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Wind Breaker  作者: 雨野 鉱
3/19

夢雫1

 黒夢一、  姉弟


 たぶん、これは現実じゃないんだろう。

「とすれば、夢か」

 森。それも深い森だ。その中に、俺はいる。

 ナイフを手から落とせばそのまま全部沈んでしまうくらいフカフカの腐葉土が、足元に広がる。

 目を瞑り土の香りを嗅ぎ、目を開きもう一度周囲の状況を確認する。

 落葉樹がそこかしこに静かに、けれど厳かにそびえたつ。地衣類をまとう寡黙な“老人たち”の伸ばす枝々に見たことのない青い鳥が止まり、儚げな声を上げ、飛び立つ。

「す~、ふぅ~」

 もう一度深く息を吸い、吐く。寒い。けれど微かに温かい。空気は冬を孕んでいるけれど、森の命がその冬をやわらげている。そんな感じだった。

 カシュッ。カシュッ。カシュッ。カシュッ。……

 暗くも明るくもない昼の森の中を、俺は歩き出す。どこへ向かって?わからない。けれど足は勝手に進む。だからたぶん夢だろう、これは。

「……」

 しばらくして、降り注ぐ光に切り取られた空間が腐葉土の上に出現する。幾つかの巨木が朽ちて倒れてできたギャップらしかった。

「まぶしい」

 手で目元を隠さなければ前が見えないほど、そこは神々しくて暑かった。

 カシュッ。カシュッ。カシュッ。カシュッ。

 それでもそのギャップに俺は足を踏み入れた。

 ザー……

「!?」

 突然肩の上に冷たさがのしかかる。首や頭に液体を感じ、それが冷たさを伴って体を上から下へ犯していく。耳に届くその音と目の前の無数の暗い糸を見て、自分はギャップを経て大雨の只中に立たされたことを知った。

 ザー……

 墓地だった。そこは見覚えのある墓地だった。

 カタカタカタ……

 歯の根が、震える。総身が震える。寒いから、じゃない。さっきまでの冬の気配はもう消え果て、今は真夏のように蒸し暑い。

 どしゃぶりの雨。

 墓地。

 この墓地に最近、じいちゃんが入った。晴れの日だった。

「……」

 けれどそれより少し前に、今から四年前に、俺の家族は入っている。こんな雨の日に。

 ザー……

「姉さん」

 大理石の墓石の前に、女が立つ。

 黒と白のブラウス。コツトンパンツ。ローファー。ネックレス。黒いセミロングの髪も含めて、どれもこれも雨に濡れてグショグショになっている。

 いつまでも色あせない、鮮烈な記憶。

 言葉にすることすら辛い、忌わしい記憶。

 姉さんにまつわる記憶。

 嫌な、破滅の記憶。

 それら一切が頭の中をよぎる。

 姉――。

 姉の声。

 姉の表情。

 姉の衣装。

 姉の部屋。

 部屋――。

 家の中で俺が絶対に近づかない領域。開かずの間。

「……」

 開かずの部屋の主はエレベーター事故で死亡。

 その事故が原因で、そのとき一緒に居合わせ、助かってしまった“弟”は閉所恐怖症になった。

 ザー……

 姉の事故死が原因で、おそらくはそうだと信じているけれど、親父は家族以外に“家族”をつくった。親父の心の隙間を埋めた愛人の存在が俺に“両親の離婚”を突きつけた。……おかげで俺は人付き合いが嫌いになった。剣と真剣に向き合うようになったのはこのときからだった。

「?」

 ずぶ濡れの姉の姿をした女の後ろ。大理石の墓石の上に、一人の女が腰掛けている。同じようにずぶ濡れの女は、黒いニット帽、丸いサングラス、灰色のスウェット上下に赤いランニングシューズという格好だった。

「お前……」

 高架橋の下で倒れていた女に、そっくりだった。だからこそこの夢自体に俺はものすごく混乱した。混乱はどこを見回しても混乱でしかなく、それと蒸し暑さが加わって、思わず苛立ちの声をぶつけてしまった。

 ジャッ。

 墓石の上に座っていたスウェットの女が姉の立つ砂利のすぐ後ろに下りる。

「!」

 姉の首元に、銀一色の剃刀が当てられる。姉はピクリとも動かず、ただなすがままにされている。

「姉さん!」

 剃刀が光る。刃が少しだけ首にめり込む。

 真っ赤な血が糸のように首をつたって流れ落ち、細く赤い軌跡を残す。けれど雨が瞬く間にそれを流す。

 ダッ!

 怖くて走った。

「やめろ!!」

 姉さんをまた失うのが怖くて、ただ走った。

 シュンッ!!

「くそっ!」

 何でもないような顔をして人の血を流す女が許せなくて、走った。けれど、墓石の前にたどり着いた時は、姉さんもスウェットの女もいなかった。

「!」

 別の墓石の上に、いた。

「何で……お前」

 墓石の上にいたのは、スウェットの女だけだった。

「姉さん!」

 墓石の足元に、首から大量の血液をこぼしている姉が倒れていた。こっちを見て、波紋のような微笑を浮かべていた。

 ……

 …………

 …………………

 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………殺す

「うああああああああああああああああああああああっ!!!」

 頭が黒と赤で塗りつぶされる。首が、胸が、両腕が、腹が、両足が、激しく塗りつぶされる。俺は怒りに任せてスウェットの女に飛び掛る。

 ガシッ!! ドシャアッ!!!

 逃げずに墓石の上に留まっていたスウェット女を捕まえ、地面に引きずり倒す。その上にまたがって顔面を殴打しようとした瞬間、首に何かが刺さった。

「がっ……ああっ……」

 倒れたスウェット女は無表情のまま、右腕を俺の首に伸ばしていた。その手に何が握られているのかは、わからなかった。ただそれによって自分が今致命傷を受けたことだけは遺体ほど良くわかった。

 ブシュウウッ!!!

 姉の首よりも多量の血液をぶちまけながら、スウェット女の顔を凝視する。こめかみ、鼻、耳、唇。それぞれにダイヤモンドのピアスが輝く。ドラッグでもやっているかのようにやせた顔に灯る目の光はどこまでも暗い。そして強烈な色をしていた。まるで何かを訴えかけるような……

 ギュオオンッ。

「……」

 目の前の一切が揺らぎ、歪んで黒く果てたかと思うと、俺はまたにわか雨の中、墓地の中に独り立たされていた。

「!」

 否。一人、じゃない。

「また……」

 墓石の前で濡れそぼつ黒と白のブラウスを着たセミロング。

「そんなに人を痛めつけて楽しいのか、お前」

 セミロングの後ろの墓石の上に腰掛、右手で剃刀をくるくる回しているピアスだらけのスウェット女。

 ゴロッ。

「?」

 自分の足元に違和感を覚える。見ると、包丁が一本転がっている。刃先には血液がこびりついていた。

「……」

 左手の指先で濡れる首に触れながら、俺は落ちている包丁を拾い上げる。左手の指先が右手の獲物の刃先と一致すると情報を脳に送ったとき、俺は右手の刃を逆手に持ち替えていた。

 ピュンッ!

 墓石の上のスウェット女の右手が一瞬消える。剃刀の刃が雨を弾きながら高速でこっちに真っすぐ飛んでくる。

 カンッ!!

 逆手に握る刃で叩き落とした俺はそのまま姉とスウェット女のいる墓石まで慎重に加速する。

 チャキ。

 暑さに包まれている全身に冷や汗が浮く。スウェット女はどこから出したのか、既にその手の中に三メートル近くある、パイクのような長槍を手にしていた。

「……」

 間合いの長い獲物を持つ相手との戦闘の場合、その懐に飛び込む以外に勝ち目はない。じいちゃんにそう習った。

 現時点で姉を守れるかどうかと誰かに聞かれたら、「わからない」としか俺は答えられない。姉を守ろうとする俺すら生きられるかどうかわからないから。

「ふうぅぅ……」

 パイクが姉さんの首を刎ねないという保証はない。けれど、今はパイクの動きそのものに集中するしかない。

 ブオンッ!!

 突進してきたパイクの先端を紙一重でかわす。スウェット女は俺が二人の傍に到達するよりも先に墓石から消え、やはり首への致命傷を狙ってきた。

「しいぃっ!」

 スウェット女の伸びきった右腕の付け根、脇を狙う。

 ブオンッ! ゴキンッ!!

「っ!?」

 けれどそこへ到達する前に、スウェット女は長物を素早く動かし、俺をなぎ払う。攻撃を防ぎきれず、腕の付け根に激痛が走る。

 ドムンッ!!

 既に槍を手にしていないスウェット女の膝爆弾が腹部にめり込む。刃物を振り回そうと思ったときには、俺からわずかに体を離し一回転した女の回し蹴りが顔面を襲った。

 ガッ!!

 回し蹴りの威力が、狂ってる。体が後ろの方へ吹き飛ばされる。

「ごふっ……」

 墓石に背中から激突し、言葉の代わりに大量の血液を吐く。臓器がいくつか破損したんだろう。ひょっとしたら頭もぶっ壊れたかもしれない。脳震盪か?目が回る。像が揺らぐ。痛いのか、暑いのか、痒いのか、冷たいのか、わからない。汗のにおい、土のにおい、雨のにおい、血のにおい。何もかもがゴチャゴチャになって俺の中に押し寄せてくる。

 ヒュヒュヒュン。

「……」

 器用な女だと、思った。スウェット女はなぜか靴を履いていなかった。裸足の彼女の足は、人間の手のような形をしていた。その一本が墓石の上に立つ主の体重を支え、もう一本が膝を曲げ、パイクをクルクルと回していた。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 姉さんは、スウェット女の両手の中にあった。抱っこされた姉さんの胸には、見覚えのある刃物が刺さっていた。それはさっきまで俺の手の中にあったはずだった。けれど今は俺の手にはなく、俺はただ傷口を抑えている負け犬にすぎなかった。

「ぐっ……」

 くそ。くそっ!くそっ!!

 まずは、立ち上がらないと……

 ドグシャッ!!!!

「……?」

 立ち上がる途中で、体を動かせなくなる。どこにどういう力を入れても、動かせない。そして体には、長い白い筒のようなものが突如生えていた。

「ふ……む……くぅ……」

 ドバドバと吐血しながら、もう一度、スウェット女を見る。裸足の片方に握られているはずのパイクはもうそこになかった。

「く……そ」

 俺の胸の真ん中には槍がピンのように突き刺さっていた。

 これじゃ、駄目だ。この位置だと致命傷だ。

 もし夢だとしたら、本当に最悪の夢だ。一度の夢で二度も死ぬなんて……。また目が覚めて、俺は姉を見殺しにするんだろうか。スウェット女にブチ殺されるんだろうか。


 ――君を殺すのが目的じゃない。


 ?

 ゾビュビュビュビュッ!!

「う!?」

 突き刺さる槍が体にめり込んでくる。同時に全身を虫が蠢くような嫌悪感が初めて襲う。その虫たちはやがて背中に移動し、僕を墓石から突き飛ばす。

「あうっ!」

 ガチャガチャガチャガチャ……

 体内を蠢く虫たちの気配が消え、耳を覆いたくなるような巨音が背後から響く。それは歯車と歯車がかみ合いながら回転する音、チェーンが巻き上げられる音、パイプの中をスチームが流れるような音、そう言った人工音が限りなく裁断され繋ぎ合わされていた。

 突如体の自由を手に入れた俺はもう一度周囲を見渡す。そこには森も、墓石もなかった。自分が蚤になって精巧な機械時計の文字盤の裏に閉じ込められたような光景が果てしなく広がっていた。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 狭い。暗い。怖い。怖い。怖い。怖い。

「何だよ、これ!?」

「扇形小歯車」

 怖い。怖い。何だよ、一体何だよ。何なんだよ。

「フュージ」「溝付き円筒カム」

「ねじ歯車」「トロコイドポンプ」「バヨネット継手」

「じょう車」「偏心輪を使う足踏み装置」「ウォームギア」「複式エスケープ」

「弓形わく」「採泥器」「渦巻き板」「ろくろ」「冠車エスケープ」……

 何?

 何だよ?声?

 誰?声!俺?声!怖い。声!狭い!

 怖い!声!!怖い!!声!!何が!?

「確動カム」「ばねつかみ」「対数曲線カム」「中心おもり調速機」「摩擦継手」「ゼネバ ストップ」「まがりばかさ歯車」「パンタグラフ」「遠心安全装置」「フランクピン」「摩擦車」「シリンダ エスケープ」「玉軸受」「機械口びん」「チャックスパナ」「遠心力利用クラッチ」「差動ねじ」「遊星歯車付きハンドル」「四角歯車」「変形交叉スライダ」「連射砲用開閉装置」「マルティプル トランメルギア」「早管継手」……

 さっきは微かにしか聞こえなかった声が、今は容赦のない濁流になって脳裏を震撼させる。助けてくれ。このままだと頭が、頭が爆発するっ!!

「爆発なんてしない。爆発なんてさせない。壊れていいのは、壊してから」

 誰を!?

「頭に刻み込んだ。君の仕事は……」

 声が大きい。声が小さい。声が重い。声が軽い。わからない。頭が、割れそうに痛い。全身が、熱くて寒い。歪んで分裂しそうだ!

「そして君が私であるように……」

 光が浮かび、光が沈む。何かが流れるように右に過ぎ、一方で何かが左に過ぎる。一切が歪み、どこかへ落ち、どこかから落ちてくる。雪のように、雨のように、噴火のように。

「私はもう、君だから」

 明滅する一切の中を最後、人影のようなものが二つ現れて、消えた。誰……姉……俺……誰………誰…………。

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