Ⅱ 栄藍
私たちは緩やかな坂道を進んでいた。談笑しながらでも息は切れないほどの速度だ。ほたるさんは変わらず制服に身を包んでいる。高校の敷地内でも私服でかまわない、と尾崎さんからは聞いていたが、彼女はなにか理由があるのだろうか。
セーラー服のデザインはおしゃれだ。白色のブラウスの着丈は短めで、脚が長く見える。引き絞られた袖は古風な奥ゆかしさを感じさせ、腕の部分には花を模した文様が刺繍されていた。校章なのだろう。
「みんな、この制服ダサい言うんですよ。せやのに今日は撮影があるからってウチにだけ制服着させて。みんなは私服やのに」
「なるほど、だから制服なのですね」
「でもまあ、ウチはこれ気に入ってるんですけどね。かわいいと思いません?」
「はい。素敵ですよ」
「もう、ほんまにそう思てる? 褒めてもなにも出えへんでー。
英奈ちゃんかて、女の子らしくてめっちゃかわいい!」
褒め言葉がお世辞にならないのも彼女の魅力だろうか。今日はたっぷり歩き回るつもりで、動きやすい格好を選んだ。白のカットソーにベージュのビスチェで引き締め、黒のスキニーパンツを合わせる。スニーカーは足に馴染んだ旅の相棒だ。
「ウチら、今日は文集作るために平城宮跡に取材行くんです」
「部活動ですか?」
「そう、名付けて野外学習部! って言うても、サークルみたいなもんですけどね。部員は他に男子が二人だけ」
「野外学習、ですか。普段はどんなことを?」
「うーん。近くの廃遊園地で肝試ししたり、天体観測に行ったり……あれ、あんま部活らしいことしてへんな」
思わず、彼女の苦笑いにつられてしまう。
「ま、だから最後くらいはちゃんと活動報告できるネタ探そうっちゅうわけです」
尾崎さんが呼ばれたのも部活動のためだった。今年で3年生のはずだから、確かに集大成といったところだろう。気合も入るはずだ。
「そういえば、英奈ちゃんはウチらの高校に用事でもあるんですか?」
「はい。『お使い』が一つ」
「お使い?」
「祖父が昔訪れた際に置いていった原稿があるとか。その回収を頼まれたんです」
「『堂森錬路』! ウチ、マリーさんに名前聞いてから読み始めて、今めっちゃハマってるんです!」
姫川錬路――旧姓・堂森。ごく一部では人気らしい推理小説作家の彼は、一時期全国を旅していた。奈良もその一つだ。
「女将さんもうっとりしてましたよ。男前さんやったわあ、って」
「ふ、そうですか。祖父も喜ぶと思います」
「放浪の小説家……逗留先で事件を解決して宿代を浮かしたという実話も! くうぅ、かっこいいわあ」
「ただの変人と思う時も多いですよ」
「ばっさりやな」
イタズラ好きな所がある人で、ときどき度を越すから困ったものだ。しかも自分でしかけたイタズラを忘れることもしょっちゅうという、タチの悪さ。まあ、そのおかげで忍耐力は付いた方だと思う。
思い立ったが吉日を体現する自由人なので、あの年賀状を受け取った時も唐突なものだった。
「英奈、奈良旅行をする気はありませんか」
将棋を指していた時のことだ。祖父がやや劣勢の局面で、懐から年賀ハガキを取り出してきた。元は彼から手解きを受けた将棋だが、最近は私が勝つことも多くなっていた。
「こんなものを見つけまして」
「民宿、ですか」
「ええ。しばらく前に届いたものです」
「そうですか」
正月から半年間も忘れておいて、「しばらく前」と平然と言ってのけた祖父に、私は今更呆れるようなことはなかった。
渡された年賀状を裏返すと、制服姿で微笑む少女が私の目に飛び込んできた。尾崎夫婦の一人娘で、真栞さんというと祖父は教えてくれた。また、写真の隅に張られたキャラクターのシールが、私の目を引いた。
「駅前から少し離れたところにありまして。静かな良いところですよ」
「はあ」
「前に平城遷都1300年祭のことを話していたでしょう。夜は燈会というお祭りも行われます。
私はもう歳ですから、英奈が行ってみてはどうですか」
「それは、良いですね」
私は差し障りのない返事をしながらも、祖父の申し出の真意を探っていた。彼がなんの見返りもなく旨い話を持ってくるとは思えない。どうせ裏の意図があるのだろう。
「電話で予約する時、私の名前を出すと良いでしょう。もしかしたら真栞さんと話せるかもしれませんね」
「分かりました。後で連絡してみます」
「良かった。ああ、それから」
パチン、と大駒を捌く一手。ここが勝負所とばかりに、祖父は口角を持ち上げた。
「お使いを頼まれて欲しいのです」
「お使い、ですか」
「近所の高校に、私の書いた原稿が残っているはずなんです。今度の打ち合わせで必要になりましてね。
学校に話は通しておくので、受け取ってきてくれませんか」
「ええ、かまいませんが」
「助かります。真栞さんの通う高校でもありますから、案内してもらうと良いでしょう」
祖父の笑顔は、しかし、私の指した手によってすぐに崩れた。丸く目を見開いて、ぽつりと呟いた。
「これは、参りましたね」
ほたるさんが話しかけてきて、私は回想から引き戻された。
「あ、もしかして英奈ちゃんも、お祖父さん譲りの推理力があるとか? なんか解決した事件とかないんですか」
無茶振りにも程がある。
「そういえばほたるさん、年賀状を見たがっていましたね」
「あー、話逸らしたぁ」
頬を膨らませたものの、気になっていたらしく素直に年賀状を受け取った。鞄からすぐに取り出せる位置に入れておいたのが功を奏した。解決した事件、と訊かれて実はいくつかの出来事が思い浮かんでいたが、別に披露するほどの話でもない。
ハガキの表面は簡素なもので、民宿おざきの住所と祖父の宛名だけが印字されている。
「祖父が奈良を訪れて以来、年賀状のやりとりだけは続いていたそうです」
「そうなんや。『姫川錬路様』……字面からしてかっこいいもんなあ」
高校に立ち寄るよう私に言付けたのが彼なら、今回の旅のきっかけも彼だと言えよう。そして、この年賀状自体が旅の目的の一つでもあった。
裏返して写真のある面を見た途端、ほたるさんは勢いよく吹き出した。
「ぶふっ! えー、なにこれ。こんなんマリーさんに見せたら絶対むくれますよ」
「そうなのですか」
そんなに面白かったのだろうか。
裏面は制服姿で眩しい笑顔を見せている尾崎さんの写真が印刷されている。ミディアムの黒髪に、分厚いフレームの眼鏡が印象的だ。しかし、たれた目と長いまつげは眼鏡に掻き消されず、存在感を放っていた。
清楚で大人びた雰囲気の彼女は、しかし、隣の鹿にキスをするというお茶目な格好を見せていた。外観と裏腹なその姿には幼さと愛嬌が感じられ、ほたるさんほどではないが、改めて見た私も微笑ましく思ってしまった。
写真の枠の外には「あけましておめでとうございます」の手書きの文字、そしてすぐ横にキャラクターシールが貼られていた。マスコットキャラクターのセイント君だ。一部で「キモカワイイ」と評判の彼は、白いもこもことした衣装だ。本当はサンタクロースの赤白の格好をしているから、特別版なのだろう。コラボ企画でもあったのだろうか。
「ははあん、英奈ちゃんはこれを見てマリーさんの顔を知ったわけですね。眼鏡かけてるマリーさん珍しいわ……いや、でもマリーさんこんなことしはるねんな」
ほたるさんはくつくつと肩を揺らしながら、年賀状の表裏を交互に見る。それからいたずらっぽい顔で私の表情を伺った。悪いことを企んでいる顔だった。きっと尾崎さんをからかうつもりなのだろう。
私は疑問に思っていたことを尋ねることにした。
「……ほたるさんは、いつから民宿で働いているのですか?」
「うーん、今年の3月くらいかな。ちょっと事情があってお世話になっています」
「そうでしたか」
「あ、でも女将さんも旦那さんもマリーさんも良くしてくださって、ほんま助けられてます」
「傍目に見ても、分かる気がします」
返答に先ほどまでの歯切れの良さはなかった。やはりこれ以上はまだ訊くべきではない。彼女も軽々しく話すことではないと判断したのか、話題を変えた。天真爛漫なように見えて、感情の機微に敏い子なのだと分かった。
「でもなんで旅先まで持ってきたんです? マリーさんに見せたら反応が楽しみやけど」
「民宿の場所を知る意味もありますが、その写真――尾崎さんが写っている場所を知りたかったんです」
背景は見たことのない場所だった。新緑の木々が広がっていて、後ろの池の凪いだ水面は緑の景色を鮮明に写しだしている。絵画のような風光明媚な雰囲気だった。できればこの場所を訪れ、写真に収めてみたいというのも動機の一つだった。
「ああ、これ静池のところやわ」
「分かるのですか?」
「うん……あ、せや! ものは相談なんですけど」
「はい」
「ウチら今日は部の用事で出掛けるんやけど、英奈ちゃんも一緒に来ません? その場所も案内しますよ」
「いいのでしょうか」
「大丈夫です! 実はさっきマリーさんに電話した時にお願いしてみたんです。みんなもきっとオッケーしてくれますって……英奈ちゃんさえ良ければやけど」
ほたるさんは眉をハの字にして私の返事を待った。これは面白いことになってきた。旅先の高校の生徒と課外活動。なかなかできる体験ではない。
「願ってもない申し出です。よろしくお願いします。案内してもらえると嬉しいです」
「やったあ!」
ガッツポーズをとったほたるさんは本当に楽しそうで、私も心が浮き足立つのを感じたのだった。
「でも英奈ちゃんって、えらい良い人ですね。こんなにしゃべりやすい人おらへんもん」
「偉い人間などではありませんよ。ほたるさんこそ、すぐに人と仲良くなれそうです」
「えへへ、たいそうなもんやありませんよー……あの、えらい、っていうのはそういう意味ちゃいますからね。すごく、ってことやで」
「ああ。納得です」
既視感を覚えた。部活動の後輩に似ているのだ。雰囲気もそうだが、特にこの関西弁。
『今年こそ、猛虎打線が火を噴きますよ! 寅年やさかい』
彼も時々大げさな関西弁をこぼすことがある。そういえば今頃は大阪に帰省しているのだったか。なにやら浮き足立つ彼は見ていて面白いものだった。
「部活の後輩が関西出身なのですが、ほたるさんと話していたら思いだしてしまいました。雰囲気が似ています」
「そーなんですか。天保高校でしたよね」
「ええ。聞いていましたか」
「うん。有名校やからビックリしました――あ、見えました」
そうこうしている間に、目的地はすぐそこまで迫っていたようだった。
「あれがウチらの通ってる高校やで、英奈ちゃん!」
隣を歩くほたるさんが校門を指さした。その奥には、校舎の一部が見えている。
古くは都が置かれた大和の国、奈良県。その市街地から山間の場所に、今日の行き先である高校は位置している。
県立栄藍高校。
ひょんなことから、私が訪れることになった場所だ。建物の壁には、ほたるさんの制服の腕に付いているものと同じ紋章があった。
「良い建物ですね」
「そう? 古いだけやで」
「いえ。私にしてみれば、歴史ある建物はそれだけで羨ましく思えます」
「ふうん」
校門は開いていた。天保高校とは違って守衛さんもいない。県庁所在地とはいえ、山に近い。地方の高校なら、こんなものなのだろう。呼吸を整えてからインターホンを押すと、10秒ほどして、スピーカーからノイズが響いてきた。
『はい』
「東京から来ました。姫川です」
『ああ、英奈さんだね。お祖父様から聞いていますよ』
話はきちんと通じていたようだった。のんびりとした男性の声は、人柄がにじみ出るような、温かさを伴っていた。今は夏だが、春の日だまりにいるような感覚になった。
すると背後で騒がしい気配が伝わってきて、すぐに若い女性の声に切り替わった。
『お久しぶり、姫川さん。尾崎です。ごめんなさい、案内できなくて』
「いえ、かまいません」
電話で聞いた尾崎さんの声だった。教頭先生に呼び出されたということだったが、ということは、さっきの落ち着いた声の主がそうなのだろう。二人は職員室にいるのかもしれない。
「はいはーい。鹿野も、いてまーす」
『ああ、道案内ありがとう。見えているわよ』
「え、どこ?」
校舎の方へ目をやると、2階の窓に白っぽい影が見えた。その女の子は、こちらへ手を振っているようだった。片手で眼鏡の位置を直してみたが、私の視力では顔はよく見えなかった。ほたるさんはちゃんと分かっているようで、両手を大きく振り返していた。
「マリーさんったら、たまにおっちょこちょいかますねんから」
『ほんとごめん!
そこは暑いわよね。昇降口ならましだと思うから、ほたる、案内してあげて。私もすぐに向かうわ』
「はーい! 了解!」
ほたるさんに指示する様子は母親である女将さんとそっくりだと思った。ほたるさんは敬礼のような格好をすると、私を振り返った。
「英奈ちゃん、はよ行くで~」
「……はい!」
民宿を出る時にも感じた、彼女のバイタリティ。ただ奈良の街を観光するだけではない、ひと味違った旅行が楽しめそうだった。
だから私は、校門をくぐり抜けた時に感じた風を――身体の中を吹き抜けた妙な違和感を、その時は旅の高揚感から来るものと考えたのだった。