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Wind Breaker  作者: 雨野 鉱
19/19

餞滴

 終、  ゆきあいの空


「……」

 風が冷たい。辺りは奇岩ばかりが目立つ。

 たぶんこの冷たい風と、いつか降る雨で侵食されてできたんだろう。

 よく見れば足元には見たことのない食虫植物が生えている。カエルも見つけた。跳ぶことを知らないのか、俺の目の前を通過する雲よりもずっと遅く、一歩ずつ歩み続ける。

 視界は蒼くて白い。

 絹雲が風に運ばれてこっちへ来ては、どこかへと過ぎ去っていく。

 周囲には似たような絶壁がたくさんある。先端はテーブルのように平らになった垂直の切り立った山はどれもこれもその頂上に、水の中に入れたドライアイスのような白い雲をたなびかせている。

「……」

 俺も絶壁の天辺にいるんだろう。移動して見ると、崖の下には緑がカーペットのように広がり、時々細い水の流れを見せている。たぶん崖の下に降りれば緑は大森林で、細流は大河だろう。下はそれだけ下で、上はそれだけ上。そんな天空の世界に、俺はいるらしい。

 でもなんで?

 そしていつから?

 ガチャ。

「?」

 場に似つかわしくない音がした。それでその音のする方へ顔を向ける。

「……」

 見覚えのある武者が一騎、そこに立っていた。

「お前……」

 崖下から吹き上げてくる突風に髪を躍らせながら、俺は武者の方へ歩き出す。近づきながら、自分の格好に気づく。デニムにシャツ。ベスト。その上にショートのモッズコート。こんな断崖絶壁を上ってくるような恰好じゃない。鎧武者と同じくらい、場違いだ。

 ザッザッザッ。

 鎧武者はもう、エムエイコーレフを持っていない。

 エムエイコーレフ――。

 そう言えば、そうだった。あの剣を艦の上でこの武者が使った後、俺はどうなった?剣が恐らく生み出した余剰次元へ飲み込まれた?……ここはじゃあ、その中?

 ス。

「!」

 武者の両手が兜の方へ行ったので、俺は思わず歩みを止める。

 カチャ。

 伏せたその顔からまず、頬当てが外される。そのまま地面に捨てられた頬当てはカラカランと奇岩の上で乾いた音を立てる。

 グイッ。

 武者が兜を脱ぐ。地面に落とされてゴスンッと鈍い音を上げる。

「……」

「……」

 深呼吸をする。深く息を吸い、深く息を吐く。

「お前だったのか」

 俺はうつむき、頭をポリポリ掻きながら、兜を脱いだ武者に言った。

「……」

 武者の傍を雲が過ぎる。雲が通過した直後、その姿は変わっていた。シューズ。茶色のショートパンツに黒のタイツ。レモン色のシャツ。白色のレインジャケット。ただし、顔は甲冑の時のまま。

「ヤナギアカリ」

 赤のレトロガーリー。ほの白い顔に丸い大きな目。橙色の瞳。左目もとにある泣きホクロ。そこに波紋のような微笑が浮かぶ。

「どうして俺を助けた」

 双子の妹と特徴はほとんどそっくりでも、姉の方は目の下にクマがあり、やつれているように見える。……それも、そうか。

「助けてないわ。ただ、最後を見届けるのを誰にも譲りたくなかっただけ」

「……」

 レインジャケットのポケットから、一枚の紙片が取り出される。

「なんだ?」

「希望」

 言って、紅里は指の間の紙きれを手放す。風がそれを運ぶ。

「くっ!」

 強い風が紙を吹き飛ばす。なぜか自分でもわからないけれど、絶対にそれを手にしなければいけない気がした。だから全力でつかみに行った。

 ヒュオオオオ……

 紙片が舞い上がる。あと少しで崖の先へ飛び出すというところで、俺は滑り込み、紙をつかんだ。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 紙には、俺の字があった。

 ――十二月三十日。俺、野守神颯真が夜凪紅里の悲劇を終わらせる。必ず救い出す。

 ドムッ!

「!?」

 誰かに体を掴まれ、仰向けのまま崖の外に頭だけが飛び出す。

 ガシッ。

 俺の上に馬乗りになった紅里が俺の襟をつかんで首を持ち上げる。顔を近づけ、オレンジの瞳で瞬きもせず俺を凝視してくる。

「日記」

「?」

「私の魂にあなたが上書きをしたせいで、世界に選択の余地が生まれた」

 チュ。

「……!」

 閉じている俺の左まぶたに紅里の湿った唇が触れる。ニュルリと舌が俺のまぶたの下へもぐりこみ、傷ついた眼球をペロリと舐めた。

 顔と顔が再び離れる。凝視はなく、力なく疲れ果てたオレンジの瞳があるだけだった。

「ここは土の大精霊すら操れない余剰次元。カラブアウ空間の一形状。支配しているのは唯一私。あなたの力の真似。……分かるわね」

 土の大精霊。メトンのことか。

「私の子もここへ飲み込んだ」

 私の子……ゴーレム。

「私を殺せば、忌み子は消える。もちろんこの次元もろとも」

「それが、お前の言う希望か」

「そう。樹の力を得たあなたですら還すことのできない領域にある命にとっての、希望」

 正真正銘“死ぬこと”を希望だと、レトロガーリーは告げた。

「このまま墜ちる?」

 殺す、を拒否するかと、そのオレンジの瞳は訴えていた。

「……断る」

 オレンジの瞳に映る自分の顔を見ながら、決断する。

「そうよね」

 グワッ。ブオンッ!!

 俺の体は紅里にいとも簡単に持ち上げられ、襟首を片手でつかまれたまま放り投げられる。転がりながら俺はゴツゴツした“テーブル”の中央へ移動させられた。

「ふう……」

 溶岩が固まってできた岩肌のせいで、デニムにもモッズコートにも穴が開いた。その穴の周りについた砂埃を払いながら、俺は起きあがる。唇を切ったらしく、拭った左手の甲には血がついていた。

「これは絆の傷の、物語」

 真っ白の雲が俺と紅里とを再び遮る。体の中にある、残された樹の力を探る。武器を練られるだけの力をもう感じない。なら体術で挑むしかない。

「……」

 雲が往く。

「あなたの意思が真実かどうか、あなたの命で示して」

 紅里の手には打刀があった。それに気づくと同時に、自分の左手にも重さを感じる。手は鞘を握っていた。

「……分かった」

 剣と鞘の境目の栗形に左手を添え、グリップに相当する把に右手を当て、小指から薬指、中指と順に握り、ゆっくりと刀身を曝す。

 ギラリ。

「あなたによく似合うわ」

 暗い感じの乱刃が雲間からのぞく陽光を受けて烈しい閃きを放つ。

「……ああ」

 切っ先、鎬、鍔、目釘。どれも問題ない。問題ないどころか完璧だ。

「そうだな」

 研ぎ澄まされた人殺しの道具。人が人の命を奪うために作った最強の鉄塊。

 ……鉄。

「……」

 この鉄で、今まで散々罪深いことをしてきた。

「俺はウィンドブレイカー」

「?」

「風を求め風を殺す者。かつてはそうだった。でも今は違う」

 これで、最後にしたい。

「ただの風」

 チャキ。

「お前を覆う憎しみの闇を払う、ただの風」

 チャキ。

 鯉口をきり、鞘を捨てる。右ひじを後ろに引き、肩よりも少し高めに上げる。左は脇を閉め、腕を胸元につけ、左手首を右の頬に近づける。

 一の太刀――。

 防御を想定していない。攻撃のみの力技。踏み込み、右手の力だけで相手を断ち斬る。

 ダラリ。

 紅里は完全に脱力している。左手で鞘を持ったまま。抜刀していない。……居合でくるか。

 ハム。

 三秒で息を思い切り吸い込み、そこで止める。

 プフゥゥ……。

 二秒だけ止め、十五秒かけてゆっくりと吐ききる。

 ボッ!!

 わずかに腰を落とし、全力で駆け出す。一直線に駆け、満身の力を乗せた剣を打ち落とす。

 ヒュカンッ!!

「!?」

 紅里の柔らかい左腕だけが独立した生き物かのように高速で動き、鞘を持ち上げて柄で顔面を狙ってくる。刀は紅里の腕の勢いでそのまま引っこ抜ける。それを躱すためにこちらがわずかに勢いを殺してしまう。

 ガシッ。

 こちらが打ち落とした刀の柄を既にその左手で握っている。俺の斬撃は既に死に、紅里は無表情のまま左手で柄、右手で剣の峰を押さえてぎゃくげさに刃を跳ね上げる。

「うっ」

 当然避けるしかない。避けなければそのまま脚を斬られてしまう。

 ブオンブオン。

 俺の握っていた剣をあっという間に奪い取り、紅里はそのまま間髪入れず、剣を旋回させ、俺の右足、左胴、右胴。右足、左小手、右小手を狙ってくる。致命傷だけは避けながら無様に転げまわり、血まみれの体でようやく紅里が捨てた刀を拾い上げて応戦に入る。

 ブオンッ!!

 俺の右から仕掛けられる上段斬り。それを、左ひざを軸に俺は体を九〇度右へ移動させ、中腰に立ち上がりながら右足を一歩前に踏み出しつつ紅里の右ひじを斬る。

 ザシュンッ!

 紅里の右腕を断つ。そのまま勢いを殺さず、体を三六〇度回転させる。首を薙ぎ払うつもりで。

 キイインッ!

 切断された右腕が掴んだまままの柄を左手で握り直していた紅里が俺の刃を上へ押し上げる。剣と剣がぶつかり炎の雫が乱舞する。やばい!胴ががら空きになる。

 クシャッ!!

 右胴をもろに食らう。血が噴き出す。この出血量だと長くは持たない。早く、終わらせないと。

「はあ、はあっ!はっ!」

 俺の胴を払った紅里がそのまま上段の構えをとる。素早い振りのせいで彼女の右腕は宙に舞っている。

 シュパンッ!

 左胴を狙った一撃。

「はっ、はっ!」

 神経を研ぎ澄まし、斬撃にどうにか右手の剣をぶつける。

 パッ。

 そして剣を捨てる。

 ガシッ!!

「!」

 紅里の細い胴に左腕を巻き付け、全力で体を浮かせる。

「うおおおおおおっ!」

 ドゴンッ!

 硬い地面に頭から叩きつける。紅里の手から剣が思わず離れる。

 カラカランッ!!

「はあ、はっ!はっ!!」

 紅里が立ち上がろうと足を振り上げる。そこへ俺は右ひざを両足の間に入れる。そして跪く。左手で紅里の足を抱え込む。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 紅里の左手首を右手でとる。動きを完全に封じ込む。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

「……」

 風が、冷たい風が雲を急ぎ足で運び、そして俺たちをさらい、去っていく。汗が顔を伝い、顎から滴り、倒れている紅里の顔へと零れる。その紅里は顔に汗一つかいていない。ただ血だけをこびりつかせていた。

「したの?」

 え?何を?

「ミズキと」

「……」

「こういうこと」

「……そうかもしれない」

「そう」

 殺した。愛した。悲しんだ。喜んだ。……どれを、紅里は指しているのか。

 きっと、どれもことも差しているんだ。

「じゃあこれで、私の願いはかなった」

「?」

「妹みたいになりたかった。ミズキみたいに朝を迎えて、ミズキみたいに夜を過ごして、ミズキみたいに恋をして、ミズキみたいに生きて、ミズキみたいに死んでも慕われて……」

 汗一つかいていなかった。ただ血だけをこびりつかせているだけだった。その、紅里の目元に大粒の涙が浮かぶ。

「でもね、妹にはなれないの。だって私は、ヤナギアカリだから」

 絆の傷。それを端的に表した悲しい言霊が響く。

「だから私は壊れたの。壊れて、壊したの。お腹の子も、妹も、誰も彼も」

 聴き入る。

「これでいいの」

「……」

「妹があなたの中で生きているのなら、それでいいの。全てを巻き込んだ私が消滅しても、それでいいの。全ては、定めだから」

「……違う」

 濡れ色に輝くオレンジの瞳を真っ直ぐに見る。

「俺は絶対に忘れない。こんなにいっぱい語り合ったお前のことを、俺は絶対に忘れない」

「そう。……でもそれは……困るな」

 レトロガーリーは優しくはにかむ。

「どうして」

「……妹の彼氏に、恋しちゃったら、困るでしょ?ミズキが」

「……」

「あ~あ……楽しかった。最後の最後だけは……」

 俺の零れた汗が触れたところから、紅里の体が光り始める。

「ちょっと汗臭いけれど、意外にこの匂い、好きかも」

「最後」と口にした紅里が一度も見せなかった笑顔を浮かべる。生じた光は徐々に彼女の体全体へと広がり、呑み込んでいく。

「なんちゃって……ね」

「……」

 不幸な少女を押さえ込んだまま、目を瞑る。

 誰でもいい。

 還せるのなら、光に還せるのなら、還してくれ。この命を。

「さようなら。もう、本当に……おしまい」

 物静かな光は上へと登って行かず、蛍のようにフワフワと散っていき、雲を運ぶ風にさらわれて、崖の下へと消えていく。

「憎むなんて……疲れるだけよ」

 夜凪紅里が見えなくなり、俺は立ち上がる。雲が増え、世界は白く包まれていく。次元が、閉じていく。

 風を求め、深く息を吸い、吐く。

「……」

 血は止まらない。

「……」

 俺はどうなったっていい。それよりも。そんなことよりも。

「運命の女神…………いるなら、聴いてくれ」

 還してくれ。俺の力全てを捧げる。樹の力なんてもう、なくていい。

 還してくれ。アイツを。アイツらを。

 絆の傷を癒やしてくれ……!!



 ヘリコプターのローター音を聞いて、目を覚ました自分に気づく。

 体は軽い。冷たくて、寒い。このニオイ……潮風。

「……」

 紺と青と灰と橙が上空で混ざり合い、うねり、刻々変化していく。

 風と共に闇が去っていく。……夜明け。

「……」

 どうやら俺は、暁闇の海に浮かんでいた。

 何やら音を立てて東の彼方から近づいてくる鉄の塊と、そこから垂れるワイヤーで降りてくる、ハーネスを付けた軍人の姿。

 器具を装着され、自分の体がヘリへと引き上げられていく。力んでみても、感覚がおぼつかない。なんだか、自分の体じゃないみたいだ。

 バババババババババババババババ……

 英語で互いが互いにやりとりしている。正直細かい話は分からない。分かるのは、自分が海から救助されたらしい人間の一人だということ。

 救助。

 助けられた。

 何から?

 どこから?

 どうして?

「……」

 鉄くずの上で視界を半分失ったこと、雲の上で胴を裂かれたことを思い出す。そして女神に祈りをささげたことも。胴の傷は探したけれど、見つからなかった。祈りも……なかったことになるのか……

 ババババババババババババババババババ……

 ヘリコプターが進路を変え、旋回する。

「……」

 海がその時、下方に見えた。

 ……。

 ……。

 ゴーレムの姿はもうなかった。幾多の空母をのみ込んだゴーレムの慣れの果ても、子実体のような核も見当たらなかった。

「AMAZING……」

 毛布を掛けられ座らされた俺の近くにいる軍人が俺と同じ光景を見ながら驚きの言葉を漏らす。それもそうだろう。

 ゴーレムのいた場所。そこに今、一つの像があった。

「……」

 暁闇に浮かぶ、大きな像だった。どうやって建てたのかは見当もつかないくらい大きな石の像に見えた。

「WHAT HAPPENED……」

 それは母子の姿だった。子どもを抱えた女が乳をやっている姿の像だった。

「HOW……」

 像の周りを飛ぶ誰もがこの人と同じ思いでいるだろう。

「……!」

 旋回するヘリが母親の顔を拝める位置に来たとき、俺は気づいた。

「……I KNOW HER」

 残された右目にその顔を焼きつける。

「WHAT?」

 忘れない。絶対に。

「SHE IS……」

 (終わり)


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