あっち”では支配層に敗れた下等種。それだけよ」

「その……」

「シルフが何か?ドワーフが何か?そうね……粒子の熱運動を調整する業に長けている魔物を風の精霊、つまりシルフと言って、粒子の結合を調整する業に長けている魔物を土の精霊、ドワーフと言うの。それだけよ」

「シルフに、ドワーフ……マモノ」

 小さなころ読んだ伝記に出てきた言葉と、それに共通してくっついてきた不吉な言葉。

「ソーマのいるこの世界だとまだ特定すらいたっていない、宇宙を構成する素粒子の一つを操れるの。私たちシルフやそこのドワーフはね。だから“魔物”とソーマのために表現したの。その素粒子をヌペリムというのだけれど、“魔物”の定義はつまりヌペリムを操る機構をもち……」

 「そこのドワーフ」と言われてハッとする。タマ!?タマはどこに行った?

「タマ!」

土から掘り出したばかりのジャガイモの赤ちゃんみたいないびつな小さな泥団子が、よく見たらベッドの枕元に浮いていた。

「力を使い過ぎたのかしら。うふっ……ドワーフの助けのない今のソーマともう一度ヤり合えば結果はどうなるかしらね……」

 不穏な言葉に慌てて背後を振り返る。イオスはいつの間にかガラスのテーブルの前で膝を折って座っていた。

「ウソよ」

どこにでもいる若い女性がするように肘をつき、その肘の上に顎を乗せて、眠たそうな目で泥団子を見ていた。殺気のようなものは全く感じられなかった。

「タマっていうの?それ」

 イオスが聞いてくる。「ただそう呼んでいるだけです」と返す。

「他ならぬソーマ自身が幾度も目にしたドワーフの力。……推測を挟んで申し訳ないけれど、たぶんソーマの中には、ドワーフがいる。いつかは知らないけれどソーマはドワーフと契約を交わした。ドワーフにとってメリットがあるとは到底思えないその契約を結んだ時点で、ソーマの中にドワーフの力が宿る。土塊のようなその球体はソーマの中のドワーフの影。残力、言い方を変えれば残りの命の量を表していると思う」

「そんな……」

 “ジャガイモ”を見る。触ろうとして手を近づけるけれど、三次元映像に手をかざしているみたいで、触ることができない。

「ドワーフが心配?私が死んだ時もそれくらい心配してくれたらうれしいんだけど」

 「ふふ」とまた、イオスは気だるそうに笑う。何となく、この精霊の内面にどこか不安定なものを感じた。

「今話したのはあくまで推測。仮説。ソーマが回復したら一緒にドワーフも回復するかもしれない。可能性はあるわ。何せ他の種族が大嫌いな種族主義者のドワーフが人間に憑いたんだから。よりによってこの宇宙で二番目くらいに嫌っている人間に」

「そういう、ものなんですか。ドワーフは」

「そうよ。ちなみに一番嫌っているのは生活圏の接している隣人。つまり私のようなシルフ。支配層。“こっち”の世界において、ソーマたちサピエンスは他に同じくらい進化した種族がいないからサピエンス同士で争っているでしょ?でも“あっち”は違う。同じくらいに進化したシルフとドワーフがいて、太古の昔から覇権を争っている。どの世界でも隣人同士は仲が悪い。争いが絶えない。そして争いに勝った側が支配層となり歴史を語り、敗者は奴隷となる。どうでもいい話だけど、ドワーフが支配層に君臨した記録は残っていないわ。シルフ達の伝承には」

 歴史の要諦を言って締めくくった後、イオスは小さく咳払いをし、肘の上から顎を下ろした。

「話を戻すわ。ウォナンをヤナギミズキに寄生させたシルフについて」

「シルフがミズキを、あんなにしたんですか」

 ベッドに腰を下ろし、俺は質問をする。このイオスと同じシルフが、水希をあんな目にしたのか……。

「そう。シルフの中にいる大馬鹿がこっちの世界の至る所で好き勝手をやって、何人もの人間をああいう風にしているの。彼女で、確認されているだけでも二十九躯目」

「そんな。……何のためにそんなこと」

「おそらく自分の行方をくらますための牽制に彼女たちも、ウォナンも使われている」

「その、ひどいことしてるシルフって誰なんですか?」

「……そうね。名前だけでも知っておくといいかもしれないから、教えておくわ。グナ・エリオディプス・ラヴラ・パラヴィキオン……」

 その後四十秒くらい意味不明の呪文のような言葉が続いた。「ひょっとすると名前を言っているんですか?」と聞いたら、“呪文”は止まった。

「ラヴラ。私が“イオス”という記号で表されるようにあのパラノイアも記号で表すならそれでいいわ」

「……」

 心の中に深く刻み込む。ラヴラという名前を。水希を殺した敵の名前を……。

 カチャ、チャ、チャ、チャ……

「……」

 何だ?何の音?

「どうかした?」

「え、いや今、音がしませんでしたか?」

「さあ?私が無意識のうちに舌うちでもしたのかしら。ごめんなさい」

 「チェッ」と冗談めかしてイオスが舌打ちをする。

「すいません、気のせいかもしれないです」

 無意識のうちにカウンティング ホイールが浮かんだのかもしれない。何で軸の回転数を測る必要が今あるんだ、俺は……………カウンティング ホイールって何だ?軸?……え?

「ウォナンの憑いた人間は、言うならば野に放たれた魔獣。永遠に満たされることのない食欲を満たすために肉を食らい続ける。特に自分に似た質をもつ肉を」

「それって、人間を食べるってことですか」

 人を食べると人は鬼になるという昔話がおぼろげに、頭をよぎる。恐怖が話に重なる。

「ウォナンの寄生主が人間なら、そうね。だからそうなる前に、私のような殺し屋がこの世界の各地に派遣される」

「イオスさんの仕事は、ウォナンの憑いた人間を殺すことなんですか」

「イオスでいいわ」

「え?」

「“さん”はいらない。私たちの世界で“サン”という語は“変態”を意味するから」

「あっ、すいません」

「嘘。そんな言葉はないわ。緊張しなくていい、気を遣わなくていいといいたかったのよ」

 話が一瞬途切れる。

「何の話をしてたかしら」

「イオスさ……イオスの仕事が、人間を殺すことなのかっていう話です」

 思い切って敬称を解く。

「そう、そうだったわね」

 イオスが少しだけ満足そうな表情をして、質問を受ける。これでいいらしい。

「ウォナンが憑けば人間だろうと象だろうと虫だろうと何だろうと始末する。それが私の職務」

「……」

 敬語とか気を遣うなんてことが、どうでもいいと知る。

 ここに来てイオスの仕事を知る。風に近しい存在である以上に、殺意に近しい存在と知る。今さらながら、背筋が寒くなる。

「恐くなった?」

 首を少しだけ傾ける。イオスの眼に外の鈍い光が反射して、わずかに光る。

「へ?いや……大丈夫です」

 声が上ずった。“こういうの”を敏感に感じるんだろう。

「大丈夫よ。もう手は出さない」

 こっちの考えていることを読んだように、イオスは目を瞑り、言った。

「殺せたら殺していたわ。あの夜にも言ったかもしれないけれど、不安要素は消す。それが“私のいる世界”の掟だから」

 殺される前に殺す、そういうことか。

「だけど殺し返された。そして力を使い切った。まだ仕事はこれからって時に」

 イオスが「はぁ」とため息をつく。

「これから?まだウォナン……その、ミズキのように犠牲になっている人があとどれくらいいるんですか?」

「私の管轄ではもういないわ。各地に派遣された私たち……アクリタークというんだけど、その殺しのプロがウォナン被寄生者を殺して回る。殺せばミッションは終了。アクリタークはそれぞれ元の世界に戻り、報告書を作成して、次の任務に移る」

「じゃあ、イオスはあとシルフの世界に戻るだけなんですね」

「いいえ」

 ここで、イオスが真顔になる。「本題に入るわ」といった表情だった。

「戻らない」

「え?どうして?」

「戻れないから」

「?」

「戻るための正当な手続きを踏んだにもかかわらず戻れない。そういう意味よ」

 話しながら自分の話の内容を確認するかのように、慎重な話し方だった。

「どうしてか?原因が分かったら誰も苦労なんてしないわ。ソーマをわざわざ自分の家に連れ込まないでさっさと引き揚げて次の戦場に向かっている。だけどそれができない。理由はわからない。分かっているのは各地のアクリタークが同じような状況に置かれているということ」

「みんな、元の世界に戻れないんですか」

「そう。それで、ここからが重要なんだけど……話してもいいかしら?」

「え?あっ、どうぞ」

 腰かけたベッドから立ち上がり、イオスとガラスのテーブルを挟んで対峙するようにして一応、正座する。

「その前に、“私たち”にとって大事なことを言っておくわ。シルフやドワーフは、海を渡れない。潮の力にどっちも弱いの。さっき話した素粒子の一つヌペリムへの干渉の代償なんだけれど、その辺の細かい話は今どうでもいい。とにかく海を渡れない。海は世界の終わりを意味する」

「そう、なんですか」

 そこでイオスは一旦黙る。目を閉じる。眉間に皺が寄り、いかにも腑に落ちないことを抱え込んでいるような顔になる。しばらくしてその顔も崩れる。腑に落ちないことがこっちに飛んでくるのを覚悟する。

「一番最近確認されたラヴラの所在地は、偶然にもこの島国」

「ラヴラはこっちの世界にいるんですか!?」

「いるわ。シルフの住む世界にいづらいからこっちに来て、こっちでウォナンによる牽制をしながら、本業に忙しい」

「本業って、何が目的なんですか?」

「単純よ。ある集団の中で自分が一番になりたかったらどうすればいい?」

「それは……例えば話し合って代表を……」

「違うわ。一番強くなればいい。強くなれないなら、強い兵隊をたくさん集めればいい。そうすれば頂点に君臨できる。どの世界でも軍隊を掌握した者が王になる。私達の世界も同じ」

「ラヴラは軍隊をつくるつもりなんですか?」

「軍隊は比喩。私達シルフの世界にはヌペリムという武器がある。分かりやすく言えば魔法。強い魔法を行使できる者は巨大な軍隊を持つことに匹敵する」

「……ラヴラは、つまり魔法使いになってシルフの世界を支配したいってことですか」

「本質を言えば恐らくそうだと思う。あの馬鹿がこっちの世界でセカセカとやっている“本業”とは自身の魔力の強化。ヌペリムをいかに自在に操るか。その能力を高めるのに、人間の魂を使うのはとても都合がいいの」

「使うって……」

「食べるでも何でもいいわ。その細かい仕組みまでは私も分からない。とにかく利用する」

「……はい」

「魔力を高めるべく魂を利用するために、こっちにきて、ソーマたち人間に害を加える。情報によれば菌をまき散らして魂を人間から奪っているらしい。余談だけど魂を奪われた人間は魔隷、いわゆるゾンビになる。すぐに、見た目に大きな変化は現れないけれど、徐々に思考が荒廃し、肉体が崩壊する。最後まで残るのは生の象徴である血肉への渇望。私たちはウォナン被寄生者の相手をするだけじゃなくて、そういう魔隷も処理している。……放っておけばゾンビは菌を媒介にしてゾンビを増やすから」

「そう、ですか」

「で、その魔隷とウォナンの親玉はこの島国にいることは少なくとも確認されて、それから後はどこの大陸にも、島にも現れていない。もちろんシルフとドワーフのいるあっちの世界にも、その他の世界への移動記録もない。これはなぜ?」

「なぜって、……えっと」

「そもそもシルフが世界を往き来できないのはなぜ?」

 自分自身に質問しているのか、俺に質問しているのか分からない表情で、イオスは言葉を口にしている。

「そんなの、俺には分からないです」

 思ったままを答える。

「世界を行き来することができなくなった原因が誰によるものなのかが分からない。ただ私たちは、というか私たちの上司はラヴラを疑っている。激しく。根強く。執拗に。熱烈に」

「ラヴラがシルフたちの、世界の往き来をできなくさせたってことですか」

「そうだと上層部は考えている」

「何のため、ですか?それって、自分の首をしめることになるんじゃないですか?だって行き来できないんじゃ……」

「そう。この島国から脱出できない。いわゆる袋のネズミ。力を蓄え終えてもはやネズミではなくトラというのならこの島国を居城にするのは分からないでもないけれど、ウォナンを使って小細工をしている時点でトラになったとは考えにくい」

「籠城、ですか」

「籠城戦は味方の応援が期待できて、包囲する敵を挟撃する点において意味を持つ。だけどラヴラに共感するシルフは少ない。応援と言うほどの応援は期待できない。しかも彼らの移動手段すら奪ってしまっている状態だから」

「ひょっとして、ラブラ本人だけは移動できるんじゃないですか?」

「そうなのかもしれない。ラヴラ本人だけは例外で海を越えて異なる場所へと行き来できるかもしれない。そうであればかなり厄介ね。でも移動をすればどこかの世界に現れ次第、移動したことくらいは発覚する。間違いなく、世界の往き来はそう簡単にできることじゃない。抜け道をつくり、そこを行き来するのならなおさら。すなわちヌペリムを使った大規模な干渉がある。その検知くらいは私達でもできる。魔法の行使は難しくても魔法が行使されたかどうかの確認は容易い。星に行くことは簡単にはできなくても、星の位置と活動を観測できるのと同じよ」

「じゃあ、ラヴラは世界の往き来はできない?」

「その可能性は高い。移動できるけどせず、あえてとどまっている可能性は低いと私は見ている」

 この日本にラヴラはいて、それで自分から逃げられない状況をつくった?そんなことにメリットなんてあるのか?

「ラヴラがこの島国に来て、わざわざ次元封鎖……世界の往き来をできなくすることをそう呼ぶの。次元封鎖をした結果、どのシルフも世界の往き来ができなくなった」

「ラヴラがもしそれをやったとすれば、当然ラヴラにメリットがあるってことですよね」

「そうね。そう考えるのが筋ね」

「どんなメリットがあるんですか?」

「分からない。だから困っている。他のシルフもドワーフも移動できない。強いて言うならばこれだけがメリット。この島に現在残っているアクリタークを殺せば、とりあえず奴にとってかりそめの平安が訪れるわ」

「でもここからは出られない。……もしかしてこういうのを繰り返すつもりじゃないですか?」

「次元封鎖を繰り返し、シルフ達を逐一隔離し、孤立させ、各個撃破……それができれば神になれるわ。次元封鎖なんてシルフ一匹の命でできることじゃない。そして一度でもやれば肉体と魔力の全てを間違いなく失う。誰の得にもならない禁術の中の禁術。何度もやる、なんて魔神でも不可能」

「……」

 沈黙が訪れる。俺は残っていたボトルの水を飲む。

「どうでもいいのよ」

「?」

 俺が飲み終わったのを見計らったかのように、そこでイオスが言った。

「所詮は憶測。私たちが今話していることは確かめられた真実じゃない。真実を知りたければ事実を集めていくしかない」

「……」

「次元封鎖は段階を経て完成する。私達の往き来ができなくなり、そして最後、情報・思念の往復も行き詰まる。上層部はこの島にいるアクリタークに最後、こういう指令を出したわ。ラヴラを見つけ出し、どんな手を使ってでも殺せ、と」

 ゴクリと、唾を呑み込む。ペットボトルの蓋を閉め、テーブルに戻す。

「次元封鎖前、全部で三人、アクリタークはこの島にいたらしい。そのうちの二人とはもう連絡がとれなくなった。陸地で連絡が取れなくなる理由は一つだけ。命が壊れた。つまり死んだということ」

「ラヴラに……」

「それも含めて、私は調べる必要ができた。だけど今の私じゃ、一人だと心細い。切り札を持っているかもしれないラヴラを相手にどれだけの勝算があるか正直分からない。だけど逃げ回っていても状況が好転するとは思えない。だとすれば私は、どうしたらいいか?」

 スッ。

「!」

 イオスの上半身が静かに素早く動く。ガラスのテーブルを彼女の両腕が越える。その両手先が俺の頬に触れる。顔と顔の距離が近づく。

「危険かもしれないけれど、少なくとも今は敵対していない戦力と協力するしかない」

 頭の中で何かが揺れる。強い既視感に襲われる。既視感?何だろう。分からない。リンクが上下する。ハンドルの加減が効かない。シューとリムの隙間が潰れる……

「単刀直入に言うわ」

「え?」

 カチャチャ。カチャンッ。

「殺そうとしたことは謝るわ。本当にごめんなさい。そしてお願いがあるの。私の仕事に協力して」

 音が聞こえた?またさっきの音?あれ?何だ?あっ、こんなに近くに、イオスがいる。え?いつから?

「ダメかしら?」

「一緒に、ラヴラを見つけ出して、殺すってことですか」

 チチチチチチチ………。

「そう。私を疑うのは無理ないわ。こちらの都合を一方的に押しつけてソーマを殺そうとしたから。今も押しつけているのは変わらない」

「……」

 チャチャ、チャカ、チャンッ。

「約束する。二度とあんな真似はしない。……といって信じろと言うのは虫のいい話なんだけど」

 身をのり出し、俺の頬に両手で振れていたイオスはまた身を元に戻す。

「何か望むものがあれば用意するわ。それで私を信じてもらい、私と一緒に戦ってもらえるなら」

「……」

 カチャチャ。キチチィ……カッチャンッ!

「ヤりますよ」

「?」

「協力します」

「本当に?」

「断っておきますけど、イオスのためじゃないです」

「……ヤナギミズキね」

「そうです。ミズキの仇は討ちたい。だから協力します」

「そう。ありがとう。……大丈夫?」

「平気です」

「そうじゃなくて、何か、変わったわよ」

「何が?」

「……何でもない。気のせいよ」

「そうですか」

 イオスはそれから立ち上がる。腕を上に上げて体を伸ばし、横にひねり、軽くストレッチをする。

「何か食べにいかない?私、お腹空いたわ」

「俺は平気です。それより少しまた、横になりたい」

「そう。じゃあ買ってきてあげる」

「すいません」

 急に軽やかになったイオスは玄関近くにあるクローゼットからミリタリーコートを取り出し、着る。

「ありがとう」

 言われて、イオスを見る。

「どんな理由であれ、協力してもらえると助かる。本当に」

「……」

 俺はそれに応えず、ガラスのテーブルに視線を戻す。ガタンッという扉の閉まる音とともにイオスの気配が室内から消えた。

「冷える……」

 イオスがいなくなった途端、急に室内が冷えはじめる。ひょっとしたらイオスは魔法か何かで室内を暖めていたのかもしれない。

 ピッ。

 エアコンのスイッチを入れて、横になる。

「……………殺ス」

 仰向けになった俺の胸の上を浮遊する泥団子を見ながら、これからを考える。

「殺ス」

 イオスは、本当に信用できるだろうか。また突然銃を向けてきたりしないだろうか。

「殺ス」

 ラヴラに、一緒にたどり着けるだろうか。ラヴラ以外にも悪いのがいて、途中で俺とイオスのどちらかが死んでしまうようなことがあるかもしれない。

「殺ス」

 俺はラヴラを前にして、本当に役に立つだろうか。かえってイオスの足を引っ張るだけじゃないのか。

「殺ス」

 水希。本当にごめん。お前を、救えなかった。お前にとって、俺は何の役にも立てなかった。何をしてやることもできなかった。ただ失って、泣くことしかできなかった。

「殺シテ、壊ス」

 だからせめて、水希。お前をあんなふうにした敵を俺は、絶対に許さない。お前の仇を討つために命を賭ける。それだけは、こんな俺でもできる。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、お前の仇は討つ!

「全部壊シテヤル」

 ……眠い。さっきから、口が勝手に……何を……

 目を閉じる前に、泥団子に手を伸ばす。もう、片手でつかめる大きさじゃなかった。

「なんだ、タマ。元に戻ったのか。……良かった」

 どういうわけかメロンくらいの大きさにまで回復した泥団子はぼんやりとこちらが見ているうちに、大きな亀裂を一カ所生じさせる。そこで団子は割れる。割れた中には節に覆われた肢がいくつも生えてワシャワシャと動いている。まるで身を守ることを止めたダンゴ虫を見ているようだった。

「そっか、お前……変なの……」

 急速に訪れる眠気の中、学校の生物でならったグソクムシが頭を流れ、そして消える。地学だったか……確か……この形……示準化石だか示相化石がどうのこうのって……

「なんだっけ……ああ、サンヨウチュウ…………」

 地学室で化石のスケッチをした時のことを思い出した。確か、あの時は、水希はまだ学校にいたんだ。みんなの人気者で俺はそれに比べて独りで……当たり前、か……。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ