その1
目を開けるとそこは見慣れた部屋だった。視界の中央には9×9マスに区切られた木盤と、激戦の様相を示す40枚の駒。部員二人で将棋盤を囲む、天保高校将棋部のいつもの光景だ。
だが相手は見知った後輩ではなく、小さな女の子だった。白いワンピース姿で足を崩し、楽しげに身体を揺らしている。背中まである黒髪が左右に動いた。吊り上がった眉と煌めく双眸は、勝ち気に盤面を映し出している。眼鏡は……まだかけていなかった時分だ。
「エナ、早くー。そっちの手番だよ」
「……分かりました。『探偵』」
定跡通りに歩を進める。初めて彼女をその名前で呼んだな、と考えたところで気付いた。これは夢なのだ。なぜなら目の前の少女は、私の幼い頃の姿だったから。「探偵」が敢えてこの姿を模したのだとしたら、なかなかに趣味が悪い。もしくは私が無意識に彼女をこの姿に当てはめているのなら、全く救いようがない。
「あなた、将棋を指せたのですか」
「そんなこと訊いて、虚しくならない?」
「確かに意味のない質問でした。会話のとっかかりとでも思ってください」
「だね。このありきたりな指し手と同じ」
しばらく駒の交換が続いた。自軍が被る損失と敵軍に与える傷とを天秤にかけながら、打つ手を絞り込む。刻一刻と変わる盤面の変遷に思考を埋め、深く深く没入していく。脳髄を満たす静謐な興奮に水を差したのは、探偵の底抜けに明るい声だった。
「『推理対決』って言ったじゃん」
「ええ、そうですね」
「あれね、デタラメ」
「そうですか」
「……驚かないの?」
「説明が雑すぎましたね。なにも考えずに意味深なポーズをとっているだけではないかと、どこかで疑っていました」
「なぁんだ、つまんない。これでお別れだっていうのにさ」
駒を打つパチパチという音が静かに響いた。夢の中だから完全下校時刻を気にしなくて良いのは、いつもとは違った体験で、なかなか快い。
序盤で気軽く駒を切ったのが、相手のミスだった。盤面は僅かに私が優勢だが、探偵も逆転の一手を虎視眈々と狙っている。そこかしこに罠を張り巡らせているのが感じ取れた。
対してこちらの方針は、真っ向から最善手を指していくのみ。盤面を深く見通して、敵将の首に刃を到達させるべく侵攻を続ける。
「え、今の無視する? 聞いてた? わたし、もういなくなるんだよ?」
「あなたは本当に騒々しい。幼稚園くらいの頃とはいえ私の容貌なのですから、もっと慎みを覚えたらどうですか」
「なにおう、エナだって昔は好奇心の塊だったんじゃないの?」
「知ったような口を利かないでください」
「ふふん、わたしは影で、鏡なんだよ。目の前の人のありのままを映しているの。ただそこに存在するだけ」
「それも適当な作り話でしょう」
「もうー、容赦ないなあ」
探偵の手がピタリと止まった。考えなしのようで、ちゃんと盤面の状況は読めているようだ。そう、ここが勝負所。取るか、取らざるか。二択を間違えれば、大勢が決する。
「ええい、こっち!」
「ふふ」
私は殊更にゆったりとした手つきを心掛けて、彼女の攻めに応じた。
「え? あー! ずるい!」
「待ったはありません」
「待てとは言っていないわ……あーあ、やっちゃった」
「投了しますか?」
「まさか。勝負はこれからなんだから!」
またしばらく無言の応酬が続く。しかし明らかに、敵方の手は鈍っていた。もう彼女には状況を打開する手は残っていないはずだ。
ふと、探偵が顔を上げた。
「観察眼の話、覚えてる?」
「ええ。もちろん」
「物事をじっくり見つめて、とことん考えて、ついにエナはわたしには見つけられなかった答えを探し当てたんだね」
「おおげさですよ」
「そんなこのないわ。おめでとう」
「ありがとうございます。あまり嬉しくありませんが」
「ぷぷ、まあ『あれ』が答えじゃあね」
「まったくです。自分の間抜けさに嫌気が差します」
「一杯食わされたって感じ?」
「そうですね。二人とも」
「あはは。だね」
探偵は苦笑いを浮かべた。悔しげな、それでいて諦めを含んだ笑顔。それは彼女が今日一日を通して、初めて見せた後ろ向きの感情だったのではないだろうか。
「素直なところもあるじゃないですか」
「お、ちょっとは魅力を感じてくれたかな? なんならもう少し遊んでいく?」
「旅行は一泊までと、両親と約束していますので」
「つれない」
「それに、あなたと組むのはもうごめんですね。自分の身体を他人に委ねるのは、どうも性に合いません」
「はは。だろうね」
「ですが」
「?」
「またこの地を訪れることがあったなら、あなたのことを思い出すくらいはしてあげますよ」
「うふふ。楽しみにしているわ」
彼女はぴょこんと跳ねて正座になると、手をついてゆっくりこうべを垂れた。私は目を少し見開いただけで、言葉は発しなかった。
探偵はしばらくそうしてから、再び顔を上げた。
「それじゃあね、エナ。今日は楽しかったよ」
「私も、それなりには」
結局最後まで彼女の正体は分からなかったけれど、たいした問題ではないように思えた。一番の謎がそのまま残っているのに、どこか清々しい気分だったのは、夢が終わるからかもしれなかった。まどろみは、いつでも幸せなものだ。
探偵は言った。
『さて――』
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Episode.03 とうかい
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世界は反転する。将棋盤は割れ、駒は散り散りに宙を舞い、部室は徐々に形を失っていく。眩しい光が差し込み、私の前に座っていた少女の姿を隠す。全てを白く染めていく。夢はもう終わりだ。
そして、この地を去る朝がやってきた。
「――簡単な話、だったのです」
目覚めた時、もう彼女の存在は感じなかった。ただ窓から差し込む朝日が、旅立ちの時を告げていた。
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Ⅴ かいとう ――解答――
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【8月12日午前7時 栄藍高校】
上がった息を整えながら、坂の上の校門を見上げる。そこにはジャージに身を包み、ストップウォッチを首から提げた教師らしき人が見えた。すれ違いざま、軽く頭を下げる。
「おはようございます」
「おう、お疲れ」
若い教師は部外者に気を留めることなく立ち去った。部活の指導にでも行くのだろう。私は息を吐いた。やはりこの格好は有効だった。予備の服として持ってきていたジャージ。他の朝練の生徒に紛れることができる。
昇降口で駆け足を止め、息をついた。タオルで汗を拭き取りながら、足腰の筋肉や腱を休ませていく。昨日と同じように、スリッパの一つを借りることにした。
携帯を開いて、連絡帳の画面を呼び出す。野外学習部の面々がずらっと並んだ。
『鹿野ほたる』
彼女がいたことで、今回の旅行は予想の何倍も楽しいものになった。
『尾崎真栞』
衝撃的な出会いと苦々しい勘違いも、いつかは良い思い出になるはずだ。
『森継丈』
最初は苦手だったが、優しい心の持ち主だと分かった。悪い人ではないと思う。
『大前隼人』
探偵がかなり怒らせてしまった。許してくれるといいが。
私は誰に連絡をかけるべきか、確信を持っていた。迷うことなくその人物の名を選ぶ。律儀に校則を守って電源を切っていたらどうしようかと、ほんの一瞬迷ったが、杞憂だった。数コールで電話は繋がった。
「はい」
「おはようございます。姫川です」
「……」
「驚きましたか」
「まあ、ね」
「あなたも承知しているでしょうが、話があります」
「へえ。なんのことかな」
「学校にいると聞きました。昇降口まで来ていますが――今どちらに?」
乾いた笑い声の後、その人は短く場所を指定して、電話を切った。半ば予想していた場所、文芸部室へと、私は向かった。
探偵に先んじて、私が答えにたどり着いた謎。その謎を作った張本人こそ、部室で待ち受ける相手なのだ。私はその人物と話をしなければならない。
「……お待たせしました」
「うわ、本当に来てたんだ」
「時間は大丈夫ですか?」
「ご丁寧にどうも。姫川さんの気の済むまで、ご自由に」
「では単刀直入に伺います」
栄藍高校の制服に身を包み階段の下で待っていたその人は、昨日とは纏っている雰囲気がガラリと変わっていた。異様とも言える変わりように怯みながらも、私は決して目は逸らさずに言葉を吐き出していく。
「密会の写真を部室に残したのも、密室を作ったのも、あなたの仕業ですね」
目の前の人物は肯定も否定もせず、昨日と変わらない笑みを浮かべた。
「ま、ここは暑いから、中に入ろうか。もともと部室で作業する予定だったから」
「助かります」
「走ってきたんでしょ。自販機でなにか買う?」
「いえ。飲み物は持ってきています」
「そ。じゃあ行こっか」
その人はスカートをひらめかせながら階段を上っていく。あまりにかろやかな足取りは、どこか自暴自棄な印象を与えた。やはりこの人物が犯人なのだ。実際に目の当たりにした事実は、腹の底にずしりと響いた。しかしもう止まれない。私が話さなければならないのだ。真意に迫るために。
あとに続き階段を上りきる。私を待ってくれていたその人は、スカートのポケットから鍵を取り出すと、指でくるくると回した。
「言っておくけど、合鍵じゃないからね。さっき職員室で借りたやつ。だから昨日も一人で出入りするのは無理だった」
「それでも、あの状況を作れたのはあなたしかいないのです」
「ふうん。まあ、聞くけど」
中に入った彼女は、ストレートの髪をいじりながら、本棚に軽くもたれかかった。髪型や口調、振る舞いを変えるだけで、こうも人は変わるものだろうか。大人びた仕草も相まって、まるで別人にしか見えなかった。
だめだ。雰囲気に呑まれてはいけない。私は小さく息を吸い込んだ。そして部室に足を踏み入れながら、唇を開く。
「さて――」
あの言葉を呟いても、もう探偵は現れなかった。私が真実に気付いたからなのか。
「簡単な話ですよ」
探偵は私の勝利を認めた。だけど私が勝負していたのは彼女でも、目の前にいる犯人でもなかったと思う。私は鏡を見ていただけ。そこに映し出された愚かな自分の始末をつけるために、私はここにいる。
「あなたはずっと私たちと行動を共にしていました。たとえ合鍵があったとしても、平城宮跡を回っている間にここへ戻って密室を作ることは不可能でした」
「私だけじゃないでしょ」
「はい。他の野学部のメンバーの誰にも、高校の部室まで戻る時間はありませんでした。マリーさんが車を飛ばしたとしても間に合いません。席を外したのは、せいぜいお手洗いに行く程度の時間でしたから。
でもあなただけは違った」
「はは、瞬間移動はできないよ」
「いいえ。あなたは部室に戻る必要はなかったのです」
吸い込まれるような深い色の瞳を、私はまっすぐに見つめた。
「そもそも散策の間、誰も部屋には入らなかった。謎の人物なんていなかったのですよ」
相手はしばらく私の視線を受け止めた。いつまでも続くように思われたつばぜり合いは、彼女が目を逸らしたことで終わりを迎えた。小さな舌打ちが沈黙を破る。
「ふん。でも確かにあなたも見たじゃない、写真付きのメールを。いつもの変なキャラじゃないから、調子が出ていないの?」
「あなたこそ、おかしな関西弁は辞めたのですね」
私は目の前の少女に真実を突きつけた。
「携帯はずっとあなたが持っていたのですから。ほたるさん」
鹿野ほたるは沈黙した。今までと違い、心に届いたという手応えがあった。彼女は感心したように双眸を丸くした。
「どういうことかな」
「方法は至ってシンプルです。あなたは一人になったタイミング――おそらくトイレかなにか――で私の携帯を操作して、自らの携帯にメールを返信したのです。写真もあなたが持ち歩いていたのですよね」
探偵が壊れた時計の謎解きをしたあと、ほたるさんは私の携帯で番号交換をしていた。その時から携帯を持っていたのだろう。
昨日銭湯でほたるさんと話した時は、密会の写真が私の携帯で撮影された場所はこの文芸部室だと思っていた。しかし実際は平城宮跡のカフェだったのだ。
「私の携帯を見つけたのはほたるさんでした。机の中にあったとのことですが、誰も確認していません。みんな、床に落ちた写真に気を取られていましたから。恐らく、それを狙ってあなたが床に撒いたのでしょうが」
「私を疑うの? 悲しいなあ」
「その隙に乗じて、懐から取り出したのでしょう。さも部室にあったかのように見せかけた。すっかり騙されてしまいました」
「……はあ、認めるわよ。やっぱり、あなたは昨日の時点で気付いていたのね。だからあんな出鱈目な推理を聞かせたんでしょう?」
彼女の肉厚な唇が引きつった笑みを形作った。昨日の夜、探偵がほたるさんをからかったことを根に持っているのかもしれない。マリーさんに変装して、彼女の携帯で森継さんと会話してアリバイを作った――これは探偵流の皮肉だろう。真犯人が密室を作り上げた方法を、こともあろうか張本人に披露していたのだ。趣味の悪いことだ。
「でも、それって偶然だよね。姫川さんがもっと早くに携帯のことに気付いていたら、できっこないでしょ?」
「はい」
ほたるさんは、あっけなく肯定した私を訝しむように眉を顰めた。
「だって、計画的なものではなかったのでしょう」
「……」
「沈黙も肯定と捉えます。ほたるさんの目的にとって、あの状況を作ることは必須ではなかった。部室に侵入した謎の人物なんて、いてもいなくても良かったのですよ」
銭湯で彼女は、文芸部部長には可能だと私に教えた。あれももっともらしい言い訳だろう。
「じゃあ私はなにをしたかったって言うの?」
「アリバイ作りですよ。あなたを含め、野外学習部4人の。ほたるさんはできることなら、部員同士で犯人を探り合う状況は避けたかったのですね。大切に思っていたから」
「それはどうかな。あんな写真を晒すくらいなんだよ?」
「いいえ、それでもあなたは仲間想いですよ。最初から、あなたの標的はただ一人。天保高校の姫川英奈だけだった」
ランニングの汗はすでに引いていたが、部屋の蒸し暑さのせいで再び額に水滴が出来始めているようだった。だが私は汗を拭うことなく、ほたるさんの瞳を見続けた。下手に動いてしまえば、彼女の飄々とした態度にほだされてしまいそうだった。
「その目的は、マリーさんと森継さんの交際の事実を私に告げること。それも、劇的な形でなければなかった。しっかり交流を深めた後で、教師と高校生の逢い引きの写真を見せつけるような」
「要するに、嫌がらせをしたかっただけってこと?」
「そうなりますね。私は好かれてはいなかったらしい」
「はは。ごめんね」
ほたるさんはからかうように、呆れたように笑った。だが私は彼女が見せた隙を見逃さなかった。その口元の綻びは、「安心した」と告げているようなものだったのだ。
探偵もここまでは気付いていた。ほたるさんなら密室を作り出せる。しかし探偵も分かっていなかったのは――いや、興味がなかったのかもしれないが――その動機だ。ただの嫌がらせだったのか? それとも、マリーさんを高校生と思い込んでいた私をからかったのと同じなのか? この違和感が邪魔をして、すぐには彼女の真意にたどり着けなかった。
「……それは、私が天保の生徒だからですか」
「ま、そうだけど、理由を聞かせてくれるかな」
薄い桜色の唇がパックリと裂けて、三日月の形を作った。どこか官能的なほたるさんの笑みをまっすぐに受け止めながら、私は言葉を紡いでいく。
「これでも私は、縁のない土地で人に恨まれるような行いはしてこなかったつもりです。ああ、祖父が原因でないことは、幸いにも尾崎夫婦や教頭先生の態度から明らかです」
「英奈ちゃんって、お祖父様のこと嫌いなの?」
「ふふ、とんでもない。私はおじいちゃんっ子なのですよ……まあ、それはいいとして。他に恨まれるような要因があれば、私の所属くらいかなと。
それに、あなたは天保高校の制服を知っていたので」
「え? 制服の話なんてしたっけ」
「しましたよ。私のブレザー姿を見たいと言ったじゃないですか」
栄藍高校の制服も、銭湯で話したドラマの高校の制服も、どちらもセーラー服だ。それなのに燈会の会場でほたるさんは、私の制服姿としてブレザーの印象を持っているようだった。天保高校が有名校だとしても、制服の種類まで知っているのは、調べたことがある人間くらいではないか。
「なるほどね。うかつだったわ」
「他にもいくつかぼろを出していましたよ。ほたるさんの出身は、関東近辺ではありませんか」
「さすが名探偵さん。それも推理で?」
「いえ、推理と呼ぶにはお粗末なものですが……きっかけの一つは、苗字です」
「『鹿野』が?」
「はい。実はクラスメートにも鹿野君という子がいるのですが、彼の持ちネタが『鹿野だが奈良出身ではない』というものでして」
「うわ、さむっ」
「ある時教えてもらいました。意外にも奈良では『しかの』ではなく『かの』と読ませる場合が多いそうですね」
「……」
「逆に、ある県では『しかの』と読ませることが多いとも聞きました」
「はは。もしかしたら同郷かもね、その彼」
ほたるさんはため息を吐いた。前髪の短い彼女が伏し目がちになると、睫の長さが際立った。遥か遠い故郷を思い浮かべているのかもしれなかった。




