三滴
三、 ウィンドブレイカー
「……朝か」
目が覚める。時計を見、カレンダーを見る。十二月十七日の午前四時三十五分。いつもより五分起きるのが遅い。
「……」
両手で顔を覆う。
何かを“見た”気がする。けれどよく覚えていない。また覚えていない。最近毎日のように見る、似たような夢なのによく思い出せない。
「くそ……」
気にしても仕方がないと五分かけて思い直して、ベッドからモソモソと起き上がりストレッチを始める。入念に体を点検した後、部屋にセットしてある鉄棒にぶら下がる。両足を伸ばしたまま持ち上げていき、床と平行にする。
「す~、ふう~」
しばらくそのままで静止した後、またゆっくりと戻す。そして持ち上げる。これをくりかえす。
「ふう……」
十五分やって、一旦鉄棒を離す。一息ついたあと、また鉄棒にぶら下がる。今度は体も横向きにする。体をまっすぐ、床に平行にしたまま、全身の重みを両手だけで支える。そして戻す。この繰り返しを、十五分やる。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
肩で息をする俺の横を、こげ茶色の小さな球体がプカプカと浮いている。俺はその姿を部屋の蛍光灯が作りだす丸いシルエットだけで確認して、次のトレーニングにとりかかる。
ハンギング・レッグレイズ、フロントリバーのあとは、スクワット。ただし少しアレンジしてある。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ……」
立った姿勢から始め、しゃがみ、両手を床につき、足を後ろへ伸ばし、戻し、立ちあがる。寝ている母さんを起こさないために全身の筋肉をフルに使い、音を殺しながら続ける。十五分続けて、俺は床にあおむけに倒れる。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
汗だくの俺の腹の上を、球体はまだプカプカと浮いている。“まだ”というより、ずっと浮いている。
「よいしょっと」
体を起こし、最後のトレーニングに入る。木剣を握り、部屋を出て、庭に移動する。球体は黙ってついてくる。
ブオン、ブオン、ブオン、ブオン……
正面打ち、左右面打ち、小手打ち、一挙動の面打ち、左右胴打ち。それぞれの素振りを五百回ずつ繰り返す。
「よし……」
じいちゃんのいいつけと自分の考案したハイブリッドメニューを終えた俺は風呂場へ移動し、シャワーを浴びる。シャワーを浴びている最中も、こげ茶色の球体は俺と一緒にいる。
ヤンキーと水希取り巻きの連中にボコボコにされたあの日以降、ずっとだ。最初は意味が分からなくて気味悪かったけれど、四日も経てばどうでもよくなる。何か危害を加えてくるわけでも、話しかけてくるわけでもない。でもこっちが言わんとするところはわかるらしく、人が頭を縦に振るように上下に小さく振動したり、人が頭を横に振るように左右に小さく振動する。「どっか行け」と言ったらコイツは左右に小さく振動した。それで俺は、拒絶の意思表示を確認した。あの幻のような女の子の別の姿かもしれない。そう思ったりもしたけれど、そんな非現実的なことが本当にあり得るのかどうか。あり得ないとしたら、この丸っこい浮遊物は何なのか。訳が分からない。分からないから、考えるのをやめた。今のところ、触ろうとしても手の届かない所にヒュルヒュルとすぐに逃げてしまう。でもまた戻ってくる。変なヤツだった。
「おはよう」
風呂から出る頃には、母さんは起きて朝ごはんの支度を始める。いつもどおりだ。
「おはよう。今日も忙しいの?」
俺は母さんにいつも通りの返事を返した。
「そうね。夕飯用意しておくから、いつもどおり温めなおして食べて」
「わかった」
俺の周りを泥団子がプカプカ飛んでいても、母さんは何も言わない。この前「変なのが見えないか」と聞いたら「何言ってんの?」と返された。それで気づいた。母さんには見えていないらしい。見えていないふりをする理由なんてないだろうから、多分見えていない。つまりこの泥団子は俺にだけ見えている幻影。でもそのことについて別に何とも感じない。体と心を痛めつける訓練をしているうちに、体の変化なんてたいして気にならなくなった。腕がもげたわけじゃない。騒ぐ必要なんてない。
「学校は?」
「え?」
いつもと異なる言葉が飛び出して、俺は立ち止まる。
「ちゃんと行ってるの?」
「行ってるよ」
目を見ずに言う。
「……」
返答がないので見ると、こっちを心配そうに見ている。
「ごめん、行ってない」
「何かあったの?」
「何もない」
母さんに嘘はつけない。というよりも、つきたくなかった。だけど自分の身にふりかかる煩わしいことをいちいち報告したいとも思わなかった。だから結局そんな言葉しか口からでなかった。
「……そう」
母さんは悲しそうな顔をしてそう言っただけだった。あとは黙って食事をつくり続けた。俺は居間のテーブルの前の椅子に腰を下ろして、食事が出来上がるのを待った。
「ごちそうさま」
母さんの作ってくれた食事を食べ終わると、俺は挨拶をして部屋に戻る。机の前の椅子に腰を下ろし、机の上の本を読み始める。それは水希が薦めてくれた冒険小説だった。一人称はどうしても好きになれなかったけれど、水希が推したのは後にも先にもこれ一冊だけだったから繰り返し読み続けていた。
後にも先にも――。
「何言ってんだ、俺は」
本の内容に集中できない俺は、俺を叱る。
コンコン
部屋の扉をノックする音が聞こえる。
「行って来るわね」
「行ってらっしゃい」
扉越しに俺は母さんを送り出す。母さんが出て行ったあと、俺はベッドに横になる。
俺はしばらく外に出ていない。学校は、面倒くさくて行きたくない。ヤンキーに絡まれることもありそうで、外に出たくない。それに、
「お前、一体何なの?」
俺はプカプカ浮かび続ける球体にぼやく。
この不思議な球と一緒に歩いていたら、間違いなく人目を引く。たくさんの衆人がいたら、さすがに球を隠しきる事なんてできない。そんなこともあって、もう四日も俺は外に出ていなかった。
「……」
水希からの連絡はない。あいつ、本当にどうしちゃったんだろう。いなくなって……どうなったんだろう?
「……」
しばらく考えたあげく、俺はやっぱり外に出る決心を固める。外に出るというより、水希が見つかるまで探し続けようと心に決める。どうせ時間はあるんだ。バイト代も少し残ってる。どっちも、水希のために使おう。
「ねぇ」
俺は球に呼びかける。呼びかけながら別のことに思考が流れる。
「名前がないと呼びづらいから……とりあえずタマでいいか。お前のこと、タマって呼んでいい?」
泥団子みたいな球体は小さく縦に振動する。これで一つ解決した。
「さてと」
後は、ヤンキーや学校の連中に見つからないための変装だった。
「まあ、いいかこれで」
結局たいしたことは思いつかず、俺は帽子とマスクだけ普段着の上に追加して、家を出た。
「さむ」
動きやすいように、手荷物はなし。リュックに全て入れてある。中身は折りたたみ式の傘と水の入ったペットボトル。そして母さんの用意してくれた夕ご飯を詰めた弁当。
「行くか」
鍵を閉める。鍵には水希がくれた、鹿の角の先端を加工したキーホルダーがついている。
ガチャン。
俺は自宅から最寄りの雨射川駅に向かう。今日を生きる目的は、水希の行方を追うこと。そのために俺は、水希がいなくなった直前を辿ることにした。
水希がいなくなったのは、俺と水希が初めてデートをした直後。だから俺はデートで巡った場所をつぶさに調べることに決めた。下車した雨射川本町駅周辺をくまなく歩き、何か水希がいなくなる原因となったものがなかったか調べる。本人が望んで蒸発したのか、望まずして蒸発したのか分からない今、ここからスタートするしかなかった。
「……」
武道をやっていて良かったと思うことは二つある。一つは体を鍛える過程で、それなりに心も引き締まったこと。もう一つは、何となく気配を感じるということ。
気配。
「……ふう」
自分の後をつけている人間の気配くらいは、気づく。二人。信号待ちの時間やカーブミラーを使い、人相を確認する。予想通り、チンピラと一緒にいた水希取り巻きの連中だ。
タタッ。
「あ」
俺が走り出すのと同時に後ろの方でかすかに聞こえる驚きの声。二人が追いつけるギリギリの速度を選んで俺は走り、スーパーマーケットの駐車場の中に逃げ込む。
「くそ、あいつどこ行った?」
「ここに入ったのは間違いないよ、絶対に見つけなきゃ」
確か……7組の小久保と、9組の西。よりによって剣道部か。俺を狙うのは水希の分プラス積年の恨みってところか。
「何か用?」
二人の背後にまわり、声を掛ける。
「ひっ!」
「うわあ、ったくこの!脅かすんじゃねぇよ!」
長髪の小久保はひっくりかえって罵声を放ち、坊主で内股の西は股間を手で隠しブルブル震えている。俺はこいつらの小便もかぶったのか。やれやれ。
「まだ、やるの?」
ギロリと畳み掛けるようにして睨み、凄んで見せる。
「おうっ、テメェなんてサシでやったってブッ潰せるって証明してやるぜ!」
威勢のいい小久保が立ち上がり、そのまま考えなしにタックルしてくる。あるいは手の中に小刃でも忍ばせているかもしれない。油断してチンタラ相手をしちゃ、危険だ。
ガシッ。
「うぇ!?」
小久保よりもさらに低い姿勢をとり、タックルしてきた小久保の威力をそのまま利用し、相手の体を空高く持ち上げる。まるで向かってきたカブトムシをリフトアップするクワガタムシのように。
グルン。
「うおおおっ!?」
そして俺は小久保を背負い、後ろにある車のボンネットに叩き落とす。反り投げ。我流のフロント・スープレックス。
ドゴンッ!
「はおっ!」
パウワウワウワウワウ……ッ!!!
警報器がけたたましく鳴り始める。けれどブリッジしていた俺の傍のタマが軽く震えた時、ちょうどその警報器は鳴りやむ。
「くっそぉぉ……」
「お前もやるか?ニシ」
アスファルトから起き上がり、服の汚れをはたきながら俺は西を見る。西はこっちが見ていて気の毒になるほど顔中に汗をにじませている。しかも頬が赤い。呼吸もものすごく荒い。いつまで股間をおさえてんだ、コイツ。
「コクボを連れて、早く消えろ」
「……嫌だ。嫌だよ」
従わない西もまた、こっちに走ってくる。
「うああああああっ!」
ブオンッ
「よいしょっと」
小久保よりも容易く、西の場合は腕をつかみそのまま小久保の上に放り投げた。
「ぐえっ」
今度は背負い投げ。
「うぎゃひっ!!」
ボンネットがさらにひしゃぐ。
「じゃあ」
ボンネットの上でのびる二人を置き、俺はまた駆け出す。
「待て、待って!」
西の叫びを無視して駐車場を出、捜査を再開する。
屋根瓦のある古い民家。民家に似つかわしくないけれど堂々と止めてあるスポーツカー。どの店もシャッターが下りて錆びれた銀座通り。通りを悠々と横切る黒猫。公園の中のバザー。バザーの隅で営む屋台。屋台に集まる子と母と年寄り。枯れた木々。崩れかけた廃屋。廃屋の傍の自販機の釣銭口をチェックするホームレス。どれもこれも完結していそうでしていない。けれどそこにはちゃんと世界がある。俺も水希も参加していないけれど、その世界はちゃんと歯車を動かしている。歯車は音もなく動き続けて、世界を彩り、生かしているらしい。
「はあ、はあ、はあ、待ってよ、ねえ、ノモリガミ君!」
「……」
一級河川に架かる橋の上のベンチで腰を下ろしていたら、また小久保と西の姿が見えた。立ち上がり走り出そうと思ったけれど、ふと考えを改め、座り直した。まあ、また小便をかけてきそうになったら川にたたき込めばいい。
「はあ、はあ、はあ、はあ……死ぬかと思ったぜ」
「ひどいよ、本当に、ひどいよ」
「顔に小便かけられるよりマシだろ」
「俺はやってねぇ!」
小久保が言う。
「僕もだよ!そりゃ、自分もやれたらと思うとちょっとゾクゾクしちゃったけど」
なぜか突如顔の赤くなる西。
「そう、そいつは良かった。で、何の用?」
「それは、お前を追い駆ければヤナギの居場所が分かるんじゃねぇかって思ってよ……」
「うん。だって、ヤナギさんとノモリガミ君、つきあっているんでしょ。ひょっとしたら」
「俺が監禁している?俺がミズキを殺した?あくまでそう言いたいのか」
拳を握りしめる。
「思ってねェよ。少なくとも俺たちは」
「……」
「あのさ、探してるんでしょ?ノモリガミ君は、ヤナギさんのこと」
「それを知ってどうするんだ?また束になってかかってくるのか」
「だから俺たちはそんなんじゃねぇっつってんだろーがっ!」
ドラマみたいに威勢よく反論する小久保。
「じゃあ何なんだ、お前らは俺に何の用がある?」
「お前に用なんてネェ!俺はヤナギが心配だからここにいるだけだ!」
「……」
そんなことは、はなから分かっているはずだった。けれど改めて「お前に用がない」と言われると腹が立たずにはいられない。殺意すら芽生える。でも俺に、俺のことで怒る価値なんてあるんだろうか?分からないから、仕方なく鎮火するのを待つ。馬鹿らしい、俺だって、俺に用があるんじゃなくて、水希に用があるだけだ。憤るな。相手にするな。
「正直、お前をぶっ殺してぇ。俺は……ヤナギのことが、ずっと前から好きだったから。だから、ヤナギをかっさらっていったお前がマジむかつく」
だからなんだ。そんなことははなから知ってる。今更言うな。
「コクボ君……」
「でもよ、それはきっと、ヤナギが選んだことなんだろ。お前みたいな奴がいきなりヤナギに告白するとは思えねェ。認めたくねぇけど、三年間部活が一緒だから、お前がその点は奥手だってことくらい知ってる。とすればヤナギがお前を選んだことになる。アイツがお前を選んだんなら、俺は手を引く。お前のことを一番理解しているのは俺だ、なんてヤナギに向かって言うつもりは、俺はねぇから」
「……」
「でも、ヤナギのことが気にかかるのは今も変わらない。そしてお前がアイツをどうにかしたとは思ってない。ただ、心配なんだ。それは、お前も俺も一緒だ。だから、捜そうとしてるんだ。たとえお前を利用してでも」
「コクボ……」
「ノモリガミ君。僕たちも一緒に探す。協力しよ」
「……」
「勘違いするな。そいつはヤナギに惚れたんじゃない。お前に惚れてるだけだ」
「コ、コクボ君、言わないって約束したじゃん!」
「……」
同じ目標をもって、誰かと一緒に行動するのは、慣れていなかった。
だからそうなれば、きっとその誰かに自分の棘を見せてしまう。
「と、とにかく、三人で探せば見つかるかもしれない。ね、ノモリガミ君。一緒に……」
「……」
棘で指してしまう気がする。だからなおさら、誰かと一緒に行動するのは怖くて、嫌だった。
「ノモリガミ!」
けれど。
「分かった。当たれるだけ、当たろう」
俺もいつまでも子供じゃない。いつまでも「嫌だ」なんて言っていられない。
好き嫌いとかでいつまでも動けはしないことくらい分かってる。……こいつらに、悪意はない。なら、それだけでも、俺は受け入れるべきなんだろう。感謝、すべきなんだろう。
「で、どこから捜す?」
「目で見て分かるものは俺が探す。二人は、情報をくれないか」
「どういう意味?」
「SNSに水希の情報が出回っていないか、教えてほしい。水希に関する何らかの位置情報があれば挙げてくれ。そこに向かって、徹底的に調べる」
「分かった。でも、だいたいはあれだぜ。お前への悪口とか……」
「悪口なんてどうだっていい!ミズキにつながる情報が手に入るなら俺は何回ネットで殺されたって構わない」
「ノモリガミ君……かっこいい」
「ニシ、ズボンの。たってる」
「あっ、いやだ。見ないでよ!」
「さて、じゃあ急ごうぜ。朴念仁に恋敗れ、それとカマ男。どうしようもねぇ三銃士じゃねぇか」
「ね、まさかカマ男って僕のこと!?」
確かにどうしようもない三銃士が瞬く間にできあがった。二人は銃剣のかわりに主に無線RANを使い、俺は主に目と耳を使い、片っ端から捜査に当たることにした。小久保はネットワーク上にアップされた、不特定多数の人間の水希に関する情報を選り集め、西は水希が趣味でアップしていたネット上の情報を選り集めた。集めた情報の中に場所を特定できるものがあれば後は三人の足でそこへ出向く。
「これ、使って」
携帯端末を二台持っていた西が一台を俺に貸してくれ、俺たちはそれで互いに連絡を取り合い、刑事のような一日を過ごした。
「くそ」
冬は日が落ちるのが早い。刑事みたいなことをして歩き続けていたらあっという間に日が暮れて夜になってしまった。
「?」
俺たち三人はその時、俺が水希とデートの終わりに来た冬の花火の見られる場所にいた。雨射川本町駅から少し歩いたところにある丘の上の公園で、雨射川第一公園といった。傍には病院と公務員宿舎があった。
「ミズキ?」
公園から足元を走る線路を見おろしていたとき、ふと線路の傍の道路を水希によく似た人が歩いていた。背格好もほとんど同じだ。でも着ている服はみたことがない。でも、でも……
「ミズキ!!」
俺は、叫んだ。こっちに気付いてくれるまで叫んだ。
「え?どこ」
「ヤナギがいるのか?」
ガタンガタンッ!ガタンガタンッ!ガタンガタンッ!
その、叫んでいる最中に電車が運悪く通過する。声が、届かなくなる!
「くそ!」
俺はその人が歩いている場所まで急ぎ駆け下りる。直線距離にしてみればたいしたことなんてない。でも空を走るわけにはいかない。その人が歩いている場所に至るにはおそろしく回り道をしなければならなかった。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ!」
二人のことなんかそっちのけで、全力で走った。走って、その場所に着いた。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
時間は俺にだけ流れているわけじゃない。当然、その人にも流れているはずだ。もうここにはいなかった。
「水希、水希」
雨射川本町駅から吐き出される疲れ切った顔をしたサラリーマンたちの群れに逆行するように、俺は駅に向かう。あの人も駅に向かっていた。
けれど駅にもホームにもいなかった。俺は駅員に事情を説明して駅を出、駅周辺を徹底的に調べ始める。喫茶店、居酒屋、パチンコ店、コンビニ、雀荘、レストラン、塾、英会話教室、風俗店。目に付く場所へかたっぱしから飛び込み、水希とデートの時に撮影したプリクラの写真を見せて訪ね回った。けれど、どこへ行っても「そんな人間はここにはいない」しか返ってこなかった。
「おいノモリガミ待てよ!」
置いて来た二人が俺を見つける。
「いたの!?ヤナギさんはいたの!?」
半泣きになっている西に俺は首を横に振る。
「分からない」
「見たのかよ!?」
周囲を確かめるように何度も首を動かしながら、小久保の声が脳裏にこだまする。見たのか?いたのか?どうなんだ?あれは?
「分からない。でも、すごく似ていた。ミズキに」
「公園から見えたんだね?」
そう、そのはず。だから走ってる。走り続けてる。どこまでも、どこまで。
「くそ、くそ!どこだよ、ヤナギの奴」
店が閉まる時刻になる。俺たちは真冬なのに汗だくになって歩き続けている。いや、考えてみたら走っていた。息苦しいマスクは既にポケットの中だった。暑苦しい帽子もリュックの中だった。体から三人して湯気をあげて、俺たちは冬の花火を見た街の中を走り続けていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
時計を見る。文字盤の短針は一を指していた。もう、次の日だった。
俺はリュックをおろし、水を取りだして全部飲み、木でできているベンチに腰を下ろす。
「人違いだったのか、くそ」
ベンチの俺の隣で横に倒れ込む西と、地面のタイルの上に大の字になる小久保。時計を見て知る。二時間半も休みなしで走り回り続けたことになる。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
俺たちはまた、公園に戻ってきていた。ここにいればまた、あの人が見える気がして。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
死にたい。ふと思った。このまま消えて無くなりたい。ふと思った。
ビクッ。
その時、視界の端にビクリと大きく動く球体に目がいく。
「タマ……」
そう言えば、泥団子と俺は一緒に行動していたんだった。
「ん?」
深夜の公園。いるとすればホームレスかヤンキーだ。けれどこの雨射川第一公園には誰もいない。少なくとも俺が水希に似た人を追ってまたこの公園に戻ってきた時には、誰もいなかった。
「……」
なのに、今、人がいる。
ゾク。
誰かと仕方がなく待ち合わせをしている風にはどうしても見えなかった。タブレット端末でもいじっていてくれれば、安心できた。けれど、“それ”は違った。
「見つけた」
ミリタリーコートとブーツを身につけたその人物は、公園の入口でつぶやいた。俺たち三人のいるベンチとの距離は三十メートル弱。それなのに俺にはその人の声がはっきりと聞こえた。
「人間に、憑いたのね」
近づくにつれて、風貌がはっきりする。金髪のショートストレートの下には切れ長の目が、整った鼻が、薄い唇があった。高架橋の下でヤンキーたちにフルボッコにされたときに出会ったパーカースーツの女の子より色艶のいい白い肌の持ち主だった。
「目的が何か、はっきりさせないと……」
俺はペットボトルの蓋をしめ、リュックに戻す。宙に浮いているタマがカタカタ震えている。それでなんとなく、危険が迫っているような感じがした。ヤンキーに囲まれた時とどっちが危険かは分からない。けれど危険に変わりはない。
「ふう……」
「どうした?」
「見えるか?そこに変なのかいる」
「ほぇ?」
俺はリュックを背負い直し、立ち上がる。首を回し、拳を合わせパキパキと鳴らす。むろん戦うつもりなんてない。ただの威嚇だ。こういう時は、ひるんだらダメだ。怖かろうと何だろうと、堂々としているに限る。
「こんばんは」
パーカースーツの女の子よりは背の高い、けれど俺よりは低い女ははっきりとした声で挨拶をしてきた。俺との距離は六メートル。
「誰だ、あんた?」
小久保がまず尋ねた。が、コートの女は小久保を見ていない。西をも見ていない。じっと俺だけを見ている。
「何か?」
仕方なく、俺が尋ねる。尋ねながら手を見る。相手は鞄も何も持っていない。どう見ても怪しい。
「それはこっちの台詞。私に何か用?」
「え?」
「とぼけているの?それとも……力を託した、の?」
訳の分からないことを言い始めるミリタリーコートの金髪女と、俺の背中で震えるタマ。考えてみれば俺のまわりは分からないことだらけだ。
「あの、すいませんけど、何かの間違いじゃないですか。俺はあなたを知りません」
「……そうね。ごめんなさい。人違いだったわ」
女は格好に似合わずニコリと笑うと、背を向けて公園の外へ歩き出す。
「私の言葉は、遠くで聞こえるただの風」
「?」
何か、言ったか?
「何だよ、アイツ。ふざけやがって」
「何だか気味の悪い人だね。すごく、不吉な感じがするよ」
ドクンッ。
「……」
ただの風……。
土どころか石にまで水がしみ込んでくるような、不吉な感じ。
ドクンッ!
「……」
遠くで聞こえるただの風……。
聞こえるは遠くだとしても、それは寒くて暗くて、闇をはらんだ感じ。
あれはふざけて、いない。
ドクンッ!!
そのまま公園を出る……
ジャキッ! パパパンッ!!
「!」
ただの風のはずがない。ありったけの殺気が公園を嫌というほど、充満しているから。
「やっぱりとぼけていただけ。そうね?」
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
転げ飛んだところから、できたばかりの小さな穴を見る。小久保が広げた足の付け根付近の地面と、西の座るベンチの真横。そして俺が今立っていた地面。間違いない。銃弾だ。
「ひ、ひいいいいっ!」
「おっ、うおっ」
二人が立ち上がり、急いで逃げ出す。
パパンッ!!
「!!」
女の銃を持っていた腕が一振りされるとともに、銃声が二発起こる。
「ぎゃあっ!」
小久保の声は聞こえた。けれど西の声はしなかった。共通していたのは二人とも転ぶようにして倒れ、そのまま起き上がらないこと。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
西ッ!!死ぬな!!
小久保ッ!!そのまま死んだふりをしてろ!!
「殺されるためにしか存在理由のない種が、殺すために存在する種の、それも殺しのプロの前にわざわざ姿を晒した理由、それだけは興味があるから聞かせて。あとは望み通り、予定通り、宿命通り、跡形もなく消してあげるから」
金髪女の手に拳銃が握られていること以外、詳しいことは分からない。分かるのはただ、相手が俺を誤解していて、けれどその誤解のもと、俺を殺そうとしていることだ。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
女が銃口をこっちに向ける。正確には……右肩。
筋肉と神経と勘を信じる。何もかも研ぎ澄ませるだけ、研ぎ澄ます。
パンッ!
何とか、躱しきった。
「……不思議ね。前より性能が上がっているように見える。いつから軌道が読めるようになったの?」
明らかに女は遊んでいる。まだ殺すつもりがない。
けれどいつまでも“遊び”が続くとは思えない。ああいうタイプは焦らされるのが嫌いなハズだ。もちろんこっちも焦らしたくて焦らしているわけじゃない。
考えろ。
拳銃相手に素手で戦ったって勝ち目はない。しかも相手は狙い通り弾を飛ばしてくるプロだ。
どうする?どこへ逃げる?
公園の中は遮蔽物がほとんどない。しかもここは丘の上だ。下に逃げれば、上から狙い撃ちされるかもしれない。どうする?どうする?
「“ついで”で始めたけれど、それでもやっぱり奇襲すればよかったかしら」
金髪女は自分の足元目がけて引き金を引く。パンッという音と共に銃弾が飛び出す。
「!?」
え?
弾丸が地面にぶつかる前の、女の脛の高さ位の宙に浮いたまま止まっている。……嘘だろ。どうなってる……。
キュルキュルキュルキュル……
一発の銃弾が浮いたままそこでスピンを始める。徐々にそのスピンは早くなって、やがて目で追えないほどの高速に変わる。
ギュルギュルギュルギュルギュルギュルッ!!
スピンする弾丸の周囲の空気が泣き始める。奇妙な風が弾丸を中心に生まれ、公園内の一切が弾丸に向かって吸い込まれそうになる。
「待ってください!すいませんでした!あなたを追ったのは、あなたが何を目的に行動しているのか知りたかったからです!」
俺はその場で思いついた抽象的な嘘を叫んだ。考えれば考えるほど深みのありそうな言葉だけど、考えなければ考えないで無価値にも思えるそんな言葉だった。
「……うふ」
女は髪や服を風でばたつかせながら、かすかに微笑んだ。そしてもう興味を失ったかのように俺に対して背を向けた。
終わったのか?
でも、スピンが止まらない。むしろ、激しくなってる!
「目的?そんなの……」
生じた風があまりに強くて女の言葉が最後まで聞き取れない。砂埃のせいで視界も効かなくなってきた。
タン。
その時、背を向けていた女が右ひざを曲げる。自動的に踵が後ろへ上がり、スピンをしていた弾丸が女の肩甲骨位の高さまで持ちあがる。
「その心と命」
ギュオンッ!
女が体を素早くねじる。肘を中心にして拳が回転する。
「砕き捨てろ」
カッ! ドォゴオオオオオオオオオオオオオオオオオアアンッ!!
女の裏拳がスピンする弾丸に当たった瞬間、弾丸が凄まじい爆音を上げてこっちに飛んできた!!
「うあああああっ!?」
弾丸が迫るにつれて服とその下の肉体が刃物で切り裂かれる!逃げようにも弾丸が纏う風に引きずり込まれて、体が思うように動かせない!死ぬ!このままだと確実に死ぬ!!
ザザザザザザザンッ!!……ドゴオオオ――ンッ!!
「!?」
黒い丸いシルエットがその時俺の前方に出現した。その瞬間後ろから黒い波のようなものが俺の前に現れ、それが忽ち壁を造った。壁を前にしておそらく弾丸がぶつかったのかもしれない。衝撃音があがるとともに、壁が防ぎきれない衝撃波が俺を襲った。
「へ、うああっ!」
衝撃波は俺を容赦なく、公園の外へと弾いた。しかも、線路に向かって。
ヒュオオオオオオオンッ!!
やばい!やばい!!やばい!!!
ザザッ!! ゾビュゾビュゾビュッ!!!
遥か下の線路へ向かって落ちていく間にまた黒い小さな丸い点とそれを追う黒い波が視界をかすめる。
「タマ!?」
小さな丸い黒点が見覚えのある泥団子と同じ大きさになった時、俺はタマを思い出した。でもその後ろの黒い波は見覚えがなかった。波の正体は公園にあったはずの砂場の砂だった。砂がまるでアメーバのようにタマを追い駆けるようにして動いている。というよりも、落下している。俺も含めて。
ゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッ!!
死を意識したからだろうか、一切合切がゆっくりに目に映った。心が頭から抜けていくような、そんな静かさが生じる。俺は今、公園から飛び降りて、まもなく地面に叩きつけられて死ぬ。死ぬ間際、傍にいるのは家族でも西でも小久保でも恋人でもなく、謎の泥団子と意味不明の砂場の砂だけだ。はは、おかしい。本当に笑える。思えばつまらない人生だった。笑うしかない。笑い話にすらならないけど、笑うしかない。
ゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッ!!
笑い話の最後はおとぎ話だ。泥団子を中心に砂が集まり、アンモナイトみたいに渦を巻いた殻と触手を備えた不思議な形状を取る。
ズビュルルルルンッ!!
触手数本が俺を絡め取る。巨大な“アンモナイト”の前に俺は運ばれる。
ガチャンッ! ガチチチチチチチチイイイイイインッ!!
砂の動く音が止み、かわりに金属が、歯車がかみ合うような音が発生する。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
「!!」
地面に衝突するかしないかの距離で、俺の体は落下を止める。すさまじい衝撃は走ったものの、それは地面にぶつかったせいで受けるものとは違っていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ……何が、起きた?」
オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
“アンモナイト”を目撃した瞬間から続く機械音と、真下に向かって吹きだす不思議な爆風。まるでホバークラフトだった。
オオオオオオオォォォォンッ。
風が止む。ドサリと俺は線路内に落ちる。
「助かった……」
そう意識した瞬間、時間はまた元の速度で俺の中を流れだす。意識の有無に関係なく、機械音は続く。街灯の生む俺のシルエットは異様だった。ひざをつく俺の後ろにアンモナイトが浮かんでいるようにしか見えない。まるでこれからアンモナイトに俺が捕食されてしまうかのような姿だった。
「……」
でも、これがたぶん、俺を助けてくれた。墜落から救ってくれた。いや、あの金髪女のスピンバレットから救ってくれた。
シュウウンッ。 サ――……
機械音が鎮まる。すると背後に出現していた構造物は崩れる。残ったのは公園の大量の砂と、タマだった。
「……」
タマは相変わらず浮いていた。けれどそれはこの四日間いつも俺に見せてきたような、暢気な浮き方じゃなかった。一言でいえば、ソワソワしている。
「助かった。……タマ、お前が助けてくれたのか」
その一言を言った時、ちょうどタマの動きが止まる。けれどすぐにガタガタと動き出す。それは左右に振動していた。最初は否定したのかと思った。けれど……
ドゴオオ――ンッ!!!
斜め後ろ上空から迫る鋭い殺意を感じ取った俺は、タマを抱えてすぐ横に飛び退いた。線路を転がりながら、地面を貫いた何かの衝撃を体全体で拾う。慌てて立ち上がる。
カッ!!
線路の一部に開けられた穴に目を向けた瞬間、そこから激しい閃光が上がる。
「うっ!?」
それがあまりに強烈な光だったせいで、視界が全く効かなくなった。
ブオンッ!!
本物の漆黒の中を、風と共に殺意が目前に迫る。やばい!冗談抜きで見えない!!
ガチンッ!!
「ちっ」
刃物特有の金属の匂いが俺の体の前を覆う。金属はけれど、何かに弾かれたような音を立てる。
ヒュオオンッ! ドズンッ!!
匂いが一瞬にして消滅するほどの密度の濃い風が瞬間発生し、直後、腹部に強烈な激痛が走る。
「がはっ!」
体が持ち上がり、後方に吹っ飛ばされ、背中から砂利の上に落ちた時、ヤンキーのことをふと思い出した。あいつらの中に、ボクサー崩れがいた。そいつの放ったボディーブローの威力を数十倍に引き上げたような強烈な拳が内臓を襲ったんだと、理解した。
「は、ああ、う、く……」
視界が、ようやく回復し始める。予想通りの最悪の光景を目で確認する。
「生命が必死に生きようとする姿勢は儚く美しい。でも私の標的である場合、それは自ら拷問器に身を投ずるのと変わらない。楽に死ねないのは自業自得よ」
ミリタリーコートが風で翻る。金色のショートストレートの下の赤い瞳が不自然なほど赤く輝いている。
「ドワーフ」
瞳が一段と赤く燃える。
手には拳銃ではなく、サバイバルナイフが順手に握られている。さっきのニオイの正体が知れた。
「……!」
その時、俺は見てしまった。線路の上に転がる。一つの体を。
「ニシ……」
爆風に吹き飛ばされたのか、泥まみれになって倒れた西の体はグシャグシャになっていた。
「うぷっ、おええっ!!」
傷口から骨や内臓が飛び出して悲惨な状況の同級生を前に、猛烈な吐き気が俺を襲う。
「ニシイイイイイ――ッ!」
「風に耐えられぬ花が一つ折れた。あなたももう終わりにしましょう。土の小箱に過ぎないあなたにとっては私との接触が本命でも、私にとって“これ”はついででしかないから」
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
「ひた巡る定めを知りなさい。ドワーフ」
ドワーフ――。
おとぎ話で聞いたことがある。何か、妖精のような、小人のようなものを意味する言葉だ。よく分からないけど、この金髪女はこの場でそんなおとぎ話を口にした。まるで……おとぎ話のような地獄の中で。
ガガガガガガガガガンッ!!
「!」
電車の走る音を相殺するための砂利が突如空中に持ち上がっていく。その光景に息を呑む俺と、表情一つ変えない金髪女。誰が、何をしようとしているんだ!?
ビュオンッ!! ドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴンッ!
宙に舞いあがった石つぶてが一気に金髪女に突っ込んでいく。けれどそのことごとくは、女に当たる前に消えた。女の目の前で石はシュッと音を立てて消える。まるでミキサーにかけられたマッシュルームのように。
「満足した?これであなたの業は通用しないことが分かったでしょう」
俺が?やったっていうのか?
「……あんた、一体なんなんだよ」
思わず、本音がこぼれた。ついさっきついた嘘なんて、もうつける自信がなかった。
「……」
けれど女は答えない。そのかわり殺意が金属のレールを伝って俺の体に足から頭の先へと流れ着く。ブレーキなしで迫る電車をレールの間に立って迎えようとしているような気分だった。
チャ。
女が右手のナイフを逆手に持ちかえる。
ドクンッ。
「はあ、はあ、はあ」
せめて、せめて棒っきれ一本でもあれば……
「っ」
眼に何かゴミのようなものが入った気がして、一瞬片目をつむる。全身を濡らす汗にまとわりつく、砂の感覚。
「はあ、はあ、はあ」
「石ころを砕かせたのはこれが狙い?」
女は周囲を軽く見渡した後、俺をつまらなそうな目で見る。女の目の軌跡をたどる。よく見ると、細かな粒子のようなものがキラキラと飛んでいる。なんだ?埃?砂?
ビュオンッ!!
女が消える。
サー………
電車を思わせる巨大な殺気がレールの上を、レールの間に立つ俺へ向かって風と共に迫る!同時にキラキラ光る微粒子が俺の周囲で渦を巻き、同時に右手の中に急速に重みが集まる。何だ?何が起きる!?
「っ!!」
女が俺に衝突するかしないか、その刹那、右手の中に何か棒のようなものができあがっていた。
ガキンッ!!
それが曲がりなりにも剣のような形をしていたと気付いた時には、剣は女のナイフでへし折られていた。
ガラガラガラガラガラッ!!
ナイフで砕いた瞬間、女の足は一応止まっていた。もちろん俺も。
「「?」」
その女の足元の砂利が動き、女の足を太腿まで覆う。動きを封じようとしている!?
「邪魔よ」
女の高速のナイフがまとわりつく石を引きはがす。
「はあ、はあ、はあ」
……。
やるしかない。
「……」
腕の動きを見る。見る。見る。見る。
「面倒ねぇ」
今だ!!
ガシッ!
「?」
銃を取りだそうと一瞬だけ動きの遅くなった女の右手首を俺は右手で下からつかまえる。その瞬間女の体からさっきのスピンする弾丸の時のようなカマイタチが生まれる。俺の右手は切り刻まれそうになる。
ギュウイイインッ!!!
同時に、自分の背後から風が腕を伝い、右手先へと流れる。女の風と俺の風がぶつかり、風が止む。いや違う、風の流れが相殺し合って、何も感じないだけだ。
「はあ!」
突如生じた“真空地帯”で俺は自分の体を信じる。じいちゃんとの鍛錬で刻み込まれた攻撃の記憶を全身にロードする。
「く?」
驚く女の右腕をねじりながら引っ張る。斜め前に体が泳いだ女の腰を左手でつかまえる。がら空きの右脇腹に、右の膝頭を全力でぶち込む。
ドギシッ!
「っ!?」
風の“バリア”を失った女の体の中で肋骨の折れる音がした。
ヒュボッ!!
「え?」
けれど次の瞬間、女は今までにないほどの加速をして見せ、俺の前から姿を消した。現れた時には顔面の鼻から下を左手でつかまれていた。
ブオンッ!!
抵抗する暇もないまま上にぶん投げられる。……やばい、鉄柱にぶつかる!!
ゾゾゾゾゾンッ!!
砂利の上の“アンモナイト”が跳ねる。俺と鉄柱の間に飛び込んだアンモナイトはそこで粉砕する。俺は砂のクッションに助けられる。
ガシッ。
咄嗟に電線につかまる。つかまった瞬間、感電するかもしれないと恐怖した。けれどどうにか感電はしなかった。考えてみたらショートしない限り感電することはない。
ガチャンッ!
でもだからと言って助かったとはまったく思えなかった。
「ふふ」
小さいころ、怪盗が花嫁をさらうアニメ映画で“それ”を見たことがあった。
「楽しかったわ。まさかドワーフごときに体を破壊されるとは思ってなかった」
それが印象に残っていたせいで、テレビで戦争の報道があってその銃器の実物が映像で流れた時は、一発で名前を覚えた。不思議で不気味な黒の名前。
アンチマテリアルライフル――。
生身の人間だけに向けて撃つ銃じゃない。構造物に隠れた標的を構造物ごと破壊するためのライフルだ。しかも、それを握るのはおとぎ話から出てきたような化け物。
「手向けの花よ。素粒子にして気圏の外まで飛ばしてあげる」
電線にぶら下がったまま思う。
飛び降りれば着地した瞬間を撃たれる。けれどぶら下がっていればこのまま撃ち抜かれる。
どう動いても、死ぬ。タマにホバーリングをやってもらっても、銃弾を躱しきる速度で逃げられっこない。
「不死の生を求めて脈打つ墓の主へ。硝神の鳩は汝をダイヤの如き灼光で照らそう。其れは報い無き始海への船出……」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴン……
苦し紛れに、タマが砂利で俺の前に壁をつくる。無駄だ。“あれ”の前じゃ、砂利の壁なんて無意味だ。しかも、金髪女のライフルだ。本当に逃げ切れない。
逃げ切れない――。
……。
躱しきることは……
……
「久遠の晴間に稜魂は海を渡る。水を寄せつけぬ焔を標に黄金の頂へ急げ。居座る時は刻一刻と減り削られる……」
……。
……。
「タマ……もういい」
俺は激しく左右に震える泥団子を見て微笑む。
「終わった。どう考えてもあれは避けられない」
ぴたりと泥団子が止まる。
……。
「未来は直に燃え尽きる。虚空の翼を輝かせろ。太陽の蕩けた影を供えろ……」
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャンッ!!!
「?」
壁の一部から手が伸びる。手?砂の手?俺の足を掴む……何だ?
「幾千万の青い肉を、幾千万の眩む魂を、風としよう。我が、汝を、風としよう」
キイイイイイイイイイイイイイ……
「表象体現。……思い知れドワーフ。これが本物の“風”よ」
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
空気が、光が壁にぶつかる。壁に亀裂が走り、壊れ始める。そりゃそうだ。すぐに貫通するだろう。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!
だから、何だこれ。砂が、俺の体を上ってくる。包み始める。
ジャキジャキジャキジャキジャジャジャジャジャジャ……
「……」
俺を守ろうとしたって無駄だろう。しかも、なんて異様な……。
ゴキゴキゴキゴキゴキゴキゴキンッ!!!
これじゃまるで特大のサナギだ。羽化を控えたアオムシだ。電柱に砂の糸で固定し砂利の繭に包まれたけれど、俺には羽化する自信なんてない。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!!!
首だけを砂利から出したまま、俺は砂の壁の残された強度を冷静に見積もる。もう、一秒持たない。
ドゴオオオオンッ!!ボアアアアアアアアアアンッ!!!
ほら。……っ!
ベゴンッ!!
首のすぐ下を覆う砂利から突如金網と鉄板のようなものが生え出て、俺の視界は奪われる。
――そう、良かった。僕の命はじゃあ、ノモリガミ君の役に立てるんだ。うれし……
「!?」
一瞬光が襲い、西の声が聞こえた気がした。けれどすぐに声は消え、視界は暗転する。
ゴウウーーンッ!!
ライフルから放たれた暴風が繭にぶつかったのは分かった。全身が繭ごと大きく揺さぶられる。
キュウオオオオオオオオオ……
するとすぐに、体の周囲を幾千もの不思議な音が駆け抜ける。それは管に導かれた高圧の蒸気のような音にも聞こえ、あるいは扉の隙間を吹き抜ける風のような音にも聞こえた。
シュポオオオオオオオオオオオ……
太さも温度もバラバラの気柱のようなものがすごい速さで繭の中を経巡る。気柱なんて見えていないはずなのに、見えないどころか細部まで意識の中に捉えられていて、しかもそれを操っているような不思議な感覚が、体の中に宿る。
ゴォバンッ!!
繭の“尻”に相当する部分が、突如割れる。見えないはずなのに見える。裂け目はたちまち補修され、金管楽器のラッパのような形状の口となる。
ドクンッ。
突如、心臓に強烈な痛みが走る。“視界”は暗闇に戻る。けれど次の瞬間、
カッ!!!!
全身が揺れる。熱さと寒さが瞬間的に全身を襲い、体を覆っていた砂利の繭がガラガラと崩れる。
「!」
砂利と一緒になって地面に落ちた後、ミリタリーコートの女の立っていたはずの場所を見る。彼女の足元近くの線路のレールは飴細工のように引きちぎれ、レールの下の砂利はことごとく消え去り、かわりに巨大な瓦礫の山が築かれていた。
ドゴオオンッ!!!
瓦礫の山が吹き飛ぶ。
「……」
全身から血を流して現れたのは、ほかならぬコートの女だった。
ヒュオオオオ……
金色のショートストレートが冷たい風に揺れる。その手には既に、アンチマテリアルライフルは握られていなかった。
「……」
肩で息をする女からは、ボタボタと血が流れている。
「もう、やめませんか」
女を見ながら、俺は冷静になった頭で言った。
「ドワーフ」
女はそれに応えない。
「違います。俺はノモリガミソーマ。普通の、普通以下の人間です」
「……人間に、支配率を変えてドワーフが宿ったというの?」
「知りません。そしてこの際、そんなことどうだっていいです」
女をじっと見る。殺気が消える気配はない。
「どうだっていい?どうだってよくないのよ」
歯をむき出しにした女の両手には空気の揺らぎのようなものが発生し、気づけば右手には拳銃が、左手にはナイフが握られている。
「哀れはまた、此方も彼方も同じ……」
パンッ!
「……」
「人間」
足元に吐かれた銃弾が例によって宙に浮いたまま不吉なスピンを始める。
「悪かったわ」
パンパンパンパンッ!
銃口の向きを少し変えて、続けて発砲する。不吉なスピンの数が増える。
「嘆きのほかは何もないこの世、名乗るは無意味と思っていたけれど……私の名はイオス」
ドクンッ!!
「!?」
その名前を聞いた瞬間、砂利の繭の中で起きたのと同じような心臓の痛みを覚える。目の前が、今度は見えているはずなのに、見えなくなる。黒ではなく、赤に染まる。
「げほっげほっ!」
胸が詰まりそうで咳き込む。視界が戻る。
「……っ!」
手が、血に染まっていた。
ザザザザザザザガチャガチャガチャアンッ!!
血のついた手のひらに足元の砂利と瓦礫が集まる。粘土のように形を様々に変えながら、それは細長く伸びていく。
「はあ、はあ、はあ、はあ……………」
!!!
体が、勝手に動き始める。あ、えっ?えっ!?
チャキッ。
勝手に、俺の体が長い槍を構える。は?……槍って、一体いつ?どっから用意した?
「あなたがドワーフとどんな経緯で同一体になったのかは知らない。興味はあるけれど、別に知らなければならないほど私にとって重要なことじゃないわ」
スピンの速度が徐々に激しくなる。「待ってくれ!」と大声で叫びたいのに、口が動かない。
「例えその正体が愚者の知恵の結晶であろうと、重要なのは今……」
ヤバい!こんな時に体が思うように動かないなんて絶対にヤバい!
「あなたが確実に、私にとっての脅威であること」
ふざけるな!ふざけるな!!ふざけるな!!!俺の体、どうなってんだ!?
「脅威は取り除く。それは私の仕事でもある!」
ドムンッ!!
脚を動かしたのは一度だけにしか見えなかったのに、スピンをしながら待機していた弾丸たち全てが俺目がけて動き出す。
プシュウウウウ……ボッ!!
俺の体は、槍を薙ぐように振る。槍の節々に出来た穴から鋭く噴射する空気のせいか、信じられない速度で振られた一閃が突風を巻き起こす。スピンしながら突撃する弾丸が空気抵抗を受けたせいか、明らかに速度を落とす。
ガガンッ!!
俺の体が後方へ跳ねる。スピンする弾丸たちと適度な距離をとった直後、槍で弾丸たちをはたき落とす。
ボッ!!
お構いなしに女がナイフを手にしたまま突っ込んでくる。ナイフの刃先には水色の光がガスバーナーの炎のように灯る。ナイフの刃先が大きく不気味に、明るく見える。
「……」
プシュボオンッ!!
ナイフの女に対し、俺の体は槍を深く構え、鋭い空気の噴射とともに超高速の突きを放つ。けれど女はそれをギリギリで躱す。俺と女との距離はもうほとんどない。女の水色に光る刃が俺の首を斬……
ザシュッ!!
「「!」」
割って入る人影が女に抱きつこうとする
「コクボ……」
「へ、そうはさせねぇって」
俺に向かっていた刃を止めたのは、小久保だった。
女は小久保から離脱するために一旦体を引こうとする。
シュウウウウウウウッ!!
俺の持つ、女のすぐそばに位置していた槍の穴から今までで一番強い噴射があがる。
「くっ!」
噴射の勢いがあまりに強かったせいか槍はその噴射口から折れ、女は離脱できず、体勢を崩す。小久保が抱きつく。その隙を、俺の体は逃さなかった。
ゴアアアンッ!!
槍の残された部分で俺の体は女を殴ろうとする。
ガキィィ――ンッ!!
でも女のナイフは素早く対応し、青いナイフが受け止める。女に素早く蹴られたのか、小久保が吹き飛ぶ。
シュウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!!!
ナイフと接触している槍の反対側から空気の噴射が始まる。耳をつんざくほどの噴射のせいで、ナイフで受け止める女の足が地面にめり込んでいく。女はナイフを握る右手に左手を添え始める。
「くぅ、う……」
槍に亀裂が走り始める。亀裂箇所から水色の光がほとばしり、炎を上げ始める。このままだと完全に壊れる!
ザシュンッッ!!
今折れて落ちたはずの槍の刃先が女の背後から胸へと飛び出す。血が吹く。
「うう、うっ……」
女の後ろに立ち槍の端を握っていたのは、全身血まみれの小久保だった。
「俺も犬死はごめん……だな。ゴフッ!」
青い光が消える。俺の体は女から急いで離脱する。
「こんな、ことって……」
膝をついた女が槍の刃先を正面から引き抜こうとする。
バアアンッ!!
引き抜こうとした瞬間、女の上半身が爆発音とともに消える。赤い煙の上がった後、残されていたのは無数の肉片と、かろうじて形を保っている女と男の下半身一つずつだけだった。
「はあ、はあ、はあ、はあ………!?」
ふと、自分の体が自分の意思で動かせることに気付く。
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン……
心臓が早鐘を打つように拍動を始める。立ちくらみを覚え、その場にひざをつく。
「う、うえぇぇっ!」
体液が逆流するような気持ち悪さに耐えきれず、嘔吐する。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
少し楽になったところで、顔を上げる。そこには、やっぱり下半身だけの死体が二つあった。ひしゃげた線路があり、穴の開いた地面があり、千切れた電線があり、折れた鉄柱があり、死体が二つあった。
死体。
女と、小久保。
「……」
上半身は、槍の刃先部分か何かの爆発で吹き飛んだ……としか思えない。槍を振っていて、それで、槍の先が落ちて、小久保がたぶん拾って、女に刺して、そしてたぶん槍が爆発……
「はっ、はっ、はあっ、ああ……」
何もかも静まり返った時、俺は、自分がとんでもないことをしてしまったのだと理解した。それまであまりにおかしなことが続いていたせいで、そのことに思いが至らなかった。
俺は……
人を殺した――。
同級生を巻き込んだ――。
体が勝手に動いて、俺は人を殺した――。
同級生と一緒に殺し合いに巻き込まれて、俺だけ助かった――。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
恐怖に襲われた俺はさらに深まりつつある凍てつく闇の中を、家に向かって急いで走った。振り返ることなく、一心不乱に。