Ⅲ 密室
【午後3時 平城宮跡】
記念撮影のあと、私たちは朱雀門近くのカフェで過ごしていた。散策後の軽い疲労感に取り憑かれた身体をしっかり休め……とはいかず、野外学習部の面々は、精力的にも文化祭での演し物について案をまとめていた。
「展示の音声案内は良かったわね。私たちも紹介音声を用意するのはどうかしら。ヘッドホンで試聴してもらう、とか」
「めっちゃ良いですね! 野学部の活動の集大成ですしね」
「でも大変だぜ? 素人の解説音声なんて聞くに耐えないっすよ。原稿を作るのも難しい」
「あら、私は大前君が適任だと思ったんだけどな。よく通る声だし」
「ウチも隼人さんに1票!」
書記を務めるほたるさんが、元気よく手を挙げた。手元に置かれたペンケースにはセイント君のシールが貼られている。年賀状にも貼ってあったところを見るに、商品化されているようだ。お土産屋さんで探さなくては。
「隼人は滑舌も声質も良いしね。うん、僕も1票投じるよ」
「これで決定やね! 暗黒詠唱で鍛えた声帯を活躍させる時ですよ」
「鹿野、お前はどうしても血を見たいようだな」
大勢が一つの目標に向かって、真剣に話し合う。私はそんな暖かい空気の中に浸っていた。中学生の頃に所属していた生徒会を思い出す。懐かしい感覚だった。
と、ふとした弾みに森継さんと目があった。落ちくぼんだ眼窩に、叡智を感じさせる深い色の瞳。長い睫と、不健康な隈。不気味な外見も随分馴染んだが、やはりどうにも落ち着かない気分になる。
しかし向こうは余裕綽々といった様子で、にっこり微笑んだ。いや、「余裕がある」などと。それは私の穿った見方だ。森継さんはいたって普通の、平坦な心で座しているに過ぎない。
そう見えたということは、相対的には――私に余裕がないということではないか。
「姫川さんは、将棋部なんだよね。天保高校の文化祭ではなにをするんだい?」
「囲碁部と合同で対局体験会を開きます。たいしたことはしないんです」
「あ、ていうか英奈ちゃん退屈やったよね。ごめんな、ウチらだけ盛り上がって」
「いえ。聞いているだけで楽しいですよ。日程が被ってしまって伺えないのは、本当に残念です」
「ほんまやわあ。高校の文化祭なんてだいたい同じ時期ですもんね……せや、英奈ちゃん、外の船見に行きましょ! ずっと気になってたんです」
ほたるさんが指さしたのは、カフェの外の浅い人工の池に安置されている遣唐使船の模型だ。電車の1両分を優に超える全長で、実際に乗れる大きさになっている。池の縁から、長いスロープを歩いて乗船する凝り様だ。
「そうね。そこでイメージ写真も撮ったらどうかしら」
「それええなあ。ウチの制服姿の出番やね。マリーさんも一緒に写らへん?」
「遠慮しておくわ」
ほたるさんは冗談のつもりだったのだろう、笑いながらマリーさんを誘った。彼女は素敵な笑顔のまま、しかし断固とした口調で、申し出を固辞した。本当に水が苦手らしい。
「えー。足首くらいまでしか浸からへんで?」
「無理なの」
「じゃあせめて制服だけ着るとか」
裸眼のマリーさんは、先ほどと全く変わらない素敵な笑みを見せている。それがかえって迫力を生み出していた。調子に乗り過ぎたことを察してか、ほたるさんはゴクリと唾を飲み込んだ。
「ほらほら、ほたるちゃん。僕たちはこっちだよー」
「は、はーい……」
森継さんはほたるさんの肩を押して船の入り口へと連行した。一連のやりとりに、大前君は大きくため息をついた。
「まったくあいつは。
悪いな、姫川。付き合ってやってくれないか」
「ええ、もちろんです」
「行ってらっしゃいね。私たちは荷物の見張りをしているわ」
二人に見送られながら、ほたるさんたちを追いかける。お昼過ぎで日差しが強い時間帯だからか、乗船しているのは私たちだけだった。だがメンバー全員で乗ったとしても十分なスペースがあっただろう。実際に甲板に立ってみると意外と広く、また高さがあるのを感じた。
「森継さん! すごいで、この船、実物大やねんて!」
「正確には推測値だけどね。記録によると150人ほどが乗船していたようだから、全長30メートル、幅10メートルで再現されたんだ」
「めっちゃええ景色やわあ!」
案内板から離れたほたるさんの頬は薄く朱が差している。手すりに両手を付き、平城宮跡の景観に目を輝かせた。レストランの屋根越しに大極殿が見える。反対側には朱雀門。そして、一帯に広がる草原を一望することが出来た。
船室の内部からは、録音された波の音や、カモメの鳴き声が聞こえてきて、ますます臨場感が増した。時折、電車が通り過ぎていく。夏の日差しいっぱいに照らされた光景は、私たちの気分を高揚させた。
「やっほー!!!」
ほたるさんが眩しい笑顔を車両に向け、両手をいっぱいに振った。遙か昔、日の本を旅立った若者たちも、このように力に満ちあふれていたことだろう。
「やけどシュールやなあ。電車通るって」
「急に冷静になりますね……でも、私はそんな異質な組み合わせが好きです」
確かに線路が世界遺産を横切る光景は珍しいが、だからこそ人々の息づかいが感じられる気がするのだ。
この奇妙な光景には、ある複雑な事情があった。最初から敷地内を通っていたわけではなく、鉄道を敷設した当時は遺跡を外すようになっていたらしい。だがその後の調査で平城宮跡はもっと広大な範囲だったと分かり、世界遺産を鉄道が横切るという一見奇妙な景色が生まれたのだ。
「私は思うんです。もし大極殿や展示品を見ただけなら、ここまで感動しなかっただろうと」
「どゆこと?」
「古い歴史も良いものですが、そこに近代までの事情が絡まってきているのが面白いのです」
過去の遺品はどこか遠い存在だ。だがそこに近い時代の人々の記録が重ねられると、急に身近に思えてくる。
「ただ目に映る景色ではなく、景観――ランドスケープ。歴史や社会背景、政治までもが絡んだ景観や、人々のバランスの上で成り立つ光景は、教科書に載っている日本史よりもずっと複雑で、私の心を捉えて離さないのです。
考古学の観点からは、邪道かもしれませんが」
「ふうん。まあでも、歴史のロマンとか言われてもちょっと敬遠してまうけど、あの線路みたいに妙に現実感があった方がウチは好きやわ」
「はは、アプローチの仕方は違うけど、二人とも良い感想だね――表情も」
いつの間にスタンバイしていたのか、森継さんは首から提げたカメラで私たちを撮った。ほたるさんはすかさずピースをきめながらウィンクまでしている。ノリの良い子だ。
「『ランドスケープ』は、ご存じの通り『景観』って訳されるけど、建築学の分野ではそれだけじゃなくて、公共の空間のデザインを指す言葉として使われるんだ。都市設計や造園で、人工物と自然の調和を目指すんだね」
「東京にもそういう設計は増えています」
「あはは、普段から肌で感じている人に講釈を垂れるのはおこがましかったかもしれない」
「いえ、そんなことはありませんよ。森継さんはお詳しいんですね」
散策の時も感じていたが、彼の建築方面への興味は深そうだった。聞きかじりの知識ではなく、しっかり噛み砕き、自分のものとして吐き出した考えのように感じた。
「英奈ちゃん、あれやろー」
退屈そうにしていたほたるさんがじゃれついてきた。小動物のような子だと、やはり微笑ましく感じる。
船首に誘導された。どうやら有名映画のワンシーンを再現したいらしい。こういうじゃれ合いは同級生がよく行っているが、自分が当事者になるのは珍しいことだった。私が周りに壁を作っているからだ、と指摘されたことがあるが、その通りだと思う。だがかまわず接してくれるほたるさんの態度は新鮮で、心地よかった。
だから知らなかった。私は思ったよりも、他人に触れられることに耐性が付いていなかったのだと。脇腹に触れられた途端、びっくりして、大げさに身をよじってしまった。
「あ」
甲板でぐらっとバランスを崩したと思った時、大きな手に支えられた。森継さんだった。細長い手足だと思っていたけれど、頑丈な掌は私やほたるちゃんとは明らかに違っていた。男の人のものだった。
「大丈夫かい?」
どくんと心臓が跳ねた。驚いたように見開かれた深い色の瞳と、数秒間見つめ合う。一瞬のようで、永遠のようだった。
「いえ、もう大丈夫です」
「すみません! そんなつもりじゃなくて……」
ほたるちゃんが咄嗟に口をついて出た、という感じで謝った。しゅんと肩をすくめ、「えらいすいません」ともう一度頭を下げた。悪気はないのは重々承知していたので、私も怒る気はなかった。いや、実のところ、それどころではなかったと表現した方が正直かもしれない。
森継さんに抱きとめられた時、一瞬思考が弾けた気がした。ほんのわずかな間、甘い匂いが鼻腔をくすぐって、それから――。
「そろそろ戻ろうか。マリーさんも心配しているようだ」
カフェの方角を見ると、一部始終を見ていたのか、マリーさんは口に手を当てて驚いたような顔をしていた。大前君も怪訝な表情だ。心配をかけてしまったかもしれない。
「私もすみませんでした。戻りましょう」
スロープを歩く間も、私の鼓動は早鐘を打ったままだった。重苦しい、不穏な予感を抑え込むように、私は唾を飲み下した。
【午後3時30分 】
前にマリーさんと森継さん、後ろに私とほたるさんと大前君が横に並んで、私たちは帰路に着いていた。マリーさんが声をかけてくる。
「姫川さん、奈良の街は楽しめたかしら?」
「はい、おかげさまで。久しぶりにはしゃいでしまいました」
「もう、英奈ちゃん畏まらんでいいんですよ。夜は燈会も控えてますからね。家戻ったら汗流さなあかんなー」
「そうそう、もし姫川さんさえ良ければ、うちの浴衣貸すけど、どう?」
眼鏡姿のマリーさんは再び視線をこちらに向け、尋ねてきた。彼女は民宿おざきの一人娘でもある。
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
「やったあ。男子陣は美女の浴衣姿3人分も見られるねんから、楽しみにしとくんやで!」
「なんでお前が威張るんだよ」
「気合いを入れて撮影しないとね」
わいわいと騒がしい空気の中、私は祖父への連絡を忘れていたことを思い出した。両親には民宿に着いた時にメールを送信しているので、旅路の無事は伝わっているだろうが、直接にはなんの連絡もしていなかった。「探偵」のことがあったのと、少し腹立たしくて意地を張っていたが、さすがにもうみっともないだろう。原稿のことも報告しなければならないし。
メールでも打とうと、膝の上で鞄を探る。
「あれ」
「どうしたん?」
携帯がなかったのだ。きちんと中を覗いてみるが、やはりなかった。旅先での紛失。腹の底が冷える感覚に襲われるが、すぐに気を取り直した。場所には心当たりがある。
隣の大前君も私の異変を察知したようだ。
「なんだ、問題でもあったか」
「部室に携帯を忘れてしまったみたいなのです」
今回は「さて」と呟いてあの小さな探偵を呼び出すほどでもない。文芸部室でメアド交換をしたから、民宿おざきには忘れていない。そして、携帯を最後に触ったのもあの時、探偵と交代した間だった。そこから携帯をどこに置いたか覚えていない。机にでも置き忘れたのではないか。
「あらあら。じゃあ高校に寄りましょうか」
「すみません、マリーさん。よろしくお願いします」
「え?」
快く申し出てくれたマリーさんの後ろ髪に感謝の言葉を告げると、隣にいるほたるさんが驚いたように声を上げた。目を見開いて、狐につままれたような顔をしている。
「なに言うてんの、さっき英奈ちゃんメールくれたやん」
「……どういうことですか」
「静池で撮った写真、英奈ちゃんの携帯にも送信したんですよ。そしたら、すぐに返事あって」
私は背筋が総毛立つのを感じた。手元に携帯はない。では、誰が代わりに返信したのだ?
ほたるさんも状況を理解したのか、怯えたような目付きで彼女の携帯を差し出してきた。メールの画面を見ると、確かに彼女が送った写真と、私の携帯からの返信が確認できた。時刻は午後2時30分頃。カフェに入ってからだ。文面は礼を告げる簡素なものだけ……と思ったが。
「ウチはトイレ行ったついでに送ったんやけど……てっきり、英奈ちゃんが返信してくれたもんやと」
「ほたるさん、これ添付写真があります」
「え……ほんまや」
ちらりと大前君の様子を伺うと、遠くの山並みに目を向けていた。彼も少し疲れているようだ。
私は声のトーンを落とした。
「開けますよ」
「うん」
目に飛び込んできた画像を見て、私は我が目を疑った。ほたるさんも息を呑んだのが分かった。なんてことだ――。
信じがたい写真に対する混乱と同時に、私の脳裏では疑問が渦巻いていた。携帯が部室に残ったままだとすれば、誰がほたるさんに返信したのか? 鍵がかかっていたはずなのに。
考えられるのは……何者かが部室に侵入したということ。
「どうしたの?」
マリーさんが視線だけをこちらに投げかけた。森継さんも私たちの様子がおかしいと気付き始めたようだった。
「問題でもあったのかい?」
「あの、実は――」
私はぼんやりとしてきた思考を必死に奮い立たせながら、状況を説明した。もしかしたら部室に侵入した人物がいるかもしれないということ……写真のことは伏せたが、張り詰めた空気が満たされるのには十分だった。
「メールを送ってきた人間がじっとしているとは限らないけど、もう一度部室に戻った方が良さそうだね」
「ああ。俺も行くぜ。いたずらにしちゃあ笑えない」
森継さんと大前君の顔つきが変わったようだった。マリーさんも、息を呑んだのが気配で伝わってきた。眼鏡のずれを片手で直しながら、張り詰めた声を発した。
「分かったわ。すぐに戻りましょう」
「ありがとうございます」
頭を下げてからも、私は依然として混乱していた。あのおぞましい写真は――いや。私は嫌な考えを振り払うようにかぶりを振った。うっすらと頭痛や吐き気を感じたが、小さい画面を見たせいだと思うことにした。
高校へは間もなく到着した。
「僕は教頭先生のところへ行って、異常がなかったか訊いてくるよ」
「ありがとう。頼んだわ」
部長の森継さんと別れ、マリーさんを先頭に4人で部室へ向かう。段々と鼓動は早くなっていったが、必死に押さえた。気を抜くと呼吸を忘れてしまいそうだった。
マリーさんは部室の扉を前に、まずは開いているかどうかを確かめる。手にかけ横に動かそうとしたが、しっかりロックされたままだった。
「鍵はかかったままのようね」
「じゃあどうして……」
「今は中を確かめましょう」
マリーさんが鍵を差し込み、回した。
扉をゆっくりスライドさせる。狭い室内には、誰も見当たらなかった。
「誰もいないみてえだな」
大前君が部屋の中を見渡すが、隠れていないようだった。そもそも隠れられるような場所はほとんどない。
「姫川さん、携帯はどこに置いたのかしら」
「ええっと、机だと思うのですが……」
手分けして探していると、
「おい。なんだこれ」
大前君がなにかに気付いたらしく、しゃがみ込んだ。それは地面に落ちていた。ハガキ大の紙片だ。午前中にも落ちていただろうか――いや、気付くはずだ。
私は唐突にあの年賀状を思い出した。それくらいの大きさだったからと。その面に書かれていたのが簡素な一文だけだったから。
「……っ!」
マリーさんが無音の悲鳴を上げた。心臓がどくんと跳ねるのを感じた。
『尾崎真栞と森継丈は付き合っている』
「な、なんだよこれ」
私はといえば、あまり衝撃を受けていなかった。それどころか納得すらしていたような感覚だった。ああ。そうか。どこかで予感があったのだ。不穏な予感。破滅の予感。それは、甘い匂い……森継さんに抱き留められた時、微かに感じた匂い。マリーさんの香水に酷似していた。
散策中に何度か交わされた、二人のアイコンタクト。マリーさんと森継さんは、付き合っている……。
不意にめまいがした。探偵との「交代」が始まったのだろうか。私はなにもしていないけれど。
「英奈ちゃん、携帯あったで! そこの机の中に置いてあったわ……って、どうしたん?」
「ほたるさん、今は」
さらに動悸が強まり、視野が狭まっていく。へたり込んでしまったマリーさん、緊張の面持ちで紙を裏返そうとする大前君、携帯を手に駆け寄ってきてくれたほたるさんの疑問の表情、全てが色あせていき、視野の中心のものだけが眼前いっぱいに広がる感覚。私は気付いた。人格の交代などではなく、ただ私は絶望したのだと。
果たして、大前君が裏返したのを見て、私は年賀状を思い出した理由を悟った。どこかでこうなると予感していた。いや、予感どころではない。私は同じものを見たのだから。
裏面は。
年賀状と同じく、写真になっていた。それは携帯に送られたものと同じだった。
一面にモノクロの画像が印刷されていた。荒いが、写っている内容は遠目にも理解できた。残酷なまでに、鮮明に。
年賀状と同じく、マリーさんが写っていた。
背景は野外学習部の部室。この場所だ。本の山を背に二人が写っている。時計は11時過ぎを指していた。
その場所でマリーさんは、ある人と写っていた。
年賀状と同じく。
マリーさんはキスしていた。
ただし鹿にではなく、人と。森継さんと抱き合って、キスをしていた。
「おい、なんなんだよ……」
大前君は呟いた。その顔は苦悶に歪められ、尊敬する人物の醜態に拒否反応を示しているのは明らかだった。
不意に、部室に影が差した。既視感があった。
「どうしたんだい、みんな」
反射的に振り返ると、森継さんが遅れてやってきていた。教頭先生の姿も見える。
だめ。見ては。
音声にならずに消えた思いもむなしく、彼らは写真を目にしてしまった。
重苦しい空気の中、さらに重く響く言葉が、マリーさんにかけられた。教頭先生だった。
「これは……どういうことですか。尾崎先生」