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Wind Breaker  作者: 雨野 鉱
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一滴

 一、  赤外


 コンコンッ。

 俺の担任が、生物準備室のドアをノックする。

「はい」

 まもなく、白塗りの木製のドアが開く。

「失礼します。ああ、どうもすいません」

「どうかしましたか」

「ちょっと生物室をお借りしてもよろしいですか。生徒指導絡みの件で、事情聴取をしたいんです。ほかの部屋が全部埋まっていまして」

「ああ、そういうことなら。どうぞ。今開けます」

 生物の教師はそう言うと、一旦部屋に消える。しばらくして準備室隣の生物室の扉の鍵が回る音がし、扉が開く。

「ありがとうございます」

 担任は生物の教師に頭を下げ、俺を生物室に誘う。生物室に俺は入り、担任が後に続く。準備室に生物の教師は消える。

「今回の件は知っていたのか?」

 生物室の鉄製の扉がガタンと閉まると同時に、担任は言った。

「いいえ。興味がありませんから」

 理科室ならではの黒い実験用テーブルをぼんやり見ながら、後ろの担任に背中で答える。

「その辺に座れ」

「はい」

 すわり心地の良くない木の椅子に腰を下ろす。

「部活をやめたこととも関係がないのか」

 テーブルを挟み、俺と向かい合う形で担任も座る。

「ありません」

「……おい。相手の目を見て話すんだ」

 言われて俺は担任の目を見る。

「ネットに、お前への誹謗中傷があった。書き込んだ連中の事情聴取を進めたら他にもいろいろやっていることが分かった。奴ら自分たちで口を割ったんだ。被害者のお前が何かを隠す必要なんてどこにもない。何をされたのかちゃんと言ってみろ」

「いいえ。何もされていません」

「誰かに何か弱みでも握られているのか」

「いいえ。ただ何かをされたとしても、もう覚えていません」

「……」

 担任は薄くなり始めた白髪交じりの自分の髪の毛を手で軽く掻く。脂ぎった鼻にかかる担任の眼鏡を見つめながら、俺はこの“儀式”が早く終わるのを待つ。

 どうせ、何も変わらない。

 良くも悪くもなりはしない。

 陰湿なイジメは確かにされた。けれど、どうせそんなのあと数か月もすれば終わる。卒業すれば終わりだ。大学の推薦も決まった。じっと耐えていればこの環境は自然に消滅する。だから耐える。

 耐えるというよりも、何も感じないようにする。考えないようにする。SNSに何か自分を非難するような情報が流れたとして、それが何だ?

 閲覧しなければ、気にしなければいい。

 事実と異なる情報が流れたとしても、別に死ぬようなことはない。今回みたいに事実を確認されたら、「知らない」「身に覚えがない」と言っていればいい。そうこうしているうちに悪い奴らは消える。消えなくても、飽きる。俺を標的にすることを飽きる。それでいい。イジメを楽しむ連中にとって一番辛いのは相手が反応をしないことだ。無視されることが辛い。だから無視する。

「ノモリガミ」

「はい」

「困ったことがあったらちゃんと先生に相談しろ。何もかも自分独りで抱え込んで生きることは自立とは言わない。それはただの孤独だ。孤独じゃ人は生きられない。もっと周りの人に頼れ。手を差し出せ。そうすれば必ず誰かが手を差し伸べてくれるもんだ。お前の手をとるために」

「分かりました。ありがとうございます」

 そうかもしれない。

 あるいはそうでないかもしれない。分からない。

 でも今のところ、さしあたって必要ない。物理的に俺に危害を加えてくる奴はいない。死んだじいちゃんの遺してくれた“剣道”のおかげで、それはない。けれどその剣道のおかげで、妬まれる。

 遺す――。

 遺伝子とかいう命の設計図。

 それが誰かの命の長さを決め、誰かの性格を決め、誰かの運命を決めているんだろう。運命も性格も環境が決める?

 それはきっと嘘な気がする。何もかも最初から決まっている気がする。じいちゃんの遺伝子が父を創り、父の性格を決め、運命を決めた。母さんを見つけたのも、母さんから去ったのも、遺伝子の中にそういう“仕組み”みたいなものが予め用意されていたからだろう。父のいない俺がじいちゃんから剣を習ったのも、俺が剣以外取り柄がないのも、俺が引っ込み思案なのも、最初から決まっているんだ。

 これからどう変わっていくのかは知らない。周りが勝手にかわっていく。変わるかどうかなんてだから俺は考えない。俺の中の六十兆個もあるとかいう細胞は考える代わりに死なないように生きることに集中する。俺の意識みたいなものはその間、ただ耐えればいい。廊下にある自分のロッカーの中が荒らされたり、ジャージが切り裂かれたり、机の中のものが消えていたり、上履きに画びょうが入っていたり、部室に置いていた防具に脱糞が入れられていたとしても、気にしなければいい。耐えればいい。逃げられるなら逃げればいい。とにかくその場さえ乗り切ればいい。そうすればいつかその事態は終わる。細胞が代謝によって全部入れ替わるように、事態はいつか変化する。それまで俺はじっと心を殺していればいい。

「とりあえず、奴らには厳しい処分があると思うから、安心しろ。もうお前に嫌がらせをする奴はいない」

 担任は少し悲しそうな顔で俺を見た後、そう言って立ち上がる。俺に帰宅するよう促す。

「困ったことがあったら遠慮せず先生に相談しろ。これだけは言いたいってことがあればちゃんと言え。いいな?」

「はい。ご迷惑おかけしました」

 下駄箱で俺を見送る担任に頭を下げて、俺は校舎の外に出る。十一月七日の午後五時二十五分の夜気を静かに吸い込みながら、黙って家へ向かい歩き出す。誰も待つことのない家へ向かって歩き出す。

「本を買って帰るか……また」

 東駈都駅ひがし・くつやま前の古本屋に立ち寄る。

 少ない小遣いで本を買うにはここを利用するしかない。買って、家に帰り、用意されている長い夜を、本を相手にだけして過ごす。そのうちにいつも通り、病院勤務の看護師の母さんが帰ってくるだろう。痴呆を患って施設に入所している祖母の所に寄れば、その帰宅時刻がさらに遅くなる。それだけだ。日々の暮らしの中で違うのは、冷蔵庫の中にある弁当と俺が買う本のタイトルくらいだ。それ以外は変わらない。それだけだ。

「ノモリガミ君」

「え?」

 本屋を出て家に向かって歩いている最中だった。突然後ろから声を掛けられて驚く。

「あ、えっと……ヤナギ」

 頭の中の錆びついた検索エンジンを久しぶりに稼働させる。どうにか名前を引き出すことに成功する。

「これから家に帰るんですか?遅いんですね」

 嫌味ではない、自然な、大人的な敬語。

「うん。まあね」

「いつもさっさと帰ってるのに、何かあったんですか?」

「何もないよ。ただ少し、その、残っていたんだ」

 つまらない嘘をついてみる。ついて、改めてつまらないと思う。

「そうですか」

 居場所などどこにもない学校に俺が残るわけない。何を言っているんだ、俺。

 俺――。

 野守神颯真のもりがみ・そうま――。

 自分のことを意識するのはこうやって誰かといる時だ。だからたぶん、俺は人と関わろうとしないんだろう。

「大丈夫ですか?」

「ああ、何でもない。ちょっと考えごとをしちゃって」

「そう。……あの」

「何?」

「今日なんですけど、バイトのシフトが変わったせいで仕事が、その、たまたまなくなったんです」

「ああ、バイトしてたんだ」

 小遣い稼ぎか。それとも家庭の事情か。まあ、どっちでもいいことだ。

「そうなんです。で……その、お腹空いていないですか?」

「?」

「私今からその辺でちょっとご飯を食べようと思っていたんです。母さんは夜勤で今日帰ってこないので。……よかったらその、一緒にどうかと思ったんですけれど」

「ああ、ごめん。お金ないんだ。本当に」

「ああ、あの、いいんです!お金はその、私が出しますから」

「それは、ちょっと恥ずかしいから。いいよ」

「じゃあそのほら、今もうお金を渡しますから!そうすればあの、ほらあの、私にノモリガミ君がおごってくれたように見えませんか」

「……」

 久しぶりに、本当に久しぶりに俺は俺以外の人間のことを真剣に見た。

 夜凪水希やなぎ・みずき――。

 同じクラスにいるのは知っている。転校生だ。だけどその存在を普段深く考えたことなんてなかった。自分以外の誰かについて考えるのが煩わしいのもあったし、それに俺とは対照的な位置に彼女はいたから。

「お金はいいよ」

 誰かに情けをかけられるのは好きじゃない。

「えっと、あの……やっぱり嫌ですか?」

 でも、人の好意を無下にするのも、あまり気が進まない。

「ちょっと待って」

 俺はいくら残っているか知っている財布を取りだして、中身を確認するふりをする。

「ああ、大丈夫そう。そこのファミレスでいい?」

「はい」

 数日分の読書代を犠牲にする覚悟で、俺は夜凪と食事をとることにした。


「ごめんなさい。誘ったりして。私、一人で食事するのがすごく寂しくて……じゃなくて、その、一度……ノモリガミ君とゆっくり話してみたいと思ってたんです」

「そっか。……そう言えば同じクラスだったのに話す機会がほとんどなかったな」

「ですよね。だから、何かほんとうれしいです!」

 明るい場所で改めて、丁寧な口調の同級生の特徴を確認する。

 丸い大きな瞳は碧に輝いている。右目の下には泣きホクロ。そして他の同級生よりかはいくらか白いけれど健康的な肌の色。青みがかった黒髪はストレートロング。そしてよく本人がいない時に同性が話題にするやや大きめの胸。

「それ、何ですか?」

「これ?古本屋で買った本。別に家に帰ってもすることがなくて暇だから、本を買って家で読んでいるだけだよ」

 自分にしてはかなり饒舌になっている気がした。

 なんでだろう。

 気持ちが高ぶっているのか。分からない。

 分かっているくせに分かっていないふりをしているのかもしれない。それも分からない。分かるのは、俺は俺を分かろうとしていないことだけだ。自分をわかろうとした途端に、今の俺はどこかで破綻する気がする。だからピエロみたいにとぼけているだけなのかもしれない。壊れかけたロボットのふりをしているのかもしれない。

「見せてもらってもいいですか」

「う~ん、見てもいいけど、たぶん興味ないと思うよ」

 袋から出てきた歴史小説を手に取り、夜凪はパラパラとページを繰る。俺は一人称で書かれた書物が嫌いだから、読むのは神の目線で書かれた歴史小説くらいだ。俺は誰にも感情移入したくない。何となく、それが怖いから。だけど色々と知っておきたい。そうすればきっと、怖いものはなくなる気がするから。

「バイトはいつからやっているの?」

 安くてボリュームのあるドリアを口に運びながら、夜凪に質問する。

「一年生からです。私の家、母子家庭なんです」

 フォークとナイフを使い、大きめの和風ハンバーグステーキをど真ん中から切り分けていた夜凪は答えた。

「そうか。……俺んトコと似てる。俺のところはバアさんがいるにはいるけど、ボケちゃって施設にいるから、こっちも家で母さんと二人きりだ」

「そうなんですか。なんか、ちょっぴりうれしいです」

「へ?」

「あ、いえその、母さん子家庭とかおばあちゃんがボケちゃっているのがうれしいとかじゃなくて、ノモリガミ君も同じ境遇なんだって知って、うれしいってことです。ところであの……ちょっと食べきれなさそうなんで、少し食べてもらえないですか」

「……ありがとう」

 最初からそうするつもりだったことくらい当然気づく。少し悔しいけど、俺は好意に甘えることにする。ドリアの上に、切り分けてもらった肉と夜凪のうれしそうな笑顔を乗せた。

 俺同様控えめな性格だったけれど、夜凪には“花”があった。

 彼女の周囲は常に明るく、その明るさやあるいは温かさを求めて人は集まった。言うまでもなく俺にはそれらがなかった。けれど別にそのことを苦に感じたことはなかった。いや、それは嘘かもしれない。感じたことはあったかもしれない。でも気づけば、感じないようになっていた。感じないようにひたすら剣を振り続け、相手をぶちのめし続けたから。

 そして剣の強さが、あるいは容赦のない攻撃が、反感を買うようになった。イジメが始まったその頃には剣の師だったじいちゃんはこの世を去っていたし、剣道も飽きていたから引退試合を待たずに俺は部活動をやめた。

「あの、よかったら一緒に働きませんか」

「え?」

 フォークとナイフが止まっていた夜凪はしばらくして思いつめたように言った。

「バイトのこと?」

「はい。駈都山駅の前の居酒屋なんですけど、ホールスタッフが足りないって店長が言ってたんです。もしその、ノモリガミ君が家に独りでいるのが退屈なら、と思って」

「……無理だよ」

「どうして?」

「知っていると思うけど、俺は人前でニコニコするのが苦手なんだ」

 バイトを始めようかとは思っていた。俺みたいな息子のために母さんが金を出す必要なんてない。

 大学へは行くには行くけど、達成したい目的何て特にない。母さんのためにも、無事卒業だけはする。

 でもそれくらいしか目標がないから、その分くらいは自分で何とかする。その後は、分からない。またそれを考えなきゃいけなくなって、適当に考える気がする。今は、それくらいにしか考えていない。

「ヤナギ?」

 さっきまで少し紅潮していた彼女の頬から赤みが消え、しかもフォークもナイフも動いていなかったのが気になって、声をかけた。

「え、あ、はい」

「大丈夫?」

「はい。あの……もしホールスタッフじゃなくて厨房とかだったら、ダメですか?」

「何も作れないよ、俺は」

「最初はみんなそうです。でも、すぐに覚えられます。ノモリガミ君はそれに、器用じゃないですか」

「どうかな」

 目をキラキラさせてこっちを見ている同級生に耐えられなくて、俺は視線を落として食事を続けた。食事が終わるまで、俺も夜凪もそれ以上喋らなかった。

「私、目障りですか?」

「へ?」

 レジで会計を済ませ、さらに闇の濃くなった夜の街へと再び出た時、俺の後ろを歩いていた夜凪がぽつりと聞いた。

「そ、そんなことない。全然」

 まさかそんなことを言うとは思っていなくて、俺はあわてて否定する。

「そうですか」

「……」

 ただ、人と関わるのが俺は好きじゃない。それだけだ。

 このままでいいわけなんて、ないだろう。社会は人が集まる場所だ。

 そこで、そんなんでいいわけないだろう。でも今は、このままでいたい。たくさんのつまらないことが重たい雪のように降り続いたせいで、俺は俺を包む殻を大きくしてきた。今は大きくし過ぎて、前も後ろも右も左も見えない。でもそのおかげで、怯えることもない。だから、このままでいたい。

「バイトの件、考えてみるよ」

 俺は夜凪にそれだけ言って歩き出す。夜凪は立ち尽くしたままだった。

 カッ、カッ、カッ、カッ、カッ……

 慌てることもなく、止まることもなく、俺は一定の歩速を保ちながら歩き続ける。

 タッタッタッタッタッタッ……

 俺の足音が徐々に、別の軽い、けれど素早い足音におされていく。

 タッタッタッタッタッタッタッタッ!

「……」

 俺は立ち止まり、目を瞑る。俺を求めて近づいている音に対して、二つの想像をする。もし通り魔だったら、このまま背中から刺されてやろう。母さんには悪いけど、俺のは、しがみつくほど価値のある人生じゃない。そしてもしそうでなかったら……厨房もホールスタッフも断ろう。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」

「……」

「実は、私なんです」

 通り魔が?同級生が?何が?

「ノモリガミ君がネット上でひどい目に遭っているのを学校の先生たちに言ったのは」

 俺は振り返る。

「……そう」

 おかげで面倒な取調べ、感情のぶり返しが起きた。明日以降、また俺は“殻”を厚くしないといけないかもしれない。ますます出口を失い、光を失い、殻から出る術を失うかもしれない。

「どうもありがとう」

 言っただけで、俺はまた今までと同じように歩き出した。

「はあ、はあ、はあ………」

 良かれと思ってそっちはやっているのかもしれないけれど、正直勘弁してほしかった。

「好きです!」

 夜凪の言葉に、立ち止まる。

「だから、放っておけなかったんです。迷惑だったら本当に、ごめんなさい」

「……」

 何て答えたらいいのか分からなかった。

 うれしいのか悲しいのかも正直分からなかった。

 ただ何となく、こんな“殻”に覆われた俺でも、この場からこのまま去るわけにはいかないと感じた。

「どうして俺なの?」

 思い浮かんだ質問を、俺はまた振り返り、夜凪に投げかけた。

「分かりません。でも、気づいたら、ノモリガミ君のことで、頭がいっぱいで……」

「境遇が似ているから、同情しているの?」

「違います!そんなんじゃないです。本当に、本当です!」

 ひどい男だと自分を思った。

 俺のガラスの目に映り込む緑の瞳は溢れ出した涙とそれを照らす月光のせいで光っていた。彼女をこんなにした。本当にひどい奴だ。

「……」

「……」

 ……。

 感じない。

 それを、やめたらどうなるんだろう?“殻”とか、そういうものを破ったら俺はどうなるんだろう。

 傷ついた。そのことを受け入れたくなくて傷を無視した。俺は俺を無視してきた。

 それを、放棄したら、どうなるんだろう。

 俺が俺を無視しなくなったら、俺には何が起きるんだろう。

 学校のことも、剣道のことも、親のことも、今までの境遇のことも、何もかも俺に起きたこととして受け入れた先に、何が起きるんだろう。

「……わかった」

「え?」

「下手かもしれない」

 自分の気持ちをしっかりつかむのが。

「けれどやってみる」

「ノモリガミ君?」

 その名前を受けとめた先にもし希望とかいうものがあって、それが目の前の夜凪水希だとしたら、

「俺は、夜凪を好きになってみたい」

 機械のような不思議な言葉を、人間として真面目に、俺は口から出した。

「ほん、と?」

「うん」

 夜凪が近づいてくる。俺の一歩手前で立ち止まる。

「私その、何て言っていいのか……うれしいです。だって、だってこんなに、自分の気持ちを表に出したの、初めて、だったから」

 俺は右手を夜凪の胸元まで持ち上げ、手のひらを天に向ける。夜凪はそこへ自分の右手をのせる。手のひらが合わさる。

「じっとり……私のせいですよね。きっと」

 感じる。それは言いかえれば、悩むことなのかもしれない。大変なのかもしれない。

 でも、やってみよう。それでもしかして、何かが変わるかもしれないから。

「アドレス、交換してもいいですか」

「うん。交換しよう」

 脂汗のにじむ手のひらはかろうじてその上に乗るネット端末を支えている。そしてディスプレイ上を、震える指が不器用に動く。俺も、夜凪も。

「きました」

「うん」

「あの……」

「何?」

「こんな時に、冗談言ってもいいですか」

「冗談を言う前に冗談を断る必要なんてないって」

「そうですよね。でも、ちょっと、恥ずかしくて。あの、後ろを向いててもらえませんか」

 言われるままに、俺は夜凪に背中を見せる。まさか刺したりはしないよな。

 ギュッ。

「!」

 背中に、じわじわと熱が伝わる。俺の胴と下ろした両腕をかろうじてまわりきった細くて華奢な白い手が、俺の胸の前で合わさる。

「あったかいですか」

「うん」

「“赤外線通信”……なんちゃって」

 背後から聞こえる冗談はすぐに夜の鋭く冷たい闇の中に消えていった。けれど“赤外線”はしばらく俺の背中を温め続けた。

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