夢雫6
黒夢三、 泥の温み
「ここは?」
闇の中で、弦の音が聞こえる。
「どこでもないわ。だから暗くて、明るくて、静かで、騒々しくて、暖かくて、寒いの」
姉さんの好きだったバイオリン曲。
「そう、なんだ」
確か、「シャコンヌ」。
「……」
「……」
「ごめんね、ソウちゃん」
「……気にしないで」
バッハの、「シャコンヌ」。
「お姉ちゃんのこと、嫌い?」
「……嫌い」
無伴奏バイオリン。
「そうよね」
「……そんなはず、ないじゃないか」
パルティータ第二番の「シャコンヌ」。
「へ?」
「お姉ちゃんを嫌う理由なんて、ない」
「……」
「ボクは……お姉ちゃんにひどいことをした」
「……」
「……」
「全部私のせいよ」
「そんなことない!お姉ちゃんが悪いわけないじゃないか。あんな乗り物を、造った奴が悪いんだ。あんな乗り物、動かしている奴が悪いんだ。ボクがトモヒロの、友達の家から早く帰れば、お姉ちゃんはエレベーターに乗って迎えに来る必要なんてなかったんだ……」
「……」
「ボクは…………俺は、憎い。何もかも憎い。自分も含めて、何もかも嫌いだ」
「……」
「俺は姉さんを死なせた。だから俺は俺が嫌いだ。俺はヤナギミズキを死なせた。だから俺は俺が嫌いだ」
「だからって、自分を死なせないで」
「最初から最後まで、俺は誰かを憎んでいないと動けなかったんだ。もたなかったんだ。……そして俺の中の憎しみに、別の憎しみが共鳴した」
「それは、誰かを救う力になるの?」
「なるわけ、ないだろ……救うつもりなんてない。もう、救いたい人なんていない」
「いるわ。ソウちゃん」
「……」
「たくさんいるわ。ソウちゃんがいるわ」
「……」
「誰かを呪った先にある力は、歪で、最後は自分を破滅に追い込む」
「それで構わない。俺は一本の刀でいい。最後は折れて構わない」
「ソウちゃんを想って死んだ私たちは、また、ソウちゃんの中で死ぬことになる」
「……」
「ソウちゃん。もう、私たちの時間を止めないで。私も、ミズキさんも、ソウちゃんの中で生きたいの」
「……」
「ソウちゃんがソウちゃんを殺したら、私はソウちゃんを許さない」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「……呪いの反対は、何?」
「え?」
――クソッ!力ガ奪ワレル!コノママジャ負ケル!コノママジャ無駄ニ壊レル!
「聞こえる?」
「……ああ」
「教えてあげて。このコにも。ソウちゃんと同じ、寂しがり屋のこのコにも」
……。
「恨みの、憎しみの、呪いの対極に位置するものは何かを」
哀婉の弦の響きが、遠くなる……。
「……」
エレベーターは下降を続けている。早すぎず、遅すぎない速度で。
「……」
たぶん、現実じゃない。現実なら、こんな狭いエレベーターに俺は耐えられない。
狭い――。
狭いところは苦手だ。……姉さんの記憶がそうさせるから、か。
「……」
エレベーターの中に俺はいて、しかも扉の傍で、扉に顔を向けて立っている。
「……」
ガラスに映り込む自分の顔。そしてその後ろに立つ、血色の悪いスウェットの女。疲れ切っているのか、目を細め、乾いた唇をわずかに開けたまま、天上の蛍光灯の方を見るともなく見ている。
「……」
背後に森の匂い、落葉の匂いを感じ、目を瞑り、目を開き、そして振り返る。女はもういない。
「……」
足元に、いた。どっかりと腰を下ろし、うなだれている。透き通った川面に体を近づけた時のような、ひんやりとした空気がたちこめていた。
「うかつだったよ」
女はぼそりと言う。小さな声だったけれど、俺たちのいるエレベーターも小さいから、声はしっかりと俺の耳に届いた。女は確かに「うかつだった」と言った。
「何が?」
「君を……」
そこまで言って、女は黙る。言っても無駄だと思ったのか、何を言葉にしたらいいか迷っているのか、うなだれたまま首を左右に振るだけで、何も続けない。ただ影が深くなっただけだった。
「……タマ」
小さな闇に、声をかける。
「ボーデ」
「それが、お前の名前?」
「エンド・ハルギルノ・ボーデ・ニアレボシュ」
基礎的な機械音に包まれるエレベーターの中に、耳慣れない言葉が反響する。
「あと、少しだったんだ。あと少しで、あのシルフの悪姫を壊せた。けれど君の強烈な弱点を勘定に入れていなかった。君の特異な強さに目がくらんでいた。あと少しのところで……ボクの誤算だった」
「……殺したかったのか、イオスを」
「ああ」
「死神に、何もかも奪われたから?」
「……見たんだね」
首はこちらに上げず、俺の足に向かってスウェットは言う。
「?」
「……あるいはボクがいるせいで、ボクの知らない部分が見せちゃったのか、な」
エレベーターは下降を続ける。どこのマンションのエレベーターだろう。いったいどこまで落ちるんだろう。
「もう終わりだよ」
「……」
「ボクはもう、消える。君の中にいても、仕方がないから」
「……そうか」
「君も消える」
「……そうか」
「すぐ、じゃない」
「?」
「けれどまもなく、だ」
どういう意味だ?
「君を消すのはイオスじゃない。イオスとは別の存在が、君を消す。君だけじゃない。この世の一切を消そうとしている」
「……」
「聞かないの?誰かと」
「もう、どうだっていい。俺には」
ボーデから見て右側の壁に寄り掛かる。開けていた目を閉じる。
「イオスが犯人じゃないってわかっただけで、それでいい。もう、疑って生きるのはうんざりだ」
「……」
「このエレベーターは地獄に向かっているのか?」
「そうだとしたら?」
「償いきれないほど悪いことをしたから、正直ホッとしてる」
「……」
「地獄でも奈落でも構わない。償えるならどこでも構わない。奪うのはもう、やめたい。行動するのは、与えるためだけにしたい。恨んだり妬んだりするのは一切抜きにして、ただそれだけのために動きたい。たとえ生まれ変わることがあっても、それは変えたくない」
「無理だよ」
言われて、目を開く。座っていたはずのボーデが、俺の至近距離に立っている。どこかくすんだ感じの瞳が俺の顔を映す。
「!」
膝の力が突如抜ける。俺はエレベーターの床に膝をつく。その瞬間、俺の頬に冷たい白い手が添えられる。
「万物を支配するのは復讐の女神。これは変わらない。ゆえにボクたちの性も運命も変わらない。憎悪と悲しみこそ世界を動かす巨大な歯車なの。生きても死んでも生まれ変わっても死に変わってもそれは変わらない。怨みこそ全て」
互いの顔がぶつかりそうになるくらいボーデは俺に顔を近づけて、そう言った。彼女の体からは、森の奥の苔むした石を思わせる淋しい香りがした。
「そんな世界で命をやり直す意味なんて、あると思う?」
吐く息が白くなる。天上に氷柱ができる。壁が凍りつき、エレベーターの窓が曇る。
「……」
「やっと死ねるのに」
「少なくとも俺は」
冷たい手の甲に、手を添える。
「ボーデのために、生きたい」
「なぜ?」
見開いた大きな目に膝をついた俺の姿がはっきりと映り込む。
「ボーデも俺も、一人ぼっちだから」
喉まで凍りそうな冷気の中に、言葉を俺は落とした。
「そう。孤独。ボクも君も。そしてそれしか女神に対抗することなんてできない」
氷柱が一本俺とボーデの傍に落ちて、砕ける。氷の細かな破片がボーデの顔にピシャリと当たる。そして俺の顔にも手にも。
「孤独が生きる術を教える。孤独が命を鍛える。孤独がすべてを凌駕する。孤独こそ最も……!?」
驚いたボーデの髪が、風にもつれ合いながら踊るススキのように揺れる。冷気が一気に引く。
「……」
膝をついたまま捕まえた唇には、土の中と一緒で、優しくて甘い何かがあった。
「……」
奪った唇から、俺はそっと遠ざかる。
「黙った方が、ボーデの声がよく聞こえた。お前の中のお前は無理なんて言ってない」
「……」
再びうつむき、床に膝をつき、肩を震わせるボーデを固く抱きしめる。
「憎しみは歯車じゃない。かみ合わせるな」
氷柱が落ちて、消えた。
「悲しみは発条じゃない。巻くな」
床を覆う霜が、消えた。
「怒りは潤滑油じゃない。注ぐな」
土の、苔の、草の匂いが、ゆっくりと甦る。
「そんな装置つくるな。つくったならもう、虚しく空回りさせておけよ。……俺たちは、誰かを許して誰かのために前に進むことだってできるはずなんだ」
「……」
「生まれ変わりもう一度生きられるならその時を、涙のためじゃなくて、笑顔のために使おう。憎しみはそれできっと、ただの過去になる。創るなら、今度は絶対に誰も泣かせない装置を創ろう。それはお前も俺も必ず幸せにしてくれる」
「……」
「俺もお前も、装置だ。みんなただの歯車の塊かもしれない。だけどだからこそ、かみ合わせれば大きな力になる。正しくかみ合わせれば、世界を動かす大きな力になる。正しくかみ合わせれば、幸せを生む確かな力になれる」
「そんなの……嘘」
俺の胸の中でそうつぶやいたボーデから、嗚咽が響く。
「嘘じゃない。不揃いでも、歯が欠けていても、正しくさえ噛み合わせれば、みんな、みんなで幸せになれる。人生は一度きりで十分だと思えるほどに」
落涙しているのかどうか、砂を湿らせる雨の繊細な匂いがエレベーターの中を包んだ。
キーン。
「!」
あまりに長く抱き合っていたせいで、最初からこの状態だったんじゃないかと錯覚するほど長い時間が経ったころ、エレベーターが止まった。
「地獄?」
「そんな浅いところじゃない」
「じゃあ、どこ?」
「君の最深部。史段多胞核。」
「シダンタホウカク?」
「この構造物はそもそも君の魂魄。その中の、中枢に来たんだ、今」
「あのシルフが使用した切り札ヌアメシュリは魂を奥深くまで傷つける必殺の精神兵器。あれを喰らってケロリとしていられるのは石っころのような無機物だけ。代謝を行うナマモノの場合、大規模な修繕が必要なの」
「……」
「ボクとの接触の衝撃によって一部分離した魂が今の君。魂魄を惑星に例えるなら、今の君は地球の周りをまわる月。サテライト。けれど大部分はココ。地球はボロボロに壊れているということ。惑星が壊されて普通ならそのまま死ぬはずだけど、サテライトがあるから、それを修復した地球にドッキングさせれば、治せないことはない。荒療治だけど」
「……」
「治したい?」
「……うん」
「何のために?」
「進みたいから」
「どこへ?」
「立ち止まって、ようやく気づいた場所」
「それはどこ?」
「憎しみの先」
「……」
エレベーターの“開”のボタンをボーデが押す。扉が開く。真っ暗な闇。ボーデが下りようとするので自分もついていこうとするけれど、ボーデが止める。
「君は上。ボクが合図したら稼働させる」
「稼働させるって……」
「“君自身”に決まってるだろ」
鼻を鳴らし、ボーデは手を振る。扉が閉まる。
「あっ、と」
扉が閉まる直前、こっちの反対側からボーデの手が挟まれる。扉が驚いたように再び開く。
「君はこの悲劇の主役だ。誰から始まったのか、正確には知らないけれど、最後は結局、君に行き着く」
体を前かがみにしたまま、ボーデは言う。波紋のような微笑を浮かべて。
「え……?」
「じゃあ、さよなら。カワラケを追うんだ。イオスを集中攻撃している例の、魔隷の変異種のこと」
今度こそ、扉が閉まる。土の匂いも、森の匂いも、水の匂いも一気に薄まる。
君に会えてよかった――。
エレベーターが上昇しボーデの姿が見えなくなる直前、優しい眼差しの彼女の口が動くのを見た。
「……」
心なしか、登りのエレベーターは下りよりも早い気がした。
「姉さん……」
答えは……許すこと。それで、良かったのか。