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Wind Breaker  作者: 雨野 鉱
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四滴

 四、 再会


「ぐう……うっ……はっ!?」

 目を覚ます。枕元にゆっくりと手を伸ばし、デジタル時計で日付と時刻を確認する。

 十二月二十一日午前十時五十三分。

「はっ、はあ、はあ、はあ……」

 時計を握る腕の先に浮かぶ泥団子に目が行く。頭の中を反芻した悪夢が悪夢じゃ済まないことを少しずつ思い出し、ベッドからゆっくりとはい出る。台所までどうにか行き、グラスを手に取り、水道水を満たし、何杯も飲み干す。

「ぷはっ、はあ、はあ、はあ……」

 “あれ”から、四日も経った。

 “あれ”――。

 タマと協力して、殺人を犯した。その日から四日も経った。

 協力――。

 何を言っているんだ?殺人を犯したのは結局俺一人だ。泥団子はただ浮いていたに過ぎない。少なくとも俺以外の人間がタマを見てタマが殺人を手助けしただなんて誰も思うはずない。

 ……そう、間違いなく、俺は一人きりで殺した。……そうだ、何も、忘れちゃいない。忘れられない。あの日、一人で水希を探して、結局一人じゃ見つけられなくて、それで、何の因果か、公園で巡り合った悪魔を殺した。責任を誰かに転嫁することなんてできない。間違いなく、俺は一人で殺してしまった。

 俺は、人を殺した。

 何のために?

「……生きる、ためだった」

 やらなければ殺されていた。あれは、絶対にそういう状況だった。殺意が空間を支配していた。あの金髪女の殺意が。

「生きるために、一人で、一人を、殺した」

 ……どうやって?あんな、化け物みたいに強い奴を、俺はどうやって殺した?

 ……。

 ……。

 思い出せない。でも、生きてここにいるってことは、俺は確かに、あそこで、あの化け物を殺したんだ。見逃してくれるような雰囲気じゃなかった。殺すことを目的にして生きているとしか思えないような奴だった。アイツから逃れるには、アイツを殺すしかない。殺し返すしかない。そうとしか、考えられなかった。

「殺し、返したのか……思い出せないような方法で……」

 部屋に戻ろうとする。けれど体の力が入らない。歩くのもしんどい。もう、駄目だ。

 バフゥッ!

 俺は居間のソファーに沈み込む。女を殺して家に逃げ帰った後の衰弱がひどい。全身が軋み、痛いのはもちろん、何にも気力が起きない。何か少しでも行動を起こすと、それだけで全身を重い倦怠感が包む。どうなってる?そう考えているうちに酷い眠気に襲われる。気づけば公園で起きた悪夢の中に自分はいて、いつの間にか手にした熱い刃物で女を叩き斬ったところで、また目が覚める。時計の針だけがはるか遠い場所にたどり着いている。後は同じだった。違うのは横になっている場所くらいだ。悪夢の舞台が途切れるのは乱れたベッドシーツの上だったり、便所だったり、ソファーだったり、キッチンの床だったりした。そして目を覚ました俺の上には毛布が二枚かけられていた。仕事が忙しくて家にいられない母さんの優しい香水の匂いがわずかに残っていた。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 母さんは、タマを見たんだろうか。それともタマはちゃんと母さんの前では隠れてくれているんだろうか。

「……」

 宙に浮かぶ泥団子は心なしか、前より小さくなったような気がする。俺と同じように、弱っているのか、どうか。

「……」

 今、テレビをつけてみたら何が映るだろう。線路が激しく破壊され、しかも死体が見つかれば一週間くらい、ニュースとしてどこかの局がとりあげるだろう。

「ぐ……」

 震える手を伸ばしてリモコンをとり、テレビをつける。チャンネルを変えていると予想通り、線路を上空のヘリコプターから撮影している映像にありつく。テロップが右上にあって、左下にはコメンテーターのでっち上げたような神妙な顔が映し出されている。ありがちな構図だった。

「……」

 テロップを見ようとする。だけど目のピントがなかなかあわない。少ししてようやくあう。

「テロ……鉄道の破壊……」

 注意を引こうとする赤文字の中には、死者を意味する言葉が一つもなかった。あるのはただ線路の破壊された映像と、ダイヤの乱れ、鉄道、インフラといった文字だけだった。

「……」

 あの、金髪の女は?死体に関する情報は?あれから四日も経っているのに?

 画面に目を凝らす。音量を上げて耳からも情報を得ようとする。意味不明の疲労感と倦怠感に蝕まれながら、必死に刺激を脳に送る。どうして?死亡事故なんて一番大々的に取り上げられて報道されるはずなのに……どうして?なんで見つからない?

「はあ、はあ、はあ……」

 気を失いそうになりながら、チャンネルを回す。多くの局が“事故”について取り扱っているのに、そのニュースのテロップのどこにも、コメントの一言にも殺人や死傷といった言葉は出てこなかった。

「……」

 死体は、ない?

 ないから、死体が見つからない?

 でも確かに、俺は、あそこで、あいつを、殺した。

 ……誰かが、持ち出した?

 誰がいつ、持ち出した?

 ……。

 ……。

 まさか、全部夢だっていうのか?

「いや……そんなはず、ない」

 現に線路はひしゃげている。鉄道のダイヤは狂いに狂っている。

 殺人は夢――。

 昼下がりの日光を受けて楕円の影を俺に落とすタマを見ながら、それはないと思い直す。

 思い出せない。正確には思い出せない。

 けれど、確かに、記憶の中に“戦い”はある。

 “戦い”の中には落下の記憶があり、爆風の記憶があり、土砂にのみ込まれた記憶があり、そして女と切り結ぶ記憶がある。どれがどの順序でどうして生じたのかを完璧に並べられる自信はない。でもそれが、俺の命を震え上がらせたことは、どうしても忘れられない。記憶から削り落とそうとしても、無理だ。

 そして最後、記憶の結末は、直視した“死”。自分が生きている間に創出するとは夢にも思わなかった人間の“死”。それが怖くて必死に走って逃げたはずなのに、それが今、ないと世間はいう。

「そんな馬鹿な」

 そんな都合のいい話、あるはずない。

 みんなで俺を騙している?

 でもそれなら、どうして俺を騙す必要があるんだ?俺を騙すメリットがどこにある?

「じゃあ、どうして……」

 ぼんやりとした血液色の闇の中をあてもなく彷徨い続ける。闇が体に迫ってきているのか、俺が闇に迫っているのかの判断もつかないまま、俺はソファーにさらに深く沈み込んでいく。

「……さて、続いてのニュースです」

 テロリストによる犯行を勝手に番組がほのめかす“鉄道爆破事件”の報道が終わった直後、その局の報道番組は別の“テロ”を伝え始めた。それは生物兵器についての話題だった。

「……一昨日未明から、○○市を中心に体調不良を訴える人が次々に病院へと搬送されているとのことです。警察は同市で四日前に起きた鉄道爆破事件との関連も含めて慎重に捜査している模様です……」

「……はい。現場からの中継です。さきほどの記者会見でもありましたように、搬送されてこられた患者さんの容体は皆、最初は意識があるものの、次第に朦朧として、ついには意識を失って目を覚まさないという共通点が見られるとのことです。さらに別の医師の方から、『現在、ウイルスによる伝染性の脳炎を疑っているが、ツェツェバエが媒介するトリパノゾーマの引き起こす睡眠病とは少なくとも違うだろう』とのことです。トリパノゾーマが引き起こす睡眠病は最悪の場合、死者が出るとのことですが、現時点では確かに死者は出ていません。しかし予断は許さないとのことです。ウイルス性の脳炎であればそれが何かを特定する作業を進めなければならない等、課題は山積しています。以上、現場からの中継でした」

「はい。ありがとうございます。え~、あ、今入った情報によりますと、約三十分後に首相官邸の方で内閣官房長官から発表があるとのことです……」

 ドクン。

「……」

 睡眠病。

 ドクン。

 今の置かれた俺の状況に、すごく似ている。

 ドクンッ。

 脳炎?ウイルス?そして気だるくなって眠る?

 ドクンッ。

 じゃあ俺も、その“一部”になるのか。

 ドクンッ!

 眠ったら最後、もう二度と目を覚まさない患者の一部になるのか?

 ドクンッ!

「……ふざ、けるな」

 体を震わせてソファから起き上がる。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 体が、まるで自分の体じゃないみたいに、重い。けれど我慢して、風呂場へ向かう。

 ザ―――ッ!!

 裸になって、シャワーで冷水を浴びる。

「ふっ、う……く……っ!」

 凍るような冷たさに心臓が止まりそうになる。

 ザ―――ッ!!

 けれどそのうち、慣れてくる。

「……俺だ」

 体の表面はどうしようもなく冷えきっている。けれどそのせいで、体の芯の部分に、熱を感じた。熱があるのを確かに感じた。

「……生き方を決めるのは、俺だ」

 その熱が何なのか、どこから生まれたのか思っているうちに、一人の姿が面影に立った。

「俺の死に方を決めるのは、俺だ」

 水希――。

 お前を見つける。だから生きる。だから死なない。ウイルスだか絶望だか分からない奴なんかに殺されたりしない。潰されたりしない。

「絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、見つけ出してやる……」

 水をお湯に切り替える。髪を洗い、体を洗い、浴槽を出た時には、体を包んでいた悪夢は嘘のように消えていた。

「す~、は~……」

 ウイルス?脳炎?ありえない。もしあったなら、もう俺の免疫が、執念が食い殺している。

「すぅ~、はぁ~……」

 当たり前だ。これは俺の体だ。悪夢に捧げるための体じゃない。ウイルスに支配されるための体じゃない。小便まみれで地べたに這いつくばるための体じゃない。俺が精いっぱい生きるための体だ。

 俺を支配するのは、俺だ。

 母さんが用意してくれていた朝食を食べると、久しぶりにストレッチとトレーニングを始める。怠けていたせいでいつもの三分の一の量もこなせなかったけれど、どうにか体が動くことだけは確認できた。

「よし」

 時計を見る。十四時三十三分。

「……」

 水希はどこにいるんだろう?あの、水希に似た人物を見たのは確か水希とデートして最後にいった場所だった。あれは本当に水希だったんだろうか。

 プルルルルルッ!

「!」

 その時、空気に見えない楔がささるように電話が突如として鳴る。別に無視してもよかったけど、水希につながるかもしれないと思い、電話に出た。

「もしもし」

「もしもし、ノモリガミ様のお宅でしょうか」

 声は、高校の担任だった。

「はい。ノモリガミです」

「おお、お前か」

 急に安心したような声に変わる。

「お前、何ともないよな」

「え?」

「いや、何ともなかったら学校には来ると思うが、少なくとも体に異常とかはないか?」

「ええ、大丈夫です。あのそれって、ニュースで今やってる病気のことですか」

「ああそうだ。知ってるな?うちの学校の生徒も昨日からすごい数が欠席してな。授業どころじゃないから念のため欠席した家庭に電話連絡して回ってるんだ。メールの一斉配信のおまけでな」

「そうですか」

 話しながらどうでもいいことだと思い始める。自然と俺の視線は部屋を彷徨い出す。この人たちは表面上心配してくれるだけだ。いや心配はしてくれるかもしれないけれど、だから何かが起きた時に何かをしてくれたりはしない……ん?

「タマ?」

「おい?何か言ったか?」

「あ、いえ」

 宙に浮いた泥団子は小さく小刻みに震えていた。

「ところでノモリガミ」

「はい」

「いい知らせがあるぞ」

「いい知らせ?」

「ああ。お前が心配していたヤナギが学校に来ている」

「え!?」

 心臓が、止まりそうになった。あれだけ探しても見つからなかった水希が学校に来た!?

「今日はどうする?学校に来るか?ああそうだ。言い忘れたが明日から三日間学校閉鎖になる。学校閉鎖中は頼むからあまり外出はしないでくれ……おい、聞いてるか?」

 ガチャンッ。

 受話器をとっとと置き、急いで着替える。担任もタマもテロリストも死体もこの際どうだってよかった。世界中が俺を殺そうと襲い掛かってきても、別にどうでもよかった。ただ、逢いたかった。水希に。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 家を飛び出し、全力で学校へ向かう。もうじき放課後になる。別に放課後になったから会えないなんて道理はないだろう。でも今の俺には、そうは思えなかった。学校が終わったら、また水希は俺の前からずっといなくなる気がする。何か特定の期限を過ぎれば、俺らは永遠にすれ違うように定められてしまっている気がする。だから、急いだ。授業中なら、学校に来ているなら、学校の中にいる!俺はそう信じている。どこにもいなくなったりしない。もし俺が、放課後になる前に学校にたどり着ければ!

「ミズキ……ミズキ……ミズキ……」

 死にもの狂いで急いだ。急いで、学校に行った。

「……………?」

 正門が、閉まっていた。正面玄関の上につけられている時計の文字盤を確認する。十五時十三分。まだ、六時間目が終わる二分前だ。授業があるなら、この時間に正門が閉まっているなんてこと、ありえない。事件の影響か?

 コツ。

「?」

 その時、靴の踵に何かがぶつかる。小学校低学年の児童が蹴り損ねたサッカーボールが後ろから当たったような些細な衝撃だった。何気なく振り返る。

 フルフル……

 タマが、まだ震えていた。

「どうしたんだ、タマ」

 そういえば今のは、タマにぶつかられたのか?そんなことができることすら俺は知らなかった。でも今はそんなこと、どうでもいい。何だろう?何を伝えようとしているんだろう。

「何か言いたいことでもあるの?」

 タマに聞く。けれど口を持たないタマはただそこでフルフルと小刻みに震えているだけだった。まるで手に負えない恐怖に震える幼子のように。

「おい学生さん、今日は休みだって」

「?」

 その時、学校の目の前で文房具屋を営むじいさんに突然声を掛けられた。

「休み?」

 白いマスクをつけたじいさんの立つ文房具屋の前に移動して、話を聞く。

「ああ。今日は学校はねぇよ。なのになんでお前さん来たんだ?さてはサボってばっかで知らなかったな?」

 当たらずも遠からずの推理だったけど、そんなことはどうでもよかった。

「あの、今日学校……授業とか、ないんですか?」

「何かとてつもねぇ事件が街で起きてるじゃねぇか。ニュースみてねぇのか?んで、それでよ。あれだ、昨日から学校閉鎖になったって聞いたぞ」

 じいさんは確かにそう言った。

「昨日?」

「おお、そうだ。で……エホッ!エホッ!」

 言ってじいさんは咳き込む。咳がおさまると地面に痰を吐き、また続けた。

「明後日までの四日間、とりあえず臨時で休むと」

 そう言って「ほら」と、ポケットから取り出したケータイの画面を俺に見せた。

 それは緊急時に送られる学校からの一斉メールだった。担任の話を思い出す。内容は学校のある駈都山市内で大勢の人間を眠りに誘う原因不明の大事件が起きていること、それを受けて昨日から明後日までの四日間とりあえず学校閉鎖とすること、閉鎖期間中は自宅に待機して不用意に外へ出歩かないことなどが書かれていた。

「……失礼します」

 俺はじいさんに礼を言って文房具屋の前から歩きだす。学校の敷地の周りを歩きながら、どういうことか冷静に話を整理する。

「……」

 担任は、明日からと言った。さらに水希が今学校にいると。

「……」

 文房具屋が見せた一斉配信メールには、学校閉鎖は昨日から明後日までと書かれていた。しかも学校の正門は閉ざされている。

「……」

 担任はどうして俺のところに電話をかけてきた?固定電話に表示された電話番号は、あれは学校の番号だ。つまり学校からかけられたものだ。ということは今、担任は学校にいる?学校閉鎖中なのに?部活もへったくれもないはずなのに、わざわざ学校に来ている?

「……」

 なんで水希が学校にいるなんて嘘を言ったんだ?学校閉鎖中に水希が学校にいるはずない。……担任は水希と学校にいる?二者面談?三者面談?何で?学校閉鎖中にそんなことするか?………まさか、担任が水希を学校に無理やり拘束している?でもそんなことして何になる?そしてそれを俺に告げる理由は?担任は俺をどうしたいんだ?

「……」

 ……。

「タマ」

 泥団子がピタリと止まる。

「ひょっとして、“悪夢”はまだ続いているのか?」

 泥団子は一度だけ、縦に震えた。まるで「そうだ」と頷くように。

「……そうか」

 裏門まで来て、俺は裏門をよじのぼる。敷地内に侵入する。三年生の教室のある一階部分に回り、窓に触れる。案の定鍵の閉まっていない窓を見つけて、校舎内に侵入する。教室と廊下を隔てるドアの施錠を外し、廊下に出る。侵入者がいれば鳴るはずの警報器は作動しない。

「すでに誰かが侵入している、か」

 廊下のロッカーを幾つか適当に開けて、中から汗臭いタオルと百ページに満たないオールカラーのエロ本を見つける。タオルをポケットに入れ、エロ本をギュッと丸めて、握り直し、静かに歩き出す。

 教室の全てが、内側から施錠されている。けれど一クラスだけ、施錠されていない。それは俺と水希のクラスだった。その奇妙な偶然に一抹の不安を覚える。次に職員室へ行く。けれど職員室は施錠されていた。次に理科の準備室に行く。担任がいるとすれば職員室のほかにここ以外、考えられない。

 ガチャガチャ。

「開かない。くそ」

 扉に耳を当ててみても、誰かがいるような気配はなかった。

 担任はいない。

 でも、“誰か”がこの学校内にはいる。俺以外の誰かが、俺をおびき寄せるために。

「……」

 担任が移動教室の鍵を生徒に取りに行かせる際、職員室に行かせる。けれどそれでもない場合、事務室に送る。俺はそれを思い出し、事務室に向かう。

「すいません」

 鍵が閉まっていることが分かってから、俺は職員室前の清掃用具入れからモップを持ってきて、それで事務室のドアの取っ手を破壊する。事務室に侵入し、室内をくまなく探すとまもなく各教室の鍵を見つける。ポケットに入れられるだけ入れ、俺は事務室を出る。

 ガチャッ。バタンッ。

 ガチャッ。バタンッ。

 ガタヤッ。バタンッ。

 校舎は五階まである。屋上も含め、全ての部屋を探し始める。けれど誰も何も見つからなかった。途中調理室に立ち寄った際包丁を見つけた俺は丸めたエロ本をゴミ箱に捨て、かわりに包丁を汗臭いタオルにくるんで懐にしまいこんだ。

 ガチャッ。バタンッ。

 ガチャッ。バタンッ。

 ガチャッ。バタンッ。

 探し終えた時、時計の短針は文字盤の数字を二つも先へ進んでいた。準備室も含めて探したけれど、結局ねずみ一匹いなかった。

「まさに“悪夢”だ。こりゃあ……」

 事務室に鍵を戻し、壊したドアの取っ手を事務職員の机にのせた後、俺はぼやきながら学校を出る。

 日はとうに暮れていた。校舎内が暗いからといって照明をつける訳にはいかない俺は、担任が準備室に備えている非常時用の懐中電灯で道を照らしながら歩いていた。けれどその光も、外を出た今は消す。

「!?」

 自分の周囲を暗闇にした瞬間、俺は意外なものに気付き、戦慄する。

「え……うそ……」

 一か所だけ、俺は巡回していなかった。それは学校の中では一、二を争うほど大きな空間なのに、まったく忘れていた。

「点いてる」

 それは体育館だった。その体育館の照明が、なぜか灯っていた。……なんで?

 ドクンッ!

 高鳴る鼓動を必死に鎮めながら、俺は懐からタオルに巻いた包丁を取り出し、闇にまぎれて移動する。

 ドクンッ!

 俺はまだ行っていない。だから電気をつけたのは当然俺以外の誰か。

 つけっぱなし?ありえることかもしれない。でも、不自然だ。……!!

 フッ。

 体育館の照明が一瞬にして消える!

 ドクンッ!

 絶対に、誰かがいる。そして何となく……誘っている気がする。

 ふと思い出して、連れのタマを見る。案の定、カタカタ震えていた。

「ふぅ、ふぅ、ふぅ……」

 体育館入口まで来て、いよいよ中に踏み込む前に、踏み込んだ先に誰がいるのかを思う。

 あの金髪女の死体をどこかに運んだ奴?

 それとも水希につながる誰か?

「……」

 顔の傍に包丁を近づける。刃物に月光がそっと閃く。鏡のような刃紋の中、やせた、汗まみれの男の用心深い目が寂しく映る。その目を見つめる。鳥肌がゆっくりと全身を覆う。情けない顔をしているのに、けれどその男を、嫌いだとは思わない。理由は難しくなかった。

「水希。絶対にお前を見つけるから」

 刃の中の男の目を見ながらそう言う。男と俺は同時に頷き合う。

 そう、情けない顔の男も俺も、水希のために命を賭けてる。だから、嫌いだとは思わなかった。

 顔から刃物を遠ざける。筋肉の緊張をほぐし、突入する準備を終える。

 ガランッ!!

 静かに開けようがない体育館入口の大きな扉を内側に向かって押す。広い室内は蒼く、昏い。

「……」

 体育館の中ほどまで、俺はゆっくりと進んでいく。

 ジャパッ。

「!」

 水溜りを踏んだ時のような音に驚き、俺は静止する。その頃には暗闇にだいぶ目が慣れてきていた。だから“水溜り”が水にしては濃い、黒っぽい色をしているとき、血だと気付き心臓が止まるほど驚いた。

 ポタッ、ポタッ、ポタッ……

「?」

 別の音に気付き、ふと目を上に向ける。

「……………!」

 瞬間、俺の中で血の気が引く。言葉は完全に死滅した。

 ポタポタッ、ポタッ、ポタッ……

 体育館に備え付けられているらしいトレーニング用のロープが天井のレールによって動かされ、重力に任せて垂れ下がっている。ロープの下には重りが吊り下げられ、それが揺れている。ちょっと遠くから見ればそのシルエットは振り子のようだった。

 ポタッ、ポタッ、ポタタッ、ポタンッ……

 冷気が極まる。むせるような血の臭いと月光が俺に教える。“ロープ”は、ロープじゃない。レールらしきものは本物だが、ロープは違う。ロープはあんなにピンク色をしていない。重りと“ロープ”はもとから一つだと。

「……」

 ポタッ、ポタタタタッ、ポタンッ、ポタッ、ポタッ……

 飛び出た腸で吊るされた人間たちは微動だにせず、ただ死して錘と化していた。彼らの体から滴る体液で、体育館の床はどす黒く浸され尽くしていた。

 ポタッ、ポタンッ。

 液の垂れるその一角に、身をかがめて蠢く何かの影があった。

「……」

 恐い。歯の根があわない。気圧される。このままだと完全に心を呑まれる。ダメだ。動けなくなる。流れを、変えないと!

 ダムンッッ!

 俺は床を踏み抜くつもりで思い切り叩き踏んだ。

「おぉああっ!!」

 そして体育館中に突き刺さる短い俺の怒声の後、何かの影は徐に立ちあがる。こっちへ近づいてくる。

「ひゅうぅぅぅ……」

 ライトはつけない。つけると怖くなる。闇を味方に出来なくても、闇と敵対してはならない。闇と敵対したら最後、恐怖で全身が動けなくなる。それは経験で知っている。

「こいっ!」

 ナイフを右手に逆手で構える。今までに味わったことのない、嫌な空気の流れを体が感知する。殺気なのかどうか、分からない。あの金髪女の鋭い針が迫るような烈しい気配とは全く違う。ヤンキーのもっていた乾いた軽い気配とも水希取り巻き連中の粘っこくて絡み合う気配とも違う。全く経験したことのない湿った、それでいて濁った重い気配が全身にまとわりついてくる。

「グチャグチャ」

 ドックン。

 近づくにつれ、それが血まみれの裸体であることを弱い月光が教える。

 ドックン。

 眼球はない。眼球があるべき場所からはただ、血だけがあふれていた。

「みんなグチャグチャ」

 ドックン。

 足元の血液は意思を持ったかのようにゾビュゾビュと音を立てて裸体のほうへ移動していく。移動した血液は裸体の全身を覆う。

「だから私が、グチャグチャ」

 ドックン。

 全身を覆った血液はその後、ナイトローブのような形をとって、黒く変色する。

 ドックン……

 大きな胸のふくらみも右目元の泣きホクロも青みがかった黒のストレートロングもそのローブの中に隠れてしまった。

「水希……」

 “悪夢”の中で、俺は落涙する。“グチャグチャ”の声も間違いなく、夜凪水希だった。

「クックックックックッ……」

 刃先が震え、彷徨う。逆手に握る刃物を、俺はどうすればいいんだ。

「みんなグチャグチャに、殺してやる」

 頭は、今すぐ刃物を捨てろと言っていた。けれど体は違った。絶対に刃物を捨てるなと警告している。湿った重苦しい気配はさらに濃く俺の体にぶつかり、まといつく。思えばもうそれは、水希の放つ温かい空気とは似ても似つかないものだった。

「ううっ、う……う……」

 こんな形で再会するなんて、思ってもみなかった。

「殺したらグチャグチャに……グチャグチャが殺して……」

 カランカランカランッ……ボオッ!!

「クエァッ!?」

 その時突然、火の海が水希の後ろで生じる。それは水希をも巻き込み、彼女を火だるまにする。

「ウェ……ウアアアッ!!」

 ダダダダダダンッ!!

 火だるまになった水希がそれでも俺に飛びかかろうとした瞬間、連続する銃声が響き、水希が液をまき散らしながら吹っ飛んで動かなくなる。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 何が、起きたのかは分かった。でも何で、起きたのかは分からなかった。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

「こんなところでロジウム弾頭を消費したくはないけれど、仕方ないわね。ゲストを招待したのは私だしそれに……」

 火の海の端に立つ、サブマシンガンを握るミリタリーコートの女。

「シルフにはこれが一番効くだろうから」

 橙の光に照らされたその冷たい顔は、あの夜、俺が斬り殺した女にそっくりだった。

「どうしたの?死人にでも会ったような顔をしているけど」

 サブマシンガンを手の中で消しながら女は言う。相手の混乱を嘲笑うかのような微笑を浮かべて。

「クゥ……ケヘ……ヘ……」

 考える間もなく“火だるま”の火が沈む。裸の水希がうつぶせになって倒れていた。

「ミズ、キ……」

 何も考えられなくなって、俺はただ水希の傍へ近づいていった。

 パンッ!

 あと一歩で水希に触れられるという距離で、聞き覚えのある銃声とともに、俺の目の前の地面に弾痕が生まれる。

「戦いは終わっていないわ」

 拳銃を新たに握る“死人”はそう言う。そうだろう、確かに線路の上で真っ二つにしたのに、こうやって体育館に現れて火事を引き起こすくらいだ。戦いが終わっているはずなんてない。

「あんた、一体何者……」

「それより足元」

「?」

 ガシッ!!

 瞬間、俺の足首を何かが掴む!脈の浮き出た水希左手だった。

「ぐあっ!」

 異常なほどの握力に足が千切れそうになる。

「ぐっ!ミズキ!!」

 パンパンパンパンッ!!

 立て続けに上がる銃声と共に水希の不気味な白い肌に穴が増える。握る力が緩む。動きが急停止する。血臭に混じる硝煙の臭い……。

 ザワザワザワザワザワザワ……ッ!!

「え、な……何だ、え」

 けれどその白い皮膚はやがて変色し、その表面にイボのようなものが無数にでき、それが膨張して破裂し、中から毛のようなものが生え、毛が枝分かれし羽のようになって全身を覆い始める。

「はっ、はあ、はあ、はっ、はあ……」

「ためらっていたら喰い殺されるわよ!!」

 ミリタリーコートの女に怒鳴られてはっとする。そうだ、もう“これ”は、水希じゃない。水希じゃない!

「ごめんっ!」

 掴まれていない方の脚で、俺の足首を掴む水希の左手を思い切り踏みつける。羽毛に覆われはじめた手首はけれど、びくともしなかった。握力が再び生じ、それはますます強くなる!

「くそっ!離せ!!」

 ギチチチッ、ゴギュキッ!!

「うああああああああああ―――っ!!」

 パンパンパンパンパンッ!!

 俺の折られた足首を掴む手首にだけ弾丸が集中的に当たり、とうとう水希の腕が千切れる。水希の手から逃れようとしていた俺はバランスを崩してその場に倒れる。

 ガシッ!!

「っ!!」

 倒れた直後、反対の足を掴まれる。痛みへの強烈な予感が全身を突きぬける。恐怖が背骨にしみこむ。

 ブオンッ!!!

「うあっ!?」

 でも違った。足から俺の体は宙に浮いた。

 ゴオ――ンッ!!

「あう、ぐうっ!」

 ものすごい勢いで投げ飛ばされ、体育館ステージ前の椅子を収納している白い鉄製ドアに激突する。あまりの衝撃に肩が外れる。

「どうするの?もうあなたが利用できるお仲間はいないわよ?」

 徐々に広がる炭の臭いと火の海の中で、ミリタリーコートの女は目を細めて俺を見ている。やがて体育館の明かりとり用の窓の前の高床までジャンプして移る。高みの見物のつもりか。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 何を言ってるんだ、アイツ。仲間?そんなの最初からどこにもいない。俺は一人でずっとやってる。一人ですっとやって、独りで、殺った。お前を。あの凍てつく夜に。

「残念だけど持ち合わせのロジウム弾頭は尽きたわ。あとは自分で何とかしなさい」

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

「人間二人の命を使い、ドワーフの能力を使い、環境を使い、相手の存在確率を強引に下げる。それをやりなさい。そして殺りなさい。殺らなければ、殺られるだけよ」

「はあ、はあ、はあ、はあ」

「それが、あなたには、できるんでしょ?」

 ドクン。

「早く殺しなさい。私を殺したように!!」

「何言ってんだよお前!」

 スピュピュピュピュピュンッ!!!

「!」

 ナイフのようなものがたくさん飛んでくる。間一髪でかわす。小さなハンマーで鉄板を打ち叩くような音が背後で聞こえ、振り返ると、茶色い羽のようなものが鉄製の扉にいくつも突き刺さっている。

 ジリリッ!サワサワサワサワサワサワサワサワサワサワ……

「!?」

 突き刺さった直後、羽は硬さを失う。そのままグニャリと曲がり、毛先が虫の肢のように動き出し、這い始める。

 ブピュンッ!シュウウッ!!

 ムカデのようになって這い始めた“羽”は俺の近くで液を噴射する。予想できなくてかわせなかった液の一滴が折れた方の足首に付着する。

「っ!……」

 肉を酸で焼き太い歯で食いちぎられるような痛みに、声が出ない。思わず目を閉じてしまう。けれどこのままだとさらに毒液を食らうと体が判断し、本能的に前へ前へと全力で俺は這い続ける。

「はあ、はあ、はあ、助けて、誰か助けて……」

 誰が、俺なんかを助ける?

 ドクンッ。

「はあ、はあ、はあ、……あ、モップだ!こいつで……はあ、はあ、はあ、うあああっ!」

 グシャンッ!グシャンッ!グシャンッ!ガイーンッ!ブピュンッ!シュウウ――ッ!

「うっ、くそおっ!」

 誰も、俺を助けて何てくれない。

 グシャッ!グシャッ!

 そう、俺は、助けてもらえるような人間じゃない。

「見てられないわね。よくそんなんで私を殺したわ。ほんと……」

 パパパパパパパパパパパパパパパパパパパパパンッ!!

「ケハッ!」

 そんなこと、期待できる人間じゃない。

 そんなこと、期待する人間じゃない。

「ウォナン。少しの間遊んであげるわ」

「ヒュ、ゲキュアッ!」

 スピュピュピュピュピュンッ!!!

「“変身”までの牽制……もう少し芸を磨いた方がいいわよ。それじゃ秒殺されるだけ」

 パパパパパパパパパパパパパパンッ!!

「ギアウンッ!」

 ……。

 俺は、強いて言うなら助ける側の人間だ。助かる側でも、助けられる側でもない。

 助けたい人を助ける。そのために、生きる。

 そう、決めたんじゃなかったか。

 水希。お前のために。

 ……。

 そうだ、それで、巻き込んだんだ。水希に好意を寄せていた二人を……。

 西、小久保……俺は、俺は…………

「俺が……俺のせいで……」

 ……。

 ……。

 誰か獲物を。何か、獲物を。始末をつけられる獲物を、誰か、俺にください。

 パパパパパパパンッ!

「で、どうやって戦うの?足をへし折られて……」

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 ゾゾゾゾゾゾゾゾッ!!  

「……そう、肉体の構造補強もできるの。醜怪にして凶暴にして器用……ウォナン以上にシルフらしいドワーフね」

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 誰か……獲物を。どんなものでも結構です。が、できれば一番よく知っている獲物を。…………たくさんは要りません。一本で、結構です。

 ゴゴンッ!!ドゴオンッ!!ボゴボゴンッ!!

「何?」

 ボゴンボゴンッ!!

「ハア……ケヘヘッ……グチャ、グチャ……」

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 ダダダッ!!

「どうするの?そんな折れた清掃用具じゃシルフに太刀打ちできないわよ?」

「……」

「ヘアアアアアアアッ!!」

 チャン。ズドオオオ―――ンッ!!

「?」

「ゲッ!」

 オレのすぐ隣、パイプ椅子をいくつも収納してあるステージ下の巨大カートが高速で飛び出し、向かってきていた水希とぶつかり、彼女を弾き飛ばす。

「……」

 カートの中を確認する。パイプ椅子は互いに絡み合い、カム・クレーン・ラチェット・案内車・ベルト・つめ車に椅子は悉く変形し、互いに噛み合わさって巨大な装置を構成している。

「……」

 いつの間にか直立したオレの左手が、カートの中の機械装置の一部をなでようとするかのように動き出す。

 ヒタ……。

 カートの中、線路の切り替え装置のレバーみたいな部品に左手が触れた瞬間、装置が全て砂のように砕け散る。

 サ―――……

「………?」

 俺の左手には、日本刀が握られていた。よく知っている刀に、とても似ていた。

 名刀シロヒトリ。

 目利きのじいちゃんと足を運んだたくさんの刀剣屋で見た中でも最高の名刀。近づいた敵に対し威嚇のポーズをとろうと、飾られたこの刀に白灯蛾シロヒトリがつかまろうとした途端、切れ味のすさまじさのあまり、そのまま体を二つにしてしまったのが名前の由来。蛾を断ち切る刃の凄みしか、焦熱と絶望が口を開ける今この瞬間には頭に思い浮かばなかった。

 ガチャチャンッ。

「ん?あれ、あ……」

 足と肩に噛みついていた強い痛みがないことに気づく。脱臼はいつの間にか治っていた。その一方で左足の周りには無数のギアとコードらしき細い触手が巻きついている。どれもこれも地味な色をしていた。……目の前の巨大な鳥に比べれば。

「ギュウェエエエエエエッッ!!!」

 左翼のない、馬鹿デカい始祖鳥。見た瞬間はそう思った。けれどよく見れば見るほど、それは得体のしれない怪物以外の何者でもないと悟った。

 ドスンッ!!

 長い一本の尻尾の先には鉄球に棘をつけたような骨のコブがあって、それがヒュンヒュンうなりをあげている。首の先はサイの頭部のようで、正面に二本の角が生えているほかに、四本の巨大な牙が口から生えていた。広げた右翼の下に、ない左翼部分の下と同様、さらに二本の毛むくじゃらの手が生えている。ただし左側の手は体育館倉庫にあったはずの平均台をそれぞれ一本ずつ凶器として持っている。そして体を支える太い丸太のような脚もある。どうやら全部で五本の手足をもっているらしかった。

 脊椎動物じゃない。節足動物でもない。これは水希じゃない。正真正銘ただの化けもの。

「それがシルフよ。なりふり構わなくなったシルフの幻体の被害者のなれの果て」

 女の声が降り注ぎ、怪物の尻尾の鉄球がぶっ飛んでくる。それを全力で躱しながら、勝利の糸口を、全神経を集中して探り始める。

 ドゴオンッ!!

「ふう、ふう、ふう」

 鉄球が体育館を破壊していく。いくらシロヒトリでも、あれは斬れない。あんなのを相手にしてもこちらがへし折れるだけだ。

「ギュアアアアッ!!」

 尻尾を振り回すたびに全身を大きく動かす。その動きにどこか、違和感を覚える。

 不自然と言えば不自然そのものの体躯であることは間違いない。体つきじゃない。あくまで動き。ある状況に陥った動物と共通する動きを俺の視覚は捉えていた。そう、それは自然界なら非常に困る状況、そしてさっきまでの俺の立場とものすごく似ている。

「痛いんだ……」

 痛みをこらえて暴れる姿、言い換えればどこかを守りながら戦っている姿。

 プシュッ。プシャッ。ポチャン。

 その時、怪物の体から流れ落ちる体液に気付く。まだこちらは何もしていないのに紫色の体液を垂れ流している理由を逃げ回りながら考える。

「ケアアアアアッ!」

 ――こんなところでロジウム弾頭を消費したくはないけれど、仕方ないわね。

 焼夷弾のようなもので登場した後、銃をぶっ放したコートの女の台詞。

 ――シルフにはこれが一番効くから。

 あれか?あれがこの怪物の動きを牽制している?

「……片方の翼がないのは、銃のせい、か」

 額から落ちる滝のような汗をぬぐいながら思う。痛い箇所を守るようにして動き回っているとしたら、そこが、翼が攻略の糸口になりうる……。

 ドスン、ドスン、ドスドスドスンッ!!

「え!?」

 突然、尻尾を振るのをやめて怪物が姿勢を低くし、突進を始める。やばいっ!!

 巨体のプレスを避けるため体育館の壁に平行に命がけで駆ける!直後に地面が大きく揺れ、風が生じ、鼓膜が破れる寸前まで震える。

 ドゴォオオ――ンッ!!

 振り返れば壁に大きな穴が開き、怪物の姿がないことを知る。体育館の外に出た!?

「戻って来るわよ」

 ミリタリーコートの女の声と俺の顎の汗がほぼ同じタイミングで地面に落ちる。

 ゾク。

 瞬間、女のじゃない殺気が壁を突き抜けて俺に刺さる。あまりにそれは大きすぎて、粗すぎて、近すぎて、体が即反応できない。拒絶も抵抗も間に合わな……

 ボゴォオオ――ンッ!!

 体の真横の壁が巨大な音を上げてぶち破られる。

「うああっ!」

 鋭い角に突き刺される前に本能的に振った刃が怪物の顔にぶつかり、その衝撃でどうにか体を弾き飛ばされるだけで済む。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 逃げ回っているときよりも痛みを感じて倒れている時の方が変に気持ちが落ち着く。充満する血と獣と炎のにおいを鼻に受け止めつつ急いで身を起こし、状況を整理する。

「グゥゥゥゥゥゥゥゥ……」

 やっぱり、怪我のせいで歩行のつり合いがきちんととれていない。左手二本にそれぞれ平均台を持たせているのは武器としてよりも、バランスをとるためじゃないか……?

「……狙うか」

 シロヒトリを確かめる。棒っきれのように化け物の顔面を叩いたせいで、まだ一度もきちんと斬っていないのに刃こぼれが起きている。まずい。

 チャキッ。

 剣を構える。化け物の“尻尾”は斬れない。だけど平均台を握るあの程度の太さの腕なら、斬れる。あそこを、狙う!

 ドスンドスンドスンドスンッ!……ドゴオオオ―――ンッ!!!

「そろそろこの“小屋”も崩れるわ。急ぎなさい!」

 方向転換し、再び外へ飛びだした怪物を見送ると、俺はダッシュでステージの上に移動する。

「すぅ~、ふぅ~」

 鼻で深く息を吸い、吐く。鼻腔に遥か地面の下、土そのものの香りを強く感じる。そう言えばタマはどこへ行った?……まあ、いい。どこかその辺にいるんだろう。その辺にいて……きっとこの刀の出来を見定めているんだろう。

「すぅ~、ふぅ~」

 お前がたぶん、これをつくった。どんな原理なのか、何のためかは知らないけれど、俺のために用意してくれた。

「すぅ~、ふぅ~」

 タマ。……狙うぞ。左の懐を。

 ドゴオオオ―――ンッ!!

 怪物は体育館入口の壁を破る。ちょうどその真正面に俺の待つステージがある。

「ギュオオオオオオオオオッ!!!」

 雄叫びを聞きながら、俺はステージの上に巻き上げられている黒と赤の二枚の緞帳カーテンを下ろすボタンを見つけ、急いでそれを押す。

 ウィイイイ……

 カーテンがおり始めたところで、俺はステージの中央に立ち、剣を構え、怪物を迎え撃つ姿勢をつくる。

 ドスンドスンドスンドスンドスンドスンッ!!!

 巨体が地面を走り砕くたびに地震のようにステージが揺れる。殺気が、原始的な殺気が激流のようにカーテンの向こうから迫ってくる。

 ボアンッ!

 地面が最も激しく揺れる。跳んだ!

 ドゴオオンンッ!!

「!」

「ふぅ……」

 視界を奪われて暴れている怪物。そりゃそうだ。ステージという段差の上への攻撃。だからジャンプする。この時点で普通のタックルより力は減る。さらに二枚の分厚いカーテンに突っ込む。威力は減るし、それに何より壁にぶつかった際に衝撃を吸収する役割をする。

 結果、壁を破れず、壁に角が突き刺さる事態が発生する。しかも壊れたレール付のカーテンを被った状態で。

 ブオンッ!ブオンッ!!

 壁を砕くために暴れる。右翼を使い、あるいは平均台を使い。

 ガンッ!ガガンッ!!

 平均台。それはここに左手がありますよという何よりの証拠。翼のない、平均台を武器にして守るしかない脆い部分がここにありますよというアピールに他ならない。

 ガランガランッ!

 壁と腕との距離があまりに近すぎて壁を叩き壊せないと知り、とうとう平均台を捨てる。

 そう、先にカーテンを取り外すしかない。破り捨てるしかない。でも右の翼じゃ無理だ。翼の上のカーテンは翼じゃとれない。だから手を使うしかない。毛むくじゃらとはいえ五本の指がちゃんとついているその手を使わない限り、角や牙に絡まった重く分厚い緞帳は取れない。

 チャキッ。

「じいちゃんが昔、言ってた」

 左腕を確認する。腕のつき方を確認する。可動域を確認する。

「刀はどうして鏡のように輝いているか」

 ビリビリッ!ビリィッ!!……ガシュウンッ!!!

「ヴォアアアアアアアア―――ッ!」

「それは自分の底に何があるのか見せるため」

 左腕二本を根本から絶つ。がら空きの胴が残る。

 ビリイイ――ッ!!

「お前の底には何がある?」

 ブオンッ……ガスンッ!!

 胴の肉に体液がにじみ出す。

「何もないのなら」

 腕だけでなく胴にも刃が立つことを確認する。

「この刀をくれてやる」

 ガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスンッ!!!

「ヴォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」

 ガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスガスンッ!!!

 切り開いた肉から体液がほとばしり出る。

 ビシュウウウウウ―――ッ!……ドスゥ――ンッ!!

 怪物の毛むくじゃらの左腕、カラフルな羽毛に覆われた左翼、左脚を落とした直後、体にたかる“ハエ”を叩こうとした凶器の鉄球が結局、怪物自身の支柱を砕いた。完全にバランスを失い倒れた怪物の首に刃を当てる。

「……」

 水希。それだけは言うまいと言葉を呑み込んだ後、俺は太いその首を刎ねた。

 ガシュンッ!! サァァァァァ…………

 壊滅的な状態のステージの上で、怪物が砂のように崩れていく。けれどそれはそのままにはならなかった。風なんてどこにも吹いていないのに、怪物の砂は二重の螺旋の軌跡を描き、空へと舞いあがり、やがて跡形もなく消えた。

 パチパチパチパチパチパチ……。

 熱い。体育館全体が燃え始めている。熱と炎で崩れ落ちる橙色の館内の中でこっちを見ながら拍手をする女がいる。まだ、いる。

「精土の奇跡は力ある者を弄らず。弄ることによって力に変える。さすがね……」

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 眩暈が襲う。これから、あの女とまた殺し合うのか。今度もまた殺してしまったらどうしよう?いやまて、そもそもどうして殺したのに、この場にいたんだ?そもそも殺していなかったのか?分からない。いやまて、そんなことを考えている暇なんてない。ぼうっとしていれば今度こそ殺されるかもしれない。どうしたらいいんだ。逃げられるか?いや、逃げられないだろう。逃げられないなら、また剣を振り回すしかない。けれど確か、剣を振るも何も、あのカマイタチみたいに厄介な風が……それに……剣はもう、斬り過ぎて折れて……る………



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