十滴
十、 赤葬
そこは県境の河川敷だった。
重機が打ち捨てられている。土が大きな袋に詰められて捨てられている。ところどころ穴が空いて中の土が泥になって零れ出ている。処分に困った放射性何とか、かもしれない。それら人の捨てたらしい一切に雑草や苔が襲いかかり、侵食し、侵食したまま冬を迎えて枯れ果て、その死骸で一切を覆い隠している。そんな寂しい河川敷だった。
しかも雲行きが怪しい。快晴の予報を裏切り、空は異常な速さで濁り始める。河川敷の色彩がそのせいでさらに薄れている。
黒い蝶が枯れ草色の河川敷をユラユラと舞う。
ガサガサッ。
とてもじゃないけど、車で移動できる場所じゃない。だからとっくに車は捨てている。
獣道ですらない山の中を蝶に誘われて歩き続け、俺は今ようやく河川敷にたどり着いた。
「……」
河川の真ん中に、女が立っていた。
白色のレインジャケット。茶色のショートパンツに黒のタイツ。シューズ。赤色のレトロガーリー。水希にそっくりなのに、どこか違う女。そしてついさっき、水希の実家で殺した化け物によく似ている女。日記帳を手にしていた、可哀相な肉の女。
たぶん水希の姉……の何か。
「ヤナギアカリ」
俺は、その名を誰に聞かせるつもりもなくつぶやいた。するとレインジャケットはこっちを向く。ジャケットの下は、レモン色のシャツだった。
「……」
俺は車を捨てた際、持ってきた日記帳を掲げる。
「……」
けれどレインジャケットは興味もなさそうに顔を背けた。見たくもないということか。
もう手遅れということか。もう誰も助からないということか。
「ふふっふっ……」
目を背け、体を下流に向けたレインジャケットが頬を歪める。
ガタガタガタガタッ!
「!?」
俺の持つ日記帳が大きく震え出す。もがいている?
バササササッ!
日記帳からページが千切れ跳び、河川敷の上へと舞う。日記帳から飛び出した直後はヒラヒラとしていたページはレインジャケットの方まで行くと突如細かい紙片と化し、レインジャケットの周りに落下する。
「そうよ、私はヤナギアカリ」
笑うことを止め、初めて、女が口をきいた。水希そっくりの顔だけど、全然違う声。
ウウン……。
河川は間違いなくある。水は間違いなく上流から下流に向けて流れている。けれど、夜凪朱里の周囲に舞い落ちた無数の紙片はどれ一つ下流に向かって流れていかない。どれ一つ、沈まない。それどころか、黒い蝶の斑のように、不気味な赤い閃光を上げ始めている。
「呪われし命。忌まわしき命を宿す者」
遥か下流を見つめながら水面の上で何事かを訴える夜凪朱里。何を、どうしたいんだ?
シャオ――ンッ!
閃光を上げていた紙片の上の赤い光が突如天に向かって急上昇し始める。赤い光は蛇のように蛇行しながら空中で互いに絡み合い、最後一本の巨大な蛇になる。いや……まるで龍。
ボフゥン……
それが空に充満した灰色の雲に飛び込む。すると直後に透明の冷たい針が無数に落下し始める。
ザァァァァァァァァァァァァ――ッ!!
夏のゲリラ豪雨を冬に持ち込んだような大雨だった。冷たい、じゃない。痛い。
「……」
急激に気温が落ちたせいで自分の吐息が今まで以上に白くなり、体からも湯気が立ち上がる……!?
「うっ……くぅ……」
少しずつ流れが激しくなる河川。その流れの中央にいる水希の姉。
「はぁ、はぁ、うぅ……」
既に、衣をまとっていなかった。
「ううう……ふううう……」
陶器のような白い肌には無数の痣があった。
「ううう……ううう……うううううう……」
異常に膨らむ下腹部。まるで、妊婦。
「はぁ、はあ、はぁ、はあ……」
涙目になって下腹部を両手で支える。けれど脚は体を支え切れなくなり、夜凪朱里はそのまま水面に尻をつく。
ザアアアアアアア――ッ!!
「うぐううう……」
渦すら生じ始める水流の中央、肩で呼吸をする全裸の妊婦。
「はあ、はあ、はあ、はあ……ヤナギアカリ!!」
助けなければいけない。そう感じた俺の口からその名が飛び出した。けれど、体は動かなかった。急激に冷やされたせいか、それとも本能か、筋肉は激流と化しつつある河川に突撃することを許さないらしかった。
「うううう……うーんっ!うぅーんっ!!」
腹を抱えたままうずくまり、陣痛の痛みに耐えている夜凪朱里の体が、少しずつ水の中に沈んでいく。それとも雨による増水が急すぎてそう見えるだけだろうか。とにかく、このままだといつか鉄砲水が上流からくる!
「はああ……うあああああああん!!」
水面に顔面を近づけ、ありったけの声で叫んだ直後、夜凪朱里の体が一気にのけぞる。彼女の足元の水がフワッと赤く染まる。
「はっ、はは……はっ、はあ……はぁぁ……」
目から、鼻から血を流す夜凪朱里が、こっちを見る。
「……終わり。これで、終わり。何もかも……」
ドボンッ!
そう言い残した直後、夜凪朱里の体が水の下に落ちる。
「ヤナギアカリィ!!」
叫びは雨と激流の音に呑み込まれる。夜凪朱里の姿は完全に消えた。
「役目を終えたから、循環の輪に消えた」
「?」
背後から、年の若い男の声がした。体の中の細胞が、その声に強く反応する。とうとう姿を表した、と。声の主こそ、紛れもない“主犯”であると。
「……」
「振り返る価値などない。私にとって形象は無意味だ。既に私は本来の形を失っている。必要に応じて何物かの形をとり、必要なければ現象にとどまるだけの存在だ」
ゆっくりと、振り返る。
「それはつまり、お前が取りこんだ土の精霊と同じということ」
……オオサンショウウオ。
そう、思った。風化した黄レンガのような黄土色に、玄武石っぽい黒灰色がカビのつくるシミのようにポツポツ混じる。そんな色のゴワゴワした皮膚が、透明の粘液で覆われている。四肢は短く、腹はたぶん地面を擦っている。頭から尾先までの体長が人間の二倍近くあることを除いて、オオサンショウウオらしいオオサンショウウオだった。
「お前が……全部……」
この悲劇を企てた犯人。
「然り。私が全てを企てた。始まりは成り行きに過ぎないが、終わりに至っては全て私の筋書き通りだ。何一つ逸れたものはない」
雨にぬれるオオサンショウウオは沈むように答える。
「どうしてこんな」
「“夢”は見たな?」
問いに対し、問いが返ってくる。
「夢?」
「お前をここに立たせるために見させた“黒キ夢”だ。“白キ夢”は風の精霊らをお前に始末させるための暗示に過ぎない。事実だが大なり小なり脚色はしてある」
ジャボジャボと降る雨に濡れながら、オオサンショウウオはそう言った。
「“黒キ夢”。あの物語には一つ、付け足すことがある」
「……」
激しい雨のせいで髪に溜まった雫があふれ、背筋をドクドクと流れ落ちる。
「ボーデには兄がいた。しかしその兄は生後まもなく家族の元を離れた。生まれつき備えていた呪力ゆえに神官共の仲間に迎えられたと言えば聞こえはいいが、土の精霊の源とやらを調べるために監禁され、解剖され、分解され、“大精霊”の名を冠した柩に閉じ込められ、孤独に祀られるだけのことだった」
オオサンショウウオは口を動かさない。けれど言葉がその体からニオイのように立ち上り、俺の耳に、頭に響く。雨音は激しすぎるほど激しいはずなのに、言葉は一切掻き消えない。ただ、悲しく俺に響く。
「肉片になっても世界を眺めることができたそのボーデの兄の唯一の楽しみは、血のつながった妹の成長を見ることだった。ボーデは何度か“死んだ”が、そのつど体を失っていた兄は自分の残る呪力を使い、妹を蘇らせた。“黒キ夢”では見せていないが、妹は全部で七十九回死んでいる。そのつど兄は魂の欠片を探した。魂の欠片でいい。欠片があれば増殖は可能だった。呪われし力ゆえに現象と化していた兄はそれを知っていたから、妹の魂の欠片を探しては増殖させ、復活させた。……しかし、それもとうとう終わりを迎えた」
「……」
死で終わらない者の、終わり。
「この星に、ボーデはよく来ていた。そしてまれに殺された。殺されても普段なら問題なかった。兄が甦らせればいい。が、今回は、違った」
「……」
「ボーデは、自ら望んで、魂を人間に捧げてしまった。過去の出来事が原因で強い恨みを抱く、かの風の精霊と再会し、しかもまたしても痛めつけられてしまったからだ。妹の中で魂だけでなく復讐の念まで増殖していることに、兄は気付いてやれなかった」
イオスと、ボーデの過去を言っている?
「間に合わなかった。兄が妹の体の崩壊に気づき、魂の欠片を集めにこの星に至る前に、ボーデはその魂をお前に捧げた。ノモリガミソーマ。お前に、だ」
声が途切れる。雨の音が激しく耳に響く。全身をことごとく濡らす水のせいで、冷たすぎる大気の中に、さらに俺の熱は奪われていく。
「ボーデの兄は、絶望した。もう、何もない」
「それが、お前か」
オオサンショウウオの小さな目を見ながら、言った。
「……そうだ。エンド・メタルエッタ・メトン・ヒルシュ。柩にはそう彫られている。妹の魂にはメトンと、刷り込んである。彼女は私の姿を見たことはないが、無意識の中には刻んである。だからきっとお前に暗示しただろう。私の存在を、お前の中で」
メトン。
「妹をこの星で永遠に失った。だから永遠に消し去る」
シュウウウウウンッ!ヒュウンヒュウウウンッ!!
雨空を鋭い音が走る。戦闘機の音、だ。自衛隊のか?
「風の精霊がいなければ、土の精霊は悲しまない。土の精霊がいなければ、私は妹の傍にずっといられた。人間がいなければ妹の魂は回収できた。因果は存在によって生まれる。だから永遠に消し去ろう」
何機もの戦闘機がはるか上空をものすごい速度でどこかへ移動していく。どこへ向かっている?
「ヒトもシルフもドワーフも、永遠に消えろ」
オオサンショウウオの頭部だけが溶けて膨らみ、歪み、形を変える。膨張した肉塊はとうとうゴリラの上半身のような姿になったかと思うと、すぐさま両手を体の前に広げる。
ジジジッ!!
ゴリラの胸の真ん中で生じる青い光の球。静電気。……この気配…………電磁パルス!!
ドムンッ!!
「うわっ!」
衝撃波がゴリラから一気に放たれる。濁流のすぐ傍まで俺は弾き飛ばされる。
ヒュオオオオオオオオオオ―――ッ!
機器をやられたらしい戦闘機が高度を失ってクルクルと縦や横に回転しながら不吉な速度で落ちてくる。
「七十九回の死の中で一度、亀が頭に落ちて死んだことがあった。妹ボーデの話だ。猛禽が甲羅を砕くために空高く持ち上げ、落としたのだが、それが頭に直撃した。傍から見れば、因果は時に滑稽だ。……さて今回は」
「はあ、はあ、はあ、はあ!!」
俺はゴリラの言葉を待たず泥の中を走り出す。近くに戦闘機が墜落したのか、巨大な地響きの後、激しい爆発音と炎が上がる。
「どれほど滑稽か。亀よりはいくらか巨大で、数も多いが」
「はあ、はあ、はあ、はあ!!」
さらに厚い雲間から光り輝く隕石のようなものが無数に降ってくる。
ドオンッ!! ドドドドオオオンッ!!! ドドドドドドドドドド――ンッ!!!!
「ぐっ!」
すぐ近くで隕石が落下し、石つぶてが散弾銃の弾のように皮膚を突き破るとともに、隕石の破片らしき大きな何かが左脚のふくらはぎの横に突き刺さる。引き抜いてそれが歪んだ金属片だと知る。航空宇宙局の名前が入っている。……まさか、人工衛星の部品か?
ヒュウドオオンッ!!
「くっそ!」
考えている場合じゃない。とにかく逃げて、安全な場所に避難しないと!考えるのはその後だ。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
ようやく洞窟のようなものを見つける。そこにとにかく飛び込む。入口の穴を塞がれたら終わりかもしれない。けれど、今は“隕石”の直撃を避けるのが最優先だ。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
服を破り、中にしみ込んだ水をぞうきんのように絞り、破った服を包帯代わりにして脚の止血を始める。
どうする?
どうする?
どうする?
考えろ。考えろ。考えろ!考えろ!!
――ええ、今新しく情報が入ってきております。
「?」
突如雨の中をこだまする、誰かの声。
――はい。え~、今までお伝えしてきていますように、日本各地の沿岸部周辺地域で今、異常事態、緊急事態が発生しております。現段階で確認できたところでは、全国四十七都道府県のうち、群馬、栃木、埼玉、山梨、長野、岐阜、滋賀、奈良、沖縄を除く全ての県で同じような現象が確認されているとのことです。え~、沿岸部地域の住民の皆さんが次々に、え~、海岸付近に集まっています。……
「……」
テレビを付ければ聞こえてくるようなアナウンサーの張りつめた声。けれど今はテレビなんて当然目の前にない。あるのはどこまで続いているのか知れない洞窟と、水と戦闘機と人工衛星の破片の降り注ぐ雨だけのはずだ。でも大きな音で聞こえてくる。学校のチャイムのように、全体に響き渡るような大音量。オオサンショウウオの時とは質の違う、乱暴でがさつで巨大な音声。
地面を震わせた“隕石”の音がいつの間にか止んでいる。恐る恐る穴の外に出てみる。
「!?」
夜凪朱里の入水を見、オオサンショウウオに遭遇した場所に、無骨で大きな黒い柱のようなものが立っている。
――そして今、はい、新しく入ってきた情報によりますと、あっ、今映像が出ました。はいっ!海岸付近に集まった住民の方々が、あっ、警察や沿岸警備隊の静止を押し切って、はい、今、信じられない事ですが今、次々に海に向かって走って行っています!信じられないような光景が今起きています!
ガラクタを寄せ集めたような黒い柱は黙々と黒い煙を上げている。よく見ると尾翼のようなものがいくつか見える。
「なんだ、あれ」
落ちてきた戦闘機の機材でオオサンショウウオが造ったのか?……戦闘機を落としたのもまさかオオサンショウウオ……
――どうしたというのでしょうか。本当に今、目の前で信じられないことが起きています。住民の皆さん、どうか、どうか落ち着いて下さい。ああ、どうして……!あっ、警察の方々まで一緒に!ああっ!!は、入っていきます!
黒い柱にいくつか咲く鉄の巨大スピーカーが空気を激しく震わせ、アナウンサーの強い動揺を伝えてくる。沿岸部?海?人?
ヂヂ……
――風の精霊も知らぬ、土の話をしよう。
遠くの空を走らされていたはずの数十本の送電線が無理やり黒い柱に接続されていて、その送電線がバチリと火花を散らした瞬間、スピーカーの音が切り替わる。
「メトン!」
ゴリラやオオサンショウウオの姿をしていたメトンの声!
――古来、土の精霊たちの間で神話の類とされてきたが、そもそもは神話でも伽噺でもなく、単純に行使する者に覚悟と力がなければできないだけの忌避された術義。その話だ。
ドクンッ!
体の中で、何かが強く反応する。細胞が怒っている?ボーデが怯えている?全く分からない。けれど、体の中で何かがほとばしり始めている。痺れる。熱い。寒い。痛い。痒い。苦い。喉が渇く。ドキドキする。ジリジリする。ガリガリする。
――精霊は海を嫌う。それはなぜか。かつてそれに理由などなかった。ただ始原の昔、精霊がまだ土や風などという区別がない遥か以前に、力ある者がそう定め、精霊たちをそのように創ったのだ。
ドックン。ドックン、
――海は命を育む。力ある者は海を使えば命を創れることを知っていた。力ある者は海を使い、土の精霊や風の精霊を生みだし、逆に彼らに海を畏れさせた。そうさせねばやがて力ある者を真似る者が現れてしまう。力ある者はそれを畏れ、精命の設計に細工を施した後、自らを“完全なる者”と称した。お前たち風に言うならば神といったところだ。
……神。イノチに細工をするモノ。
――しかしその神の絡繰りを見抜く者がいつしか現れた。完全なる者にしてみれば、秩序の綻びといえる。……見抜いた者たちは神に争いを挑み、そして最初の神を殺した。殺した者が次の神を名乗り、あるいは大精霊として君臨し、あるいは姿を晦ませた。いずれにせよ神の絡繰りはこうして広まり、海を使い、海は使われ、種は次々に増えていった。
カミの、カラクリ。
――ただし、種を増やすために海を使う者ばかりがいるわけではない。時として、世界の混迷に終止符を打つために海を使う者もいた。浄化が目的だ。世界を再構築するために。浄化される者にしてみればそれを行おうとする輩は死神以外の何者でもないが。
……ジョウカ。シニガミのジョウカ。
――大精霊が世界を浄化するために、強い者を海によって創造する。強い者だ。果てしなく強く、果てしなく悪で、果てしなく厭われる者。
ツヨくて、ワルくて、キラわれてしまうモノ。シニガミのオトシゴ。
――もはや言う必要などないかもしれぬが、私の武器は一つ。全てを知っていること。私が知覚した者の過去も未来もすべて見える。そしてその武器によって、私は過去に、大精霊でないにもかかわらず強い者を生み出した者を知った。……狂気を歯車として。
スベテを知るモノの知ったキョウキ。
――それは狂気から発現した禁術。力を欲した穢れし精霊が、自らの子、その間に生まれた子、その間に生まれた子という具合に、自らの子々孫々と交雑を続け、ついに精霊の力を原初に戻す秘術を編み出した。秘術により生まれた子の肉に自らの魂を移し、穢れし精霊は大精霊同等の力を備えたのだ。
ミチを外れすぎたゲドウ。サイテイのカスヤロウ。
――私はこれから浄化を行う。私は大精霊ではない。そう呼ばれ、崇められたこともあったが、所詮はただそう呼ばれているだけだ。しかし、大精霊でなくとも強い者は造れる。ヤナギアカリがその父の種で宿した忌まわしき胎児を核に、無数の人間の命を紡ぎ直すことで造ってみせよう。
ダイセイレイモドキの……神技。
――強き者。憎まれし者。忌まわしき者。これがすなわち、ゴーレムである。
ゴーレム……ゴーレム!!
ビシュンッ!
送電線が火花をまき散らす。
――……大変です!!映像が、映像がお見せできません。ただもう、ひどい……大勢の方が、溺れています。
声が突如アナウンサーのものに切り替わる。
「メトン!」
俺はオオサンショウウオと出会った場所へ走り出す。
ビシュンビシュンッ!!
――私は今、海帰という名の現象である。海で隔てられたこの島国にあって、不安を抱く者の裡にならいついかなる時でも顕在し、そうでない者には裡にも外にも存在しない寄生現象となった。これより母体から放たれた忌子を海で仕立てる。あれがために私はこの舞台を用意した。海を臨むがいい。海の見える所、やがて訪れる世界の終わりはそこから始まる。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
石につまずく。木の根につまずく。何度も転ぶ。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
泥まみれになる。傷口から血が垂れ流れる。でも立ち上がる。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
体で枝をへし折る。蔓をぶち切る。一秒でも早く着きたいと願い、走り続ける。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
全身から湯気を放ちながら、ようやく元いた場所に達する。
「はあ、はあ、はあ……くそっ!」
案の定、メトンはいない。雨は相変わらず激しく、土を容赦なく掘り砕いている。
ゴオオオオオオオオ……
目の前の濁流は一層荒れ狂い、一切合切を押し流している。
「ひどい……」
何もかも流れていく。
土砂、岩、木材、車、家、そして……たくさんの人間。
どの人もみな白目を剥き、口をパクパクさせて浮かんだり沈んだり回転したりしながら下流に向かって容赦なく流されていく。死んではいないけれど、生きていない人々の濁流。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
助けたい。
けれど流れは厳しく、飛び込んだら生きて岸へは上がってこられないだろう。
「くそ……くそったれ!」
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……
「どうしたらいいんだよ!!」
叫びもたちまち濁流と雨に呑み込まれる。無力感が内側から全身を殴る。そのまま足元の土のように、何もかも打ち砕かれ、彫り削られそうになる。
トックン。
もう一度、顔を上げる。
ゴオオオオオオオオオオ……
濁流を流れゆくモノと人。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……
白目を剥き、口を動かし天を仰ぐ生死不明の人たちの中に、
「…………………イオス?」
俺は見つけた。
「イオスッ!!!!!」
たった一人だけ目を瞑り、傷だらけのくせに誰よりも穏やかな顔をして濁流を降るイオスがいた。
ドボンッ!!!
考えるより前だった。俺の体は既に、濁流に飛び込んでいた。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!
氷水の突き刺さる冷たさが巨大な壁となって、全身を押し潰そうとする。
「ゴボゴボッ!」
それでも俺は、手を動かした。全力で。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!
足を動かした。全身を動かした。ありったけの力を出して。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!
迷いなんてなかった。飛び込んだ瞬間は。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!
迷いなんてない。今この瞬間も。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!
何ができるかなんて結局のところ分からない。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!
どうやってメトンを止めていいか分からない。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!
目の前の多くの人たちをどう救っていいかなんて分からない。
「ゴボゴボッ!?イオゥ!!!」
はっきりしているのは、イオスを独りにしたくないという俺の気持ちだけだ。
ドックン。
誰一人信じられず独りぼっちで死ぬところだった俺を救ってくれた精霊を、失いたくない気持ちだけだ。
「イオゥッ!!!!」
激しい闇の流れの中でようやく俺は、精霊の手をつかむ。体温を全く感じられない右手。
「……」
全身全霊で手繰り寄せる。一切の力みを失った精霊の体を抱きしめる。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!
死ぬな。
イオス。死ぬな。
イオス。生きろ。
イオス。イオス。生きろ。
生きて、笑おう。生きるのはこんなに楽しいことなんだって、一緒に笑おう。
だから生きろ。生きろ。生きろ。生きろ。生きろ。生きろ。生きろ。
イオス。生きろ!!
――生きろ、だなんて。キザな奴だね。キミも。
――「一体なぜ、君を愛することになんてなった?馬鹿な話だ。でも、君に近づけないくらいなら、ボクは死ぬ方を選ぶ」。そう言えばいいじゃないか。泥臭く。
――ひょっとすると、それはボクか。ふふ。
――魂の接触。もしもいがみ合う者同士の魂が接触すれば、魂はたちどころに霧散する。これが究極の死。それとは別に、似た者同士の魂が接触できれば、そこには両者の性質を兼ね備えた魂が誕生する。……兄さんはボクを何度も復活させる中でこのことを教えてくれた。教えてくれたから、ボクは君を選び、接触した。……こうなることを兄さんは予見できたはずなのに、なぜか教えてくれた。
――そしてもう一つ、教えてくれたことがある。
――もし仮に、愛し合う者同士の魂を接触させられれば、そこには新しい魂が誕生する。まるで命が誕生するように、接触前とは全く異なる新しい魂が誕生する。兄さんはそのことも、ボクの中に残してくれた。やっぱりなぜ教えてくれたのかは分からないけれど。
――愛し合えるはずのない者同士の、肉の接触ではなく魂の接触。一度袂を分かった種族が元に戻る唯一の方法。“それ”を畏れた力ある者が、種族間に憎しみの心を植え付け、“それ”をさせないようにしてきた。……兄さん情報。
――本題に戻ろう。照れくさいから一度しか言わない。照れくさいけれどすごいことだから、一度だけ言う。
――ボクらは一つになれる。ボクと、キミと、そしてキミの腕の中の精霊も。
――“それ”。やろう。ボクがつなぐ。この土の精霊ボーデが、ノモリガミソーマと風の精霊イオスの魂をつなぐ。
――じゃあね。本当に話せるのはこれで最後。好きだよ。言っちゃった。照れるね。ふふ。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ………………カッ!!!
――知るべし。汝はヒトと風と土の子。すなわち息吹の清霊、ノモリガミ。
「!?」
突然導火線に火がついたかのように、体の芯から全身へ熱が走るのを感じる。
長いこと聞けなかったボーデの声が一瞬幻のように脳裏に響く。その言葉を追おうとした瞬間、目の前が真っ白になった。
ザアアアア――――ッ!!
視界が開ける。くもり空の下、相変わらず雨音が激しい。けれど全身はサラリと乾いている。濡れもしない。
「……」
裸のように、体が軽い。
いや、体なんてないみたいに、体が軽い。
「これがシルフとドワーフの源流の力だったのね」
「?」
俺の体を優しく包み込む真っ白な長い羽衣。絹のような光沢は淡くぼんやりと光っている。そのせいか、何となく温かい。
「イオス?」
今確かにイオスの声が聞こえた。周囲を見るけれど、イオスの姿はない。
「ここよ」
「?」
「風の力そのものになった。精霊となったソーマ様のおかげで」
羽衣から、声がする。
「イオス、なのか?」
羽衣に向かっておそるおそる話しかける。
「ええ。どこに顔があるのか分からないでしょうけれど、一応私よ」
「……よかった」
ホッとする。目元がどうしようもなく熱くなり、思わず涙が流れる。
「泣いてくれるのはうれしいけれど、それどころじゃないわ。足元を見なさい」
「え?……あっ、浮いてる!!」
下を向いて驚く。はるか下を濁流が流れている。道理で脚先に地面を踏む感覚がなかったわけだ。
「メトンは人間の肉を集めている。時間が経てば経つほど向こうは力を増し、こちらにとって不利になる。早く止めに行くわよ」
「止めるってどうやって!?」
「ゴーレムの核になっている忌子を殺すしかない。ヤナギアカリの子に罪はないけれどそれしか方法はない。もしそれでもゴーレムが止まらないなら、行動不能になるまで叩くしかない」
「そんなことでき……わっ!」
羽衣が風をはらんだかのようになびき、たちまち俺の体が空を突っ走り始める。
「できる。私にもう一度命を与えたソーマなら、止められる」
「……」
「ソーマは今、風と土の両方の力を得ている。力に触れながら、知りなさい。あなたにしかできない、あなただけの力の正体を」
ビュオオンッ!!
弾丸のようになって、俺は濁流の下降へとイオスに誘われる。容赦ない雨滴は俺の前に張られた風の薄皮らしきもので弾かれている。やがて潮の匂いが微かに混じるようになる。
ォォォォォォォォォォォ……
そして呻きとも悲鳴ともつかない声が耳に届き始める。
「……ひどい」
海が見える。その海の中に次々と人が飛び込んでいく。雪崩のように押し寄せた人々が海に飛び込み、その上を後から来た人たちが踏み越え、さらに海の中へと進んでいく。人が筏の代わりになり、筏となった人たちはそのまま動かなくなり、波の下の何かに引きずり込まれるかして消え、いまだ筏となっていない人たちはもっと先まで達して筏となっている。逃げ場が分からなくてパニックになっているわけでもなく、ただ海で自殺するのが仕事でもあるかのように、みな急いで海に飛び込んでいく。
ォォォォォォォォォォォ……
「あれが、ゴーレム」
遥か沖に見える、巨大で奇怪な塊。生皮を剥いだクジラのようにも見える。ただクジラは生皮の下に人の顔なんて持っているはずない。クジラの背にあたる部分に、巨大な人間の顔が六つ、等間隔に浮かんで両の目をギョロギョロさせて周囲を睨み、唇の下から歯をのぞかせている。表情はみなバラバラだけれど、どれもこれも生皮を剥いだようなピンク色の体表から夥しい量の血を噴出させている。そのせいでゴーレムが進んで残す軌跡がどす黒い赤で染まっている。
ボ――――ッ!!
そのゴーレムに向かって、軍艦がいくつも突き進んでいる。航空母艦、巡洋艦、駆逐艦……ありとあらゆる国があのゴーレムに向けて攻撃しようとしていることが上空から分かる。
キュオオオオンンッ!!!!
俺の傍を戦闘機が通過していく。
「集まった人の力が、集められたヒトの力に挑もうとしている」
爆撃機、攻撃機、偵察機、哨戒機を次々に見つけながら、イオスの言った言葉をかみしめる。
ザバアアアッ!!
ゴーレムの背中の口が一斉に動く。それを合図に海中から出没し、ゴーレムの周りを取り囲む六本の超巨大な触手。触手の先はそれぞれ動物の頭に見える。手前から反時計回りにコウモリ、モグラ、ゾウ、ヤギ、シカ、そしてライオン。どれもこれも皮膚の上を蛆虫でも這っているかのように体表面の模様がモゾモゾと赤黒く動き、落ち着かない。モザイクの尋常じゃない不気味さ。
さらにゴーレムの背中の口が言葉を伝えるかのように動く。モザイクが一旦停止し、鳥肌が立つかのように、動物頭の触手の表面に小さな穴がいくつも開く。その無数に開いた小さな穴から、黒い点のようなものがぶちまかれたように次々に出てくる。
「!」
点、じゃなかった。何もかもスケールが大きすぎてピントがあっていなかった。近づいてくるにつれてそれが大きな化け物であることを知る。しかもその姿はまるで……
「魔隷。やっぱり簡単には乗り込めないわね!」
羽の生えた魔隷の攻撃をやり過ごしながら、イオスと俺は上空に一旦逃れる。
ズドンズドンズドンズドンッ! シュパアンンッ!!
艦砲射撃。戦闘機のミサイル発射。海と空の人の力が襲来する魔隷目がけて火を吹く。
ボゴオオンッ!!
海面が白く盛り上がる。その後黒い煙が上がる。何だ?潜水艦が撃沈された?海の中にも魔隷がいる?
「水面下で魔隷たちが次々に人を運び集めて本体に肉を供給している。このままじゃ人間側は弾切れよ!」
無数の魔隷に高速で背後から追跡されながらイオスが告げる。
「!」
空母の上の人たちが次々に海に飛び込んでいる。まさか……メトンのせいで。
「人間側の攻撃を止めさせた方がいいわ。そもそも戦いになっていない。これじゃ餌を供給しているだけになっている」
「やめさせるってどうやっ……」
ドクン。
「?」
ドクンッ!
「ボーデ?」
ドクンッ!
「……考えろってことか」
ドクンッ!
「違う。…………行動しろってことか」
ドックン。ドックン。ドックン、
「……」
このままじゃ、ダメだ。
ドックン。
そう、このままじゃダメだ。
ドックン。
俺は、このままじゃダメだ。
ドクン。
今度こそ、逃げたらダメだ。
今度こそ、「何をしていいか分からない」なんてダメだ。
今度こそ、戦わなきゃダメだ。
俺が戦わなきゃダメだ。
ドクン。
名は、野守神颯真。
それは、風と戯れ土を抱く人。
そして、息吹の使徒。
ドックゥ……
俺は……
「止まってくれ」
魔隷の口から飛び出す棘を体が躱す。躱した俺の体目がけて、魔隷の甲殻から泥のような人体が生えて手を伸ばし、捕まえようとする。それすらも俺の体は、羽衣はギリギリで躱す。
「馬鹿言わないで!今止まったら……」
センザンコウのような甲冑の獣が下から羽衣と俺の体を貫こうと空を駆け上る。羽衣に躱されたと知ると頭が破裂し、中から胴体以上に巨大な蜘蛛の頭胸部が飛び出す。八本の肢が現れると同時に各自はその口から地引網で使うようなネットを吐き散らす。ネットが絡み合い、落下してくるよりも早く俺の体は羽衣とともに下へ逃れようとする。けれどその下には空を漂うように浮くシカが待っている。撃ち殺された獣のように項垂れていたくせに、こちらが近づいた途端、身体をメキメキいわせて、頭から、そして目や顔面やわき腹を突き破って無数の角を伸ばし始める。角は縦横無尽に枝分かれをし、凄まじい勢いで上へ上へとのび、ついにネットと合流する。即席で出来上がった大きくておぞましい“鳥かご”の中から出ようとした時には既に、どこから湧いたとも分からない虫達の羽音と黒い雲霞の群れに囲まれていた。
「大丈夫。もう分かったから」
それでもなお俺は、そう、羽衣に告げた。
「!?」
「自分に何ができるのか、分かったから」
俺にできるのはつまり……
シュウウウウウウ……
「魔素が……ヌペリムが……生まれてる?」
羽音が消える。黒い群れが消える。角と粘液の檻が消える。
「こんなこと……これが……」
「できること」
悲しみ、悼む。
「人の死を、獣の死を、命の死を」
誰よりも、悲しみ悼む。
「誤魔化しなく、区別なく、忘却なく」
そうすることで誰よりも、命を強く思い描ける。
「それが、俺のできること」
「……回収という摂理の上を行く、魔素ヌペリムの聖合成!」
羽衣の声がはずむ。
「ようやく、つかんだようね」
魔隷のしつこい追跡が止む。口のあたりを手で覆い、あるいは顔を背け、身をひるがえして逃げるように去っていく。
イオスが逃げ回るのを止めて宙に静止する。
「ああ、つかんだ」
俺の体の表面から金色に光る小さな砂のようなものが上へ上へとゆったり昇っていくのが見え始める。
風と土の力を得る。その意味を体で理解する。
息吹とは、樹の力。ヌペリムを生む命の樹の力。
生態系を支える根幹の力。
数多の命を象るための、祈りの力。
祈りは、悲しみから生まれる。悲しみのないところに、祈りも、希望もない。
「つかんだよ。確かに」
トクン。
「悲しみの歯車の先にある力を」
ザァ――……
空を仰ぐ。目を瞑り、大気を嗅ぐ。
「雨だ」
「?」
「メトンの現象のカラクリはこの雨だ。豪雨による恐怖の心理を利用して、人を操っている。雨を止めてくれ」
「雲を払う。それでいいの?」
「ああ」
「……わかったわ。その後は?」
「あとは大丈夫だ。本当にごめん。無理ばかりさせて」
「……」
「……」
「気づいてたのね。もうじき私の意識もソーマの中に溶け込むことを」
「今さっき、“樹”になってから、お前の心の声に気づいた。だからごめん。そしてありがとう」
「うふ」
「ああ。知ってる。俺も好きだ。お前のこと」
「そんなこと思ってないわ」
「そっか」
花粉のようなヌペリムの黄金粒子を見ながら、白い羽衣をなでる。
「私の言葉はただの風」
「……」
「『一体なぜ、君を愛することになんてなった?馬鹿な話だ。でも、君に近づけないくらいなら、ボクは死ぬ方を選ぶ』……そう思っただけよ」
「ふっ」
俺を包んでいた風の膜が破れる。羽衣から今までにないほどの風が巻き上がる。
「それにしても辛気臭い色の雲。大精霊とは言え、ドワーフはこういうところが雑ね」
ギュオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
「冬晴れの予報は大きく外れ、止まない呪い雨。……けれど覚えておきなさい。“天気予報”はドワーフよりシルフの方が一枚上手」
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……
「呪い雨は所により、嵐となるでしょう。……光を取り戻すために!」
ドボオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
三本の巨大な竜巻がゴーレムの傍で発生する。ゴーレムの目が一斉にそれへ向く。
海面から立ち上がった六本の動物触手たちが竜巻の中心に吹き込む急な風のせいで傾く。触手から飛び立つ魔隷たちも風の柱に呑み込まれていく。
海面が激しく波立ち、戦闘機が風を恐れて次々に離脱していく。戦艦も離れていく。
キイイイイィィィィィ――ッ!!
羽衣が太陽のように輝く。
「はあああああああああああああああああああっ!!」
三本の竜巻が雨雲を吸い込めるだけ吸い込んだ後、ついに、消滅する。
ブシュウウウウウウウウウ……
「……止んだ」
雨が止む。海面が鎮まる。西に傾き始めた太陽が姿を見せる。
ドボアアアアアンッ!!!
水面下に沈んでいた動物触手六本がもう一度浮上する。コウモリ、モグラ、ゾウ、ヤギ、シカ、ライオンはそれぞれ耳が千切れ、鼻が削げ、額が割れて脳が零れ出し、角が目に刺さり、顎がぶち割れている。それらが再び空高く持ち上がり、幾多の魔隷をまた、放ち始める。
「ふう」
羽衣に念じる。前に進みたいと。すると体が前に移動し始める。
「イオス、ありがとう」
移動しつつ、右手を見た後、左手を見る。
シュルシュルシュル……
左手には樹と蔓でできた長弓がある。右手には小さな蕾をつけた一本の矢が生じる。
「憎しみをもって、悲しみに応えようとする者たちへ……」
止まる。弓を引き絞る。弦の上を金色の砂が螺旋に流れる。それは俺の手から始まり、弦を伝い、弓に流れる。弓に収まりきれなくなった光が下に零れ、上に伸びていく。零れつつ枝分かれし、伸び上がりつつ枝分かれする。零れた枝に繁みが生まれ、伸び上がった枝にも繁みが生まれる。
ヒュオオオオオオオ……
羽衣が風を生む。天地の両枝につく金色の葉が瞬時に舞い散る。
「還れ」
同時に、ひき絞った矢を解き放つ。
ヒュオ。……オオオオンンッ!!!!
「そしてまた、巡ってこい」
光る矢の後を葉が追いかける。金色の空間が矢尻の一点目がけて収束していく。
シュタンッ!
俺から一番手前のコウモリ頭の触手に矢が突き刺さる。光が消滅する。
「愛をもって、悲しみに応えようとする者より……」
ドクンッ。
体に感じる力をありったけ込める。
ドクンッ。
「……矢に封じし生よ、汝は明日を愛とする希望の芽。命じる。即ち孵れ」
感じたままのことを、感じたままに表現する。言葉が空気を伝わるように、体の中の力が外へと放射していく。
サァァァァァァ……
矢の突き刺さった箇所からコウモリ触手の色が変じる。触手表面を、這い回る無数のヒルのような茶の粘菌が走る。その上を埃のような黄の粘菌が走る。さらにその上を長くひものように細長い緑の粘菌が複雑に走る。
「すぅ……ふうう……」
粘菌たちの名を知らない。けれどその力を俺は体で知っている。
シュルシュルシュルシュルシュルシュルッ!
触手の血赤が徐々に減る。グロテスクな肉色がたちまち埋もれ、若葉を想起させる新緑に包まれる。それがやがて太く盤石な幹の色に変わる。
サワァァァ……
「……肉を苗床にして育み、互いを食らい、互いと交わる生よ。もはや還せ」
魔隷の大群は動きを止める。そう。止まる。止まって、“それ”を見ている。
サワァァァァァ……
よく見ろ。心がまだ残っていてもいなくても、見ておくんだ。これが今生で最後の“花見”だ。
「去りし前に、在りしうちに咲き乱れよ。……鎮魂花!」
コウモリの触手の先には、羽がなかった。
カッ―――!!!!!!!!!!
今、その触手の先にはたくさんの“羽”がある。枝でできた羽の先には桃色の花びらが幾億と展開し、潮風に揺れて、その花弁を散らしている。
まるで桜のように。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
額に浮かんでは垂れて目に入る汗を拭う。眩暈と頭痛を、頭を左右に小さく振って振り払う。ピンボケした焦点をあわせ、魔隷たちを目でとらえる。
「お前たちはただ……急がず、留まらず、一途に感じろ」
大群の時間が動き出す。我に返った魔隷たちは雲霞のような大群でこっちに押し寄せてくる。
「悲岸の先へ……生まれるごとく、陽の光のごとく、定めの風を送らん」
鎮魂花となったコウモリ触手に、ある限り全ての風を送る。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……!
「花は散る。春の夜の夢のように。けれど命は散らない。獣も花も、誰も彼も。一切は巡るんだ。絶対に」
嵐に遭った桜のように花が強風で舞い散り、その花弁に触れた魔隷が次々に白い光を上げて形を失っていく。命の素へと還元されていく。
「日は沈み、また昇る。お前たちの今日は……」
これで終わりだ。鎮魂花の力で紅里の忌み子もみな還れ。明日はきっと……
ヒュオオオオンッ!!
「!?」
次々に消えていく魔隷と滅びつつある動物頭の触手たちへ、ブースターから火を噴くミサイルが一発飛び込む。
ドゴオオオンンッ!!!
頭が割れているゾウ首の触手にミサイルが直撃する。ゾウが叫ぶように頭と鼻を上に向ける。白い光に還れなかった一部が黒煙と炎を纏いながら海へと落ちていく。
「やめろ。よせ」
ミサイルが飛んできた方に体を向ける。超大量のミサイルがブースターから火を噴いてゴーレムに向かって飛んで行く。
「!」
それだけじゃない。空母が戻ってきている。移動する航空基地の上には艦載機がない。また、発進した?
ドムンドムンドムンッ!!!
俺より高い高度にある五十機以上の爆撃機が崩れつつあるモグラの触手の上に爆弾をまき散らしていく。
ババババババババババババババババババババッ!!!
戦闘攻撃機がハエのように旋回しながら鎮魂花をチェーンガンとミサイルで執拗に攻撃している。
シュボオオオオオオンッ!!
狩りをするシャチの群れみたいに動き回る潜水艦の影から、白く細い線がライオン頭の触手の根元目がけて幾重にも急に伸び、ぶつかり、海面を激しく破裂させる。触手が大きく傾く。魚雷だ。
「やめろ。やめろ」
闇の中で復讐の女神がニヤリと笑う。
精霊の呪いの雨への報復に、目を血走らせた人々が呪いの鉄を見舞う。見舞われた側は鉄によって殺された無念から解放されず、魂は永遠にこの大地を彷徨うことになる。それは時に魔に携わる者に利用され、あるいは魔を司る者に悪用される。結果として鉄を武器とする人々の命を脅かす。応酬は応酬を産むだけだ。このまま続ければ復讐の女神はいつまでも声を立てて笑い続けるだろう。
「やめろ!」
風を起こす。ミサイルを誘爆させる。
シュンシュンシュンッ!!
「!」
対艦ミサイルの一つが俺に向かって爆進してくる。……標的にされたのか。俺も。
「くそ」
怒りがマグマのように込み上げてくる。
ボワンッ!!!
風を操りミサイル周辺の酸素を減らして、ブースターの火を消す。
「どうしてお前らはそうなんだ。自分と違うからって見境も無く」
右手でミサイルに触れる。制御システムの中に粘菌を侵入させ、粘菌で回路を構築する。
「はあ、はあ、はあ、はあ、……お前らなんて」
左手の長弓を太くし、ミサイルを引っかける。風を送り、ブースターを再度点火する。
ゴオオオオオオッ!!
「……」
……。
ダメだ。ダメなことは分かっているはずだ。
これじゃ、復讐の女神は笑っても、姉さんもイオスもボーデも笑わないじゃないか。
シュウゥゥゥ……
ブースターの火を消す。ミサイルをそのまま海に落とす。
「すぅ……ふぅ」
怒るな。
運命にまで神がつきまとうとすれば、それはたぶん、復讐心のせいだ。
運命の女神とは、復讐の女神のことだ。
下らない。そんなものに、振り回されるな。
悲しみに、怒りで応えるな。そんな運命、海の藻屑にしてしまえ。
愛で応える。そのために、死ぬ気で考えろ。
「……」
ゴーレムの核にたどり着くためには触手と魔隷が邪魔だ。それらを消すために鎮魂花をつくった。けれどその鎮魂花は今、人々の攻撃を受けている。このままだと魔隷を十分に消すことができないまま、鎮魂花は倒されてしまう。
「……」
他の触手も鎮魂花にできればそれに越したことはないけれど、余力のない俺にはもう難しい。ゴーレムの核にたどり着くまでにこれ以上の力の消費はなるべく避けたい。一方で人々の攻撃に任せていればゴーレムから生み出される魔隷も触手も破壊されるが、破壊は命を産まない。破壊は破壊でしかないから、犠牲者たちはそのままでいるか下手すれば魔隷のような形で利用されてしまう。それを良しとするわけには、いかない。けれど、けれど……どうしたらいい!?
ザンパルタ……
ゴーレムの方から怨嗟のうめき声とともに、言葉のようなものが響き始める。
チトフレイマ……ファモアスト……プロシマ
人による攻撃によって目が破裂し、鼻が削げ、苦痛にゆがんだ六つの顔の口元が全く同じに動き、そこから音があがる。
ファモコミュリ……ナイルポタスト……
独りの女の声のようでいて、直後にたくさんの男たちが同じ言葉を繰り返して声を追いかけるような、捉えようがなくて不安になる不快な音が海の上をグワングワン響き渡る。
フェイマ……ポタスト
「!?」
ゴーレムの、血まみれクジラの背中。
その背中に、二つのふくらみが生じる。
膨らみは徐々に徐々に大きくなり、まるで女性の乳房のように膨れ上がる。
血赤色の乳房。
ミサイルや弾丸はその膨らみめがけて次々に飛んで行く。けれど触手とは違い、乳房はびくともしない。むしろ成長の速度を加速させている。
ギュシュシュシュッ!!
朽ちかけていた触手たちの先端が溶け出し、変容し、やがて錐のように尖る。触手全体の色も灰色に変わる。無駄な肉が削げていくかのように細くなり、硬くなったように見える。
「何を、する気だ」
背中の乳房はさらに膨れ上がり、赤熱色に変じる。まるで、太陽を閉じ込めたかのように。
「……まさか」
触手の先端の錐の照準は、あきらかに背中で光る乳房に合わせられている。まさか……刺す?
ここに居合わせた全ての人間がそう直感したのか、対艦ミサイル、弾丸、魚雷は乳房への攻撃を止める。今まで効果があったと思われた触手への攻撃へ切り替える。でも、今度はビクともしない。乳房部分と同じで組成が変わっている?
怨嗟の声が一際大きく響いたかと思うと、それと同時に、魔隷たちがゴーレムから散っていく。まるで逃げるかのように。
ドクンッ!!
羽衣で俺は全身を完全につつみ込む。耐熱性粘菌を羽衣の外側に急いで発生させる。
「!?」
隙間から見える!
黒く光る音符のような形の粘菌が白い羽衣を覆い終わるのと同時で、それは起きた。
ゴオオオオオオオオオオオオ……
錐状になった触手たちは一斉に巨大な太陽色の二つの乳房へ突進し、
ドジュンッ!!
貫いた。
カッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「うっ!!」
閉じきったばかりの羽衣の隙間から閃光と灼熱が射しこむ。
防ぎきれないあまりに強い光に視力が麻痺する。
漏れこむあまりに強い熱に体の表面が焦げそうになる。
逃げ場のない空気の急激な熱膨張で体が潰されそうになる。
世界全体が熱と光と圧力に包まれているかのような感覚。あまりにもすさまじい空気の流れで耳の鼓膜が裂けそうになる。ほんの少し息を吸っただけで肺に激烈な痛みが走る。羽衣を覆いきった耐熱性粘菌が瞬く間に燃え尽き、風を司る羽衣すら空気の流れを制御できず、その表面が焦げる臭いがし、燃える音がする。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
目を開ければ、目が焼ける。視細胞は壊れ、視神経は断ち切れる。
瞼を閉じていても目がくらむほど明るい闇の中で必死に羽衣の“補修”に入る。光熱が去るまでの間だけでいい。その間だけでいいから羽衣が耐えられるよう、内側から補修にはいる。ソバのような形状の粘菌を羽衣の内側に大量発生させる。さっきと同じく耐熱性粘菌。束の間でいい。もってくれ!
……。
……。
粘菌の防壁から伝わる熱が、光が、弱まる。
同時に、俺の体は重力を感じ始める。羽衣が、もう持たない。落下が始まったんだ。
粘菌の防壁を崩す。粘菌の壁と壁の間にあったはずの羽衣はもうない。
防壁を構成していた粘菌たちの集合状態を変え、風をはらめるよう、薄く長く引き伸ばす。目を瞑りながら俺は粘菌壁を粘菌パラシュートに直しきり、余った菌で肌を覆う衣を完成させる。
……。
光熱が急速に引く。俺はようやく目を開く。
「……」
原子爆弾を同じ箇所に数十発落としたような光景だった。爆風で吹き飛ばされた海水が徐々に元の場所に戻ってくる。爆心地には、ゴーレムのみ。六本の触手は光熱のせいか既にない。ゴーレムに集っていた艦隊はことごとくひっくり返り、あるいは火を上げて燃えている。狭い空間に閉じ込められた後殺虫スプレーを長時間噴射された蚊柱のように、航空機の残骸は海の上に無数に浮いていた。ギリギリで逃げ始めた魔隷と一緒に。
ズドオンッ!
ゴーレムに浮かぶ、六つの顔。あれだけの超爆発の後なのに、ちゃんとある。
「……」
しかも、その顔は再生している。しているどころか……
「ミズキ…………違う。ヤナギアカネ」
夜凪紅里の顔になっていた。巨大な六つの顔はどれも夜凪紅里のそれになっている。六つとも目を閉じ、瞑想しているかのように穏やかな表情をしている。ゴーレム全体を覆っていた体表の血液色はもはやなく、死者のように青白い。浮かんでいた血管のような、筋繊維のような模様もない。全ては陶器のように青白かった。
グワ。
六つの顔にある瞼と唇が開く。口は当然穴。けれど目も、穴になっていた。眼球がない。
ゾビュビュビュビュ。
合計十八の暗闇から真っ黒の触手が無数に伸び出し、海の下に消えていく。もうゴーレム目がけてミサイルの一発も飛んで行かない。飛ばせる者はみな死に絶えたから。メトンが人工衛星すら破壊したから、遠方からの攻撃もできない。誰も止められない。
「すぅ……ふう」
“樹”である俺一人を除いて。
シュウウウウウウウウ……
大破している艦隊の残骸が徐々に動き始める。動き方を見てすぐに気づく。触手が引きよせているんだと。
「……」
俺は粘菌パラシュートでゆっくりと降下していく。目的地点はもちろん、ゴーレムの上。
そのゴーレムの周りに今、違う形で人の造りしものが寄せ集められていく。航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、上陸用艦艇、小型艦艇、機雷戦用艦艇、支援艦艇、戦闘機、攻撃機、爆撃機、輸送機、偵察機、空中指令機、空中給油機、哨戒機、観測機、対潜機、無人機、救難機……。ありとあらゆる鉄の塊が今、六つの夜凪紅里の口の中へと飲み込まれていく。
「……」
原子力艦まで飲み込んでいる。この時点で、人が下手に攻撃をすれば、大量の放射線がまき散らされる。なおさらもう、人には任せられない。
「……」
何のために鉄の塊をのみ込む?
浄化――。
メトンは確か、そう言っていた。
人の肉を集めたのは、浄化が目的。
これは始まりに過ぎない、みたいなことも言っていた。
……。
……。
「鉄の肉を食むのは今ここで絶対に攻撃されないため……そういういことか」
全てを知っているとかいうメトンは、俺がこの“樹の力”を手に入れることも知っていた。知っていて、この結末を用意した。
「子実体の形成……」
粘菌を俺が操れることも、メトンは承知している。だからあえて、それを真似してみせるつもりだ。最後まで皮肉と絶望を見せつけるつもりだ。運命の女神を気取って。
「粘菌によってあらゆる命を取り込む。……それが、お前の言う浄化か」
俺と同じように粘菌を操り、俺が唯一操る事の出来ない、憎しみだけを核とするゴーレムという粘菌を暴走させて世界をのみ込む……。
ズズズズ……
案の定、ゴーレムの体が、形を失っていく。夜凪紅里の顔も溶けていき、残されたのは超巨大なアメーバ。アメーバの中には集められた艦艇の残骸が浮かんでは沈んでいく。
粘菌は粘菌を食らうことがある。あるいは集合する。集合して、子実体を形成する。粘菌の子、つまり胞子が入った袋を実らせた体だ。子実体はやがて胞子をまき散らし、胞子は発芽し、アメーバ状の姿で移動し、肉を食らい、成長し、やがて他のアメーバと集合し、変形し、子実体をつくる。おそらくこれがメトンの言う、浄化。
一度空気中に放たれた胞子は風に乗り、世界中にまき散らされる。そうすればそこからまた、今この海で起きたようなことが繰り返される。命の貪食。食われた者はゴーレムの肉に染まる。それは魂の髄まで憎しみに染まること。希望を見いだせる悲しみの段階ではなく、既にその先へ突き進んでしまった憎しみにどす黒く染まること。鉄で殺されるよりも遥かに辛い、救いのない、永遠の牢獄。俺を絶望させるための、命の循環を断ち切るための最悪の皮肉。
「!」
浮かんだ艦艇の一つに着地しようとしたその時、浮かんでいる艦艇が整然と並び始める。
「……」
艦艇の列は曲線をなし、上から見ればちょうど螺旋のようになって並ぶ。その螺旋の渦の中心には、伸び上がり、膨れ上がりつつある球体。子実体のようなあの球体の中に、間違いなく核はある。……来いってことか。
「憎しみで世界を埋める。……そんなことは絶対にさせない」
シュタ。
降り立った艦艇は空母。全長は約三四〇メートル。デカさからすると総排水量は九万トン超。その空母の上に、ボチャリボチャリと、アメーバから吐き出された小さなアメーバが落ちてくる。
グウチュッ。グチュチュ。
小さいとは言っても、そのアメーバは公園の砂場にある砂くらいの量だ。それらが瞬く間に形をとる。大きな、人型。
モコ。
形をとり始めたアメーバの体の中から黒い物体が次々に浮上する。アサルトライフル、コンバットナイフ、防弾ベスト、ラップトップコンピューター、アリスパック……。それらが無造作に体の表面にくっついている。……くっつけているだけじゃなくて使えるとすれば、厄介だ。
「……命じる。あるかないかの影の世に曇りなく差し込め。その光の枝を」
右手と左手に力を籠める。それぞれの手のひらに芽生えを感じる。左手の中の芽生えは伸びて指の間を這い出し、分岐しながら腕に絡みつき、やがて腕の前に盾を編み上げる。右手の中の芽生えも伸び、指の間を這い出る。しかし盾とはならない。それはやがて右手から伸びる一本の槍となる。
「まだ、魂まで食まれていないのならきっと」
チャカッ。パパパパパパパパパパパパパパンッ!
アサルトライフルから発射される弾丸を左腕の盾で防ぐ。
「……還れ!そしてまた巡ってこい!!」
右腕を振り上げ、手の中の槍を百八十度旋回させ、逆手に持った槍を全力で投げる。
「これが、生命の樹だ!」
パパパパパパパ、ドスッ!……ファッ!!!
人型アメーバの首に突き刺さった瞬間、アメーバが無数の蛍火のようになって上空へ掻き消える。
「よし!」
汚染されきっていない悲しみ色の命は循環の輪に消えていく。全身の細胞がそれを強く感じる。それはまだ救えると。涙があふれてくる。
ダムッ!
拳で涙をぬぐいながら、既に走り出していた俺はアメーバが消えた後に残っている槍を拾い上げ、別の人型アメーバに突撃する。
軽く見積もって。五百体はいる。
見渡す限り、鉄と交接した人型アメーバの群れ。頭にミサイルをくっつけている奴、甲板の鋼鉄プレートで全身を守る奴、バルカン砲を両手にくっつけている奴、下半身は人みたいなくせに上半身がタクティカルマシンガンになっている奴、サボテンのように体中からたくさんのコンバットナイフの刃を突き出している奴、スキューバダイビング用のボンベだか消火器だか分からない筒をのみ込んでのろのろしている奴……。
ガガガガガガガガガガガンッ!!
重機関銃を持っているデッキクルー姿のアメーバの弾幕をきり抜けながら、槍を旋回させ、刃先でアメーバの肉を斬ろうとする。
ガシンッ!
けれど肉から浮かんだタクティカルベストにぶつかる。敗れたベストの下からフェイスガードが浮かび、再び肉を守る。
そう、鉄を還すことはできない。俺の“樹”は命を還すことはできても、鉄を循環の環に戻すことはできない。
――半ば人の身でよくここまでたどり着いたというべきか。
突進してくるアメーバを縦でぶち上げ、倒れたところで肉の部分に槍の穂先を突き刺した時、メトンの声が空間に響き渡る。
チュゴンッ。ドバアンッ!!
「くっ!」
近くにいたアメーバもろとも、火の海に俺は巻き込まれる。離れたところで匍匐するアメーバ数匹の背中に、グレネードランチャーが見える。
「うおおおおおおっ!」
盾をぶん投げる。蒔いておいた好風性粘菌が樹の盾を白く覆う。
ギュイイイインッ!!
回転式のこぎりとなった盾がグレネードランチャーたちを光に還している間に、俺は槍を使いひたすらアメーバに刺突と斬撃をくり返す。
――限無とは言わぬが、億千の命脈を縫い合わせてお前の相手としよう。
当たり所が悪ければ鉄に跳ね返され、うまく当たれば肉を光に還す。その繰り返し。繰り返すしか、遥か先の中央の渦へはたどり着けない!
――これから起こること、起こすことをお前は知っているはず。憎悪の渦の中、行けるなら行け。魂核までたどり着ければ歴史はここから始まる。
ドシュンッ!!
空母甲板真ん中で、何度か味わったことのある激痛を腹部に感じる。ライフル!
「くそっ!」
ジェット機の噴射から身を守るディフレクターの壁に隠れながら周囲を窺う。狙撃手はどこだ!?……そこか!
ブオンッ!!
艦橋の窓にへばりつくアメーバ。下半身は噛んだ後吐いて捨てられたガムみたいなくせに上半身は人型でおまけに士官服まで着て左手にはスナイパーライフルを持っている。それ目がけて槍を投げる。艦橋で光が上がるのを横目で確認しつつ、体の傷の補修を粘菌に任せながら、さっき投げて戻って来た盾を回収する。ナイフで被われたアメーバのタックルをかわし、盾を覆う粘菌を散らし、樹を瞬時に解す。解すと同時に放射状に枝を突きのばさせ、周囲十メートルにいたアメーバたちを刺し、還す。
シュルルルルンッ!!
即、枝を巻き戻し、二本の片刃剣に変える。足を止めるわけにはいかない。止めれば鉄の餌食になる。
――然り。たどり着けねば、歴史はここで終わる。絶対憎悪的終焉である。
ゴバアアアンッ!!!
より大きなアメーバたちが艦艇を包む肉の海から吐き出され、甲板に落ち、形を取り始める。
「ヴォオオオオオオッ!!!」
ゾウほどの大きさのあるライオンが突進しながら体の表面に鉄を浮かばせる。ヘリコプターの後ろに隠れるも、ヘリは直後にライオンに食われる。
バキバキッ!!
食ったヘリの残骸が体に浮かぶ。俺を薙ぎ払おうとする前脚にプロペラが生え、そのまま俺を薙ぎ払う。
ゴオンッ!!
危なかった。薙ぎ払おうとする前に放った右手の剣がギリギリでライオンの後足を掠り、迫りくる前脚を含めて全身が光に還った。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
汗を手でぬぐい、走り出す。
キュキュンッ!パパパパパパパパパンッ!!!
前方からは銃弾の雨。
ドドドッ! ドドドッ!! ドドドッ!!!
後ろからはすさまじい地響き。振り返れば全身を鋼鉄で覆った軍用犬が走ってくる。近づいてくるにつれて、そのサイズがやはり桁はずれだと気づく。さっきのライオンと同じサイズだ!
「はあ、はあ、はあ、はあ!」
ボーデやイオスの力を受け継いで、脚の速さは今までの比じゃない。風のように速く走れる。獣のように高く飛べる。目も鼻もよく利く。なのに、アメーバたちの身体能力はそれ以上で、容赦がない。このままじゃ、追いつかれる!……?
ドゴシュンッ!!
黒い隕石のようなものが一つ、その時空から降って来た。隕石は甲板を爆走する軍用犬にぶつかるか否かの距離で竜巻のように急旋回し、そのまま……
「ヴォアアアアッ!!?」
軍用犬の表面を覆うプレートを大きく砕き、巨体を横殴りの状態で吹き飛ばした。
グルルルルルルルル……
「……」
唾を飲み込む。
上から見た土蜘蛛のシルエットを象ったような飾りのついた兜。
それにボディーを守る胴、脇楯、袖、草摺。
腕を守る籠手と、脚を守る臑当……つまりは大鎧。源平時代の鎧を纏う一人の武者。
アメーバたちのように転がっている鉄くずで体を覆っただけにしては、異常に精巧にできている。しかも、黒色の鎧の細かい箇所には、金箔を張った様な鈍く落ち着いた黄金色がうかがえる。……アメーバの仲間、なのか?
身長は、俺と大差ない。
カチチ。
「あ……」
大差ない、けれどその右手には、
ガッチョン。キシィィ……カッチョン。カチカチカチ……。
「……エムエイコーレフ」
いつの日か、美術館でイオスをぶった切ろうとして作ったあの量子の剣があった。
グルルルルルル……
獣のような唸り声をあげるより武者の右手には、その体長をはるかに上回る超巨大の両刃刀が握られていた。
キシイイィ。カッチャンッ。
音でわかる。内部まで精巧に真似してある。……剣のグリップ内部と手の中の歯車のかみ合わせは、あっていない。……いや、そういう問題じゃない。
「誰だ、お前……」
顔は分からない。首と顔の下半分は恫喝する男の表情をした頬当で隠されている。目元は兜のせいで黒い。
「ゴアアアアアッ!!」
とはいっても名前を尋ねている暇なんてそもそもない。直立二足歩行をする巨大な甲冑トカゲが四方八方からやってくる。倒れていた軍用犬が露出している肉に金属を浮かばせつつ、立ち上がりつつある。
ジャキッ!
鎧武者が右腕を伸ばし、剣先をこっちに向ける。……この武者もまた、俺が還すべき存在ということか。
ジャキンッ。
「?」
鎧武者はけれどすぐに肩を回し、剣先を、渦の中心部に向ける。
「……」
グルルルルル……
唸り声は瞬時に消え、消えたと思った瞬間、隣で立ち上がったばかりの軍用犬の首を刎ねた。
ドゴンッ!!
竜巻は止まらない。軍用犬の首が落ち、落ちた個所から再度首が生える間に鎧武者は集まった恐竜たちを相手に次々に剣を振り回す。獣を装うアメーバたちの鉄の鎧をはぎ、脚を削ぎ、首をへし折り、背腹を裂く。
ドスンドスンンンッ……
瞬く間に恐竜たちは倒れる。
グルルルルルルルル……
鎧武者は兜の下の赤く光る眼をこちらに向けている。その光る眼と俺との間は再び立ち上がろうとする恐竜たちで遮られる。既に立ち上がった軍用犬が鎧武者をかみ殺そうと大顎を開く。鎧武者は中に犬の中に飲み込まれたけれど、すぐに腹を突き破って出て来る。
……。
……そういうことか。
「すまない。気づくのに遅れて」
俺は剣を握りなおす。もう一度力を込める。あんな太い剣はもう振る自信がない。
シュルシュルシュルシュルシュルシュルシュルシュル…………。
それに、俺にはもう、あんな剣は必要ない。
「“鎧”は、お前に任せる。俺は、“肉”を斬る」
俺の剣は、還すものだから。
シュパアア――ンッ!! カカッ!!!
手にした鞭で再生が終わっていない恐竜たちの首をたたく。一斉に光へと還っていく。
「行こう。俺の影」
鎧武者にもう一度攻撃を試みようとする軍用犬を引っぱたき、光に還した後、俺は告げる。
グルルルルルル……
鎧武者はうなずくことも左右に首を振ることもせず、背中を見せて、走り出す。俺も後に続く。
バッバッバッバッ!!ドゴオオンッ!ズドズドオンッッ!!キュボッ!パパパンッ!
汎用機関銃、拳銃、グレネードランチャー、ショットガン、アンチマテリアルライフル、ロケットランチャー。それらで武装したアメーバたちの弾雨を鎧武者の剣はことごとくはじき返す。
ブオオンッ!!
剣を旋回させるだけで風は壁のようになって彼らを圧倒し、なぎ倒す。けれど致命傷にはならない。武器が飛ばされても、鎧がはぎ取られても、それらは足元から無限に供給される。時間が経てば元に戻るか、さらに厚い武装に覆われる。
シュパンッ! カッ!!
だからそうなる前に俺が叩く。アメーバに触れることができればいい。肉の海から千切れ、孤独の恐怖から武装し立ち向かってくるアメーバの肉に触れることさえできれば、俺の樹は浄化してあげられる。
グルルルルルルルッ!!
武装したヒト型のアメーバも、膨大な装甲を重ねた動物も、それは変わらない。走りつつ鎧武者が巨剣でその装甲を剥ぎ取り、露出した肉めがけて俺が鞭を打ち込む。
道は、開けた!!
「うおおおおおおおおっ!」
走る。とにかく走る。走って、隙を見つけては鞭を放つ。
前後左右上下からアメーバたちは様々な姿をとって襲い掛かってくる。
それだけじゃない。
ズドオオンッ!! ドドドドドドドドオオンッ!!
他の艦の一二・七センチ対空砲、四〇ミリ機関砲、二五ミリ機関砲まで火を噴き、俺たちの走り抜けようとする戦艦そのものを破壊しようとする。立ち去った艦は打ち込まれた多量の砲弾のせいで次々に炎上し、黒煙を上げ、肉の海に呑み込まれていく。そして未だ沈んでいない、けれど徐々に沈下していく艦の上を俺は鞭を握りしめて疾走していく。
「うっ!?」
突如視界が半分途切れる。砲弾の破片らしきものが左目を貫いたらしい。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
左目から破片を抜き取り、血を拭いながら休むことなく走り続ける。こんなことくらいで止まるわけにはいかない!
ゴシュンッ! ズヴァンッ!!
パパパパパパンッ! カラカランッ。 ドオオオオンッ!!!
酸素が足りない。脳が悲鳴を上げる。心臓が破れるほど苛烈な戦い。その救いは……
シュパンッ! カッ! シュパパパンッ! カカカッ!!!
走り、戦えば戦うほど、中心の核へと近づいていること。
「ヴォアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
あるいはそう……。
グルルルルルルルル……
敵か味方は知れないけれど、少なくとも今この瞬間、瞬間だけは、背中を任せられる誰かがいること。
ドゴドゴドゴンッ!!! シュパァ――ンッ! カッ!
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
走った。走れるだけ走った。
グルルルルルルルルル……
艦艇と艦艇の間を飛び越え、飛び越えて、走りに走った。
「……くそ」
「……」
あと少しで中心部に至るところで、足場がなくなった。中心の子実体と今立っている空母の端との間には三百メートル近く距離がある。いくら俺でも、風の精霊じゃないから艦一つ分に相当するこの距離は跳べない。いや、そもそも肉の海の上は空気が澱みすぎていて、風を操れない。羽衣が無事だったとしてもたぶん無理だ。
――この世の中で完全なるものとは何か。それは憎しみである。これのみが、自己補完できる。憎しみを除き、あらゆるものは何かに依存しなくては存在しえない。愛はどうだ?喜びはどうだ?命はどうだ?すべて他者の存在なくしては成立しえない。故に不完全。不完全ゆえに皆が欲しがり、その行為の結果、世界は醜く歪んでしまう。
メトンの寂しげな声が肉の海から響く。今までよりずっと深く、暗く、強く。
――ならば世界は最初から憎しみで満たしてしまえばよい。それは無と変わらない。均一な虚無である。憎しみに彼我も明暗も天地もない。故に世界は揺らぎをとめる。
肉の海が、荒れ始める。沸騰するように泡立つだけだったのが、強烈な血の臭いを放ちながら波うち、激しく対流を起こし始める。自分たちの立つ、唯一砲弾で沈んでいない艦の足元が、今までにないくらい激しく揺れる。
――理解できぬか。ならば絶望せよ。絶望は悲しみよりも容易く憎しみに変わる。そのお前すら取り込み、我が子は完全なる憎悪の結晶となろう。
中心部の球体の前の肉の海が特に激しく泡立ち、せり上がっていく。せり上がった巨大な肉塊は周囲を取り囲む艦艇の残骸に飛び込むことなく、むしろ近くの鉄くずを排除していく。俺と鎧武者の立っている艦も少しずつ中心部から離されていく。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ……
「……」
かつて子どものころ、絵本で見た怖い昔話の中に、海坊主というのがあった。夜の海に浮かぶ、巨大な何かの幻影。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ……
絵本のように、その膨張したアメーバの塊の上部には、グリグリした目玉が二つあった。今までのアメーバとは様子が違う。奴らは目玉なんてもっていなかった。
モコッ。 ボコココッ。
ある個所では肉が急速に盛り上がり、ある個所では勢いよく削げていく。
ズビュビュビュビュルル。ギュキュキュンッ。
「……巨人」
やはり人型をアメーバはとった。巨人は徐々にスタイルを確定し、そしてうねる肉の海の上で変異を終える。
「……」
鉄で覆われた箇所は一カ所もなかった。それどころか、ピンクは薄まり、どちらかと言えば白く、きめ細かな肌に見えた。
グルルルルルルル……
グリグリした目玉はいつの間にか顔面を構成する肉に収まっていた。その瞳は緑。
「……」
――これが切り札。忌み子の懐に宿る、最も強い憎しみ。絶望の象徴。それを象った。
髪は、青みがかっていた。ストレートロング。
好きだった泣きホクロ。右目元の小さな黒い点。
あまり運動神経はよくなさそうだった。女の子らしい普通の体形。いや、たぶん胸は標準より少し大きめ。
――それは忌み子の中で誰よりもお前を望み、誰よりもお前を恨みながら逝った者。そして忌み子の中で誰よりも憎まれた者。
「……ミズキ」
巨人は、夜凪水希を象った。サイズ以外、本人と何もかもそっくりだった。
ズウウウウンッ!!
その水希がしゃがむ。艦は一瞬大きく傾いたけれど、直後、軋む音を上げてゆっくりと持ち上がり始める。
「ミズキ!!」
戦艦の前端と後端の下に両手を入れた水希が艦を持ち上げる。持ち上げた拍子に艦全体が一瞬横倒しになり、航空機をけん引するトラクターやクレーン、消防車、戦闘機が肉の海へと一斉に転げ落ちていく。俺は鞭を手すりに巻き付け、鎧武者は剣を地面に突き刺して落下を免れる。
ググググググググ……
水希は艦を持って立ち上がる。立ち上がる間にさらに多くの戦闘機が肉の海へと落ち、艦の鉄の軋む音がいよいよ激しくなる。
ダムンッ!
鎧武者が剣から手を離し、艦に固定されている機関砲に飛び込む。
ガコン。
一瞬で標準を水希に合わせ、ズドオンッという轟音と共に砲弾を発射する。間髪入れずにもう一発。
ズドオオンッ!!
二発の砲弾は水希の両目に大穴をあける。すると水希の額の真ん中が割れる。そこに目玉が生じる。普通なら白い周辺部分は黒く、中心の水晶体がサファイアのように青く輝く不吉な眼球。
「!」
鎧武者が機関砲を捨てて戻ってくる。
キィィィィィィ……
第三の目の前に、閃く赤光が渦を巻いて集まり始める。周囲を包み込む急激な熱さ。大気の異常な揺らぎ。艦の手すりの鉄が炙れ始める。熱線?レーザー!?
「先ニ行ッテ待ッテイル」
「!?」
エムエイコーレフのグリップを再び掴んだ鎧武者がそう、確かにそう言った。先に行く?逝く?待つって、どこで?死ぬということか?
「何言って……」
言い終る前にハッと気づく。気づいたのはそう、
カチャンッ。カチチチチチチチチチチイイイイイイイイイ―――ッ!!
聞いてはならぬ歯車のかみ合う音を聞いた瞬間だった。こいつ、まさか。
ダンッ!
グリップの握り方を改めた鎧武者が引き抜いたエムエイコーレフと共に艦から消える。気づけば、巨人の首に向かって跳ぶ剣士の姿があった。
グニャリ。
空間が歪み始める。そう、量子剣がその威力を発動する深刻な予兆。
ピ。
剣が巨人である水希の鎖骨の合わせ目、首の付け根に突き刺さった瞬間、巨人も鎧武者も一瞬にして消える。違う世界へ、消えた。テレポーテーション。多世界解釈。
ぶわ。
艦を持ち上げていた巨人が消える。つまりは艦の空中落下が始まる。全身を落下の寒気が襲う。衝撃に備えないと!
ピ。
え?
走馬灯を見るように、時はゆっくり流れる。その時の流れの中に、水希の消失した空中に、点をみた。
●
宙に表れた黒い点。ほくろ?なんでホクロ?
――なるほど……。
ギュオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
「!?」
違う!そうだ、空間の破裂点!事象の地平面!!ブラックホール!!!
――格は同じと思っていたが……。
「うわあっ!」
黒い点の中心へ吹き込む強烈な風。風なのかどうかすら分からない。巨大で抗うことのできない何かの流れに艦も肉の海も中央の核も飲み込まれていく。当然俺も……
――やはり私もまた、駒の一つに過ぎないか。…………運命の女神め……。