Ⅳ 写真
気付いたら校舎を出て、一人で歩いていた。部室を立ち去ってからのことは覚えてはいるが、どうも夢の中を彷徨うような心地で、現実感がなかった。
ただ時間が経っていたことははっきりと分かっていた。校門を出たところで大前君がいたからだ。そういえば彼は写真を見てすぐに、逃げ出すように走っていってしまった。ここにいたのか。
夏の日差しを避け、暗がりの中で、空気が揺れている。足下には時間経過の残渣が散らばっていた。
意図せず顔をしかめてしまう。表情を取り繕う余裕も、今の私には残っていなかった。
「……失望したか? 辞めていたんだけどな」
こちらを見つめる大前君の瞳はいつにも増して苛立っていて、それなのに悲しげで。私はそんなに嫌そうな顔をしてしまっただろうか? そうかもしれない。「失望」……私は彼らに失望しているのか。
教師なのに生徒と付き合ったマリーさん。その相手である森継さん。そして、今たばこに火を付けている大前君。背筋を丸めて紫煙をたゆたわせる彼は、寂しさに耐えているようにも見えた。
「そんな顔すんなよ。一応敷地外だぜ」
「……」
「ああ、くそ」
大前君は、自分に対していらだっているというような風だった。こんなこと、珍しいことではない。髪を染める先輩。酒を飲む未成年。たばこを吸う同級生。
「真栞さんのことは、悪く思わないでくれ」
なにか言葉を返さないといけない。そう心は訴えるが、喉はいっこうに動く気配はなかった。大前君も、返事を期待しているわけではないようだった。
「あんなもの見せられた後に言われても困るかもしれないがな。俺を立ち直らせてくれたのはさ、あの人なんだ。気が小せえくせに、俺みたいな生徒にも本気でぶつかってくるんだ」
「……良い先生だということは、皆さんを見ていたら分かります」
「ああ。それなのに、くそ。森継の奴!」
大前君は頭を抱えてしまった。紫煙が激しくかき回される。私は黙って立ち去ることにした。かける言葉は最初から持ち合わせていなかったのだ。
ほたるさんは部室に残ってマリーさんのそばにいるだろうか。携帯を見つけてくれたお礼を言いそびれていた。普段なら決して欠かすことのない礼節も、今は遠い国の風習のように思えていた。とにかく疲れを落としたかった。身体に纏わり付いてしまった香水の匂い、たばこの臭いを、この重い感情ごと洗い流してしまいたかった。
これ以上、私に。こんな気持ちを抱かせないで。
もうたくさんだ。
【午後4時30分 民宿おざき】
ようやく携帯を開いたのは、宿の部屋に戻ってからだった。呼び出し名は『姫川錬路』。今日の出来事を思い返す暇もなく、すぐに電話は繋がった。あのご隠居は基本的に暇なのだ。
『電話待っていましたよ。楽しめていますか、奈良を』
「……ええ。原稿も教頭先生から受け取り済みです」
『おお、彼は元気にしていましたか。今年で定年だそうですよ』
「お祖父様の昔話を色々聞きました」
『ふふ、それはそれは。少々照れますね』
「そんなことより」
私の口調には責めるような響きが混ざってしまった。まあ致し方ない。
「驚きましたよ。今年で廃校だそうです」
『へえ。そうなのですか』
本当に驚いたような口調だった。知らなかったのか。偶然らしい。
しかしもう一つの方は、違うだろう。
「それから……私を騙しましたね。尾崎真栞先生のこと」
『はは、そんな責めるような言い方をしないでください。まさか出立する今日まで気付いていなかったとは、思わなかったんです』
なんの曇りも感じさせない明るい笑い声に、携帯を握る手に力がこもる。試験でくだらないミスをした時も、対局で酷い負け方をした時にも、こんなに気持ちが乱れることはなかった。
今朝、昇降口でマリーさんを見た時のことを思い出す。一目見て分かった。てっきり私と同年代の高校生だと思っていた彼女は、大人の女性だった。目にした途端、私はからかわれていたことに気付いたのだ。このイタズラ好きの祖父と、そして状況を察したほたるさんに。
『だってー。ちょっと脅かせようと思っただけやん』
ほたるさんは、下駄箱に隠れてマリーさんを驚かせる振りをして、本当は私を驚かせようとしていたのだった。私の話と年賀状から勘違いに気付いた彼女は、そういうイタズラを思い付いたのだ。
『ですが私も悪かったと思っています。本当に今まで忘れていたんです。その場のなぞなぞ程度にとどめておくつもりでした。すみません』
「いえ、いいんです。過ぎたことですから」
『ではお言葉に甘えて、訊きたいのですが。いいですか』
祖父の問いからは、対局後の感想戦と同じ匂いがしたが、私に拒否する権利などあるはずもなかった。
「ええ。なんなりと」
『英奈は、どのタイミングで気付いたのでしょう。教えてもらえますか』
「会うまで分かりませんでした」
――私には。続く言葉は、口の中でだけ呟いた。そう、私には気付けなかった。探偵はすでに知っていたようだが。
『マリーさんはね、先生なんだよ』
下駄箱の陰から出る前、探偵は私にそう告げた。今思えば、彼女が出てきたきっかけとなった謎は、マリーさんが引き返した理由ではなかった。あれは私にも想像が付いていたから。
私が気付けていなかったこと。マリーさんは実は教師であるという真実こそが、探偵を引き寄せた謎だったのだ。私が微かに感じていた違和感の正体だった。
鞄から、年賀状を取り出した。高校生のマリーさんが無邪気に笑っている。
「考えてみるとおかしな点がいくつかありました。お祖父様が見せてくれた年賀状。私はある情報を見落としていました」
『なんでしょう』
「あの年賀状は、いつもらったものですか?」
年賀状には普通あるはずの情報が抜け落ちていた。何年のものか、書かれていなかったのだ。いや、違う。もとはちゃんと記してあったが、祖父が隠したのだ。
『ふふ、そうです。整理していたらちょうどその年のものを見つけましてね。本当はそこで気付いて欲しかったところですけどね。今は、もう分かっているんでしょう?』
「もちろんです。7年前のものではありませんか」
『その理由は?』
「干支ですよ」
私は慎重に、裏面に貼られたセイント君のシールに爪を立てた。貼られてから数週間は経過しているはずだが、簡単に剥がすことが出来た。
下から現れたのは「あけましておめでとうございます」の横に添えられた2行。「平成十五年 賀正」の文字だった。今年は2010年、平成二十二年である。
「年度がシールで隠されていたとはいえ、年賀状にはヒントが残っていました。それが干支でした。事実、あの年賀状にも動物が描かれていました」
『はて、あの動物しか写っていませんでしたが』
「とぼけないでください。今年は寅年です」
『今日は猛虎打線を見られそうにないですねえ』
「しかし虎は描かれていませんでした。いたのは、マスコットキャラクター。セイント君のシールが貼られていました」
『しかし、それも結局……』
「鹿ではありません。トナカイとサンタがモチーフです。……ですが、彼はコスプレをしていたんですよ。干支に合わせて――白いモフモフした衣装を着ていたんです」
セイント君のコスチュームは赤白のサンタ服だ。しかしシールでは白一色だった。
「あれは羊だったんですね。2005年は未年でした」
『ふふ。ちょっと難しい問題でしたねぇ』
のんきな声に、思わず電話を切ってやろうかと思った。だが、怒っても仕方がない。ゆっくり息を吸って、吐いた。
「それで、お祖父様の意図が分かりました。あそこには7年前の、高校生だった真栞さんが写っていたんです。今年25歳になる彼女の過去の姿が」
『お見事です』
一呼吸置いて、拍手の音が響いてきた。わざわざ携帯をテーブルに置いたらしい。
『最初はここまでするつもりはなかったのですけどね。悪事はすぐに暴かれると思っていました。まさか実際に出会ってみるまで分からなかったとは』
祖父の口調に私を嘲るような響きはなく、ただ純粋に驚いているのが分かった。いつものことだ。だからこそ私は歯噛みした。彼はイタズラのためにわざわざマリーさんが制服で写った年の年賀状を見つけ出したのだ。
『からかったのはすみません。怒らないでくださいね』
「怒っていません。私も冷静ではありませんでした」
『夜は燈会に行くのでしょう? 僕も行ったことがありませんからねえ。どんなだったか、たくさん聞かせてください。可愛い孫娘の話は最高のお土産なのですよ』
祖父との通話は終わった。燈会の開始時刻までには、まだ少し時間がある。
好都合だ。私にはやるべきことが残っていた。胸の内では、依然として謎が燻っていた。
『さて――』
瞬間、世界が反転する。音は遠ざかり、私は内部へ沈んでいく。三度目ともなると、もう慣れたものだ。世界が補色に置き換わる。反転。そして耳鳴り。遮断された世界の中で、彼女が浮上してくる。
軽々しく交代することに抵抗がなくなっている自分は、愚かだろうか。しかし今はどうでもよくなっていた。
探偵が身体の表層に出てきた。
「やっほー。また魅力的な謎が出てきた?」
舌足らずで無邪気な探偵の発音は、私の胸の奥をチクリと刺した。部屋に一人だからか、気兼ねすることなく声を出している。端から見れば独り言をしているおかしな人だ。
子供がしゃべるのとは違って、私の口を借りてしゃべっているはずだから、舌足らずになるのはおかしいはずだが。そんな変なことが気になった。
(そもそもあなたはどうやって謎を解くのですか? 普段は寝ているのでしょう)
彼女は交代時以外は眠っているということだった。周りの様子が分かるのだろうか? そうでなければ、昇降口で目覚めた瞬間にマリーさんの正体に気付くことなどできない。
「うーんとね、普段からずっと見ているわけじゃないのよ。起きる時に記憶が流れ込んでくる……ていうか、一瞬で同じ体験をする感じかなあ。夢を覚えているような気分ね」
追体験と言いたいのだろうか。
(私の体験したことが夢に?)
「そう。今朝、電車に乗っているくらいからの記憶はあるよ。それ以前のことはあんまり。あ、エナの高校のこととか、家族のこととか、基本的な情報は分かるみたい。わたしのことは全く分からないのにね!」
なにが可笑しいのか、ケラケラとお腹をよじるようにして笑い始めた。記憶喪失の探偵。どうしてこの子はあっけらかんとしていられるのだろう。
(不安ではないのですか?)
「不安? それはないかな。強いて言うなら、ずっとあの高校にいた気もするけど――わたしにとって一番大事なのは、謎があること。解くべき謎をあるべき姿にほぐすこと、それがわたしがここにいる理由よ。
で、今回は? 密室の謎が気になった?」
部室に入り、私の携帯からほたるさんにメールを送った人物。思えば、あの写真は部室で撮ったものだったのかもしれない。部室の机に写真を置き、それを撮影してメールで送信した。動機から方法、その犯人まで、全てが謎だ。
(いえ。分かっているはずです。今訊きたいのはその点ではありません。鍵のスペアはいくらでも作れますし、動機もいくらでも考えられるでしょう。マリーさんたちを脅したかった、そんなところではないですか)
「ははあ、やさぐれてるねえ、エナ」
(どちらにせよ、犯人が誰かは、私には関わりのないことです。少なくともあの4人ではない。一緒に奈良観光をしていたというアリバイがあるのですから)
「つれないなあ。分かっているわよ――『どうしてマリーさんが先生だと、わたしに見抜けたか』でしょ?」
そう。散策の間も、それが気にかかっていた。
「まあ、簡単な話ね。
最初に気になったのは、民宿の玄関でホタルちゃんと会った時のことだよ」
驚いた。そんなに前から? しかしあの時、私はどこかで引っかかりを感じていたことを思い出した。なんだっただろうか。
「出迎えたホタルちゃんに、エナはマリーさんはいないのかと訊いた。ホタルちゃんは不思議がる様子もなく、すぐに返答したわね。変だと思わない?
もしマリーさんが本当にエナと同年代だったとして、ホタルちゃんは不思議に思わなかったのかな。『どうしてこの人は自分がマリーさんではないことを知っているのだろう?』って」
(そうとも限らないでしょう。目的とする相手だと確証が持てなくて、とりあえず訊いてみる場合もありますよね)
「今回はそうじゃなかったって、エナ自身が一番分かっているでしょ」
まあ、その通りだった。私は確信を持って訊いたのだから。ほたるさんにも伝わっていただろう。
さらに、彼女は制服姿だった。探偵の言葉にも一理あるが、それでも私には特段不思議なこととは思えなかった。
(例えば私とマリーさんがもともと顔見知りならば、なんの不思議も……あ!)
「気付いたね。そう、この時点では不思議じゃない。でもあとでホタルちゃんは、エナがマリーさんの顔を知っていることを聞いて、驚いたのよ!」
私はこの子の言いたいことが分かった。そして引っかかりの理由も。私はほたるさんが驚いたのを見て、違和感を覚えたのだった。
「まあ初めて訪れる民宿の娘との関係なら、普通はそうよね。顔までは知らない。電話で対応するくらいだもの」
(しかしそれなら、ほたるさんが不思議がる様子もなく返答したのはおかしい)
彼女なら、疑問に思ったその時点で私に訊いただろうから。なぜ私がマリーさんの顔を知っていたのか、と。しかし彼女は訊かなかった。私がマリーさんを知っているとは思っていなかったから。
ではなぜ、私が彼女がマリーさんではないと見切った理由を訊かなかったのか?
(ほたるさんにとって、私が彼女とマリーさんを見分けられるのは当たり前のことだった……「顔見知り」以外の点で!)
「そう! ホタルちゃんとマリーさんとでは決定的に違う点があったのよ。例えば、子供と大人、とかね」
あるいは、生徒と教師。断定まではできないが、少なくとも疑うきっかけにはなっただろう。
「他にもあるよ。ホタルちゃんも女将さんも、駐車場を見てマリーさんがいないことを確認していたよね」
(どういうことですか?)
「昇降口の出来事で、エナも気付いていたんじゃないかな。民宿の入り口にあった鏡越しに、ホタルちゃんたちの位置からは駐車スペースが見えていたのよ。おそらくロビーにいてもすぐに外を確認できるようになっているのね」
思い出した。私が見た時も、砂利が映り込んでいた。あそこにはもともと尾崎家の自家用車が停まっていたのだろう。
「お父さんは厨房。女将さんはあそこにいた。それは一人娘のマリーさんしかいないよね。彼女は車で学校へ行っていたのね。少なくとも18歳以上ということになるわ。高校3年生だからそれもあり得るけど」
探偵の言葉が真実だということは、よく分かっていた。今日一日、私たちはマリーさんの運転する車で移動していたのだから。
高校から奈良駅前まで、そして奈良駅前から平城宮跡、再び高校まで。移動手段は車だった。
「考えれば、エナの体験は面白かったよ。叙述トリックみたいだったもの」
(どういうことですか)
「今日の出来事をエナ目線の小説にしたとするでしょう? するとマリーさんのことは愛称で呼んでいるから、同じ年代に見せかけるトリックができるのよ。
そうだ! 登場人物紹介で『尾崎真栞(3)』って書くのも良いね。3年生と見せかけて、実は高校で過ごした年数でした! とか。教師は着任何年目、生徒は何年生ってね」
探偵は再びけらけらと笑い出した。そういえばマリーさんたちも自己紹介の時に冗談めかしていたではないか。
マリーさんは7年前に高校2年生だから、最短で教師になれば確かにちょうど今年で3年目になる。馬鹿馬鹿しい。
「車の移動中の描写も、工夫すればトリックにできるね。例えばこうすれば良い。『マリーさんの後ろ髪に感謝の言葉を告げた』なんて一文を書く。なぜ前後にいるのに、マリーさんは前を向いたままなのか?
それにね、彼女は今日はコンタクトレンズが入りづらいからって、裸眼で過ごしていた。でも眼鏡を掛ける瞬間があったのはどうして?
どちらも、答えは車を運転していたから」
意味のない小説談義が、自分の声で嬉々として続けられる。悪夢を見ているようだった。
「時間経過の描写からも、車に乗っていたことを仄めかせられるわ。奈良駅から平城宮跡までは電車でも10分はかかる距離だから、場面転換の前後で10数分しか経っていなければ、徒歩はありえないことを示せる。
ま、方法は幾らでも考えられるね」
(しかし、そんな手法はアンフェアでしょう)
「そういう意見があるのは知っているよ。でもわたしはこれも立派な『謎』だと思うけどなあ……。叙述トリックは、作者が読者へ直接突き付けた挑戦状だもの。とってもスリリング!」
(あなたと私とは平行線のようですね)
「はは。ねえエナ、今のアイデア使ってさ、おじいちゃんみたいに小説書いてみたら?」
(私には書けませんよ。叙述トリックなどという発想は浮かびません)
「そうかなあ。物は試しだと思うけどね」
無責任な物言いは黙殺する。相変わらずおかしなことを口走る子だ。
「もう、エナちょっと機嫌悪い? モリツグが人のものでショックだった?」
(ほたるさんと同じ勘ぐりをするのですね。芸がありませんよ)
「あはは、本当のところはどうなのよ。気になるなあ」
(謎にしか興味がないのではありませんでしたか)
彼女の無邪気な口調は、好奇心旺盛なませた女の子のそれだった。だが言葉とは裏腹に、本当は私の感情になど毛ほどの関心も持ち合わせていないことははっきり伝わってきた。別にそれでかまわない。私だけが分かっていればいいことだ。
森継さんを見た時から、ある種の予感はあったのかもしれない。大人びたたたずまい。散策中、マリーさんと交わされる目線――心の奥で、この展開を覚悟をしていたのかもしれない。生徒と教師の禁断の関係。
「そんなことじゃ、わたしには勝てないよ。ずっとこのままかもね」
(それは困りますね。密室の謎でも解かなければなりませんか)
「ああ、それはもう手遅れだよ。方法は分かったから」
探偵のなにげない断定の言葉に、私はまたも驚かされた。
(「分かった」とは……では犯人が誰かも知っているのですか)
「まあね。密室を作れるのは一人に絞られる――どうでもいいけどね。だって、エナが自力で解いたとしても、わたしを追い出すには足りないもの」
愉快に笑う。探偵の目的はなんなのだろう。私の身体を乗っ取ることなのか? しかし、彼女には10分ほどの時間しかない。謎さえ解ければ良いのだろうか。
「エナ、教えてあげる。名探偵に必要な観察眼には、2種類あるんだよ。1つはある事象にじっくり思考を巡らせ、深く観察する力。事件現場の検証や暗号を解くのはこの力ね。
将棋が得意なエナは持っているんじゃないかな」
(盤面を眺め、何手先をも見通すことですか)
「何十手、でしょ。わたしに謙遜なんてしなくていいよ。
昇降口で鏡がないことに気付いたのはまさにこれよ。エナはわたしに匹敵するほどの深い洞察力を持っている。だけど、足りないのはもう一つの方」
探偵は携帯を操作すると、顔を斜め上にかまえ、写真を一枚撮った。
「なにげなく見聞きした出来事を切り取って、後で再構成する力よ」
映されていたのは、ピースをした私の笑顔。まるで別人のような、無警戒の、幼い笑顔だった。
「写真記憶した場面を思い出し、即座に推理を組み立てる。これも大事な観察眼ね。エナはこっちが弱いわ。謎が問題提起されていない段階で意識を張り巡らすことができていない。だからマリーさんの正体には気付けなかった」
(謎が微かな違和感に留まっている内は、深く観察することが出来ないから――ですか)
「そう。分かってるじゃん。本当は年賀状を見た時点で深く考察できれば、気付けたかもしれないけどね」
探偵は年賀状を手に取った。マリーさんが笑っている。
「謎はいつもテーブルの上に用意されているとは限らない。レストラン全体が張りぼてのセットのことだってあるんだから。小説の叙述トリックと同じことよ。日常の文脈に潜む違和感をいかに見逃さないか――」
探偵の言葉が途切れる。また、めまいに襲われた。そう思ったら再び交代が始まっていた。時間は十分に経っていたようだ。
微かな耳鳴りの中、探偵の視界を通してみる色あせた世界は、ひどく濁って見えた。
年賀状もその例外ではない。
『見逃さないことだよ、エナ』
探偵は最後に、年賀状を握る手に力を込めた。濁った視界の中で、マリーさんの清廉な笑顔が、ぐしゃりと歪んだ。
Episode.02 ぎょうじ ――濁った教師―― 了
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探偵の気配が消えて、しばらく経った頃。
「英奈ちゃん! 入ってええ?」
ふすまの向こうで声がした。ほたるさんだ。時計を見ると、そろそろ5時になろうかという時刻だった。燈会が始まるのが6時だから、まだ小一時間くらい潰さなければならない。
「どうぞ」
静かに入ってきたほたるさんは、私の前に座り込むと、いつも通りの明るい調子で笑顔を見せたのだった。
「今から、お風呂行かへん!?」