七滴
七、終焉
「……」
今まで水の上を歩けたのに、いつのまにか水の中に腰までつかって、歩きづらいけれど、それも慣れてきた頃にまた、水の上を歩かされる。そんな目覚めだった。
なんとなく、悲しい。
「……」
じゃあ何で悲しいのかなと思いつつ、たぶん見ただろう夢の軌跡をたどる。けれど案の定思い出せない。でもたぶん思い出せないから悲しいんだろうと、一応の回答を自分の中に済ませる。
それとも、夢の中身か。悲しかったのは。
……。
夢を見た。見た気がする。見知ったような、見知らぬ誰かだったか。そういうのが出てきて、そしてつかの間を生き、悲しさを残して夢の奥に消えた。一言で言えばそれは哀史だった気がする。誰かの、悲しい物語。そしてその誰かの中に、知っているはずの女性を見た。誰だったか……。
バタンッ!
「!」
扉を閉める音に驚いて飛び起きる。体を激痛が襲う。
「痛っ」
体全体から立ち込める湿布薬のニオイに気付く。全身至る箇所にガーゼによるテーピングやら包帯が巻かれていた。
「母さん」
「……」
母さんの姿を見たのは久しぶりな気がする。なんで久しぶりなのかは分からないけれど、久しぶりだと強く感じた。
「玄関で倒れての、覚えてる?」
心なしか、怒っているように見えた。
「え?知らない」
「は~、まったく」
母さんを見ながら、自分が自分の部屋のベッドに寝ていることに気付いた。
「とりあえず応急処置はしたけど、誰とケンカしたの?」
起こっているように見えるのではなく、怒っているのだと確信する。そして怒らせた理由は、心配させたからだと反省する。当たり前か。
「……ケンカ、か」
誰だっか?何とだったか?
「覚えていない」
「よっぽどひどく殴られたんじゃない?」
「とりあえず命があるだけ良かった」と言いながら、部屋に入ってきた母さんは手にしていた医療品を机の上に置いた。
「シャワーでも浴びてきなさい。ご飯は用意してあるから。一緒に病院に行って見てもらおう」
母さんの表情が戻る。
「いや、大丈夫だよ。頭を殴られた覚えはないって」
「頭だけ心配すればいいわけないでしょ」
また母さんが眉を曇らす。
「大丈夫だよ。それに今日の仕事は?」
「子どもがこんな時に仕事に行く親なんていないでしょ」
「平気だよ。それに俺はもう、子どもじゃない」
「あたしの子よ、それは変わらない」
言われて、母さんを見る。真剣に目を見たのは、いつ以来だろう。
「うん。でも大丈夫、本当にヤバかったら、病院へはちゃんと行くから。大丈夫」
ちょっとしてそう言って、立ち上がる。激痛は変わらない。けれど、足も腕もちゃんとつながっている。
「シャワー、浴びてくる。そっちも仕事、がんばって」
「……分かったわ」
部屋を出てシャワーを浴びに行こうとした。
「じゃあ、お姉ちゃんの部屋で寝ている子の面倒、よろしくね」
「……?」
意味不明の一言が扉の先から返ってきた。
「え?誰って、え?」
部屋に戻る。
「玄関先で一緒に倒れていたから、家に運び込んどいたんだけど。知り合いじゃないの?」
「……!」
慌てて“開かずの間”に向かう。長く立ち入らなかった姉さんの部屋の扉を開ける。人の気配を長らく失っていたその静謐とした部屋の中に、誰かがいた。
「イオス!」
姉さんのベッドの上で、イオスは眠っていた。いや正直、眠っているのかどうかすぐには分からなかった。元々色白だった肌は石英のようにさらに白くなっていた。艶はなく、生気も感じない。閉ざされた瞼の下にははっきりとしたクマが見られた。
「イオス……」
「知り合いなんでしょ?」
「うん」
知り合い。
殺し合い、協力し合った、知り合い。
「変なこと、してないわよね?」
「変なこと?」
それって男と女の……
「変な人たちと関わったりしてないわよねってこと。どうなの?」
なんだ、びっくりした。
「大丈夫。そういう人じゃない。この人は俺がケンカに巻き込まれた時に、助けてくれた人」
「そうなの」
「ああ、悪い人じゃない。絶対に」
もう一度立ち上がり、俺は今度こそ風呂場に向かう。
サ―――……
髪を洗い、体を石鹸で洗い、シャワーを浴びながら、“悪い人じゃない人”について考えた。
イオス。
何者なんだ。
そう、結局そこなんだ。
ドワーフだとかシルフだとか以前の問題として、アイツは何を考えて生きているんだろう。
信用できるのか。
元はと言えば、問答無用で俺を殺そうとしてきた。
けれど後になって俺を助けてくれた。
でもそれもこれも、何か目的があってやっているのだとしたら……。
……ベンジアスとかいった、あの、ドワーフの一言。
――何を言ってやがる。全ての元凶はテメェだ。
イオス、お前はアイツに何をした。
何をしたら、憎悪はあそこまで深くなる?
サ―――……
拳を固める。
「……」
簡単なことだ。知ってるじゃないか。
サ―――……
俺がベンジアスとかいうドワーフを殺したいと思った理由は一つだ。
水希を奪われたから。
大切な人を奪われでもしない限り、ヒトはヒトを殺したいとは思わない。
「奪ったのか、イオス……」
そのとき突如、内臓がよじれる感覚を味わう。足を開かされ、睾丸を何度も何度も蹴りあげられるような痛みが全方向から押し寄せる。
「………」
呻く。立っていられないほどの悪寒がさらに襲い掛かる。思わず膝をついたとき、足元が泥水になっていることに気付く。
サ―――……
上を見る。ノズルは相変わらず透明な液を噴射し続けている。シャワーから出たものじゃない。
「……タマ」
俺の身体の傷口から出ているようにしか見えなかった。
ゾゾゾゾゾゾゾゾ……
泥は水の流れを無視してゆっくりと集まり、握りこぶし程度の塊になった段階でブワッと宙に浮く。けれどそれだけだった。宙に浮いたあとは、その泥団子から赤い血を滴らせているだけで、何も起きなかった。
血……。誰の血だよ。
「はあ、はあ、はあ」
痛みと悪寒の去った俺は再び立ち上がり、シャワーを頭から浴び直す。
サ―――……
さっきまで見た夢が、どうしても思い出せない。
サ―――……
覚えているのは、悲しかったこと。
サ―――……
ベンジアスらしき誰かの、悲しかったこと。
サ―――……キュッ。
「ふぅ、もういい」
考えても仕方がない。これからどうなるか、起きてみなければわからない。
シャワーを終えて、バスルームから出る。
「……」
湿布や包帯を外した箇所にあったはずの生々しい傷が、全部ない。かわりにあるのは、宙に浮く一カタマリの土塊。
「病院じゃ面倒見きれない、ただのバケモノか」
タオルで体を拭き、下着を穿き終わる頃には、肉体の痛みすら消えていた。
「時間無くてご飯しか炊いてないの」
「適当に冷蔵庫にあるもので済ませるよ。いってらっしゃい」
怪しまれないよう、用意されていた医療品は適当に体に張り付けて母さんを送り出す。
「今日はかなり人手が足りないみたいだから、遅くなると思う」
怒りを通り越して、諦めと悲しさの宿るその眼を静かに見る。
「うん、気を付けて」
その眼を見、そう告げるしかもう俺にはできない。もう、俺は……
「ソーマ。ごめんね」
「謝ることなんて何もない。いってらっしゃい」
見送り、扉の外を一通り確認し、鍵を閉める。
炊飯器の中を確認し残っている一合分の米をジャーごと取り出し、冷蔵庫の中から納豆三パックと卵三個と長ネギ一本を取り出し、ジャーの中に片っ端から入れる。醤油も入れてかき混ぜ、それを大きめのスプーンで掬い、口の中に放り込んでいく。放り込んでいるうちに、夢の前に起きた出来事がそもそも気になりだして、もしかしてと思ってテレビをつける。ニュースで知った日付は、魔隷五人と争った日から二日も経っていた。十二月二十四日。世間で言うクリスマスイブ。誰かが願いを込める、祝祭前夜。
「厳戒態勢?」
祝祭どころじゃないニュースのテロップに目を疑う。「厳戒態勢」に、じゃない。そんなのは紛争地域の報道でいつも見ている。赤字で表示されていても所詮他人事だ。どうでもいい。でも今は違う。「厳戒態勢」の文字の前に、この国の地名があった。それも自分が知っている場所の名前だった。
「錫尼市って……」
緊張しながら報道に耳と目を向ける。リポーターが現場を歩きながら中継を行っている。その風景も、見た記憶があった。夢なんてレベルじゃない。確かにかつてそこに俺はいて、そこで何かをしたに違いないと思わせる記憶だった。
「今は住む人のいない廃墟の社宅で一体、何があったというのでしょうか?」
ワイドショーの決まり文句のような言葉を吐いた後、廃墟の社宅が誰によって造られたもので、どういう経緯で廃墟になったのかが流れた。そんなことはどうでもよかった。問題はその後だった。スタジオの司会者がいくつか現地リポーターに質問をし、いくつかの回答がある。そして専門的な質問については、現場にいる水道局員が回答した。
「この社宅の下の地盤は特にゆるくて、それで水道管やらガス管がしょっちゅう破裂して、それで住めないってことになったんです。最後に点検が行われたのが五年前、住民の方に出てもらう直前のことだったんですけれど、そのときはもうボロボロでした。その後は水を通していません。別のバイパスが完成していたんでそれを使うことにしたんです。ところが事件があったあの日、水がこの一帯で流れているのを当局で確認しました。同時に市街のあちこちで水圧低下と断水が発生しまして……」
社宅。水道管。パイプ。水。流れる。水圧低下。断水。……
「篠原さん。原因は特定できたんでしょうか」
「今のところまだ特定には至っていません。地面下の調査を続けています」
そこまで言うと、リポーターが割り込むようにしてスタジオの司会者に言葉を返す。
「牛嶋さん。実はですね。今回の事件ではこれとは別に不可解なことが起きているんです」
土木関係者らしい専門家が今度は紹介されて出てくる。
「住居のあちこちの水道管が変形しています。水圧を調整する機器のようなものが各部屋に取り付けられていて、それが割れている窓の方へ水を放水した形跡があります。特に驚かされたのは、最高階の部屋には天井を突き破る威力の放水器が水道管に取り付けられていて、居間確認されている天井の穴はこの放水が原因でしょう。凄まじい圧力が予想されますが、やはり目的は分かりません」
「……」
水圧。水圧。放水。放水。
「団地の至る所に放火したような跡も確認されていて、警察は誰がどのような目的でこのような大規模な事件を起こしたのかを全力で調べているとのことです。……あっ、今新しい情報が入ってきました」
スタジオの司会がスタッフから新しい紙を渡されてさっと目を通す。
「県の方が出していた自衛隊の派遣要請を総理が承認したとの情報が入ってきました。遠藤さん、これは流行病との関係を政府が重く見たということでしょうかね」
「そうですね。……」
とってつけたようなシワを眉間に寄せながら司会がコメンテーターに話を振る。コメンテーターが何かを話している間、画面はそれまで使用してきた画像の使い回しに切り替わる。画像の中には、焦げ付いた社宅の壁、水浸しの住居、車のボンネットを開けて中身を取り出し、洗面所に強引に溶接したようなイビツな形の蛇口が映っていた。そして、グシャグシャに壊れた貯水タンクも。
「誰かさんの仕業よね」
「!!」
隣の席から突如声がして、心臓と納豆が口から飛び出そうになる。声の方を見ると、そこにはイオスが座っていた。
「コーヒー、もらってもいい?」
「……」
俺は黙ってうなずき、それでもイオスが動かないでいるのを見て、「淹れてくれ」という意味だと気付き、ジャーを置いて立ち上がる。湯を沸かし、ソーサーにフィルターを入れ、挽いてあるコーヒー豆を入れる。「なんでこんなことを俺がしなきゃいけないんだ」と一瞬思ったけれど、思う前にそんなことを勝手にやっているバケモノの自分がおかしくなって、「まあいいか」と思いながら空いているガスコンロでハムエッグを作り始める。冷蔵庫の卵は結局全部なくなってしまった。
「どうぞ」
トースターに入れて焼いたトースト二枚も添えて、イオスの前に一式並べる。手を動かしたお陰で頭が少しだけ整理された。
「あら、すごいオプションね」
「ありがとう」と言いながら、イオスはコーヒーをすすり、小さな口でトーストをかじり始める。俺は俺でまた、同じ使い回しの映像の続く報道に視線を戻しながら冷めたジャーの中身を平らげはじめた。
「鎮火のために素粒子ヌペリムで水そのものを操ろうとはせず、あえて水管を補修し、かき集め、水脈から水を引き、戦闘地域に集中放水するシステムを建造する。手間がかかるだけじゃなくて証拠までこうして残る。あなたに宿った精霊はどこまでモノづくりがお好きなのかしら。凄すぎて開いた口がふさがらないわ」
口についた卵の黄身をティッシュでふきとりながら、イオスはそう言う。よく見たら俺より早く食い終わっていた。
「それともあなたの指示なのかしら。人間に多少バれても構わないけど魔道者には絶対に気づかれないようにするための布石?水にはヌペリムによる干渉の記憶が残りやすいからわざと……それならこれだけの遠回り攻撃の理由もうなずける。ますます怖いわね」
タマに向けた後こっちに向けた瞳に、ドキリとする。
「まだ恐い?私が」
コーヒーの残りをすすりながら、白いマグカップから覗く眼が言う。
「……」
「今のあなたならきっと殺せるわよ。私はもう力が残っていない。おかげでこんな“おしゃれ”な恰好にさせられる」
「へ?」
言われるまで気づかなかった。イオスは今、パジャマを着ていた。かつての姉さんの持ち物だった。
「思い出した?」
「それは姉さんの昔着ていた服で……」
「そうじゃなくて、“そっち”よ」
テレビの方を、イオスは顎で指す。言われてもう一度俺は、腿にジャーを置いてテレビに目を向ける。
……。
「なんでこうなったのかはよく覚えていません。でも、確かにここで、大変な目に遭ったのは思い出しました」
「ベンジアス。覚えているわね?」
「……はい」
覚えている?覚えているというか、ついさっき覚えたというか、よく分からない。けれど、頭の中には確かにある名前。悲しいニオイのする誰か。
「アレを倒して、全ては終わりだと思っていた。でも違った」
「!?」
思わずジャーを腿から落としそうになる。
「あのドワーフは今回の事件の首謀者じゃない。首謀者どころか、何の関連もなさそう。ただ単にあの瞬間、私の命を狙ってこの島にいて、たまたま私と同じように閉じ込められただけ。もっとも、ベンジアスにとってその方が個人的には都合がよかったんでしょうけれどね。私を逃がさないで済むから」
「どうして、首謀者じゃないって分かったんですか!?」
「私たちシルフは空気の流れを細かく検知できる。つまりヌペリムの大気中の濃度を測れるということ。ヌペリムの濃度が局所で不自然に高まったり低まったりすれば、何が起きているか特定まではできなくても、何かが起きていることは断定できるの。たとえ死にかけ、泥のように眠りながら服を着せかえられていても」
「風の中に、じゃあ、不自然な形でヌペリムが漂っているってことです、か?」
「イエス。ベンジアスの死後もヌペリムの異常濃集は続いている。異常を知らせる風は減ったと言えば減った気もするけど、無くなっていない。ということはやはり……」
「……」
水希を殺した犯人は別にいる。
「島の封鎖が解けていないことから、ベンジアスが首謀者である可能性はなおさら低い。そして、前に話したラヴラと協力関係にあったとは思えない。ラヴラはシルフ以外を下等と見なす、生粋の血統主義者。たとえ利害が一致してもドワーフとはまず手は組まない」
「……じゃあやっぱり、ラヴラとかいうあの、シルフが犯人ってことですか」
「おそらく。何らかの理由で自分すら逃げられない状況を作り出し、菌を散布し続けている。守るためか攻めるためかは知らないけれど」
「ラブラも、ヌペリムの気配みたいなのを、分かるんですか」
「分かるわ。……魔法を使うためにヌペリムに干渉すれば、それが同類にバれるのを向こうも承知で、今また魔法を使っている。ベンジアス戦の疲労からこの二日間完全に参っていた私を死亡したと思って、命を狙う側がもういないと判断したのか、私がいたところで返り討ちにする自信を持ち合わせているのか、どちらかは知らないけれど」
「そうですか」
「どっちにしても……」
「探しましょう。ラヴラを」
イオスは「うん」とうなずいて、コーヒーの残りを飲み干した。そして、空になったコップの底を見ながら動きを止める。
「あの時は本当に助かった」
「あの時?」
「ベンジアスよ。ふりかかる銀炎を薙ぎ払うほどの体力が残っていなかったから助かった」
「それは、よかったです」
顔の筋肉を動かす。
「本当に感謝してるわ……ごちそうさま」
俺はジャーの残りを胃の中にかきこみ、イオスは姉さんの部屋に戻って行った。
顔の筋肉を元に戻し、食器を持ってキッチンに向かう。流しに落とし、さっさと洗い始める。
ジャアア―――……
別に、助けようとしたわけじゃない。
アイツはたまたま助かっただけだ。
何を考えているか分からないアイツを、本気で助けようなんて考えたりはしない。
アイツが何を考えているのか。
「ふん」
アイツが何を考えていても構わない。俺は水希を壊した奴を壊したいだけだ。
「寝首はかかれない。俺はそんな馬鹿じゃない。いくぞ、タマ」
首をコキコキとならし、自分の部屋で簡単にストレッチだけ済ませ、着替える。
居間に戻ると、既に自分の服を着ていたイオスがテレビの前に立ってテレビを見ていた。
「準備はいい?」
「はい」
時計の針を見る。午前八時五十七分。心とは裏腹に爽やかに晴れた冬空の中、俺とイオスはラヴラを探しに出かけた。
「補充?」
「そう。ラヴラと叩く前に暗い話はしたくないけれど、今回の騒動のせいで私の力はもうあまり残されていない。無駄遣いもいろいろ過ぎた。魔法に簡単に頼ることはもうできない。だからその代わりとなる武器の補充をしたいの」
「そういうことですか」
午前九時二十四分。雨射川駅のホームで二人で電車を待っている最中、イオスは口の形も変えず、こっちも見ずにそう俺に言った。
「間もなく、一番線に、各駅停車、大蕗行が、参ります。危ないですから、黄色い線の内側まで、お下がりください」
電車がホームに入るアナウンスが入る。
「じゃあ、ラヴラを探すのは、補充のあとってことですか?」
「補充するのは私だけよ。ソーマは自分で拵えられるんでしょ?」
「……」
「いい?あなたは、魔隷を独りでも見つけられるようになりなさい」
「それって、えっと」
「一日で戻る。その間好きなように歩き回って構わないわ」
「どの辺がいいとか、ありますか」
「そうね。この県内ならどこでもいい。この県からは特に強いヌペリムの乱れを感じる。ラヴラはたぶん県内のどこかに隠れている。どこに隠れているかを独りで突き止めてとは言わないわ。あくまで魔隷に気づけるようになるための練習。だからそう、なるべく人の集まる場所がいい。ソーマの家のあるこの雨射川市と私が選んだ錫尼市以外に心当たりはあるでしょ」
「ああ、そういうことなら知らなくはないです」
「普通にしているソーマからは、ヌペリムへの余計な干渉は感じられないから、そのままにしていればそう簡単にラヴラには気づかれない。だから変なことはせず歩き回る。そうやってうろつきながら、魔隷のヌペリム干渉を観察しなさい。ラヴラの菌に感染した奴らは存在するだけで、多少だけれどその場のヌペリムを乱す。それを感じられるようになりなさい」
「……」
ゴクリ。
「魔隷を見つけたらどうするんだ、なんて言わないわよね?やることは決まってるわ」
「もちろん、です」
その時電車がホームに飛び込んでくる。わずかに風が起こり、イオスの髪が、コートが動く。
「軍資金よ。全部使っていいわ」
電車が静止する直前、クルリと俺の目の前に立ったイオスは抱きつけるくらい体を接近させる。
「帰ってきたら魔隷に食い殺されてたなんて、許さないから」
そう言い、クシャリと俺のジャケットのポケットに何かをねじ込む。「これも訓練」という言葉を俺の耳の中に吹き込んで、イオスは電車と一緒に目的地も告げないまま、どこかへ行ってしまった。
「……」
ポケットからクシャクシャの紙を取り出す。一万円札が三枚もねじ込まれていた。
「ん?」
ポケットの奥にまだ異物がある。取りだしてみると小瓶だった。
「……あれか」
確か、黒い靄のような菌。……ケヌサピエとかいう名前だった気がする。
「ふう。殺したら後始末もしろってことか」
イオスを見送った後、電車の案内表示板の所へ俺は移動する。
「姥湯理駅……逆方向か。しかも五十二分……結構かかるな」
俺は売店で週刊誌と朝刊を一つずつ買い、ホームの反対側に移動する。まもなく駅のアナウンスが入り、電車がホームに飛び込んでくる。俺はそれに乗り込み、姥湯理駅へと出発した。
ガタンガタンッ!ガタンガタンッ!
県内には東西南北、それぞれ都市と呼べそうなエリアが一つずつある。例えば俺の住む雨射川市は南部の中心都市で、県庁所在地でもある。イオスの住む錫尼市は北寄りだけど、一般的には西部の都市。そして今から向かう姥湯理市は、県東部を代表する都市だ。県庁はないけれど、気象台がある。
「……」
椅子に座り、ここ最近起きている県内の事件について大まかに取り上げた新聞の一面と、詳細について語る二面を読み、そのあと、別の角度から迫っている週刊誌に目を移す。当たり前だけど、記事の中に魔法なんて言葉は一つも出てこない。
「!?」
いや、あった。と思ったら「まるで魔法!」と書いてあった。そりゃまあ、そんな表現もあるだろうさ。週刊誌らしい。
いくら目を皿にしても、魔隷もラヴラもヌペリムもドワーフもシルフも出てこない。もちろんそんなことなんて期待していない。知りたかったのは、現在まで記録として明らかに残っている被害の規模。
「……」
事件、あるいは行方不明者が多発している地域がランキングのようにして取り上げられている。
雨射川市――。
錫尼市――。
姥湯理市――。
ランキングの上位はやはり都市だった。地域名の後、県内各地域の病院に搬送された、原因不明の感染症患者の数のレポートがある。
「……」
ページの上を彷徨っていた俺はたまたま、見逃した名前を見つける。
駈都山市――。
学校のあるエリア。……水希のいた、エリア。水希を一緒に探した小久保と西のいた、エリア。
テントン、テントン。
気付けば乗り換えの必要な駅に電車が到着する。扉が左右に開く。俺は誰の目にも見えないタマと一緒に電車を降り、ホームを移動し、別の電車に乗り換える。もう乗り換えは必要なく、後は箱の中で揺られるだけになる。
「……」
座れるスペースはあったけれど、座る気になれなかった俺は扉の傍に立ち、窓の外をずっと眺めながら姥湯理駅までの約二十分間を過ごすことにした。
姥湯理駅に着く。
テントン、テントン。
頭をポリポリとかきながら、タマと一緒にホームの階段を上り、改札口を出る。精算機でICカードに五千円分入金して、改札口を出る。市の案内板を見た後、近くのショッピングモールへ行き、走るのに邪魔にならないようなリュックを中のショップで購入する。次にホームセンターに移動して、百円ライターとキャンプ用ナイフと軍手とロープとニット帽と安い双眼鏡をカゴに入れる。
「あとは何が必要だろう……」
昔見た映画の影響か何かだろう。いざとなったらこんなものがあればと思う物を片っ端から買おうとしている。でもそうそう他に思いつかない。
「寒いし、ネッグウォーマーでも買うか」
結局その他にネッグウォーマーもカゴに入れ、会計を済ませる。全部で六千円ちょっと。
「まだ一万円以上残ってるのか……」
いつもケチケチ使っているのに、使えきれない現金を渡されて、かえって悩む。別に使い切れなんて言われていないのに、思えば変な話だった。そのままタマと一緒にモール内の書店に入る。歩き回るのに必要だろうと詳細な県地図を買い、店を出る。
「……」
モールの中にある喫茶店に入る。入ると言っても、店の外にあるテーブルに座っている。たいしておいしいとも思わないカフェオレをものすごくゆっくりすすりながら、地図をめくる。
「ふう……」
テーブルの上に置いた地図をめくるのは、もちろん本当の目的じゃない。
「ふう、ふう……」
目はそこにあるが、心はそこにあらず。
「……」
地図を見るのではなく、目の前の人通りに何か感じるかどうかを確かめている。
十二月二十四日。
事件、疫病、テロ、憎悪。
あらゆる恐怖が囁かれているのに、祝祭日前日のモールは人が多い。怖くないのか。あるいは怖いからこれだけ人間が集まるのか。
「……」
風はない。凍てつく朝の冷気は全方向から均等に襲い掛かる。冷たく痛いけれど、それだけでしかない大気の新鮮な流れ。
「?」
そこへふと何か、違うものが混じる。冷たくも痛くもないけれど、ほかの冷たさや痛さに混じってそれがあると、調和が乱れてわずかに不愉快な感じをこちらに残す何か。
「ぐすん。……」
鼻をポケットティッシュでかみ、目を閉じる。不快を媒介する何かを掬い取ろうと集中する。口ではなく鼻だけで息をする。自分自身を研ぎ澄ませる。全方向からくるはずの冷気のうち、一部遮断される方向がある。嫌な感じもたぶん、そこからする。それが自分の体の向きからしてどの方位かを脳内でイメージした後、ゆっくりと目を開ける。カフェオレのコップを手に取り、その縁に唇を当てる仕草をしつつ、自分の感じた異質の正体をじっと確かめる。
ズズッ。
カフェオレをすする。網膜に飛び込んだ姿は、見かけはただの人だった。白い綿のようなもので縁取られた明るい桃色のポンチョを着た小さな女の子。たぶん、小学校に上がる前……。
チラリとタマを見る。反応はない。もう一度、女の子に視線を戻す。
親は、どこだ?
探すけれど、誰も彼女の傍で止まらない。ポンチョの子はそれでも何も問題ないかのように、広場にあるベンチの後ろの植樹された樹木のそばで遊んでいる。
「いるよな……」
なぜか、額を汗が伝う。
……なぜ?
汗の理由なんて、本当は最初から分かりきっている。
“あれ”がもし魔隷だったらと思うと、怖いから。
“あれ”が魔隷だなんてこと、あるのか?
“あれ”がもし魔隷じゃなかったら、俺はどうなるんだ?
「……」
ちがう。あくまでも「あれがもし“魔隷”だったらどうするか」だ。
……。
……。
「!」
女の子が樹木から離れる。親が来たのか?
「……」
女の子の行く先を目で追う。親がもしいれば、普通彼女の前に近づいてきて、抱き寄せるようなそぶりを見せるだろう。あるいは自分の足元まで来たのを確認して、屈むはず。
ガタンッ。
俺は立ち上がり、リュックを背負って歩き出す。
「マジかよ」
女の子を迎える用意がありそうなのは、ただ彼女の進む先にあるスクランブル交差点。誰一人彼女の方なんて見ていない。皆背中しか向けていないで立ち止まっている。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
歩行者横断用信号は依然として赤。交通量は多い。女の子の様子からすると、止まらなきゃいけないと分かっているとは思えない。楽しそうに、ただ楽しそうに、テトテトとスクランブルに向けて走っている。
ドクン。
あのままだと、スクランブルに飛び出して車に轢かれる。危ない。
「はあ、はあ、はあ」
自動車用信号が緑色から黄色に変わる。けれどまだ安心できない。やばい。急がないと!
「はあ、はあ、はあ」
女の子が横断を待つ通行人の群れの中にもうすぐ入る。くそ、誰か気づけよ。このままじゃ女の子が死ん……
「きゃああっ!?」
「!」
その時だった。女の子が潜った通行人が一斉にスクランブルに向かって転がり飛ぶ。
キイイイイイイイッ!!
黄色信号をギリギリで渡り切ろうとしていた乗用車二台が急ブレーキを踏む音が響く。共に突如スクランブルに転がり込んできた通行人を避けようとしてハンドルを大きく切る。
ドガシャアアンッ! ガシャンガシャアアンッ!!
二台ともハンドルを切り過ぎて横転し、互いにぶつかりながらスクランブル中央で大破する。
……。
一切が沈黙した後、一切がまた沈黙を破って動きだす。
「早く、救急車!」
「消防車呼べよ。あと警察!」
怒号が響き、クラクションが鳴り響き、歩行者の横断合図を知らせる音が規則的に始まる。スクランブルに吹っ飛ばされた人のうち、二台に轢かれた人は奇跡的にもゼロ。誰もが騒然としている。端末で写真を撮る者。口を手で覆い泣く者。倒れている人を介抱する者。そして、いまだ生死の不明な乗用車二台に向かって駆け寄る者たち。
トテトテトテトテ……
「!」
その駆け寄る者たちに交じって、女の子はいた。
「……」
タマが俺の目の前をよぎる。
ドクンッ。
「……そういうことか」
ドクンッ。
「……俺は」
ドクンッ。
何を勘違いしていたんだ。
ドクンッ。
危ない?女の子が轢かれそうで危ない?逆だった。
ドクンッ。
アレは、人じゃない。餌を求めて徘徊する魔隷。
ドクンッ。
餌欲しさにスクランブル交差点と自動車を利用したんだ。轢き殺してもらえば、あとは食うだけ。その結果何が起きるか、そんなことなんて考えようともしない。考えようにも、そこまで知能が発達していない。
「そうなる前に、ああされちまったのか……」
ドクンッ。
これが、魔隷。
……止めないと。
端末ではなく、介護でもなく、泣くでもなく、ポケットのナイフを確認する。
トテトテトテトテ……
予定通り餌にありつけなかったポンチョの魔隷は今度、乗用車の中の二人を食うつもりだろう。いや、助けに入っている連中を食おうとするのかもしれない。
俺はどうやってそれを止める?公衆の面前でアレを刺す?無理だ。アレの見かけは“ポンチョを着た女の子”だ。刺し殺したりすれば俺はただつかまって鬼畜扱いされるだけだ。人にどうこう思われるのは構わないけれど、今後の仕事に支障があると困る。目的はあくまでラヴラの殺害だ。その前に警察やマスコミにこちらが殺されるわけにはいかない。
トテトテトテトテ……
魔隷が車に近づいていく。俺も早歩きで近づいていく。どうする?どうする?
「!」
車の傍に集まっていた人たちが少しずつ車から離れ始める。そして重苦しい異臭が鼻につく。アスファルトに晒される、血液とは明らかに異なる色の液体。「ガソリン漏れてる!」「危ないから下がって!」「爆発するかも!!」の大声。
「……」
ポケットの中を再度確認する。ナイフとは別に、ライターがある。
駆け出す。
車の中で何が起きているかは、車の中にいなければ分からない。
もし魔隷がドライバーたちを食おうとするなら、車内で始末するしかない。あれくらいの体躯なら、首くらい簡単にへし折れる。その間に車が爆発することは……おそらくない。いきなり爆発はたぶん、ない。まず火災が発生して、爆発するとしたら車内の温度が上がって気化したガソリンが……とかで、ほんの少しだけど後だろう。
「ふう……」
できれば火災が発生する前に殺す。殺した際、火災がまだ発生していないなら、俺が起こす。表向きは女の子が勝手に事故車に向かって行って、それを俺が火の出る間一髪で助けに入った。けれど助けられず、俺だけ出てくる。こうすれば、少なくとも犯罪者とは思われない。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ!」
余裕があれば、車の中の魔隷の手がかかっていない奴も助ける。手がかかっていれば……その時は始末するしかない!
「あ!」
ズンズン進んでいく自分のすぐ横を一人の人が走り抜けた。そのことに驚いたわけじゃない。いや、もちろん自分よりも急いで事故車に駆けよる人がいるとはあまり予想していなかったから驚いたと言えば驚いた。けれど、
「ダメよ、そっちへ行っては!」
すれ違い、巻き起こした風に乗って俺の鼻にたどり着いた微かな香水の匂いに、何よりも俺は驚く。
「……先生」
匂いは十年近く前の記憶を呼びさまし、俺の足を止める。
「ヒカリ先生」
俺をやり過ごし、事故車に向かう小さき姿の魔隷へ駆け寄り、抱き留め、涙目になって魔隷を怒る人を見ながら、俺は遠い日の記憶を必死に検索した。
饗庭日花里――。
小学校三年生の時の、俺の担任。優しくて、奇麗で、若くて、努力家で、新鮮で、天使みたいで、そして何より……俺の親父の不倫相手。
「アイバ、ヒカリ」
優柔不断で、見えないものはないことにし、努力している自分に酔いしれ、弱い相手に尽くしているようで実は自分に依存させようとしているだけの、未熟な天使もどき。
「……」
俺を教員不信にした最初の人間。というか、人間はコインと同じく裏表を持つと教えてくれた最初の人間。
「……」
異常事態に誰もが慌て、泣き、叫び、うなだれ、立ちつくし、あるいは駆け回る中、香水の匂いをたどるために、俺だけはゆっくりと慎重に歩き始める。
明るく澄んだ感じの水色のコート、黒のニット、青いパンツ、黄土のシューズ。
本当に、そこにいるソレは、饗庭先生か?
「いい?あんな危ない所へ一人で行ってはダメ。パパやママはどこにいるの?」
幼い少女の姿をした魔隷に対し、必死の形相で質問を重ねる女。俺の知る饗庭先生よりは少し老けている。でも、若い。……十年も経てば、シワくらい顔に刻まれるか。
「ほら、早くそこから下がれ!」
他の通行人が魔隷と饗庭先生を強引に事故車から遠ざけようとする。それに巻き込まれて二人は人ごみの中に消えていく。
「あんたも早く!」
俺も同じように誰かに強引に引っ張られ、車から遠ざけられる。パトカーの、消防車の、救急車のサイレンが響く。車から煙が上がり始める。人々の動きが加熱する。
「……」
饗庭先生と魔隷を追う……か?
「……」
「おい、火が出たぞ!」
「中にまだ人がいるって!おい、消防車まだか!?」
あの、俺の家庭崩壊を決定的にした元担任を?
「誰か早く助けてあげて!」
「恐いよ!ねぇ、恐いよ。うわ~んっ!」
ついて行ったらそれこそ……親父に遭うかもしれない。母さんを裏切ったあの、弱い男に……。
ドガアンッ!!
「爆発!爆発!!」
「危ないから火の傍に近寄っちゃダメだ!」
「救急車来たわ!」
でも、このまま放置すれば、たぶんあの小さい魔隷に食われる。食われれば、饗庭先生も魔隷になる。
「車から人が出てる!」
「ひどい……」
「ママーっ!人が燃えてるよぉ!」
……。
……。
……。
火だるまになる車と人の見物客を抜け、俺は独り歩き出す。追わなければいけないのかもしれないけれど、追うつもりには、どうしてもなれなかった。心の中に沈殿していた濁りが全身に流れ出し、追い駆けて元担任を助け出そうとする思いを黒く染めていく。染まった心はこうつぶやいていた。
「食われちまえ。全ての責任は、お前のその性格がもたらしたんだ。ざまあみろ」
ふと、横を見る。泥団子のくせに生き生きと浮かぶタマはクルクル回転している。
面白いか?葛藤に苦しんでいる俺が。
蔑んでいるのか?過去に縛られて足が前に上手く出せない俺を。
同情しているのか?己の無力ゆえに運命に翻弄された幼い俺に。
電車に乗ろうとしたが、掲示板には遅延の表示が出ていた。仕方なく量販店に戻り、ペンチを買い、駅前に違法駐車されている自転車の一つを見つけ、鍵を壊し、それに乗る。どんな手段でもいい。ただし頬に風を感じながらこの場から一刻も去りたかった。盗んだ自転車で俺は姥湯理駅を後にした。
途中何度か地図を開きながら、ひたすら自転車を漕ぐ。自宅のある雨射川市まで、四十キロちょっと。半日あれば、自転車で行けない距離じゃない。そう思い、ペダルを漕ぎ続ける。疲れたら、その辺の店か何かで休めばいい。それも嫌になったら自転車を捨てて、タクシーでも拾えばいい。電車が動いていればそれで帰ってもいい。
「ふう、ふう、ふう……」
一時間近く漕ぐ。十キロ程度、雨射川市に近づいたことを標識と地図で確認する。
「?」
今、一級河川にかかる陸橋を越えようとしている。河の両岸には、野球やサッカーができるクレーのコートがいくつも設けられている。コート以外にも芝があって、犬を散歩させている人や家族でフリスビーを投げて遊んでいる人が見える。
その中に、変なのが混じっている。
「……」
自分の視力は悪くない。けれど、気のせいか前以上に良く見える。だからその、変なのが、より一層不吉に映る。
ズズズズズ……
ブルゾン、シャツ、パーカ、パンツ、スニーカー。それらは特に問題ない。どこかにいそうな男と言えばそれまでの姿。
ズズズズズ……
その黒のブルゾンを着た不良っぽい男は今、引きずっている。誰も載っていない車いすを。
ズズズズズ……
ベビーカーじゃない。買い物用のカートじゃない。確かに車いす。しかもそれを押しているんじゃない。右手で握りの部分を持って、横倒しになった車体をズルズル引きずっている。そのせいで使われていないクレーコートの上に深い溝のような軌跡が男の後ろに残っている。
「なんだ、アイツ……」
異常なほどよく見える眼で、顔を確かめる。
……。
……なんて日なんだ。今日は。
「セーイチ」
饗庭先生よりも、本人だと分かりやすかった。饗庭先生は俺の三年生から六年生までずっと同じ担任だった。その俺と五、六年生を同じクラスで過ごした男が今、橋の下で車いすを引きずって歩いている。
「何やってんだよ、アイツ」
的野成市――。
親友と言えば、親友だった。嫌な記憶なんて一つもない。むしろわがままな俺の相手を嫌な顔一つせずしてくれた、本当の意味でいい奴だった。どスケベだったけれど。
「はあ、はあ、はあ」
今度は、心は俺を縛らなかった。自転車の向きを変えた俺はタマを置いていく勢いで、陸橋の下の的野の元へと急いだ。
「セーイチ!」
「……」
黒のブルゾンが止まる。こっちを見る。
「誰だ、アンタ」
「俺だよ。ノモリガミソーマ」
「……」
「……覚えてないか」
「ノモ……そっか、ソーマか」
ヒッヒッヒッと的野は肩で笑うとそのままボロボロと泣き始める。
「ソーマか……」
的野の手から握りが離れる。車いすが倒れる。
「ひっ、ひっ、ひひっ……」
そのまま的野はクレーの地面に転がり込み、右手で目元を覆い、泣き始めた。
「どうしたんだよ、お前」
「ぐすん、ぐすっ……」
声をかけても的野は答えず、泣いていた。状況に慣れてきて、俺は周囲を見渡す。河の傍だけあって、風が強い。渡り鳥の群れが水面に体を浮かせ、揺蕩っている。
俺は車いすを起こし、古い友を起こしにかかる。
「大丈夫か?」
「……ああ。ごめん」
ようやく、的野の声が聞こえる。声変わりが早かった友人の声は、あの時のままだった。
「お前、本当にソーマか」
腕で顔半分を隠していた的野が潤んだ目でこっちを見て言う。
「デカいな。あっちもデカくなったか?」
つまらない冗談も添えて。
「さあな」
「元気だったんだな」
「へへっ」と笑いながら、ゆっくりと上体を起こす。俺は背中に付いた的野の土を手でパッパと叩き落とす。
「どうした、なんでこんな所にいる?」
「車いす引きずって歩いている奴に言われたくない」
「ん、ああ。そうだな……」
的野はぼんやりとした目で俺の起こした車いすを見ると、ヨロヨロと近づいていき、そしてシートにドカッと腰を下ろした。
「押してくれ。もう歩けない」
「ふざけんな」
「……」
「……」
仕方ないと思って車いすを押そうと足を一歩出した時、的野はハンドリムを掴んで自分で進みだした。
「飯でも食おう」
背中で俺にそう言う。
「……」
俺が自転車のスタンドを上げてまた的野を見た時には、的野はもう車いすから降りていた。
ガンッ!!
「!」
的野が車いすを蹴飛ばす。岸の端に置かれた車いすはそのまま坂を転げ落ち、河の中にドボンと大きな音を立てて落ち、そのまま沈んでいった。
「あれ、いいのか」
車いすを突き落として俺の下に戻ってきた的野に、尋ねる。
「いいんだ。もう」
疲れた笑みを浮かべる的野は俺の肩に腕を回す。
「うまい焼肉屋が近くにあるんだ。行こうぜ」
「お前、この辺に住んでるの?」
「ああ。つい今まで」
「?」
「何でもない。早く行こうぜ。オゴるからよ」
結局、その“うまい焼肉屋”に行ったのはさらに一時間半後のことだった。
「気になるからやっぱお前、チ○コ見せろ」
「何でお前に見せなきゃいけないんだ。自分ので満足してろ」
「冗談だよ、なあ、焼き肉の前に風呂へ行くべ」
本人の話ではここ一週間近くまともに風呂にもシャワーにも入っていないという話だったから、仕方なく銭湯を見つけて銭湯に入る。タオルを借り、脱衣所で服を脱ぎ、浴室に入り、体を洗う。
「やっぱりデケーな」
「余計なお世話だ」
「けれど皮……!?」
「黙れ!クセェお前はこうしてやる!!」
置いてあったボディソープから液をありったけ掌に溜め、一気に的野の顔にかけて擦る。びっくりして的野が椅子から転げ落ちてタイルの上にひっくり返る。そこに桶に溜めていた冷水を俺がぶっかける。
「ぷへっ何すんだよ!ごへっ!お前、ふざっけんなよ!」
「あはははははっ!」
大笑いしながら、一体何年ぶりにこんなに笑ったんだろうと心の底で日めくりカレンダーを過去へと辿る。辿れば辿るほど、過去は暗く、重く、黒かった。
「は~あ、いい年こいて馬鹿みてぇ」
「まったくだ。あれ、そう言えばお前、手首に包帯なんて巻いてどうしたんだ?」
「ん?ああ、これか。タトゥーを昔入れたからそれをとるためにちょっと前に手術したんだ。何かダサいからよ」
「じゃあ最初から彫るなよ」
「それな」
背中を流し合い、熱湯のように熱い湯船に我慢比べでつかり合い、そしてクラクラしながら銭湯を出る。
「あそこだよ、ほれ」
そうしてやってきたのが的野お勧めの焼き肉店だった。
「何食いたい?」
「適当に頼めばいいんじゃないか?」
「馬鹿だなお前、焼き肉には食い方っていうのがあるんだよ」
「そういうの知っているなら任せる」
「当たり前だ」
「じゃあ聞くなよ」
「ビールは?」
「俺たちは未成年」
「じゃあお前は白い米な」
座敷席に座った後、メニューを見ることなく的野が店員のオバさんを呼び、カルビとビールとご飯を注文する。カルビには様々な種類がこれまたあるらしく、オバさんと的野の間でひとしきりやりとりが行われた後、オバさんが俺に向かって「飲み物はビール?」と聞く。「ウーロン茶をお願いします」と言うと、オバさんはさっさと厨房の方へ消えた。
「大丈夫か」
「ここのカルビか?うまいぜ」
「そうじゃなくて酒なんて頼んで」
「心配ねぇって。それより本当はお前も飲みたいんじゃねぇの?」
「興味はあるけど、法に触れるからやめとく」
「はは、法に触れる、か」
ビールとウーロン茶とボウル一杯に入ったキャベツが運ばれてくる。「乾杯」と言ってグラスをぶつける。
「法になら、とっくに触れてる」
的野がぼそりとそう呟いて白い泡と金色の液体を一気に喉に送る。その意味を考えながら、俺はゴクゴクとウーロン茶を同じように飲み干した。
「ニアって言うんだ」
互いにビールとウーロン茶をもう一杯ずつ注文し、それが出てくるのと同時に、カルビが運ばれてくる。カルビを熱くなった炭火の上の網にトングでのせながら言った。
「え」
「彼女がいるんだ。俺の彼女の名前がニア。新しい愛って書く。キラキラネームだな」
トングをカルビの盛られている皿に戻し、箸に持ち替え、キャベツをつまむ的野がへへっと笑う。
「お前はいないの?そういう連れ?」
「……」
どう答えようか、迷った。
「これ、摩っていいの?」
「ん?ああ、やってくれんのか」
カルビと一緒に運ばれてきていたおろし金と生ワサビを俺は手に取り、それを的野に教えてもらったように小皿の上に摩る。
「いたよ」
「いた?じゃあ何、お前、別れたわけ」
「殺した」
言って、自分の心拍数が急上昇するのを感じる。おろし金を握る手が滑る。ワサビを擦る速度が乱れる。
「!」
「嘘だよ。別れた」
おろし金を握り直す。擦る速度を戻す。心を落ちつける。
「……そうか」
的野に止められ、ワサビを摩り下ろすのをストップする。的野はまだ完全には焼けていなさそうなカルビを一枚トングでさっと取り上げ、俺の皿と自分の皿に二枚ずつ運ぶ。ワサビを肉の上にのせて食べる的野を真似て、俺もワサビを肉に乗せて、口に運ぶ。噛めば噛むほど濃厚な脂の潤味が口いっぱいに広がる。けれどいつまでも留まって濁らない。新鮮で辛すぎないワサビが濁るのを抑える。澄んだ後味だけを残して消える。刃物で竹を袈裟切りにしたような鮮やかさが頭にちらつく。
「メチャクチャうまくて、頬が落ちそうだ」
「アバラのとこの肉なんて硬くて筋が多いもんだけどよ、ここのはマジでうまいんだ。たまんねぇだろ?」
自分を褒められたかのようにうれしそうに顔を崩す的野を見て、ここにきてコイツに会えた偶然のありがたみを肉と一緒にかみしめる。水希を失った悲しみに少しだけ光があてられるような予感がした。
「ミズキって言うんだ。俺の彼女だった人は」
「そっか。……ヤッた感じはどうだった?」
「馬鹿。お前じゃないんだ。そんな……」
「じゃあヤッてないのか?」
「そんなことどうだっていいだろ」
「あっ、おい。お前一気に肉をそんなに!もったいねぇだろ」
「いいだろ。お前のおごりなんだから」
「マジか~。もうお前とはここに来ねぇ」
肩ロース。肩バラ。うちもも。そともも。芯玉。タン。ハツ。ミノ。ギアラ。ハラミ。大腸。直腸。
続々と運ばれてきた肉をオカズに、椀に盛られた白米をどんどん平らげる。自分はこんなに食えるのかとびっくりするくらいに食事は進んだ。「俺はやらねェけど旨い食い方があるんだ」と俺の米食いを見ていた的野がオバさんに頼んで、生卵を椀に入れて出してくれる。米にしみこんだ肉の汁に溶き卵を混ぜ込み、卵かけごはんが完成する。食事はさらに加速する。
「よく食うな、まあ、お前みたいにガタイのデケー育ちざかりの高校生ならそれくらい普通か」
注文してあったナムルを摘まみながら、的野がぼやく。ぼやきながら、ポケットから煙草を取りだす。こいつは煙草もやるのか。
「正直自分でも驚いている……?」
左手の指に持った煙草を口にくわえて火をつける動作をしている的野の、その左手の小指につけている指輪に目が行く。
「どうした?」
火をつけ終わり、ライターをしまい、煙の最初の一吐きを済ませた的野が顔を赤くしながら聞いてくる。
「え?あ、いや。なんでもない」
「あ~。酒呑みながら吸うとよ、酔いが一気に回ってくる。もう、このまま死にてぇ」
上空に向かって煙を吐きながら、背中の柱にもたれかかって目を瞑る的野。
「……」
俺は、見ていた。何を?指輪。違う。俺は指輪を見ていたんじゃない。見ていたのは、指輪を付けている指。壊死とは違うけれど、明らかに色が変色している。何かが体を流れている。何かは細胞を表立って壊さず、見てくれは保っているものの、少しずつ中を穢し、蝕んでいる、そんな予感をもたらす色。不幸の色。
「その指輪は?」
「……」
目を瞑っていた的野がゆっくりを目を開く。遠い眼で俺を見る。
「指輪?」
「お前の左手の指輪。お前のじゃ、ないだろ」
「……昔から鋭い奴だと思ってたけど、お前ってやっぱし、どっか違うんだな。ウッフフ」
的野が姿勢を戻す。
「おばちゃん、ハイボール」
初めてビール以外の飲み物を的野が注文する。
「お前は?ハイボール?」
「俺は、まだあるからいいよ」
「そっか。もう食わねぇの?」
「……ああ。ちょっと急いで食い過ぎた」
「そっか。俺は逆に腹が減ってきた。ちょっとションベンしてくる?」
「俺も行くよ」
「何、連れション?それとも俺のまた見てぇの?」
「お前が俺を置いて逃げやしないか見張っててやるよ」
「ああ、そういうことか。じゃあ保証人だ」
パンツから二つ折り財布を取りだしてポンとテーブルの上に投げ置く。
「お前こそ、ちゃんとそこにいろよ」
「ああ。待ってるよ」
「サンキュ……財布の中に写真入ってんだ。ニアの。見てもいいけど、オカズにすんなよ」
「いいからさっさと行け」
「へ~いへい」
ヨロヨロと的野がトイレに消えていく。
「……」
的野の財布を開く。中からクシャクシャになった一枚の写真を取りだす。コートにダウン、それからスウェットにスカートを身につけた、清潔で洗練された感じの女性が車イスに乗っている。それを押す、ブルゾンを着た野獣みたいなブ男。不釣り合いだけれどどちらも楽しそうにカメラに向かって笑顔を送っている。写真の裏に人の指の形の血痕がついていなければ完璧な写真だった。
トイレに消えていった的野は戻ってくる。隠れてコソコソ見るつもりなんてない。そう宣言するつもりで、どうどうと財布の中に写真を戻し、財布自体を元の場所に戻す。
「ふう。すっきりした」
的野がその財布をポケットにしまいながら、残っている生肉を再び焼き始める。
「この指輪はさ、ニアのなんだ」
「へぇ」
「ニアと付き合い始めたのは高一の春。高一の冬に俺は学校やめてるけど、ニアとはそれでもずっと付き合ってた」
「今は?」
「いない。別れた」
「いつ?」
「……今日」
「……」
俺の箸も、食欲も当に止まっている。ウーロン茶を少しずつすすりながら、指輪を、指輪にくっついた指を観察している。
「学校面白くなくってさ。冬に止めて、それからバイクの転売とかやってさ。それなりに金はあって、結構楽しかった。ニアと二人色々馬鹿やったりして、あれって、すげぇいい思い出だなぁ、ほんと」
話しながら、肉を食い続ける的野。
「だけどさ。分からねぇんだ」
「何が?」
「ソーマはさ。神様っていると思う?」
「神様?……いきなり何言ってんだ?」
「……」
「……いるかどうかなんて分からない」
「分かるか分からないか、じゃねぇ。お前はいると思うかって聞いてるんだ」
「いない。俺はいないと思う。いるとすれば、精霊くらいかな」
「ぷっ、なんだよそれぇ?神様はいなくて精霊はいるってか?ははっ。同じじゃねぇか」
「そうかもな。……残酷なところは」
「?」
「なんでもない」
「……俺はさ、神様はいると思う。いるけど、ソイツはたぶん、人みたいな気分で動く奴とは違うんだ。たぶんよ、ロボットみたいな奴だと思うんだ。サイコロをふるマシンみたいなのがきっといて、そいつが出た目を見て、俺やお前の前にコロコロ試練や幸せを与えてる気がする」
「どうしたんだよいきなり……大丈夫か?」
「お前も酔っぱらえばこんな話の一つや二つくらいしたくなるって。飲むか?マジで頭がボンヤリして悪くない気分だぜ?」
「いや、それは二十歳になった時の楽しみにとっておくよ。その時にビールで乾杯しよう」
「いいねぇ。悪くねぇな」
既に生肉を、手づかみで生のままで食い始めている友人がいる。指の色はさらに変じていく。口元が赤く染まる。クチャクチャクチャと音が響き始める。
「ニアが高校二年の夏だったかな。アイツ、交通事故に遭ったんだ」
「そっか」
「信じられなかった。あんなに幸せで、二人でいる時がメチャクチャ幸せで、何やっても、何してても幸せで、本当に幸せがこのままずっと続くに決まっていると思っていた矢先だぜ?クソ乗用車にはねられて半身不随。車イスになった」
「……」
「でもよ。しばらくして気づいたんだ。別にいいじゃん。まだ生きてるんだからって」
「死んでないんだもんな」
「そうそう。確かにアイツの世話をしながら金稼ぐのは正直しんどかった。世話っつーのは……アイツの家、母子家庭で、お袋さんは水商売だからさ。好きな男の所へ稼いだ金は消えてくらしいけど……とにかく俺の寝る暇なんてほとんどねぇよ。でもさ、アイツは車にひかれてもまだちゃんと生きてるんだぜ?考えてみたらあんな重くてデカい箱にひかれて生きてるんだから、これはひょっとしたらすっげぇラッキーなんだって俺はよ、思うようになったんだ。神様はまたサイコロを振って、今度は良い目が出たんだ。きっとって」
血と脂まみれの手で牛の小腸を弄っている的野を見る。目は涙ぐんでいる。その涙ぐんだ男は今、牛の小腸に口をつけ、空気を吹き込んでふくらまし、それに飽きて生のまま口に運び始める。室内は至る所、肉を炙る炎の煙と音が充満していて、幸いまわりの客はこっちを気にも留めない。
「ニアをひいた奴はマジで殺してやりたいと思ったさ。でもよ、考え方によっちゃ、俺とニアはお陰でさらに絆が深まったんだよ。それはそれで、よかった。車イスで今はどこでも行ける世の中だからさ。それはそれで何とかなるもんなんだ」
「……」
「でもよ、何とかならなくなっちまった」
手に持っていた肉を口に全部運び終わった的野は、自分の左手の小指にはまっていた銀の指輪を取り外す。テーブルの上にコトリと置く。
「もっと肉食わねぇ?」
「俺はもういい」
「そっか」
「食いたいなら今頼んでやるよ。何がいい?」
「何でもいい」
「順番とかあるんじゃないの?」
「もういい順番なんて。とにかく肉が食いたい。死ぬほど腹が減ってきた」
「……分かった」
注文のついでに布巾の交換をお願いし、布巾が新しく運ばれ、しばらくして肉が運ばれてくる。
「焼かないのか?」
「どっちでもいい。生肉も案外いける。お前も食う?」
「やめとくよ」
的野が生で食う前に肉の乗った皿をこっちに取り上げ、肉を無理やり金網に乗せて、俺は焼いたものを的野の皿にバンバンのせていく。的野は生食を諦め、焼かれた肉をモグモグと食い始める。
「最近、街が変なんだ」
「ニュースでもすごいよな」
「インフルエンザだか花粉だか何だか知らねェけど、よくねぇ病原菌が蔓延しているとかって話。お前も聞いたことあるだろ」
「もちろん」
「たぶんあれに関係している気がする」
「何が?」
「……」
「彼女のことか?病院に搬送されたのか?」
「違う。……いや、そうじゃない。けれど、その……」
様子がおかしい。さっきからおかしいけれど、さらに様子がおかしい。
「大丈……」
「変な奴がいて、その変な奴が俺たちに襲いかかってきたんだ」
手づかみで焼肉を食っていた的野が何かをフラッシュバックしたらしく、金網を見ながらカタカタ震えている。落涙が始まる。
「ニアと二人で、その日も散歩してた。日課だったんだ。決めたコースを決めた時間に散歩する。俺が車イスを押すんだ。それで、その散歩の最中に、いたんだ」
「何が?」
「分からねェ。あんなの、初めて見た」
「……人じゃない、人」
「それだ!そう、そうとしか、言えない。お前も、見たことあるのか!?」
口元に脂をべっとりつけた的野の目が大きく見開かれて、俺を見る。
「いや…………知り合いに聞いた。そういう類が最近出没するって」
「……」
的野の目から力が消える。
「……」
互いに動かなくなる。俺はテーブルの上の指輪を見つめたまま。的野は目の前に置かれた焼いた肉を見つめたまま。
「調子悪そうに俺たちの前に這いつくばって、それで、声かけたんだ。『大丈夫ですか』って。ニアの奴が、イスから身を乗り出して。そしたらよ、いきなりニアの脚に噛みついてきやがったんだ」
「……」
「最初は、レイプ目的のクソ野郎だと思ったんだけど、違ぇんだ。目が、目がねぇんだよ。悲鳴あげるニアからソイツのこと引き離して一発ぶん殴って、それで、それで顔をよく見たら、目がねぇんだ」
「……」
「死ぬほど怖かった。死ぬほど怖くて、殴った直後に体が動かなくなってよ。でもそしたらまたニアに向かって突っ込んできやがった。……ニアの悲鳴がもう一回上がって、俺は頭の中が真っ白になった」
「……殺したか?」
「へ?」
「その化け物みたいな奴は、殺したのか」
「ああ。……気が付いたら、血まみれだけど息はまだあるニアが倒れた車イスの傍で泣いてた」
「……お前は、化け物を殺していた」
「……」
「お前は傷を負わなかったのか?」
「俺は、大丈夫だった。化け物みたいなのを殺して……なあソーマ、あれは絶対に化け物だよな!?」
「ああ」
「そうか。……化け物を殺した後、俺はとにかく車イスにニアを載せて逃げた。どこかにニアと二人で遠くに行こうかとも考えたけれど、かえって居場所が分からなくなる方が疑われるかもしれないと思い直して、俺の家に戻った」
「……」
「ニアが噛みつかれたのは脚と腕だった。病院に連れて行こうとしたけどニアが絶対に嫌だって言って聞かなかったんだ……そんなことしたら、俺が化け物殺したことが警察にばれるからって……ううっ、うっ、うう……」
「……」
「薬局に行って傷薬と包帯を買ってきて、あとはネットで治療の仕方を調べまくってニアを介抱した。家に帰ってから熱がひどくなって、眠ったと思ったらうなされ続けて、異常なほど汗をかきまくって、それで……」
「……ひょっとして、これ以上は聞かない方がいいか?」
「いや。……聞いて欲しい。最後に、最後まで、聞いて欲しい。これを逃すともう、……俺お前と、二度と会えない気がするから」
「……食うか?肉」
「……」
的野の口からよだれが出る。目が落ち窪んでいる。顔色も変色が始まっている。
「聞こえてるか?」
「ああ」
的野がそのとき、赤熱する炭の上の金網に、左手を置いた。
ジュウウウッ!!
「おい!何してんだよ」
「もう、痛みもねぇや」
ゆっくりと金網の上から左手を戻す。手をひっくり返すと、金網模様に手のひらが焼けただれていた。
「ニアは日に日に弱っていってよ、それである日を境に、変わったんだ。それまで飯も咽喉を通らない日が続いていたのに、ある日突然、肉を食わせろって」
焼けただれた自分の手のひらから流れ出る血を寂しそうに的野が舐める。
「最初は喜んださ。飯を食えば元気になるって思ったから。でも、違った。食っても食ってもニアは痩せて行って、それでとうとう、目が消えた」
「……」
「俺が用意する肉が足りないからって暴れ出して、とうとう俺を食おうとしたよ。一年も車イス生活を続けていたはずなのに、神経がダメになって歩けないはずなのに、その時は俺のことを思い切り蹴飛ばしてものすごい速さで突っ込んできた。俺を押し倒して馬乗りになって……ニアに噛みついた奴ともう何も変わらなかった」
「それが、今日」
「……ああ」
「殺した?」
「今度は、最後まで自覚があった。首を絞めても、首が折れても、ニアは向かってきた。頭をカチ割っても向かってきた。けれどたまたま、アイツが暴れて折れた机の脚に体が突き刺さったとき、電池が切れたみたいにアイツは死んだ」
「……彼女に噛みつかれたか?」
「どうしてそんなこと聞く。俺もまさか、ああなるのか」
「……腕の包帯、本当は彼女にやられた傷だろ」
「……」
「……」
「あいつの死体は、家にまだある。……指輪はここだけど」
「車イスも川の中、だろ」
「……殺してくれ」
「……」
「俺は、あんな化け物になりたくない。……なっちまうのは、仕方ないにしても、ニアのせいでなるんだから仕方ないとしても……もう、誰も傷つけたくねぇ」
「……」
「……ごめん。探すわ」
「何を」
「死に場所。……お前なら化け物になる前に死ねるって言ってくれ」
「……」
「行くわ、もう。また食いたくなってきちまうといけねえから」
的野はそう言って財布を取り出し、中に入っていた現金七万円を置く。
「支払いは頼んだわ。あと、俺の最期に付き合ってくれたお礼」
「……」
的野はよろよろと立ちあがる。
「死なせたくねぇな」
俺を、か。他の人を、か。
「この愛だけは。……なんてな」
……。
「お前の家、どこ?」
店を出ようとする的野の背中に声を送る。
「どうして聞く?」
振り返る。両目が痙攣したように小刻みに動き、あらぬ方を既に向いている。
「家の後始末は、やってやるよ」
「……ごめんな」
「ダチだから特別だ」
「……あばよ」
的野が口頭で住所を告げて、店を出ていく。魔隷になりかけているなら、なる前に殺すべきだったと呟く俺の中の俺。
「そうかもな……」
俺は的野が残した金で支払いを済ませる。残りの金と指輪を熱の残る金網の上に投げ捨て、俺は店を出る。
教えられた住所を思い出しながら、的野の家に向かう。途中立ち寄ったコンビニのトイレの中で口に指を突っ込み、焼肉屋で食べたものを全部吐き出す。
「ふう、ふう、ふう、ふう……」
目を瞑る。神経を研ぎ澄ます。消化にエネルギーなんて使っている場合じゃない。
「ありがとうございました」
口を漱ぐミネラルウォーターと闇を照らす懐中電灯を買って出る。
「ここか」
やがて的野の家につく。二階建ての大きなぼろアパートの一階の部屋。
「一〇三号室、と」
深呼吸をし、ストレッチを簡単に済ませ、ポケットの中のナイフを確認した後、懐中電灯を灯して的野の家の扉を開ける。散乱した家具がすぐに目につく。
「……」
取っ手を握ったまま、静止する。神経を研ぎ澄ます。
……。
闇にまぎれる気配に気づき、懐中電灯を消す。
「ゥゥゥゥ……」
頭上からまもなく声が漏れてきて、何かの液体とともにポタリと降り注ぐ。
「ふぅ……」
視覚が効かない恐怖に支配されないよう、視覚以外からの情報に集中する。音、ニオイ、温度、触覚。的野の“元”カノは四肢を使って天井に張り付いているらしかった。
ヒュウンッ!
魔隷が飛び降りようと体を動かす気配を感知し、即ステップバックする。
ズチャッ。
「ゲアアアッ!!」
とびかかってきた魔隷の左腕をドアと壁で挟む。
ゴオンッ!!
「グエッ!?」
扉に体を押しあてたまま俺はポケットからナイフを取り出し、挟んだ腕の骨に平行にナイフを突きさし、筋肉を裂く。鉄のニオイのする体液が噴き出す。
「オオオオオオオオッ!」
ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンッ!!
挟まれた腕を引き戻そうと魔隷は扉の向こう側で暴れるけれど、肘から手首まで裂いたナイフが刺さったままのせいで、それがカンヌキのようになって思うように引っ込められない。
ゴブシュッ!
何度も引っ込めようともがくうちに、魔隷は自分で手首から手まで裂いてしまう。ナイフが落ちる。
バダァ――ンッ!
腕が引っ込み、扉がものすごい音を立てて閉まる。一瞬の間音が止み、自分の荒い息だけが闇に響く。
「!?」
そのとき、はっと気づく。アパートの外にある電灯が三つのシルエットを闇に映し出す。一つは頭上、二階の外廊下にぶら下がる影。口には死んだ猫らしきものを咥えている。もう一つは一〇二号室の扉にもたれかかる影。血に染まった白のビニール袋をかぶせられていて、首と両腕には電気コードがグルグルに巻かれている。もう一つは這ってこちらに近づいてくる影。四肢の向きがバラバラだ。
「はあ、はあ、はあ……」
魔隷。間違いなく魔隷。人知れずなったか、徐々におかしくなるのを周囲に気づかれて一旦人間として殺されたか、たまたま轢かれたか、知らない。けれどとにかく、魔隷。
ガシャン……
扉の向こう側で小さく窓の割れる音がする。一瞬それに気を取られてふとまた三匹を確認すると、外廊下にぶら下がっているのとビニール袋の奴がいない。
ムシャムシャムシャッ!
「ウ、アウ……」
這っていた魔隷を、残り二匹が喰い始めている。……共食い。
「ふう、ふう、ふう……」
吐くだけ吐いたおかげでもう出ない。
ムチュ。
足元で音がする。首のない猫が立ち上がる。
「うおおおっ!」
思い切り踏みつぶす。恐怖を塗りつぶす。怒りで塗りつぶす。
ドンッ!
「!?」
突然後ろからタックルを受けて転倒する。誰にやられたのかを確認する前にそれは俺の上に馬乗りになる。
「ヴォアアアアッ!」
左腕の裂けたソイツは俺の顔面を食おうと顔を近づけてくる。ニアとかいう的野の彼女だったと思い出した時には、俺の体はとっくに魔隷をぶん殴り、体を放り投げていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
再びとびかかってきた魔隷と揉み合い、ねじふせ、傍に置いてあったコンクリートブロックで頭をカチ割る。
「はあ、はあ、はあ、はあ……!?」
共食いを続けている二匹とは別に、さらに二匹の魔隷らしき者が素早くこっちに移動してくる。割れたコンクリートをぶん投げ、すぐに頭をカチ割った魔隷から飛び退く。
「ヴォ、ヴォアアアッ!」
グシュグシュッ! ムチャリ、クチャリ……
相手の目的は殺戮ではなく、あくまで食事。肉への渇望。
ビチャビチャ。クチャリ、クチャクチャ……
「はあ、はあ、はあ、はあ」
的野。
お前さっき、何って言ったっけ。
カチャンッ。
「この愛だけは、死なせたくない、か。……ふふ。無理だよ」
バイクを見つける。
「同情しちゃダメだ。人間だと思っちゃダメだ」
解析機関、展開。
「全部死なせなきゃダメだ。こいつらはもう、無理だ」
オイル、チョーク、サーモスタット、カーボン、エンジンハンガー、シートレール、スポイラー、ワッシャー、クランクケース、カラー、ベアリング、エンジンスライダー……
「こいつらは食われる。愛も何もかも無くして。誓いも何もかも亡くしてこいつらは食う」
ゼータプロトコル改殖。階差エネルギー計算終了。不定域イデアル創環。
「愛も含めて、コワシテヤル」
魔動鋸。マドウノコ。発動。
ブオンブオンブオォォォ――ンッ!!
「「「「?」」」」
情けとか、復讐とか、義理とか、面倒なことはいちいち立ち止まって考えるな。
ウイイイイイイイイィィィィンッ!!!!
「ゲアァアッ!?」
こいつらが食うときに何か考えるか?いや、何も考えちゃいない。一心不乱に食う。
ウイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!!!
なら、俺は?
ジュバアンッ!!ウイイイイイイイイイイ!!!
「ヴォアアアッ!」
一心不乱に壊す。魔隷を見たら即壊す。魔隷を殺すために壊す。それだけだ。
「……」
気づけば、切り刻んでバラバラになった死体の山があった。それを見ても、別に何も感じなかった。何も感じず、俺は手にチェーンソーを持ち、チェーンソーで近づいてくる魔隷を片っ端から解体しただけだ。
「簡単じゃないか、ふふ」
リュックからケヌサピエの入った小瓶を取りだす。蓋を開ける。黒い靄のようなものが立ち上り、魔隷の死体を処理している間、俺はアパートの中に入る。ストープのある家から灯油の入ったポリタンクを見つけ出し、その中身を部屋にぶちまける。持っていたライターで火をつけ、ライターも部屋に捨てる。そしてチェーンソーも。
「迷わず焼く。肉と一緒だ。ふふ……ふふふふふ」
焼き肉店で交わした“約束”を果たした俺は、ケヌサピエの瓶をリュックにしまい、燃え盛るアパートを後にした。
いつまでも兵隊を量産するわけにはいかない。兵隊の量産には限度がある。ならば兵隊を殺し尽くせば城にこもる王は姿を見せざるをえなくなる――。
これが、俺とイオスの選んだ戦略だった。戦略と呼べるかどうかは分からないが、とにかく俺たちのとった戦術だった。
魔隷は昼も夜も関係なく動く。だから俺たちのやることは昼も夜も関係ない。即ち魔隷を見つけ出し、てきぱきと破壊することだった。
イオスの言った通り、時間が経つにつれて、魔隷のニオイのようなものがわかるようになってきた。タマのお陰かどうか。たぶんお陰なんだろう。住宅地を放水車に変え、バイクをチェーンソーに変えられる“技術者”だ。俺の嗅覚に“アクセサリー”をつけることくらい造作もないことなんだろう。
とにかくそれで、俺は新参の魔隷くらいなら、一人でも確実に屠れるようになった。
命を晒す戦いの反復は、技の無駄を彫琢し、錐のように研ぎ澄ませ、効率を上げていく。
武器の先端に、あの“黒い蟲”を予め塗っておく。魔隷をつくる菌を好んで食べる変わった蟲ケヌサピエ。
魔隷になったばかりの“素人”に対しては後ろから近付いて行ってその仕込み武器を見舞う。武器は悪質業者に不法投棄された病院の太い注射器である場合もあるし、量販店で購入した安物ナイフの場合もある。魔隷はケヌサピエを直接体内に食らえばすぐその場でヨロヨロとなり、俺はそのまま近くのベンチかなんかに一緒に座る。介抱しているふりをしているうちに、彼らは泡沫の夢のように消滅した。誰も気づかない。
“素人”を相手するほうが多かった。けれど希に“玄人”の相手もする必要があった。末期となった魔隷の相手をするのは文字通り命がけだったが、助けてくれる人はいない。イオスはもう、俺の傍にそうそういない。
「変異種?どうなってるの……」
傍にいられなくなったのは、末期となった魔隷以上に手強い怪物が現れるようになったからだった。魔隷に酷似しているけれど、魔隷でいう眼球のような決め手となる弱点がなかった。傷口は菌糸のような、奇妙な臭いのする白い糸で即覆われ、しかも元々よりも頑丈になる。かと思えば突然何でもない攻撃で自然崩壊する。その共通項は全くの不明で、こっちはひたすら相手が崩壊するまで辛抱強く破壊し続けるしかない。さらに質が悪いのは、菌糸はその辺に転がっている死体やらゴミを強引に巻き込んで、体の一部に利用した。糸に巻き込まれた死体は蛇の腹の中のネズミのように溶かされて怪物の肉に手繰り寄せられ、怪物を大きくした。かと思えば打ち捨てられたビニール傘の束が怪物の傷口から手ぐすねをひく菌糸によって取りこまれ、気づけば怪物の体から傘の骨が釘のように飛び出していた。
しかも怪物は、イオスだけを執拗に狙った。俺がいくら攻撃してもこっちには見向きもせず、ただひたすらイオスだけを狙っていた。
「私だけを狙っている以上、一緒にいるのは時間の浪費ね。新手が現れた今、あなたは通常の魔隷を狩り、私は新手を少しずつ狩る。しばらくは別行動をしましょう」
バラバラに行動するようになったのはこういう理由からだった。
……。
でも、正直ありがたかった。
あのシルフと一緒にいるのは苦痛だった。こっちは何となく、イライラしていた。
何を考えているのか、腹の底が読めない奴と一緒にいるのは苦痛だ。常に警戒していなければならない。自分の背後を歩かれるのが怖い。懐に手を隠すのが怖い。目を光らせてこっちを見るのが怖い。怖い。怖い。
「要らない。あんな奴要らない。早くラヴラ出てこい。くくく……誰も彼も挽き肉にしてやる。完全に壊してやる」
汗と血と泥にまみれ、傷だらけになりながら末期の魔隷を撲殺した俺は、ケヌサピエの入った瓶の蓋を開けながら未だ姿を見せぬ敵に向かって吐いた。俺の祈りを。あるいは敵への呪いを。