Ⅳ 交代
「か、簡単な話って……」
ほたるさんがおずおずと訊いてきた。さすがに呆気にとられている様子だ。
「あ、あのぉ。もしかして、英奈ちゃんにはこの謎が解けたん?」
「もっちろん。わたしは名探偵ですから」
「なになに、どういうことかしら」
マリーさんの声も遠くから聞こえてくる。しかし私は軽くパニックに陥っていた。いったいなにが起こった? どうして私は話せない? 身体を動かせない? そして、誰が私の代わりに話している?
――いや。慌てるな。自分が誰か、ちゃんと思い出せ。姫川英奈。東京の天保高校2年生。旅行で来た土地で、地元の高校を訪れている。それから、本当に私はなんの行動も出来なくなってしまったのか?
(あなたはいったい。誰なんですか)
試しに、心の中で、謎の人物に問いかけてみた。するとやはり頭の中でだけ、ちゃんと私の声が響いた。
うん、大丈夫。私はここにいる。なぜか違う人格が現れたようになっているけど、干渉させることができる。異常事態の中で、自分の存在を感じられたことは大きな安心になった。
すると謎の少女は私の問いに答えてくれた。今度は私の口で話したわけではなく、私と同様に心の中でだけ言葉を発した。
『誰って、名探偵よ』
(名探偵、ですか)
『うーん、今はそれしか分かんない。だって、目が覚めたばっかりなんだもん』
声の感じからはとても混乱しているようには思えなかったけれど、嘘をついているような感じもなかった。「目が覚めた」……彼女は私の中で眠っていたということか? 抑圧された人格が現れて、というのは物語ではありふれたシナリオだろう。だがこれは現実だ。どれほど現実感がなかろうと、私は今ここにいるのだ。いや、できればそう信じたい。
(あなたは、いったいなんのために現れたのですか)
『名探偵はね、謎にしか興味がないの』
予想外の方向からの答えに、またも思考が停止する。
『魅力的な謎――灰色の脳細胞が舌鼓を打ってしまうような、素敵な不思議を紐解くこと、それがわたしの使命。
だからエナがまだ解けていない謎に、答えにきたの』
少女の話はすぐには了解不能なものだった。しかし、彼女が私には見えていない事象に気付いているのは確かなようだった。
(謎、ですか?)
『そう。マリーさんはね――』
私が驚いているのをよそに、その子は軽やかに下駄箱の影から飛び出し、マリーさんたちの前へ踊り出た。二人と目が合う。実際に間近で見るマリーさんは眼鏡こそかけていなかったものの、写真の面影が残っていた。
……ああ。
ここに。この自然豊かな街に、奈良に来てよかったと、さっきは心の底から思えた。しかし今は。
私の口を借りて話すこの得体の知れない存在。さっき、校門をくぐった時に感じた違和感を警戒するべきだったとでも? 嘘だ。そんなことは不可能だ。誰が予想できようか? こんな、まさにフィクションの世界のような。
私は一歩引いた位置から世界を見ている。それはまるで舞台を見ているようで――そう。ここは「探偵」と名乗った人物の一人舞台だった。
「どうしたの。姫川さんよね?」
マリーさん、こと尾崎真栞さんが尋ねてきた。別の人間の視界を通してものを見るのは、なんだかおかしな感覚だった。主観風に作られたドラマを見ているような気分だ。
「こんにちは、マリーさん! 謎は解けたわ」
「謎?」
「ああ、そうそう」
ほたるさんが思い出したように叫んだ。
「今、下駄箱の端まで覗かんと引き返したやろ? それはなんでやろって話しててん」
ほたるさんが先ほどまでの疑問をマリーさんに説明し始めた。私たちが隠れていた下駄箱は覗かず、手前で引き返したのはなぜか。
「ああ、そのことね。ごめんなさい、もっとちゃんと確認したら良かったわね」
「ほんまやで、マリーさん」
「あなたが余計なことをするからでしょ!」
マリーさんはほたるさんを捕まえて髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。よくあることなのか、ほたるさんも笑いながら逃れようとしている。姉妹のようにはしゃぐ光景は微笑ましいものだったが、今の私はあまり安らぎを得ることはできなかった。
「ごめんなさいね、待たせてしまって。他の部活の子に捕まっちゃって」
「それはええねんけど、なんでさっき引き返したん?」
「それにはわたしが答えるわっ! マリーさんが昇降口に誰もいないと思ったのも無理はない」
探偵はとっておきの玩具を披露するような調子で、人差し指を立てた。二人の視線がこちらに集まる。
「マリーさんはね、ちゃんと確認はしていたのよ」
「え、引き返したのに?」
「そうね。わたしたちが隠れていた場所、一番奥の下駄箱の死角までは覗かなかったわ。でもマリーさんがそうしたのには理由があったの」
マリーさんは微笑んで探偵の推理を聞くことにしたらしい。弟子が答えを出すのを、優しく待ってくれている師、そんな頼り甲斐のある雰囲気だ。部活内での立ち位置も分かろうというものだった。
二人とも私の豹変ぶりを受け入てくれたように思えるのはまだ幸いだった。人格が交代しただなんて、とても私の口からは説明できそうにないから。
いや、そもそも元の状態に戻れるのか? ずっとこの子の中に閉じ込められる……なんてことがなければいいのだが。
「理由なあ。そういえばさっき思ってんけど、マリーさんが引き返したのは、電話を受けたとかじゃないんよね?」
「そうよ。メールでもないし、他の用事を思い出したわけでもないわ」
「うん。だからマリーさんは、わたしたちはこの昇降口にはいないと思い込んで、引き返そうとしたのよ。おそらく校内放送をかけるためね」
「正解よ」
校内放送。彼女がなにか用事を思い出したという私の推測は的外れではなかったわけだ。マリーさんは私たちの不在を確信し、改めて校内放送で呼び出そうとした。
しかしまだ疑問は解決していない。
「姫川さんには、その理由も分かっているのかしら」
「もっちろん!」
探偵が胸を張るのが分かった。ああ、自分の姿ではしゃいでいるのかと思うと……屈辱だ。恥ずかしさで頭がおかしくなりそうだった。すでに壊れてしまっていなければの話だけど。
「マリーさんは下駄箱の陰を見る手段があった。だけど今日に限ってそれは不可能だった――ほたるさんにも、心当たりがあるはずよ」
「お、そうなん? じゃあ任しといてください。ウチも半年間お世話になってる高校やからね!」
ほたるさんは拳で胸を叩いたものの、しばらく辺りを見回して、根を上げた。
「あかん、やっぱり分からん」
「今の自信はなんなのよ」
「う~、マリーさんが厳しい」
二人の漫才のようなやりとりに、探偵はのんきにケラケラと笑ってから、答えを告げた。
「ほら、あそこ! レリーフの間のスペースよ! 普段は、鏡がはめてあったんじゃない?」
そこは例の斜めになった箇所だった。昇降口から校舎へと通じる壁。斜めになったその部分には、なぜかレリーフがなかった。
「え……あ! そうや! 確かに昇降口に鏡があったわ! 今はなくなってるけど」
ほたるさんは声を上げた。マリーさんも恥じいるように笑っている。
「そう。横着してしまったの。いつものくせで、鏡があると思い込んでいたのよ」
「マリーさんは、その鏡を使えば死角を見通せると知っていたのね。だから通路から見ただけで、確認しなかった。そこには人影は映っていなかったから」
しかし今日は鏡がなかった。昇降口の暗さも相まって、鏡に誰も写っていないと錯覚した。覗いていない最後の死角にも人はいないと思い込んだ。だから引き返した。
私はついさっき同じようなことを経験したのを思い出した。民宿おざきの玄関の鏡。階段から降りた時、外まで見通すことが出来た。
ほたるさんはまだ引っかかっている部分があるようだった。
「まあ確かにマリーさんは視力良くないけど……」
「ええ。おまけに今日はコンタクトが入りずらくて、付けていなかったの」
「うん、せやんね。けどほんまに、それだけで見間違ったって、英奈ちゃんは確信できたん?」
「ふふふ。わたしたちの姿を事前に見ていたことも原因よ」
不敵に笑った探偵に対して、ほたるさんは不思議そうに自分と私の姿を見比べた。探偵の視界を通してしか見られない私でも、彼女の言わんとすることは分かった。
「ウチらの服装……あ!」
「気付いた? わたしの服は白系統、そしてホタルちゃんも制服姿だった! マリーさんはその印象を頼りに探していたのよ。暗いこの場所では、白は目立つから」
「そう。下駄箱の間を覗けば誰かいるかどうかは分かると思ったのよ。一番隅だけは鏡で見通せることが分かっていたから、直接は覗かなかった」
私たちを待たせて焦っていたマリーさんの頭には、薄暗い昇降口の中に浮かび上がる二つの白いシルエット、というイメージがあった。それを頼りにしていたために、存在しないはずの鏡を見てしまった。
斜めになった壁面と薄暗い空間が、そこにない鏡を演じていた。
「はあ、なるほどな。でもウチも忘れてた鏡があるって、よう分かったね」
「この場所には、玄関になら普通はある物――つまり鏡が置いていないことは気付いていたからね」
そう。私は身だしなみを直そうと思って鏡を探したのだ。鏡がもともとあの位置にあった。そう考えると、マリーさんの行動も納得できる。マリーさんはあそこに鏡があるのを知っているわけだから、わざわざ奥まで覗かなくても、死角を確認できると思っていたのだ。
「これが、わたしたちとマリーさんがすれ違った真相よ」
「すごい! 見えてへんもんを見抜くって、ほんま探偵って感じやね!」
「当然よ。わたしは名探偵だもん!」
得意げに胸を反らした。私なら絶対にしない大げさな身振りだ。
「錬路さんのお孫さんというのは伊達じゃないのね。素晴らしいわ」
マリーさんは目を細めた。彼女も祖父のことはご両親から聞いているのだろう。
しかし、最初は突飛な状況に驚かされるばかりだったが、今になって不安になってきた。ずっとこのままなのだろうか。周りからどんな目で見られるだろう……。
その時、ノイズが響いた。校内放送を始めるチャイムが鳴る。教頭先生がかけてくれたのだ。
『ご来賓の姫川英奈様。職員室までお越しください』
瞬間、またあの感覚に襲われる。今度は逆。世界が反転し、私の意識は浮上していく。すると探偵があくびをし始めた。
『あれえ、なんか眠くなってきちゃった。戻らないと……』
(ちょっと、待ってください。結局あなたは何者だったんですか。名前は?)
『分かんない。覚えていないの』
分からない? 記憶喪失ということか? 得体の知れない子供だと感じていたが、そこまでとは。
今まで二重人格が現れたことなんてなかった。どちらかというと「外から入り込んだ」と説明された方がしっくりくる。しかし肝心の本人がこれでは、想像の範疇を超えない。
いや、そもそもこんな超常現象に説明を付けようとすること自体、ナンセンスか。
『あ、でも、一つだけ確実なことがあるわ……』
(なんですか?)
勢いこんで訊いたが、彼女の声はまたも異質な単語を響かせたのだった。
『わたしと「推理対決」をするのよ』
(はあ?)
『エナが勝てば、わたしはいなくなるから……』
(それでは意味が分かりません)
『ふわぁ、おやすみ』
それきり、声は聞こえなくなった。耳鳴りに覆われていく。世界と隔絶されたかのような感覚の中で、私は身体の表層へ、そして探偵は身体の奥へ移動していく。彼女は眠りにつこうとしていた。
やがて交代が終わり、懐かしい感覚が肌を焼いた。暑い夏の空気。しかしどこかひんやりとしていて。
鳥肌が止まらなかった。腕をさする。一瞬、視界がぼやけた。
「ちょっと姫川さん、大丈夫!?」
マリーさんに抱き留められる。甘い香りが鼻腔をくすぐった。交代中は曖昧になっていた五感が、普段の状態に戻ったのだ。
少し足がふらついたのも、急に触覚が戻ったせいだろう。地面に落下したような感じだった。妙なことに感心してしまったが、このまま安心していていいのだろうか? どうやら心配していたような、ずっとあの状態のままということはなくなったが……。
あの子が私の中から完全にいなくなったという確証はない。こんなに呆気ないものだとはとても思えないから。数秒前まで感じていた彼女の存在は、まだ強く実感として残っていた。
それにあの単語。「推理対決」。詳しい話はなにも聞けなかったが、大まかな予想は付く。彼女はちゃらんぽらんな態度のようで、洞察力はなかなかのものだった。事実、彼女は私が気付けなかった真実にたどり着いていた。
彼女の台詞が本当だとしたら――私は、彼女を出し抜くことができるのか?
終わりにはほど遠いことを、私は感じていた。根拠はない。だが、「交代」の最中に探偵の存在を感じたように、身体の奥底で、本能で理解していた。
まだあの子は出ていったわけではない。理解を超えた感覚がそう告げていた。
Episode.01 きょうえん ――鏡を演じる―― 了