Ⅲ 廃校
さて、どうしたものだろうか。
昇降口まで来たはいいが、私たちはかれこれ10分ほど待たされていた。
長期休暇の昼間だからか、蛍光灯は点いていない。一歩外に出れば夏の日差しが降り注いでいるというのに、屋内は思ったよりも薄暗い。ウォータークーラーのジジジという電気音の他には、静寂がこの場を支配しているだけだった。
「来えへんなぁー。マリーさん」
「そうですね」
靴はすでに履き替えていた。昇降口の一番隅の空いた下駄箱に、ほたるさんと隣同士で靴を入れた。スリッパもそこにあるものを借りていいようだった。
尾崎さんはすぐに行くと話していたが、こうも待たされると不安になってくる。
「マリーさん、頼られ体質やから、どこかで捕まっているんやと思いますわ。気楽に待ってあげてください」
「はあ、そうですか」
ほたるさんの気楽そうな顔を見たら、心配するほどでもないという気持ちになってきた。手持ち無沙汰に、あたりを眺めてみることする。
正面の通路の中心にある、昭和年代の卒業制作のステントグラスが目を引いた。その下には掲示板があり、左右の壁にずらりと木製のレリーフが並んでいる。これらも卒業制作なのだろう。
ふと、壁の一カ所が気になった。
「ほたるさん、来てもらえますか」
「なんですかぁ?」
たたっと駆け寄ってきた彼女に、北側の校舎と通路が繋がる角を指さしてみせた。壁は90度で交わっているわけではなく、ちょうど柱があるのか45度くらいの角度で斜めになっていた。
他の箇所と異なり、なにも飾られていない。
「ここ、もともとはなにがあったんでしょうか」
「え、なんで?」
「接着の跡があります。ここにもレリーフが飾られていたのではないでしょうか」
「ほんまや。うーん、でも、よぉ覚えてへんなぁ」
ほたるさんは横の壁に並ぶ木製の浮き彫り細工を見ながら首を傾げた。ウェーブのかかった長い髪がふわりと揺れた。
「あ、ていうか、英奈ちゃん。木の枝付いてる」
「あら。どこでしょうか」
「ポニーテールの根元らへん」
木が茂る細い路地も歩いたからだろう。服装も乱れたかもしれない。枝を取ろうとするより早く、ほたるさんが顔を近付けてきた。真剣な顔で、私の後頭部に手を伸ばす。間近で見る唇は肉感的で、妙に大人びて見えた。
「はい、取れました!」
「ありがとうございます」
私はほたるさんに礼を告げてから、気まずさを紛らわすように辺りを見渡した。通路の壁。歴代の作品がずらりと並び、中央あたりに掲示板、そして再びレリーフが並んで、この角まで埋まっている。所々はガラスになっていて、向こう側にある中庭を見渡せた。
通路の反対側――方角でいうと南――には手洗い場があるのが見えた。ウォータークーラーも設置されている。その奥で中庭の回廊に繋がっているようだった。
床に目をやると、下駄箱の足下と通路には簀の子が敷かれていた。特段変わった様子はないが……ふむ。
「英奈ちゃん、もしかしてこのスペースになにがあったか推理してます?」
「推理というほどでもありませんが、思い当たることはあります」
「ええ!? 分かっちゃったん? すごいなあ、ウチも考えてみよ」
ほたるさんはじっと目を凝らして柱の表面を見つめていたが、やがて諦めたように肩を落とした。意図せず、口角が上がるのを感じる。こんなことを思うのは失礼かもしれないが、彼女の大げさな仕草や表情は見ていて飽きない。
「うーん、思い出されへん。全然気にしてなかったわ。そもそも、どうせウチらはすぐに出て行くしな」
「出て行く?」
「あれ、聞いてへんかったんですか。ウチら今年で廃校なんです」
「え」
耳を疑った。廃校? そんなことは初耳だった。
「急に決まったみたいで。せっかく慣れてきたのに」
「それは、大変ですね」
祖父はこのことを知っていたのだろうか? いきなり原稿を取りに行くように指示したのも得心がいく。だとしたら今頃、驚く私の顔を想像してほくそ笑んでいるかもしれない。まったく。
だが、彼女たちにとっては一大事だろう。壁にできた空白を見つめるほたるさん。感傷的な目をしている気がした。そこになにを見ているのだろうか。
「まあ、ウチはそこまで愛着ないです。4ヶ月しかいてないし」
「まだ知らない場所も多いのではないですか」
「ほんまですよぉ。でもウチなんかより、マリーさんはよほど無念そうでした」
「……尾崎さんは受験のこともあるでしょうから、なおさら大変でしょう」
するとほたるさんは暗い表情から一転、噴き出した。おかしなことを口走ってしまっただろうか。
「まあ、マリーさんは問題ないでしょう。ていうか英奈ちゃん。誰も『尾崎さん』なんて呼んでませんよ。『マリーさん』でかまへんと思います」
「いいんでしょうか」
大丈夫やで、とほたるさんはくすくすと笑いながら、楽しそうに目を細めた。彼女だけでなく、野外学習部の中でもその通称がスタンダードなのだろうか。慕われる先輩らしい。
ほたるさんと尾崎さんも姉妹同然の仲のようだった。先ほどの会話からも気の置けない関係であることが伝わってきた。
その時、奥の通路から足音が近付いてきた。
「お。噂をすれば。マリーさんやな」
ほたるさんの言葉どおり、白いパーカーを羽織った彼女は先ほど遠目で見た姿と同じようだった。向こうはまだこちらに気付いていないらしい。濃い眉が特徴的な顔は、眼鏡こそかけていなかったものの、年賀状の写真のままだった。
すると、私は身体を引っ張られるのを感じた。驚く間もなく背後の下駄箱の陰まで誘導される。思わず目を見開いて少女に視線を向けると、いたずらっぽい笑みと囁き声を返された。
「待たされた仕返し。近くまで来たら、驚かしましょ」
……「マリーさん」は穏やかそうな人だったが、さすがに怒られないのだろうか。まあ、学年の差はあれど、普段もこういった接し方なのだろう。
マリーさんの足音が近付いてきた。迷いのある足取りで簀の子を踏む音が響く。下駄箱の陰を確認しているらしい。
すぐそばでほたるさんの吐息を感じながら、どこか懐かしい感覚を味わっていた。まだ小さかった頃、祖父とかくれんぼをした。あの時の相手は強敵で、すぐに見つけられたものだけど。
足音は確実に近付いていくる。斜めになった壁を見つめ、息を殺す。すると、下駄箱あと1つ分というところで、急に足音が止まった。
え?
思わず私たちは顔を見合わせる。気付かれたのだろうか?
しかしさらに不思議なことが起こった。足音は来た時と同じペースで遠ざかっていった。どうしてだろう。まだ私たちがいる下駄箱の裏を確かめていないのに?
ほたるさんも呆気にとられたようにじっとしていた。
「どうしたんでしょう」
「そうやね」
しきりに首を傾げている。私も不思議だった。尾崎さんは物陰を覗こうともせず、その場を立ち去った。ここは彼女から死角になっているはずだ。探しに来たのなら、確認くらいはするのではないか?
ほたるさんは声を落とした。
「電話でもかかってきたんやろか? 引き返したとか」
「いえ。それなら、話し声が聞こえるはずですよね」
彼女は立ち止まった後、すぐに引き返したようだった。電話やメールがあったのなら立ち止まって確認するだろうし、少なくとも歩くスピードが遅くなるはずだ。しかし彼女の足取りは変わらなかった。
「まるでなにか用事でも思い出したようでした」
「うう、それもせやな」
少女は首を捻ったが、すぐに思い直したような顔つきになると、
「まあええわ。とりあえず呼び止めやなね。
マリーさーん!」
「え、あれ? いたの?」
陰から出てタタっと走っていったほたるさんに、マリーさんは驚いたようだった。ということは、やはり私たちには気付いていなかったのか。
まだ些細な部分で引っかかっていることはあったが、とりあえず私も下駄箱の陰から出ることにした。なぜ彼女が立ち止まったのか、一応は説明が付けられる。これでようやくマリーさん本人と対面だ。
その前に、小さく声に出して落ち着こうとした。それだけのつもりだった。こういう時、私は特定の台詞を持たない。「よし」と軽く鼓舞する時もあれば、「やれやれ」と軽くため息をつくこともある。
たまたまその時選んだ、いや、口をついて出た言葉がそれだったのは、まさに運命としか表現できなかった。
あるいは、導かれていたのかも。
『さて――』
瞬間、世界が反転した。視界は色彩を失い、モノクロに。キーンという耳鳴りがする。それは徐々に大きくなっていき、だけど不思議と不快な感じはせず、ただ私を意識の奥へ奥へと落とし込んでいく。
なんだ、これは?
気付けば、五感は曖昧になっていた。色や音だけでなく、さっきまで肌に感じていた暑さや湿気も、古い校舎の独特な匂いも、全てが曖昧になっていた。まるで自分の身体が自分のものではないような感覚。だけど、不思議と焦りは感じなかった。心地よいとさえ思えた。ぬくもりの中で目を閉じ、身体を丸めたくなるような、懐かしい感覚だった。
「英奈ちゃん、こっち来てください――英奈ちゃん?」
ほたるさんの声が遠い。
理性は警鐘を鳴らす。おかしい。こんなことは初めてだ。頭やお腹が痛むわけではない。立ちくらみとも違う。ありふれた語彙では説明できないような、異常事態が起きていた。
思わず瞼を閉じていた。すると急に、深い暗闇の中で、私は。上下を忘れ、平衡感覚を失った。
溺れる。
このままでは、深く、溺れてしまう。
パニックになりかけた私を、さらに混乱に陥れる事態が起きた。
『やっほー。初めましてだね!』
声が聞こえたのだ。
身体の中に直接響くような。女の子の声。誰? 聞き覚えはないが、それでいて懐かしいような……。だが突然の刺激のおかげで、かえって私の心は制御を取り戻した。行き先を見極め、ゆっくり浮上していく。
目を開けた時、私は新しい世界を見ていた。
「わあ、危ない!」
私は屈んで、取り落としそうになった鞄をキャッチした。いや、私じゃない。身体が勝手に動いたのだ。さっきよりも五感は戻ってきている。だけど、自分の意思では身体が全く動かせなかった。
(なんですか、これは)
声を出そうとしたら、身体の中で響いただけだった。
「ふふうん、わたしってばナイスキャッチ!」
声は私のものだ。しかしその主がさっき心の中で話しかけてきた少女だとすぐに分かった。口調、抑揚は私とらまるで別人のものだった。あまつさえ能天気に口笛を吹いている。頭がクラクラしてきた。
知覚が戻ったといえども、やはり薄い膜に覆われたような感覚だった。視界は比較的良好だ。音や匂いは、意識を集中すれば霞のかかった状態から抜け出せる。触覚となると、さらなる集中を要した。
今、私の身体の表層にあるのは、私ではない。姫川英奈ではない。
(あなたは。誰なのです)
私には身体を動かせない。だとしたら、さっきこの身体を動かして鞄を拾った人は。私を立たせている人は。一体誰なんだ。
「わたしは名探偵だよ!」
名探偵?
日常ではまず聞くことのない言辞に、思考が混線をきたす。連想したのは遠い昔のこと。やけに演技くさい彼女には既視感があった。そう、これは昔に観た演劇の登場人物に似ている。中等部の演し物で友人が演じたキャラクターのような振る舞いだった。
「謎はすべて解けました!」
「えっと……英奈ちゃん?」
さすがのほたるさんも、呆気にとられたように、おずおずと尋ねてきた。ああ、仲良くなれそうだったのに。変な人だと思われただろうか。端から見れば、「姫川英奈」が突然おかしな素振りを見せ始めたというだけだ。東京にはこんなおかしな女子高生がいても不思議じゃない、と納得さえされるかもしれない。冗談じゃない。
だけど今の私にはなにも出来なかった。身に起きた異常事態を伝える手段はない。この「探偵」にも話が通じそうにない。ましてや目の前にいるこの子が、私の身体の中で起こっている突拍子のない出来事に気付いてくれるなんて、望むべくもないことなのだから。
人格交代、だなんて。
私はおかしくなってしまったのだろうか?
だが少女は私などお構いなしに、高らかに声を上げる。
そう、これが彼女との奇妙な邂逅。予想外の共演の始まりだった。
探偵が、言った。
「さて――簡単な話ね!」