盗難
年齢を重ねていくうちに、得るものより失っていくもののほうが、多くなっていく気がして落胆した。自分の不注意が原因で、初めて盗難にあった。人の悪意というものを身をもって知ることになる。怒り、喪失、自己嫌悪などの感情に打ちのめされ、その矛先を別の人へ向けてしまう。しかし、それをいさめてくれるのもまた人だった。
のんびりとした週末になるはずだった。 いつものように、仕事帰りにスーパーで買いものを終え、車にもどった。財布をしまおうと助手席を見た。そこに置いたはずのバッグがなくなっていた。座席の下や、後部座席を調べたが見当たらない。
頭の中がまっ白になった。さまざまな考えが浮かんだ。
店内に置き忘れたか。いや、最初から持ってきていなかったのではないか。しかし、バッグから財布を取り出す自分を確かに記憶している。財布だけを取り出し、車のロックをかけずに店の中に入る自分の姿が浮かぶ。飲み物を買うだけだったので、気にもとめなかった。
「盗まれた・・・」
溜息とともに、シートに体を沈めた。時計は、21時20分。車から離れて十分もたっていない。
怒り、後悔、喪失感。今まで財布や、定期券など落し物は何度かしたが、盗難という悪意を被ったことはなかった。
近くに警察署があることを思い出し、車を出した。信号待ちをしながらも、床、座席の下などをもう一度確認した。見つかるとは思えなかったが、探さずにはいられなかった。
警察署に着き、中に入った。フロアには3人ほどの制服警官がいた。時間も遅いせいか、室内の蛍光灯は半分くらいしか点いていなかった。
入り口近くのカウンター座る、中年署員に盗難であることを告げた。
「ああ・・・」
溜息とも、返事ともとれる返事をした。
「こちらへどうぞ」
カウンターから出てきた署員と一緒に階段を上がった。
向かった2階の部屋には、私服の男性が1人パソコンに向かっていた。彼の座る天井の電灯だけが点いている。薄暗い部屋が私を緊張させた。刑事だろうか?
年は50代前半、身体は大きくがっしりしていた。首から肩にかけて筋肉が盛り上がっている。Yシャツが窮屈そうだ。いかにも柔道などの格闘技で鍛えた感じがした。
同行した署員が声をかけ、去っていった。私は男の前にすわった。屈強そうな男がモニターを見ていた顔を私に向ける。もちろん笑顔はない。
「バッグを盗まれたんですけど」
「中身は?」
「キャッシュカード、手帳、免許証、携帯、あとレンタルⅮⅤⅮ・・・」
男は表情を変えず、書類に書き込んだ後、机の端に立てかけていた、ファイルを引き抜き、私の前に置いた。
カード会社、銀行の連絡先一覧表だ 。
「連絡して」
私は、言われるまま受話器を取り、銀行、カード会社に連絡した。
その後、詳しい状況を説明した。男は慣れた感じでパソコンに打ち込んでいった。
キーを打つ音が薄暗い部屋に響く。私はその音をぼんやり聞いていた。
しばらくして、書類は出来上がり、確認するよう促された。
「内容に間違いがなければ、名前を書いて、印鑑を押して。なければ拇印」
言われるままに拇印を押し、聞いてみた。
「見つかりますか?」
男は、書類をファイルに挟み込みながら、首を傾げた。
「難しいな。見つかったら連絡します」
車上荒らしなど日常的なのか、形式通りの処理といった感じである。
警察署を出て、家に着くころには、11時を回っていた。気分は沈んだままだったが、銀
行、カード会社以外にやることを考えた。
翌日、レンタル店に向かった。若い店員に盗難のことを告げた。店員はパソコンで貸し出
し項目を確認した。私は、警察署からもらった盗難届書を提出した。処理はそれで終わった。
次は携帯電話の店である。とりあえず盗難の処理はしてもらったが、レンタル店のように
はいかなかった。紛失保険の契約を解除していたのだ。
かなり高額な金額になると言われた。あるいは2カ月後、再度保険に加入し、安く電話機を購入するか。店員は淡々と説明した。
私は考えますと言い、店を出た。
とりあえず早急に必要な届け出は終わった。どこも事務的な対応だった。
当事者ではないのだから、しかたのないことだと解っている。それでも、腹立たしく感じ
てしまう。
すでに疲れていたが、免許証の件が残っていた。
近くに交番があることを思い出した。免許証の再発行について詳しく聞いておこうと思った。
商店街の中にある、交番に立ち寄った。中では、おじいさんが若い制服警官と向き合って
いた。
「すみません」
私は声をかけた。
「盗難にあい、免許証を失くしたので、再発行についてお聞きしたのですが」
「被害届けですか?」
気の毒そうに若い警官が言った。
「いえ、それはもう出しました。免許証の再発行に必要なものを聞きたいのですが」
私の声は少し大きくなった。
若い警官はあたふたと、ペンとメモ用紙を取り出し、書き始めた。私は、口頭で簡単に聞
くつもりだったので戸惑った。
最初にいたおじいさんにも悪い気がした。割り込んだ状態なっている。黙って
私たちのやり取りを見ている。
この警官は何をしているのだろう。少し苛立った。
私は、おじいさんの前に置かれた書類に目をやった。拾得物届書とある。
私とは逆の立場だった。
警官は内容をぶつぶつと言いながら、ペンを動かしている。
笑顔と共に渡されたメモには、教習所名、受付時間、電話番号など必要なものが書かれ
ていた。
私は礼を言い、おじいさんにも謝った。
交番を出て、メモを見た。急いでいたようだったが、なぐり書きなどではない、丁寧な字だった。
私はもう一度、交番の中を見た。書類を書き終えたはずのおじいさんが、警官と笑顔で何
か話している。
私が失くしたものの一つが、そこにあるような気がした。
(了)