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エイサイ的少女のランドスケープ  作者: みのり ナッシング 原作: 大和麻也
Extra 英才少女の思い出
15/16

その2


 数秒の間をおいてから、再びほたるさんは口を開いた。


「探偵さんが真相を言い当てたんだから、犯人としては動機を語るべきなのかな」

「お任せします」

「……昨日、銭湯で話したことはね、嘘じゃなかったのよ」

「隠し事は嘘には入りませんからね」

「はは、きついなあ……親の倒産は本当だよ。私の地元はあなたも名前を知らないような小さな漁村。父は代々漁師をやってる家の、自分の町しか知らないような人だった」


 そこでいったん言葉が途切れる。母は、とは敢えて訊かず、私は彼女が話を再開するのを待った。

 やがてほたるさんは観念したように息を吸うと、目を固く閉じながら呟いた。


「昨日、隼人さんが言ったことは全て事実だわ。母は高校の先生だった」

「……」

「田舎だからすぐに噂は広まって。私も、淫行教師の娘だからって、居場所がなくなって。父は私の顔を見てくれなくなって。暴力を振るうようになって」


 反射的に手を差し伸べそうになって、私は自分の腕をぎゅっと握りしめた。彼女はそんなことを望んではいないだろう。ましてや、私になんて。

 自らをかき抱き、慰めてくれる相手を選ぶ権利は、彼女にあるはずだ。


「それが中学の時。私、これでも町じゃ神童なんて言われてたからさ、東京進学なんて考えてたわけ。母が過ごした場所でもあったしね。

 天保のブレザーとリボンにも憧れたなあ……でも全部ダメになっちゃった」


 ほたるさんは苦しげに胸のあたりを抑えた。白いセーラー服に皺ができてしまう。彼女は自分の行動に気付いていないように思えた。


「周りのせいにするつもりはない。だけど、憎かった。戦いの舞台に立たせてすらくれなかった」

「あなたは最初から私を歓迎してなどいなかったのですね」

「そうよ」

「ずっと、私を騙す気でいた」

「そう」

「案内の時に、見せてくれた笑顔も。愛嬌のある関西弁も」

「……」

「全て、演技だったのですか」

「あは。責められても仕方がないとは思うよ」


 仕方がない。彼女の力ない微笑みを見ていると、その諦念の言葉はすとんと私の胸に収まった。


「関西弁はね、こっちに来てから使い始めたの。不思議なものでね、それまで人前に出るだけで足がすくんだのに、別人みたいに振る舞うようにしたら、治まっちゃった。民宿の手伝いをするうちに、心が軽くなったの」


 そうか。彼女は演技をすることで、自我を保っていたのかもしれない。二重人格ではないが、別の人格キャラを作ることで、本当の自分がそれ以上傷つくことから逃れた。それは、誰もが多かれ少なかれ無意識に行っていることだ。友達、先輩、家庭、習い事……それぞれの相手・場面で言葉遣いや態度を変えて接するように。

 

「そんな時、東京の人が、それも私が受験する予定だった天保高校の生徒が来るって聞いた時、あまり良い気はしなかったの。かなり前に振り切った過去のはずだから」


 しかし彼女はそうなるまでに、どれだけ傷ついたのだろう。何度諦めたのだろう。もちろん、ほたるさんには口が裂けても言えない。私からそんな同情をされるくらいなら、怒ってくれた方が良いと考えるだろう。だが彼女の行いを逆恨みと切って捨てるには、私は彼女の内面に近付き過ぎていた。


「ふふ。どうでしたか、実際に会ってみて。祖父のコネで民宿に泊めてもらったり地元の高校に押しかけたり、イメージ通りのいけすかない女子高生でしたか」

「姫川さんって、たまに子供っぽく根に持つよね」

「軽口を返せるくらいには元気なようで、安心しています」

「もう、意地悪ね……」


 早朝の静かな時間も終わりが近いようだ。部室にも騒がしさが響いてきた。部活動のかけ声。トランペットの音色も聞こえてきた。吹奏楽部は、今年も夏の大会に向けて練習を重ねているのだろう。


「うん。その通りよ。一目見た時から憎かった。私が選べなかった道を、当たり前みたいに歩いてきて。さぞ気持ちいいでしょうね! 最初から恵まれていて。お嬢様で。なんの汚れも知らないような顔をしてっ!」


 ほたるさんは眼光鋭く私を射抜いた。怒りに燃える彼女に圧倒されながらも、私は、その姿をずっと見ていたいような感覚に囚われた。記憶の端に、同じような彼女の影が引っかかっていた。


「だから温室で育ったようなあなたが、人間の汚い一面を見せられたらどうなるか、知りたかった。傑作だったよ!

 車の中でメールを開いたあなたが青ざめた時。鏡を見たと思ったわ。ああ、あの時の私もこんな酷い顔をしてたんだろうって。スカッとしたわ! すぐに窓を開けて平城宮の原っぱに叫び出したいくらいだった。ざまあみろってね!

 それでも涼しい顔して祭を楽しもうとするあなたが本当に憎かった。当たり前って感じで私たちの輪に入るあなたが、吐き気がするくらい羨ましかった!」


 苛烈さを増していく舌鋒とは裏腹に、彼女は今にも泣き出しそうだった。私は思い出した。今の彼女は、あの時と同じだ。静池で、鹿に翻弄される私を見て笑った時と……演技もなにもない、ありのままのほたるさんの姿は、私の心を鷲掴みにしていた。悪いけれど、とても魅力的だと思った。

 彼女は潤んだ瞳で告白を続けた。


「だけど! 一番腹が立ったのはっ! 初めて会った時……たった数秒、あなたの人柄に触れただけで……私、『友達になりたい』って思ってしまったのよ……」


 ほたるさんは袖で瞼を擦った。


「本当に憎たらしい子だったら、どんなに良かっただろうね。『私のあるべき姿』なんて想像していた自分をぶん殴りたくなった。だって、姫川さんは全然違ったんだもん。私なんかじゃ太刀打ちできない存在だってすぐに分かった。あなたが私の境遇にいても、きっと天保に進学していただろうし、私が恵まれた家の生まれでも、たぶん落ちこぼれていたわ。

 結局、私はまた傷付いただけだった。おまけに、大切な人まで傷付けてしまった……」


 彼女が昨夜の出来事に責任を感じているのは、痛いほど分かっていた。無論、彼女は犯人でもなければ直接の原因でもない。それでも、ほたるさんは考えてしまうのだろう。


「私が、昼間にあの写真を見せなければ……。森継さんたちが、撮影を隠すこともなかった。マリーさんは、無茶をして池に落ちなくても済んだ!

 姫川さんの言った通りだよ。私のせいで、また、家族が」


 それをあの幼稚な探偵は、あんな方法で彼女を弄んで……気持ちはわからなくもないが、本当にあの子は性悪だ。あるいは、善悪の区別の付かない、純粋無垢な子供らしいのか。


「ほたるさん」


 私は彼女に近付いて、肩に手を添えた。小さな体躯はビクッと震えたが、嫌がる素振りはなかった。私はそのまましばらく肩を貸した。彼女も抵抗せず、声を押し殺していた。


「よく今まで頑張りましたね。あなたは誇っていいですよ」

「また、そんな上から、妹みたいに扱って……!」

「いいえ、心から敬意を表しています。ほたるさんは見事に()()()()()()()()()のですから」


 私と、探偵と。しかしこの言葉の意味をほたるさんが知ることはないだろう。

 やがて取り乱していた彼女も落ち着いてきた。顔を上げ、もう一度ごしごしと擦った。真っ赤に腫らした目で、勝ち気に微笑んだ。


「ずいぶん、時間がかかったわね」

「さて――最後の謎解きの時間です」


 いたずらっ子のようなこの表情を、ぜひとも探偵に見せてやりたかった。きっと地団駄を踏んで悔しがっただろうから。

 しかしもう、「交代」が起きることはない。


「ちょうどいいですね。今こうして部室で抱き合っていた私たちは、あなたが撮った写真の構図とほぼ同じです」

「どうしたのよ、急に。照れるやん」

「この時、入り口に人が立つとどうなるでしょうか」


 私は彼女の元を離れ、ドアの横まで歩いていった。そして振り返り、入り口をふさぐように一歩横へずれる。部室が一段と薄暗くなった。


「昨日の11時頃、そう、まさに写真に映っていた時計が指していたのと同じ時間帯ですが……教頭先生がいらっしゃいました。その時知ったのですが、入り口に人が立つと部屋は結構暗くなります」


 私は照明のスイッチに被せられた「節電!」の貼り紙に触れながら、ほたるさんに向かって話を続けた。


「この通り、部屋の電気は消されていますし、窓は本の山で塞がれていますから、ドアからの光が頼りなのですね。

 では疑問に思いませんか? なぜほたるさんが写真を撮るためにこの部屋の入り口に立った時、二人は気付かなかったのか」

「英奈ちゃん、したことないの? 夢中だったんだよ」

「それも頭に浮かびました。ですが、もう一つ愉快な理屈がつけられます。ドアのところに立っても、部屋の中に影はできなかったのではないか、と」

「どういうこと?」

「つまり、あの時部屋は蛍光灯が点けられていて、外より中の方が明るかったのではないでしょうか」

「……」

「二人の密会は、()()1()1()()()()()()()()()のですよ」


 日が落ちた後なら、明りのスイッチは入っていただろう。当然外は真っ暗闇だから、入り口に立っても中に影はできない。

 ほたるさんは返事はしないで、代わりに微かに広角を上げたまま私を見守っている。ここは話を続けることにしよう。


「思えば、ほたるさんの目的に気付いてからも、いくつかの違和感が残っていたのです。

 一つは皆さんの態度。マリーさんたちの交際を知ってからも、大事おおごとにはなっていませんでしたね。管理職である教頭先生の知るところになったにも関わらず、その後の燈会でマリーさんは引率を務めていました」

「隼人さんはショック受けてたけどね」

「彼の場合は、ご自身の感情との折り合いもあったでしょうから……ただ彼が怒っていたのはあくまで、校内で密会をしていた、という点ではないのでしょうか」


 敷地外だぜ、と情けない顔で紫煙をくゆらせていた大前君の姿が脳裏に浮かぶ。意外なところで律儀な、彼らしい言葉。

 ほたるさんからの返事は、やはりなかった。今いない人物のことを尋ねられても困るだろうから、当然か。気を取りなおして解決編を続けよう。


「二つ目はあなたの態度です。教師である親の不倫で苦労をした身。それにしては、マリーさんに対する姿勢がちぐはぐな気がしました。軽蔑のような感情は全く感じられませんでしたから」

「なんでもお見通しってわけね」

「それに偶然が過ぎませんか? 地元を離れた先でも同じような場面に遭遇するなんて」

「不倫なんてよくある話よ」

「そのくせあなたは、計画にはないアリバイまで作って、野外学習部の仲を割きたくないような行動を見せました」


 そう考えた時、私の見ていたものは、全く違った意味を持つことに気が付いた。目の前の景色にある要素を加えることで、新しい景観が浮かび上がってきた。


「私は、肝心なことに気付いていなかったのではないかと」

「どういうことかな」

「本当にマリーさんの行いは、問題になるようなことだったのでしょうか」

「生徒との恋愛は御法度だよね?」

「確かに、そぐわないかもしれません。しかしその理由には、相手が未熟である、未成年であるということが多分に含まれていると思います。真剣な交際なら、相手が高校生であっても法律上は問題ありませんから」


 ほたるさんは神妙な面持ちで俯いた。私も我慢の糸が切れてしまわないよう、言葉の続きを急いだ。


「ですが、彼らの場合はそれすらも意味のない話だった。なぜなら、そもそも森継さんはふふっ」


 一瞬、自分の口からこぼれた吐息の意味が分からなくなった。私は吹き出してしまったのだ。全く笑いどころではないのに、笑みを浮かべてしまった。お説教の最中ににやけてしまった時のような決まりの悪さを感じる。だけど、理性とは裏腹に笑いは収まらなかった。もう限界だったのだ。

 それはほたるさんも同じらしかった。


「ははは」

「ふふふ」


 連鎖した笑いは渦を作り、しばらく部屋を包んだ。それでもまだ微かに残っていた理性で唇を強く引き結び、二人して感情の波を落ち着かせるまで、1分はかかってしまった。


「格好をつけるものではありませんね」

「姫川さん、最後まで我慢してよ。早く言ってしまって。私、耐えられない」

「いいえ。もう少し我慢なさい」

「あはは、だめ、真顔やめて、もう」

「ふふっ、というか、昨日言いましたよね」

「え? あー!」


 たまらず、堤防が決壊したようにほたるさんはゲラゲラと笑い出した。大声でお腹をよじる彼女の姿に、軽い勝利の余韻を感じてしまう。私は人差し指を立てて、昨日の台詞を再現してみせた。


「そう! ()()()()()()()()()!」

「あっはは! ちょっと! やめてよ!」


 目に涙を浮かべるほたるさんはとても苦しそうだったが、それでいいと思った。これくらいなら罰は当たらないだろう。


「ええ、そうですとも。彼は大人、()()()()()()! 誰もたばこを咎めてはいなかった。敷地外で吸えば問題ありませんよ、ええ」

「昨日の帰りのことだよね。私、よっぽどネタばらししようかと思ったんだから」

「なにを言っているんですか。顔を真っ青にしてオロオロしていたでしょう。

 大前君だけではない。森継さんも成人していた。だからマリーさんと付き合おうが、なんの問題もなかった」

「ちょ、待って。間抜けだとは思わない? まさかおっさんと高校生を間違えるだなんて」

「ふ、口が悪いでしょ、ほたるさん。森継さんや大前君はまだ20代前半といったところでしょう。先入観もありましたしね」


 そしてほたるさんは、実際は私と同い年ではないのだろうか。彼女はさっき過去を振り切ったと語ってくれた。しかし1年生なのだとしたら、過去と表現するには近過ぎないか。まだ半年も経っていない。

 ほたるさんが2年生なら、1年以上は経過している。


「みんな姫川さんのこと騙していたっていうの? くく、学校に忍び込んで?」

「いいえ、たった一人だけです。私はほたるさんに、最初から認知を歪められていました。それこそがあなたの計画の要だったのです。野外学習部の面々を私に引き合わせたのは、ほたるさんでした」


 私はそもそもマリーさんと一緒に栄藍高校を訪れるだけのはずだった。


「『野外学習部』という名称も、妙にしっくりときませんでした。野外活動、なら分かりますがね。この名前は、あなたたちの属するコミュニティから文字って付けられたものなのではないですか? もしかしたら、ほたるさんが言い出したのかも」


 いわばこれは、叙述トリックだ。探偵は偉そうに講釈を垂れていたが、なんのことはない、彼女も私もまんまと騙されていたのだ。ほたるさんは現実において、叙述トリックをしかけていた。公衆の面前で!


「あなたが『ヤガクブ』と発音する度、私の脳内では狙いどおりの変換が成されていましたよ。『野学部』という略称としてね」


 私は、彼女に決定的な一言を突きつけた。


「ほたるさん、あなたたちは確かに栄藍高校の生徒ではあった。しかし、()()()()()()()()()!」


 定時制高校。勤労青少年のための高校課程。夕方から授業が始まることから、夜間部、夜学部とも言われる。

 奈良の地を舞台とした盤面には、ある駒が欠けていた。それは彼らが定時制の生徒という事実だ。それが揃って初めて、完全な景観ランドスケープが眼前に広がった。

 ほたるさんの真意をずっと考えて、深く掘り続けて、私は探偵には届かなかった真実に辿り着いたのだ。


「まさか、こんなに上手くいくとは思っていなかったわ」

「お恥ずかしい限りですよ。昨日の昇降口での一件に続き、またあなたに騙されてしまいました」

「あはは、むしろ姫川さんがマリーさんのことを詳しく知らないって分かったから、こんなことを思い付いたんだけどね。偶然だった」

「それでもあなたの演技は見事なものでした。定時制という事実が私の耳に入らないよう、散策中もなるべく側にいて――。

 銭湯でドラマの話をしたのも、まだ気付いていないか確かめていたのですね」

「そう。……結局はただ虚しくなっただけだったけど、あの時は可笑しくってたまらなかったわ。だって」


 ほたるさんはいたずらっぽく瞳を輝かせた。眉尻に残る涙の跡は、泣いた時のものか、笑った時のものか、すでに判別できなくなっていた。


「姫川さんって、隙がなくて、最強って感じだったから」


 そんなことはない、と反射で答えかけて、それでは面白くないと思い直した。私は別の言葉を探した。


「私もほたるさんに憧れていましたよ。今回の旅行が楽しかったのは、やはりあなたが近くにいてくれたからだと思っています」


 効果は覿面、といったところか。少女は目を白黒させながら、顔を逸らした。


「もしも、ほたるさんと同級生だったら――友人として過ごせたら、どんなに良かっただろうと、私は心から」

「もう無理だよ」


 ほたるさんは自らの足下に視線を落とした。スカートのプリーツに指を這わせる。民宿で彼女を一目見た時から、私は術中に陥っていた。よもや定時制だとは思わないだろう。この制服も彼女のではなくて、マリーさんのお下がりなのかもしれない。


「でも、また姫川さんの後輩になることならできるかもしれない」

「それはどういう」

「私、戻ろうと思います。この高校から離れたらどうするか考えていなかったけど、決めました。もっといっぱい勉強して、さっさと高認取って、東京に進学する。天保って大学もあるんだよね」

「私がいるとは限りませんよ?」

「それでも、目指したい。ついでに地元の人たちを見返してやるの」


 ほたるさんは肩にかかる髪を指ですいた。白く細い指は、抵抗なく黒い滝を下った。


「そろそろ、お父さんとお母さんに会いに行かないといけないしね……。港町、良いところですよ。潮風で髪がゴワゴワになるのが嫌だったのに、こっちに来てから急に懐かしくって」

「いつか、紹介してくださいますか」

「ええ。なかなか絶景ですよ」


 そして、ニカっと気持ちの良い笑みを浮かべた。涙の跡は、もうほとんど分からなくなっていた。


「私の、とっておきです!」




【午前9時 民宿おざき】


「おかえりなさいませ」

「ただいま戻りました」


 部室での対決を終え、私は再び民宿に戻ってきていた。出迎えてくれた女将さんに軽く頭を下げる。ほたるさんの行き先を教えてくれたのは彼女だ。


「さっき電話があって、姫川様とお話がしたいと――」


 その相手と内容を聞いて、私は意外な感じがした。口角が上がるのを感じる。出発するその時まで、旅は私を飽きさせない。

 女将さんが厨房の方へ向かい、私はロビーで一人きりになった。籐椅子に座って、しばらく身体を休ませることにする。少しくらいゆっくりしても、約束の時間には間に合うだろう。


『ねえ、姫川さん。あの演技はなんだったの?』

『さて――ね。秘密です』


 最後に彼女は尋ねてきた。だけど私があの言葉を口にしても、やはりなにも起きなかった。夢の中でも確かめた気がするが、これで本当に終わりなんだと、実感が押し寄せてきた。この地に留まる理由はないのだと、私は悟った。

 目を瞑って、彼女の姿を想像してみる。見知らぬ浜辺から、こちらに手を振る彼女。顔いっぱいに笑みを浮かべて。願望に過ぎないとは分かっていても、しばらくその妄想に浸っていたかった。

 ほたるさんはもう一つの人格を作って、自らを保っていたのかも。まるで「交代」のように――。

 ふと思いついたことがあって、私は立ち上がった。ほたるさんはまだ部室に残って作業をしているはずだ。周りに誰もいないのを確認しながら、玄関の鏡の所まで歩いて行く。彼女の関西弁が演技だったのだとしたら、私にとっての「探偵」は……?

 私は鏡に向かって、あの子がしていたような、天真爛漫な表情を真似てみた。しかしすぐに苦笑してしまう。これはダメだ。そう思うと同時に、どこか安心感も覚えたのだった。

 あの子の笑顔とは、似ても似つかぬ代物だったから。






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