二滴
二、 歯車
ゴスッ! ボグッ!!
「調子に乗ってんじゃねェぞコラアッ!」
「くっ」
「おお、おお。痛そ~」
十二月十三日夜の高架橋の下で殴られながら、なんでこいつらが俺を殴るのか考えてみた。
「おら立てよ!」
上着を剥ぎ取られて冷気に肌を晒され、胸ぐらをつかまれて唾を吐きかけられながら、思った。どうせまた、噂の独り歩きだろうと。
でも核心の見当はつく。
――夜凪水希。
「ねぇねぇ、ノモリガミ君さ~。君のせいで俺らの大切な夜凪ちゃんが学校に来なくなっちゃったんだよ~?どうしてくれるの~、えぇ?」
ゴスンッ!
「ぐっ」
「話によるとさ~、君が夜凪ちゃんにひっどぉいことしたらしいじゃん。汚いコレを使ってさあっ!」
見え見えの金的攻撃だったから、それだけは膝で防御した。脛に俺の膝が直撃してしまった水希取り巻きの同級生はそのまま脛を抱えてうずくまる。
「おい、誰が抵抗していいっつった?」
俺の腕を抑えつけているヤンキーの一人が俺の内臓を殴りつける。咄嗟に腹筋に力を込めるも、タイミングが合わなくて、内臓に痛みが走る。
「ぐ、うう」
水希と付き合い始めた。と言っても、人が見ていないところで、だ。
付き合い出して、何かをしたわけじゃない。俺にお金がないこと、アルバイトをするかどうかで揺れていること、おごられることが好きじゃないことを知っていた水希は金のかかることを望まなかった。俺らはただ同級生のいなさそうな、学校から離れた場所にある夜の公園で話をしたりするだけだった。俺は読んでいる本の内容と俺がそれを読んでどう感じたかを話したし、水希はアルバイト先の出来事を詳しく話して聞かせてくれた。そうやって言葉を受け渡しながら、俺らは少しずつ距離を縮めていった。
「デート?」
「ノモリガミ君」が「ソーマ」に変わり、「ヤナギ」が「ミズキ」に変わってまもなく、水希は俺をデートに誘ってくれた。正直自分から誘おうとは思っていたけれど、恥ずかしくてなかなか言い出せなかった。だから水希から誘ってくれたのはすごくうれしかった。
実のところデートに備えて、俺は日雇いのアルバイトはしていた。水希との関係が無かったらとてもやる気はしなかったけど、我慢して引越しのバイト、バンドのライブイベントの誘導員を単発でやってお金を貯めた。その場だけの付き合いならこんな俺でも何とか耐えられた。
その貯めた金を使ってデートは普通に始まり、普通に終わった。ある意味しょうがなかったのかもしれない。ネットで知ったありきたりな情報に頼って俺は彼女をエスコートし、時々彼女にエスコートされ、中途半端に豪華な食事をしただけだったから。でも、帰る直前に見た、冬の、十二月八日の花火だけはよかった。
「私……花火、好き」
助詞と丁寧語が削られた水希の言葉はシンプルで花火のようにきれいだった。
「どうして好きか、分かる?」
「分かる……気がする」
「どうして?」
「きれいで……すぐに消えるから」
「……やっぱりソーマのこと、好き」
感じ方が似ていたのか、似てきたのか分からなかったけど、俺も水希も感じ方は似ていた。だから一緒にいることは空気のように自然だった。
その、水希との連絡がとれなくなったのは、デートの翌日、つまり十二月九日からだった。電話もネット端末も自宅訪問も水希を俺に引き合わせてくれなかった。学校の教師に聞いても自宅から連絡はないという。
母さん親も含めて水希はいなくなったらしかった。何かしらの事件に巻き込まれた可能性もあるとして動き出した結果、重要参考人として俺も取調べを受けた。その情報が学校の同級生たちに広まり、当然の帰結として“尾ひれ”がついた。
――殺人鬼。
――強姦魔。
――変態。
――人殺し。
電子の世界に言葉を紡いでいるだけで満足しきれなくなった連中は次にいつもどおりの嫌がらせを始め、それもいつもどおりあまり効果がないと知ると、今度はめずらしく実行手段に出た。いつもならその手前で止まるけど、今回は水希が絡んでいたせいだろう。水希を取り巻く連中とヤンキーがつるんで数で挑んできた。
学校周辺のヤンキーは“行儀”がいい。暴力のマナーを知っている。相手が死ぬまで殴るような馬鹿は幸いいない。だから我慢して殴られることにした。そうすればどうせこの“嵐”は過ぎ去る。
ヤンキーより怖いのは水希を取り巻いているような、暴力の素人連中だ。普段暴力と関わりのない連中は手加減が分からない。だから怖い。集団になると何をしでかすか分からない。逆に言えばそれだけ警戒していればいい。あとはただ、ヤンキーが俺を相手にするのを飽きて水希取り巻き集団から離れるまで、俺は耐えればいい。
「この!この!この!この!クソ虫が!!」
普段思い通りにならない素人はこの時ぐらいなら何もかも発散していいと思い込む。自分にそう暗示をかける。こういう連中が武器を持ったら、本当に怖い。でも今はただ、ヤンキーと一緒になって数が有利という“武器”しか持ってない。でも正直これは武器のうちに入らない。暴力を受ける側が素人なら武器になるけど、暴力のプロからしてみれば、武器には入らない。
「おい、もうやめとけ」
「はあ、はあ、まだ始まったばかりだろ!?」
「今日のうちはやめとけ。死んだらてめぇも困るだろ?」
“正常”なヤンキーが止めに入る。こいつらの怖いところは一つ、相手のダメージの蓄積を読めること。だから馬鹿にならない。そして時と場合によっては救いになる。
「心配ねぇよ。ヤる機会はいくらでもある」
「そ、そうだな。そうだ、そうだ~!ハハッ!!ノモリガミ~!!まだだ!まだ終わらないからな!忘れるな!!お前は生きてちゃいけないんだ!」
「はは、すっげぇ執念」
「おいおい、あいつ叫びながらチビッてるぜ!」
「う、うるさい!帰るぞ、みんな」
取り巻き連中が興奮も冷めぬまま、倒れる俺から去っていく。ヤンキーたちが俺を囲むようにしてズボンのチャックをおろし、小便をかけ始める。
「おめぇも面倒くせぇ奴に絡まれたな」
ヤンキーの首領格が白い息を吐きながら、湯気の上がる液体と一緒にぼやく。
刺激臭とともに、弱い酸を注がれたような痛みが俺の傷口にゆっくりと走る。
「“消毒”はしてやったぜ。またな。ヘヘヘヘ」
用を足し終えたヤンキーたちもバイクにまたがり、どこかへ消えていく。
「……ペッ!」
長い時間、強烈な寒さと重なる鈍い痛みを静かに見つめながら、俺は身を起こす。口に溜まった血を吐き捨てる。
Tシャツ一枚でフルボッコにされていたおかげで、ジャケットは汚れずに済んだ。俺はTシャツを脱ぎ、汚れをふき取り、よろよろと立ちあがる。ズボンは仕方がない。ジャケットを離れたところに見つけ、足を引きずりながら拾いに行く。
「?」
ジャケットを着た際、ふと気づく。誰かが俺と同じように倒れていた。それは俺と同じように夜と冷気と土埃にまみれていた。
「……」
灰色のスウェット上下に黒のニット帽がうつぶせになっている。服装からだけじゃ男だが女だか一見して、分からない。でも骨格や肉の付き方をよく見れば、たぶん女だろうと予想がついた。
「……」
服がところどころ破れている。血が、にじんでいる。でも肩はゆっくりと動いているからまだ死んでいない。
「……」
奴らに、ひどいことされたのか。さっきの連中に……。
「大丈夫……ですか」
連絡手段はなかった。ネット端末は服と一緒にさっき奪い取られ、地面に叩きつけられて壊された。だから、この状況で最善の手段は、困っている人の傍に寄り添うか、助けを呼びに行くしかなかった。
「……」
俺よりだいぶ小柄でほっそりとした女は、呼びかけに反応してゆっくりと体を動かす。それを見ながら俺はこの人をどうしようか考えた。下手に動かして大丈夫か。いや、このままこんな寒い場所に放置して大丈夫か。……はあ、あるいはもう、放っておこうか。自分の体すらまともな状態じゃないのに、人のことに構ってられるか?……
「……」
ゆっくりと動き出した体はようやくうつ伏せから解放される。左の半身を地べたにくっつけて、女はこっちを見る。弱い光を放つ黒い瞳、白い肌、高い鼻、やせこけた頬に無数の傷痕。血と泥。こめかみと鼻、耳、唇につけられたキラキラ光るピアス。状況を飲み込むのに時間のかかる顔だった。
「ウ……ア……」
聞こえるか聞こえないかの声が、動かされた唇から漏れる。
「あいつらに、やられたのか」
少しして、俺はそう言葉を吐いた。
この状態が怖いとは、思わなかった。一瞬頭をよぎった「面倒くさい」も「関わり合いたくない」も凍てつく風と共にいつの間にか消えていた。何もしてやれなくてもいいから、この場に一緒にいてやろうと思った。逆に言うと、頭の中にはそれしか残っていなかった。いいんだか、悪いんだか……。
ヒタ。
手が、女の手が、側にいた俺の手の甲に触れる。人の手かと疑うほど冷たかった。
ギュ。
それがたまらなくかわいそうに思えて、俺は触れてきた彼女の手を握りしめた。俺みたいな人間がそんなことをしていいのかは正直分からないけれど、とにかくこうした。
……いけない。ダメだ。
また、変なことを考えている。変な風に考えている。
水希が俺の前からいなくなったからか。
やめろ。
そんなのもう、やめろ。
ドクン。
「?」
心臓が、無意味に高鳴る。
ドクン。ドクン。
――クヤしい。
聞いたことのない、幽かな声が体の中にこだまする。それがどこから生まれたものかを考えているうちに、俺はスウェットの女と目があう。それで確信した。この人が、こういう“形”で俺に訴えかけているんだと。
「悔しい、か」
野蛮な連中に蹂躙された時間を、俺は想像した。
女は目を閉じる。するとその体が光に包まれる。強くも弱くもない光。でも本当に、光っていた。
「え、ちょっと」
光はやがて砂のようにサラサラと崩れていき、崩れきると跡形もなく消えた。本当に消えたのかどうかは知らないけれど、光も砂の跡も、何も残らなかった。
――許……さな……い
音が、声が、体の中で響いた。でもそれっきりだった。あとはこっちが周囲に呼びかけても、何の反応もなかった。
ヒュウウゥゥゥゥ……
また、風が俺を過ぎていく。
「どう、なってる……」
まるで化かされたみたいな感じだ。つい今までいたはずの女の子が光に包まれ、そして消えた。「傍にいさせて」という言葉を残して。
「傍に、か」
ふと、体に違和感を覚える。さっきまでの痛みがない。不思議に思ってジャケットを一旦脱いでみる。ジャケット以外何も羽織るものがないから猛烈な寒さは変わらないけれど、殴る蹴る、切るによってつけられた傷痕が全部消えていた。
「訳わかんね……本当にどうなってる」
ピョンと、跳ねてみる。
体は前より遥かに軽い。腕や脚の太さも、腰の位置も変わらないけれど、何かが変わった。車の車体が同じまま、エンジンを変えたみたいな感じだ。それがいいのか悪いのかは分からないけれど、とにかく前とは違う感覚。
「……はあ」
ジャケットを再び着る。
エンジンが変わっても、コンピューターが変わらなければ、結局車の性能は同じか。
「水希……どこに行ったんだよ、アイツ」
言いながら、家路へと足を向ける。財布の中身も取られてしまった俺は家までの長い距離を歩いて帰るしかなかった。
「……」
歩きながら、ふと気づく。自分の体から立ち上るにおいが変化したことに。ヤンキーどもの“消毒”の臭いは確かにあったけれど、それとは別に、土の匂いがあった。深い森の中でフワフワとした腐葉土の上に立った時に嗅げるような、そんな、長い歳月を感じさせる良いにおいだった。
「ふふ」
訳が分からないのは相変わらずだったけど、そのにおいのせいで少しだけ気が落ち着いた俺は久しぶりに走ることにした。走れば、歩くよりは早く家に着く。“消毒”は一刻も早くシャワーで洗い流したい。それに走れば、少しは治まる。
「ふう、ふう、ふう、ふう、ふう」
水希のいない不安は、少しは治まるだろうから。