夢雫5
白夢三、 マリグラヌール
さて、これからまた一つ、命の話をしましょう。
その命には、土の香りがしました。何せドワーフの幼子ですから。土の精霊の加護のもとに生まれている者には、きっと土の香りがします。苔の、土の、石の、水の野趣多き自然の香り。
そのドワーフの子が生まれた村は、少なくともその幼子の曽祖父の代までは長閑で平和でした。辺境の地にある、同じドワーフでさえも知っている者の少ない小さな石のような村でしたから、そんなこともあるのです。
けれど、その小さな、世の中から忘れられたかのような閑村にも、やがて軍靴の音が響くようになりました。幼子の両親の代には、その村の若者たちもどんどん兵隊となって村を去って行くようになっていました。
前にもお話したかもしれませんが、ドワーフには、ドワーフを虐げる種族がいます。風の香りのする、シルフという命の集団です。
この、シルフ達とドワーフ達との戦いが激しさを増したせいで、その幼子のいる村からさえ若い命が徴収されるようになったというわけです。余談ですが、シルフ達の大規模な攻撃によって、まとまりのないドワーフ達の中に団結しようという意思が徐々に芽生えます。皮肉ですね、おびただしい血が流れることで、生命としての本能を取り戻すなんて。
さて。
幼子が生まれる村に残されていたのは、女や年寄りばかりでした。そしてその渦中に、その幼子は生を受けたのです。父親は兵隊としてかつて前線で果敢に戦っていましたが、大きなけがを負ったために故郷である村に帰されていました。立ち上がるのがやっと、そんな状態の負傷兵を軍隊が養う余裕は、この星のこの時代には、生憎とありません。ですから幼子の父親は、兵隊たちの捨て石にすらなれず、ただ村にいるのでした。
幼子の名は、ボーデと言いました。“涙にぬれた土の温み”というドワーフ伝承の古語から取られたものです。その名には両親の愛が込められていました。
ボーデが星に生を受けて、その星が自らも燃える星を八回ほど回った頃、つまり八年が経った頃でしょうか。元気の良い活発な少女は、同じ時期に生まれた、あるいはもうじき兵隊としてとられるであろう少年らと共に森の中を駆け回り、大地の恵みの果実を口にしたり、陽気な歌を歌ったりしていました。いつものことです。
けれど、いつものことではない出来事が、この日、起こりました。
傷だらけのドワーフの兵隊の一群が、疲れ切った様子で森の中を進んでいました。ボーデたちはその様子を、森の奥深くから息を殺してみていました。兵隊の数は全部で十四人。
「あ」
ボーデたちは兵隊の中に、シルフが二人混じっているのを目撃しました。シルフの首には首輪がかけられ、やはり兵隊たち同様に傷だらけでした。血のにじむ首輪から伸びる鎖はドワーフの兵に握られていましたが、そうでなければどちらが戦いに勝ったのかよく分からないほど、みな傷を負っている風でした。
ボーデは、シルフの姿を話で聞いたことしかなかったので、さっきまでともに駆けまわっていた年長のドワーフの子に「あれがシルフだ」と教えられた時は、驚きと興奮で他のことなど何も考えられなくなってしまいました。
やがて年長のドワーフの子たちと一緒に、ボーデは森の中にある村へと急いで戻っていきました。そしてたった今目撃したことを周囲の人々にまくしたてるように話して聞かせました。
話を聞いたドワーフたちは当初、半信半疑でしたが、やがて「きっと、シルフを捕虜にした兵隊たちがドワーフのお偉方まで捕虜を連れていくのだ」と解釈しました。
「ならばせっかくのお手柄、労をねぎらわないわけにはいくまい」
村の長老が中心となり、おそらく村を見つけて通過するであろうドワーフの兵隊たちのために食事と休息所を用意することが決まりました。
「失礼する。ここは何と言う集落でしょうか」
やがて、例の兵隊たちがやってきました。その一人、兵隊長らしき人物が慇懃な態度で村人に対して話しかけてきました。もちろん言葉はドワーフの言葉でした。少々訛りがひどく、村人にしてみれば聞き分けるのが困難でしたが、どうにか理解することはできました。
村人たちは、自分たちの村の名前を教え、自分たちがどこの誰に年貢を納めているか、つまり支配者が誰かをきちんと伝えました。さらに「誉れあるあなたがたのために今食事を用意していますので、お休みになっていて下さい」と告げました。
「ありがとうございます」
何度か辞退を申し出たものの、村の長老のたび重なる申し出と、他の兵隊の憔悴しきった様子を見て、ドワーフの兵隊長はようやく長老の申し出を受け入れました。兵隊たちは村の集会所へ案内されました。
ボーデたち小さな子供らはその一切の光景を、やはり少し離れたところからずっと息を潜めて見守っていました。いえ、ボーデだけは、ボロボロの衣をまとい両手を後ろに縛られ首輪につながれたシルフのことだけをずっと見ていました。彼女が幼い頃から聞かされてきた話の中に出てくるシルフはいつも大声で意地悪で、体が太く大きく、細く小さなドワーフを虫ケラ以下に扱う非道の者たちでした。けれど今目の前にいるシルフは、弱り果て、うつろな目をして、それでいて体中が傷ついていました。やりきれなくなって幼いボーデの目には涙が浮かびましたが、自分ではそれが、どうしてなのか分かりませんでした。
料理がとうとう出来上がり、出来上がった料理をドワーフの大人たちが運んで行きます。子どもたちも手伝わされました。ですがボーデだけはその仕事ができませんでした。ボーデが手伝いに行こうとした時、彼女の父親の咳がとまらなくなったからです。母親は兵隊たちの傷を手当するため集会所へ出てしまっていましたから、今は家にいません。仕方なく、父親の介抱をボーデがしなくてはならなくなりました。
「キャーッ!!」
しばらくして、獣の声とは異なる、ドワーフの悲鳴があがりました。誰もが驚いて家を出、村中を見渡しました。
一見したところ、村はいつも通り平穏でした。皆一瞬は聞き間違えではないかと思ったほどです。しかしその時、咳をしていたボーデの父親が言いました。
「逃げなさい。森の奥深くへ逃げなさい」
見ると、父は家の奥に飾ってあった剣を杖に立ち上がっていました。
「卑劣な奴らめ。私がもっと早く伝えていれば……」
よく分からないことを言う父親を見ている背後で、また悲鳴が上がりました。今度こそ確かです。振り返ると、集会所が燃えています。そして中から。兵隊たちが出てきました。やはりさっきまでと変わらない、生気のない兵隊たち。けれどその手には、ボーデの友達の首が握られていました。どの兵隊も戦利品を見つけたかのように手には村のドワーフの体の一部を持っていました。あるいは口に何かを咥えていました。あるいはモグモグと口を動かしていました。
ジャラ。
二人。二人だけ、そうではない者がいました。あの、血のにじむ首輪をつけたシルフ達でした。
「呪術師め。こんな女子供しかいない村まで手に掛けるというのか!」
剣の収まっていた鞘を杖にして、ボーデの父親は家を出ました。片方の手には日頃から磨き抜かれた剣が握られていました。
鎖につながれていたシルフ達こそ、実はこの集団の中心でした。彼らはシルフの間で呪術師と呼ばれ、特殊な蟲を使い、その蟲を通して相手を操ることを得意としていました。操られる側は当初意思を持ったまま、意思とは無関係に行動させられます。しかしそのせいで抑圧や葛藤が全身に蓄積し、やがて限界に達して心が壊れます。この心の壊れた兵隊たちを器用に扱うことで、この呪術師のシルフ達は戦果を挙げているのでした。
蟲を使った呪術の恐怖が、今村を支配しようとしていました。首輪のシルフは先ほどとは全く違う表情で、燃え盛る集会所を背に兵隊たちを見下ろしていました。
「助けてくれぇ!」
「いやあああっ!!」
鎧の下、白眼を剥き腐敗した肉の臭いを立ち上らせているドワーフの兵隊たちは狂ったように暴れ回り、家を破壊し、同胞のドワーフの村人を殺し、その肉を貪り食っています。その一切の光景を、首輪のシルフ二人は集会所の上からうっとりするような目で、家に隠れたボーデは歯の根をガタガタ言わせながら見ていました。
ゴシュッ!!
また一つ、ドワーフの一人が斃れます。それはボーデの父でした。
「ぐあっ」
操られたドワーフの兵隊によって、ボーデの父親は殺されてしまいました。その殺された父親のまわりへ、他の兵隊たちが急いで集います。他の死体を一旦捨てて、みな集まります。ボーデの父親の握っていた剣を使って切り開かれた彼の腹の中から、湯気を上げている内臓が次々に引き出されていきます。それを一心不乱に食べる兵隊たち。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
父親が骨までしゃぶり尽くされ、残骸が捨てられた後、別の死体が生まれ、食われるまで、ものの数分でした。その数分を、ボーデはずっと見ていました。彼女の中でカチカチカチと音がしました。あるいはキキキキキと音が聞こえました。けれどそれが何なのか、何故そんな音がするのか、それはボーデには分かりません。けれどボーデの中の何かが、このとき動き始めました。
村中が破壊され、食われ、侵され、燃やされました。首輪のシルフは年寄りと女を全て殺し、飼いならしているドワーフの兵隊の胃袋の中に収めさせました。その胃袋にはボーデの父親も入っていました。
「フシュシュシュ。コイツは可愛い。俺の奴隷にしてやろう」
「今晩からが楽しみね」
連れて来られた時とは全く様子の違う首輪のシルフ二人は、数人のドワーフの子どもだけ殺さずに生かしておきました。目的は、いろいろでした。欠けた兵隊を補うため、玩具にするため。あるいはただの気まぐれ。
生き残った子供のうち、一番年長だった少年コチュテは、例の蟲を体内に入れられ、まもなく兵隊の一人になりました。他の兵隊と同じように、死の腐臭を上げ、白目を剥きながら、他の村を襲い、村人を食べるドワーフの兵隊になりました。
ボーデの場合は、蟲は入れられず、もう一人のドワーフの少女エンノ同様、首輪をつけたシルフ達の玩具にされました。兵隊にされたコチュテとは違った形で心が粉々に壊れそうになりました。しかし、もう一人のドワーフの少女エンノとは違い、ボーデの心は壊れませんでした。
なぜなら、
カチチチチチ……
回り始めていたのです。彼女の中には、復讐の歯車が。
キキキキキキキキキチン。
村を焼き滅ぼされ、ボーデがシルフの玩具にされてからさらに三年が経ちました。
ボーデはその頃、例の首輪のシルフの屋敷にいました。屋敷の中では、首輪のシルフは首輪をしていません。屋敷の主人ですから当然です。そのかわりにボーデが、いつも首輪をつけていました。けれどボーデの場合、他の首輪を付けられているドワーフの少女とは、少々扱いが違っていました。
他のドワーフの少女たちが雑巾のような服を着せられ、残飯を食わされ、牢に何人かで押し込まれているのに対して、ボーデはシルフの幼子が着る服と普通の食事と寝台のある個室を与えられていました。またボーデの部屋には、牢の中の少女たちとは違い、たくさんの書物が置かれていました。それらは全て、シルフ達がドワーフから奪った知恵の集積です。
ボーデは、他の少女と違いドワーフの文字が読めました。これは大変すばらしい能力です。話すことは誰でもできますが、当時、読み書きはドワーフの中でも、一部の者たちにしかできないことだったのです。
ボーデが読み書きできることに気づいた首輪の――もう首輪はつけていないので、呪術師ウルヴルと名を明かしましょう――呪術師のシルフであるウルヴルは、彼女を使ってより“賢く”なろうと考えました。ドワーフは魔法の力そのものではシルフ達に劣っていましたが、その弱い力を補うための機器の開発・利用については、だいぶシルフ達より進んでいました。呪術師ウルヴルはそのドワーフ達の知恵をわが物にしようと思いましたが、ドワーフ達の言葉はよく分かりません。でしたので、この呪術師は最初にボーデにシルフの言葉を教え、それからボーデに書物を読ませ、その内容をシルフの言葉で自分に伝えさせようと考えました。あるいはボーデの中に知識はいれたままで、必要に応じて棚の引き出しから欲しい物を取りだすように、知識を得ようと考えました。“玩具”はある程度卒業しましたが、“奴隷”であることには結局変わりませんでした。
でも、ボーデにとっては願ってもいない幸運でした。ドワーフ達の集積した知識を、彼女は貪欲に吸収しました。宇宙のどこかにあるという、光すら逃れられない黒き穴のように、彼女の知識欲は一切をのみ込みました。
ある日の夜更けのこと、ボーデはいつも通り部屋で本の解析を行っていました。けれどその日はそのまま終わってはくれませんでした。
「ギャアァーッ!」
ボーデにしてみれば幾度も聞かされ、慣れてしまった命の悲鳴が響きました。ボーデは最初、屋敷に侵入者でも入って、それが見つかって慈悲なく殺されただけだろうと思いました。そんなことは、ボーデにとって何も驚くようなことではありません。どうせあとは“兵隊”に食われるだけです。全ては慣れっこです。それにもう、父親が食い殺されるのは見ていましたから、恐いという感情はだいぶ擦り切れてしまっていました。あるいは屋敷に連れて来られてしばらくの間続いた、ウルヴルによる凌辱のせいで。
ドンドンドンドンッ!!
「?」
でもその日は、いつもと違いました。悲鳴の後すぐに、ボーデの部屋の扉を強く叩く音が響きました。
「開けなさい!早く!!」
扉の向こうから若い女の怒鳴り声がしました。たぶんドワーフだとボーデは思いました。
「内側からも鍵がかけられていて開かないの」
ドアに近づいていき、ボーデは慌てずにただそう言いました。
「分かった!扉から離れて!!」
部屋の扉が壊され、破られました。そこにはドワーフの少女九人が立っていました。肩で息をする彼女たちはみな、手に斧やら短剣やらを持っています。
「早く!逃げるわよ!!」
「どこへ?」
「決まっているでしょ!“ここ以外のどこか”よ!」
ドワーフの少女たちとともに、ボーデは屋敷を飛び出しました。屋敷の外では、屋敷の別棟から次々に火炎が立ち上っています。
要するに、小さなクーデターが起きたのです。
呪術師の屋敷という“国”の中で虐げられ、玩具にされていたドワーフの少女たちが知恵を絞り、隙を見て、館主である呪術師のウルヴルをはじめとするシルフたちを皆殺しにしたのです。
ボーデも夢中で走りました。走っているうちに、摩耗し死にかけていた感情の内のいくつかが甦りました。同時に、かつての村で起きた出来事が頭の中をよぎりました。あの時も、こんなふうにして同じくらいの子どもたちと一緒に森の中を走っていました。そして……。
「あうっ!?」
その時です。鋭い光の矢が飛んできたかと思うと、走っていたドワーフの少女の一人が倒れました。背中には、細い剣が突き刺さっていました。その剣があまりに磨き抜かれているために、月の光を反射して光の矢に見えたのです。
「……アクリターク!」
かつてボーデのいた村が焼き滅ぼされた時、シルフの存在を教えてくれたのは年長のドワーフ少年コチュテでした。けれどこの時、娘の背に突き刺さった剣に彫られた紋章を見て声を上げたのは、今逃げるドワーフの娘たちの中で最も物知りなボーデでした。酔っぱらった呪術師ウルヴルが前に聞かせてくれた話を思い出したのです。
――奴らはシルフの中でも最強の殺し屋集団。出会ったら最期。誰であろうと生きては帰れない。
「いや、助けてっ!!」
悲鳴を上げ、自分たちがわざわざここにいるのを知らせてしまっている興奮状態のドワーフの少女たち。アクリタークという暗殺集団に追われていることに気づいたボーデはこの瞬間、彼女たちと一緒に逃げるのを諦めました。少しだけ一緒に走った後、倒れて死んだふりをしてみせると、連れの少女たちはまたまた悲鳴を上げながら、暗い森の中をあてもなく突っ走っていきました。
「時を燃す魔の焚火を前に、うずくまらん。残喘をくべよう。救い手なき我が四肢をくべよう。血河も四肢も飲む汝らを除き頼るべきものなし……」
倒れたまま、ボーデは呪文を唱えました。数少ないドワーフの魔法を、ボーデは全て記憶していました。
ゴボッ!ザザザザッ!!
森の厚い腐葉土と落葉が動き、あるものは彼女の体にくっつき、あるものは彼女の傍を離れます。とうとう彼女の体は完全に周囲の自然と見分けがつかなくなりました。つまり擬態でした。
やがてボーデの周囲で、何者かが動く気配がありました。相手の姿を見ることができる状態にはありませんでしたが、耳と鼻を研ぎ澄ませれば、相手が武装していることくらいボーデには感知できました。おそらくアクリタークだろうとボーデは思い、鼓動を鎮めました。
カシュッ。カシュッ。カシュッ。カシュッ。
落葉を踏む音がボーデの傍に迫ってきて、やがて彼女の前で止まりました。「ああ、見つかっている。もう終わりなんだ」とボーデは観念しました。
「シルフが憎い?」
女の声が、上から降り注いできました。既に死を覚悟したボーデは、女の質問を頭の中で何度も繰り返し響かせた後、一言答えました。
「はい」
「そう。偶然ね。私もよ」
ボーデにとって、意外な答えでした。ひょっとして土の上の人はドワーフではないかと考えました。けれどそう思わせて、だまし討ちをする類いかもしれないとボーデは思いました。
考えてみればボーデの数奇な運命は誰かに騙されたせいでこうなってしまっているのですから、疑り深くなるのは当然のことです。けれどそう考えた後すぐに、騙されるも何も、相手がアクリタークなら、この状況において殺されるのは時間の問題だと思い直しました。相手がプロの殺し屋なら、こっちが追い込まれた時点でお終いです。
「死にたい?」
土の上から尋ねる声が落ちてきました。
「あなたは、アクリターク?」
芽吹くように、土の中から声が上がりました。
「死にたい?」
雨のように声がまた、落ちました。
「……」
運命の最後を告げる言葉が、土砂降りの雨のように、土の隙間という隙間を埋め尽くしました。
「どう、死にたい?」
土の上の“誰か”は、ただ質問だけを繰り返します。
「いいえ。生きたい」
ボーデは、やっと返しました。
「どうして?」
「殺したいから」
暗闇を見つめながら、あるいは脳裏に焼き付いた思い出を凝視しながらボーデは口を動かしました。
「誰を?」
「シルフ全部」
「気は確か?」
「……」
「……」
「シルフを殺すことを考えている時だけ、私は生まれたことに感謝している。それが私」
「そう……」
ゾブッ!!!
「!?」
土の中に隠れていたボーデの額に、冷たい金属が思い切り刺し込まれました。
「世の有り様を変えようと企むのなら……」
それは一瞬のうちに彼女の脳を貫きました。
「それを叶える力をあげるわ」
ボーデには、金属から声が聞こえた気がしました。
「戦火。シルフもドワーフも何もかも破壊し、焼きつくし、惑わし、望みを奪う戦火になるの。今から。あなたは」
脳の中を、何かが這い始める感覚を覚えました。それが言葉なのか、生き物なのか、時間なのか、憎しみなのか、ボーデにはよく分かりませんでした。
ボーデはやがて、意識を失いました。仕方がありません。ボーデはそのとき、ボーデという個体を失いましたから。
「これで私たちは似た者同士。さあ、世の有無の煩いを超えなさい。ドワーフの鉄病姫!」
アクリタークの死神がボーデの頭に突き刺したのは、ドワーフの聖遺物“オビヤの籠”でした。それは金属を操る力をもつ妖細菌オビヤが封じられている刃物でした。ボーデの脳髄液で封印から目覚めたオビヤはそのままボーデの肉体に巣食い、彼女を苗床にして増殖し、大地に放たれました。
死神はオビヤを使い、シルフとドワーフの長く続く戦争を一気にかき乱しました。けれど、そんなことはボーデの知る所ではありませんでした。彼女の肉体は全部、オビヤの一部になってしまっていましたから。
それから、何度星が燃える星の周りを回ったことでしょう。
「……」
何年か経ったある時、ボーデは目を覚ましました。そこは、荒れ果てたドワーフの森でした。
「……」
ボーデにとって体中、違和感だらけでした。それもそうです。彼女はもう、もとの彼女の体には収まっていませんでしたから。
「……」
ボーデが金属細菌オビヤの苗床になって死んだあと、ボーデの心はオビヤ一つ一つの中に分割されました。そのオビヤが改良され、寄生した人形が、今のボーデの体でした。
カチャチャ。
人形の名を、エイナモイネンと言いました。どこかの誰かが生涯と家族の命をかけて製造し、手に余して放棄せざるを得なかった残骸。可哀相な兵器でした。
そのエイナモイネンに寄生した改良型オビヤを、ボーデの心が乗っ取ったのです。面白い言い方をすれば、寄生の寄生でした。
チャカッ。チキキキキキ……
ボーデの持ち物は、もう心だけでした。あとは全部、誰かの何か、でした。それでも、ボーデにとってみればどっちでもいいことでした。
カチャン。キュイイイイイイイイイ……
「………………………………なるほど。これが、“ボク”か」
目を覚ましたボーデはやがて、自分の記憶を取り戻しました。しかも乗っ取ったオビヤの記憶も手に入れたのです。
ボーデはドワーフの荒れ果てた森の中を移動し、だいぶ経って、かつて幼子出会ったころ住んでいた、あの集落跡に戻ってきました。といっても、集落はもうありません。あるのは焼かれ奪われた村の残骸だけでした。それでもまだマシな方でした。ドワーフの土地もシルフの土地も、人の集まる都市部はエイナモイネンによる破壊行為でズタズタになっていましたから。長い距離を移動しながら、ボーデはそのことをその眼と記憶によって確認しました。
「今のボク以上に世界は醜い……シルフのせい、か」
ボーデは生まれた村の跡地に家を構え、研究に没頭しました。それは、自分が何者になったのかという研究と、シルフを殺すための研究でした。彼女の心の中には、シルフの屋敷で手に入れた、膨大な資料が記録されています。それを参考に、自分には何ができるのか、どうすればシルフと対等以上に渡り合えるかを彼女は考えました。
歳月は流れました。
研究は加速し、彼女は自分の体であるエイナモイネンの能力をおおよそ理解しました。それと、違う“星”の存在に目を付けました。そうです。あなたの住んでいるその“星”です。自分たちの強さの限界をあなたたちの“星”の知恵で克服できないものかと、ボーデは他のドワーフ以上に真剣に考え、そして実行に移すことにしました。時空を超える機構を発明し、あなたたちが息を吸い、生きているその“星”を訪れるようになりました。
何度目のことでしょうか。あなたたちの“星”を訪れるようになって、いつも通り――といっても、何度も時空を超えることなど、大抵のシルフにもドワーフにもできることでは決してなかったのですが――時空を超えて、ボーデはあなたたちの“星”を訪れました。
けれどそこで、出会ってしまったのです。また。
アクリタークの死神――。
死神は、ボーデが自分の手で誕生したドワーフのようなバケモノであることに気づきませんでした。死神にとって、ボーデはただのドワーフでした。
そしてボーデにしても、相手は自分をバケモノにしたシルフであることに気づきませんでした。ボーデにとって、死神はただのシルフでした。結局は皮肉であり、運命の女神の戯れのような再会でした。
当事者にとってはあくまで幸運であり、あくまで不幸でした。宿敵であるシルフの、それもアクリタークを屠る機会を得たことはボーデにとって復讐の好機でした。けれどその相手が、アクリタークの中の最たる異端児であったことは、彼女にとって不運でした。
千載一遇の機会は瞬く間に絶望へと変わりました。死神にボーデは破壊されました。
さて死の際が迫ります。エイナモイネンは完全に破壊されました。
エイナモイネンに繁殖能力は当然ありません。ただの人形ですから。人形に子どもは造れません。かといって、改良型オビヤも同様でした。これもまた、エイナモイネンをコントロールするために改良され、無駄に増えぬよう細工を施されていました。
このままでは消える――。
エイナモイネンに代わる人形など、もうどこの星にもありませんでした。
死の際が迫ります。時は極まり、ボーデはいよいよ選択を迫られました。
このまま消えるか。何が何でも残るか。
……。
その時でした。人間が、彼女の目の前に現れました。
……。
人間に……。
それは、賭けでした。エイナモイネンとは組成も機構も違う人形への寄生です。しかし、もはや選択肢など他にありませんでした。唯一あるといえば、“このまま消滅する”です。けれどそれはボーデにとって絶対に許せないことでした。シルフを絶滅させずに消えてなくなることは、自らの生涯をすべて否定することになると考えたのです。
人間を……使ってみせる!
改良型オビヤの能力を使い、ボーデは人間の“影”になることを選びました。
カチャチャンッ!
それはとてつもなく濃い影でした。
影の持ち主である人間すら、黒く塗りつぶされてしまうくらいに。