Ⅳ 暗闇
「森継さん、なんてこと言うん! そんな恐ろしい……」
「そうだぜ。池に落ちた時に浅瀬で傷を作っただけだろ」
「はは、白々しいな隼人。君がその犯人じゃないのか」
「なんだと?」
大前君は顔色を変える。しかし森継さんはよりいっそう冷めた視線で大前君を見た。さげすむような暗い目だった。
「姫川さん。彼は一度も姫川さんたちのそばを離れなかったのかい?」
「いえ……スターマインが始まった辺りで、あの場を離れたようでした」
「やはりな。なにをしていたんだ」
「……たばこを吸おうとした。結局辞めたけど」
「はっ! 本当は真栞に止められたんじゃないのか。逆恨みをした君は彼女ともみ合いになった。左手の火傷の跡もその時に付いたんじゃないか」
「なっ……そんなわけないだろ!」
私はマリーさんの手のひらについていた水ぶくれを思い出した。左手……私が景品の鈴を渡した時にはなんともなかった。あの後で付けられたということだ。
「そんなことで真栞さんを恨んだりしねえよ!」
「どうかな。僕らが気付いていないと思っていたのか? 君は真栞に気があったようだから、鬱憤がたまっていたんじゃないのか」
大前君は言葉をなくした。図星のようだった。彼がマリーさんのことを語る時は、恩師へのそれ以上の想いが感じ取れたから。ほたるさんも薄々気付いていたのか、反論はしない。きつく唇を引き結んでいるだけだ。
「そういうてめえはどうなんだ。アリバイがあるからって安心してるんじゃねえよ」
「なんだと?」
「池の反対側にいたとしても、お前にならできる。携帯で真栞さんを誘導したんじゃないのか。写真の構図のためとか、適当な理由をでっち上げれば池の縁に立たせることもできるだろうが」
「なにを馬鹿な。そもそもどうして僕が彼女をあんな目に――」
「痴情のもつれなんて、腐るほどある話じゃねえか」
森継さんは瞳を見開いた。大前君の視線はいっそう鋭さを増す。
「昼間の写真がきっかけだろう。面倒くさくなって捨てようとしたんじゃないのか」
「それだけで殺すものか!」
「弾みってこともあるだろ」
「二人とも、止めて!」
ほたるさんの震えた叫びが空き地に響く。
「そもそも、ウチらの中に犯人がいるとは限らへんやんか。昼間の写真見たでしょ!? 誰か別にマリーさんを恨んでいた人がいるんですよ、きっと――」
「ほたるちゃん、さっき僕が指摘したことを忘れたのかい。マリーさんが気を許す相手である限り、僕らは候補から外れない」
「もう……どうしてこうなるの。さっきから殺すとか、殺さないとか、おかしいよ。普通じゃないわ!」
「そういうお前はどうなんだよ、鹿野」
大前君が冷たい声が、ほたるさんの肩をびくっと震わせる。
「狭い世界だ。誰でも知っているぜ。お前がマリーさんみたいなのを恨んでいるってなあ」
「な」
「親が教師だったんだって? で、生徒と関係を持って地元にいられなくなったそうだな」
「やめて!」
私は愕然としながら、銭湯での会話を思い出していた。ほたるさんは親の倒産が理由だと話していた。だが嘘をついたわけではないのだろう。閉塞的な世界なら、例えばパートナーの不貞が……家業に影響を与えることだって。
ひとときでもそんな想像をしてしまった自分を恥じる。私はなんてことを。
「それに花火の最中にどこかへ行っていたのは、鹿野も同じだぜ」
「あれは……スターマインが始まる前で……」
彼女には激しく抗弁するような気力は残っていなかったのだろう。真っ青な顔で、瞳を潤わせながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。確かに彼女はクライマックスの前には戻ってきて、そこからは私と一緒にいた。マリーさんを襲うなんて不可能だ。
大前君はさすがに口が過ぎたと感じたのか、頬を引きつらせた。大前君だけではない。疑念が渦巻く中、彼らは互いを攻撃することで平静を保とうとしていた。3人とも、既にボロボロの状態であることに気付かずに。
言葉の刃で互いを刺し尽くしてしまう前に、誰かが真実を語らなければならない。疑念を晴らし、一撃で皆を納得させることのできる真実を。
私にはある考えがあった。できればこんなことはしたくない。だがもう一人の自分が囁きかけるのだ。犯人はあの人に違いない、と。
皆に突きつけるのだ。その名前を。
しかし、口から漏れ出たのは、吐息のような掠れた音声だけだった。
『さて――』
世界が反転する。一瞬なにが起きたのか分からなくなる。耳鳴りの中で、私は知った。探偵との交代が始まった。どうして。どうして! 覚悟を決めたはずなのに。咄嗟に出てきたのは、責任を放棄する敗北宣言だった。
『おはよう、エナ! ずいぶんお楽しみみたいだねっ!』
五感が曖昧になっていく。私は身体の奥底へ、探偵は表層へ現れる。交代の中で感じている今の気持ちが「安堵」だと気付いて、私は自らの弱さを恨んだ。
彼女が現れたということは。またも私は、真実にはたどり着けていなかったのだ。
(私は……犯人は大前君だと疑っていました)
『へえ。そうなの』
(大前君だけが犯行時刻に私たちの前から姿を消していました。森継さんには位置的な、ほたるさんには時間的なアリバイがあります)
『ふうん、エナは二人のアリバイに気付いたんだね。まあいいよ。わたしが出てきたからにはもう安心! どんな謎でもたちまち解決よ!』
交代が終わり、身体の支配権は完全に探偵が握った。
「マリーさんが池に落ちた真相。わたしにはお見通しだわ」
探偵が、言った。
「さて――簡単な話ね!」
「なんだと?」
大前君が鋭い視線を向けた。その迫力に思わず息を呑んでしまう。だが視界は全く揺らぐことはない。探偵は毛ほどもたじろいではいないのか。
「姫川、今なんつった」
「簡単な話って言ったの。犯人はわたしには分かっているわ」
「それは本当かい、姫川さん」
森継さんがすがるようにこちらへ近付いた。
「みんながみんな、疑心暗鬼になっているね。悲しいよ。ずっと楽しく過ごしてきたのに」
「てめえ、ふざけてんのか! 真栞さんは実際に突き落とされたんだぞ。死ぬところだったんだ! そうでないにせよあと少し発見が遅れていたら――5分以上呼吸が止まれば、後遺症が残っていたかもしれない」
「怒らないで、オーマエ。ちゃんと説明するから」
あくまで探偵は人ごとのように落ち着いている。私もだ。どうしてこんな子に託してしまったんだろう。
『エナ、後悔してる?』
探偵は、私の心を見透かしたように話しかけてきた。
(後悔、なんて)
『うふふ、じゃあ黙って聞いていて。解決シーンを他の探偵役に譲るようじゃ、ダメダメね』
図星だった。私は打ちひしがれていた。ただただ彼女の煽り文句を聞くことしかできない無力さを噛みしめていた。
「確かに動機はいくらでも考えられるね。モリツグには痴情のもつれ。オーマエは嫉妬。ホタルちゃんは恨みかな?」
「それはもういい。いるんだろ? この中に、マリーさんを池に落とした奴が」
「うふふ。じゃあ満を持して解決編といこうか。
謎がいくつか残っていたわね。だから誰もがマリーさんに危害を加える理由があるように見えて、誰にも確固たる証拠はなかった」
探偵は静かに3人を見渡した。みな不安そうな顔で探偵の一挙一動に注目しているのが分かった。
「まずオーマエはスターマインの間、わたしたちと一緒にはいなかった。マリーさんが写真を撮り終えて戻ってくる時に、時間的なアリバイはない」
「待ってぇや。隼人さんはマリーさんを必死に助けようとしてたやん! どうして殺そうとした人間がそんなことするの!」
「ホタルちゃん。人はときに冷徹な演技ができるじゃない?」
「で、でも」
「あとマリーさんの手には軽い火傷の跡が残っていた。たばこの跡というのは面白いよね。笑っちゃう。あは、もしかしたらライターの火で脅したとか?」
「お前、からかってんのか」
「あはは、怒らないで、オーマエ! あなたは犯人じゃないからさ」
「はあ?」
三人は驚きの表情を浮かべた。私も探偵の言葉を信じられなかった。
「オーマエの立場からすると、モリツグがどこにいるか分からないからね。写真を構えている。いつ証拠を撮られるか分からない。そんな状況で、マリーさんを運んで、池に落とせると思う?」
「それは見当外れじゃないかい。夜の闇に隠れることもできただろう」
「確かに花火の最初の方は十分に暗かった。だけどスターマインの最中だよ! まるでお昼みたいに辺りが照らされた。いくら林の影だからといっても、目立ってしまうと思うけどね」
そうか。あの明るさの中で、開けた場所での犯行は無理がある。それに大前君はスターマインが終わってすぐ戻ってきた。再び辺りが暗くなってからでは、人一人を抱えて池まで移動する時間的な余裕はなかった。
「みんな冷静になろうよ。そう簡単に殺人なんて起こらないって。マリーさんが殴られたっていうのは考えすぎだよ。わたしが一人ずつ否定していってあげる」
「じゃあ、マリーさんは自分から水辺まで行ったっていうのか」
「そうだよ。それが可能な人間もいる――次はモリツグだよ」
「な」
森継さんは顔色を変えた。
「暗闇。悪い視力。加えて昼間の衝撃から立ち直れていない。彼女は注意が散漫になっていた」
「だけど、森継さんは池の反対側で写真撮ってたんやで? すぐに行って突き落とすとか無理やで」
「そう、位置的なアリバイ。これも時間と同じように古今東西のミステリで扱われている強力なアリバイね。でも、別にモリツグは動く必要はなかったのよ」
「それはさっき俺が言っただろ」
大前君は唇をとがらせた。
「森継は電話で誘導することができた」
「でもね、それも無理があるんだよ。眼鏡を外していたとはいえ、池の近くには灯籠が置いてあるんだよ。いくらなんでも分かるはず」
「待て。灯籠の間は広い間隔があったから、その間を狙って――いや、自分で言って馬鹿らしくなってきたぜ」
「それに、携帯が落ちていた位置と矛盾するしね。池で落ちたのならあそこまで携帯が飛んでいくことはない」
「それは、あいつが後で偽装したんじゃねえのか」
「考えすぎだよ。それなら回収する方が早い。モリツグは民宿で携帯の行方を気にしていたようだったしね」
私たちが携帯を見つけたのはほんの偶然だった。なにか細工が行われたとは考えにくい。
「ていうわけでモリツグも却下! あと、さっきから誰も問題にしていないから私も除かせてね。マリーさんとは今日会ったばかりの、部外者だからね」
皆は白けた目で私を見た。さすがに馬鹿馬鹿しくて、私もその可能性は考えていなかった。
『語り部が犯人、っていうのはわたし好みだけどねー』
(……)
もはや怒る気力も湧かなかった。どこまで人を愚弄すれば気が済むのか。
「さて、残ったのはあなた」
探偵は人差し指を一人に向けた。この子は今私の顔にどんな表情を貼り付けているのだろう。周りの表情を見れば分かる。悪魔みたいな笑顔を浮かべているに違いない。
「犯人はホタルちゃん! ――」
「ま、待ってえな! う、ウチがそんなことするわけ……だいたい英奈ちゃんずっと横で見てたやん!」
「うん。スターマインが始まってからは隣にいたね。でもそれより前、トイレという口実でどこかへ行った」
「嘘やないって!」
「待ってくれ。その時は僕が写真を撮っていた。真栞はまだ落ちていない」
「そうだぜ」
「せ、せやんなあ!」
「写真が本当ならね」
「え?」
「よく見て。そこに写っているのは、本当にマリーさんかな?」
一同が唖然とした。慌てて森継さんはカメラを操作する。大前君も近付き、画面を覗き込んだ。
「本当だ。言われてみれば顔までしっかり確認できるわけじゃないけど……」
「ホタルちゃんに可能なトリックがあるわ。スターマインが始まる前にマリーさんを襲った場合――マリーさんに変装したのよ!」
探偵はおもむろに両手を私の後頭部に伸ばすと、髪留めを外した。結わえられた髪がさらりと肩に流れる。
「わたしの浴衣は桜色だから無理だけど、ホタルちゃんの浴衣は青色。マリーさんの藍色と系統は同じだし、闇夜の中ではさらに近付いたでしょ。髪をまとめればシルエットは真栞さんと同じになる」
今は宿用の白い浴衣姿だ。探偵は見せつけるように身体をしならせた後、ヘアゴムを唇に咥えながら、再びゆっくりと髪をまとめていく。
「まさか……そんな……」
「いや。筋は通るぜ。スターマインが始まる前ならまだあの辺りは暗かった。撮影場所に行く前にマリーさんを殴って、池に落としたのだとしたら」
「その通り! ホタルちゃんはマリーさんの携帯電話を拾って彼女の振りをしながら、モリツグさんの指示に従った。花火の音で声の違いは誤魔化せただろうしね。
どう? ホタルちゃん!?」
探偵がほたるさんに視線を向ける。ずっと黙っていた彼女は、ただ真っ直ぐ私を見つめていた。ゾッとした。深い色の瞳は闇に塗りつぶされ、なんの感情も抱いていないように思われた。まさか、本当に――いや。違う。彼女であるはずがない。
(あなた、どういうつもりですか!)
『あ、エナは気付いちゃった?』
信じられない。探偵はほたるさんが犯人ではないことに気付いているのだ。そうでありながら彼女を侮辱するような発言をした。
「はは! 冗談だよ。ホタルちゃんには無理」
「はぁ?」
「マリーさんに変装するっていうのは面白いけどね。そうなると矛盾が生じる。だってマリーさんたちがどこで写真を撮るか、ホタルちゃんは知らなかったわけじゃない」
マリーさんとは事前に撮影場所の打ち合わせをしたということだった。森継さんは力の抜けたような呟きを漏らした。
「……そりゃそうだ。さすがに通話相手が殴られたり、携帯が落とされたりしたら、花火の中でも変に思うよ」
「でしょ。だからあの写真の女性はちゃんとあなたの恋人よ」
「おいてめえ、からかうのもいい加減にしろっ!」
胸ぐらに掴みかかってきた大前君を、森継さんが必死に止める。彼の手で引き剥がされてなお、大前君は息を荒げてこちらを睨んでいた。自分へ向けられるあからさまな負の感情に、私は急に足場を取り払われたような気持ちになった。
「姫川さんもどうかしているよ。なんだって感情を逆なでするようなことを言うんだ」
「かまへんのです、森継さん。英奈ちゃんは敢えてそうしているから」
「ほたる……」
「もともと冷静じゃなかったのはウチらです。やのに、英奈ちゃんは止めようとしてくれてます。隼人さんも、話聞いてみましょ」
ほたるさん本人に説得され、大前君は渋々黙った。探偵は胸元のずれを直すと、なんでもなかったかのように手を打ち合わせた。
「と、いうわけで! ここまで3人に犯行が可能かどうか検証したわけだけど、誰にも無理そうね」
「しかし現にマリーさんは池に落ちているんだぞ」
「そう。だからなにが起こったのか、今から話してあげる。あんまり遅くなると女将さんが心配するしね。
花火が終わった後、マリーさんは撮影場所からわたしたちのいた場所まで戻っていた。辺りはもう暗い。さっきまでの明るさに慣れていたから、いっそう足下が見えづらくなっていたかもね」
探偵は見てきたかのように様子を語り続けた。どこからその自信が出てきたのか、まるで理解できなかった。
「マリーさんはその中でなにを頼りにしていたか――それは携帯の画面よ。ライト代わりにしていたんでしょう。でも途中で転んでしまった。
いい? 誰かに殴られたわけでもないのよ。行きよりも帰りの方が気は緩んでいた。木の根かなにかに躓いて携帯を落としてしまったのね」
「携帯は閉じて、光はなくなっちゃった……」
「そう! 暗闇の中、マリーさんは携帯を探す。でもなかなか見つからない。花火が終わって、わたしたちが自分の不在に気付き始める頃ね。心配をかけまいと、マリーさんは焦った。そして普段なら決してしない行動をとった」
「それが池に向かうことか? どうしてだよ」
「マリーさんの気持ちになってみて。真っ暗な地面。眼鏡もないから尚更ね。携帯も閉じてしまった。
でも周りを見渡したら、離れた場所に光源があったのよ」
「……灯籠の明りか!」
森継さんの呟きに対して、探偵はウィンクで答えた。
「そう! これが池まで近付いた理由。マリーさんは携帯を探すための明りが欲しかったのよ」
「いや、待ってよ。そうやったとしても落ちはせえへんのとちゃう? いっそう慎重に近付いたやろうし」
「そうね。特に池の縁ではゆっくり明りに手を伸ばしたでしょう……でもその光が偽物だったら?」
「え?」
「池の縁ではなく、池の中に光源が浮かんでいたとしたら?」
「馬鹿な……」
大前君が頭を抱えた。
「池に灯籠が浮かんでいたっていうのか!」
「その通り! まあ多分、ろうそくだけだと思うけど」
にわかには信じがたい仮説だった。確かにろうそくは水に浮くようになっている。溶けにくい素材だから、花火の間中、池に浮かぶこともあるだろう……。
「僕がろうそくを浮かべたって?」
「ふふ、違うよ。狙ってそんなことはできない。だからこれは偶然なのよ」
「しかし、君は犯人がいると大見得を切ったじゃないか」
「そうだね。犯人はホタルちゃん――」
「まだそんなことほざいてんのか!」
「――の、名前の中に入っている」
「え」
「蛍か?」
大前君が緩慢に首を傾げる。
「惜しい! そっちじゃなくて」
全員が意図に気付いて、言葉を失った。無論、私もだ。あまりにも突拍子もない暴力的な発想に、思考は混乱を極めた。まさか、そんなことが。
数瞬の沈黙の後、ほたるさんは恐る恐る口を開いた。
「……鹿?」
「そう!」
「んな馬鹿な……鹿は光らんぞ」
「違うよ隼人さん。鹿がマリーさんを突き落としたんでしょ」
「勘弁して欲しいよ……」
「あはは! まさか! マリーさんから威嚇したわけでもないのに、奈良公園の鹿さんたちはそんな凶暴じゃないよ」
「じゃあどういうことだよ!」
「思い出して、オーマエ。知っているはずだよ。鹿のとある行動を」
私ははっきりと思い出した。今夜の燈会での一幕を。
「マリーさんが倒れたカップを立て直した時があったよね」
「あ! あれは鹿が倒したんだった……」
「そう。あれと同じ事が静池でも起こっていたんだよ!」
池の端に並べられた灯籠。鹿が中の水を飲むために倒したのか。もしくは、池に水自体を飲みに来て、当たってしまったのか。夜になってからは木陰でじっとしているが、夕方、並べ始めたばかりの頃なら。まだ日は落ちておらず、彼ら彼女らの活動時間だった。
「倒れた灯籠。ろうそくは水面に落ちた。その時、消えなかったものもあった」
ろうそくは水に浮くように作られている。カップの中で浮かべるからだ。だから水に溶け出しにくいようになっている。数時間は保つように。
「おい。待てよ……」
「そんな。本当なのか」
「これしか考えられない。マリーさんが落ちたのは、灯籠を取るため。明りの所まではまだ地面は続いている。だけど、それが偽りだったとしたら?」
誰もが想像外の真実に衝撃を受けていた。私もだ。ただただ驚愕して、状況を見守ることしかできなかった。マリーさんは、そんなことで。
「水面に浮かんだろうそくを取ろうとして、マリーさんは落ちたんだよ」
「つまり事故だって言うのか、お前は」
ろうそくが、池の縁よりも少し内側で浮かんでいた。マリーさんは近付こうとして、手を伸ばした。その時、あるはずのない地面に足をかけてしまったのだ。バランスを崩し、そのまま――。
「マリーさんが軽い火傷を負っていたのは、ろうそくの火がちょっとの時間でも触れたからだね。そのあとすぐに水に浸かったから、問題はないだろうけど」
「ま、待ってくれ。ちょうどマリーさんが倒れた場所に、ろうそくが流れていったとでも? いくらなんでも都合が良すぎるだろ」
大前君の言う通りだ。探偵の推理が正しいとして、そんな偶然があり得るのか。マリーさんを落とそうとする意思が働いていたとしか思えない。
だが探偵はそんな疑問も想定済みというように、軽く人差し指を振った。
「そう思うのも無理はないわ。でも、ある意味必然だったんだよ。マリーさんがあの場所に行くのは。
モリツグが写真の位置を指定した。そこは花火がよく見える場所。それ以外にも、色々条件はある。ヒントは煙だよ」
「煙? 花火のか?」
私は帰り道、東向き商店街で煙ったい空気に揉まれて歩いたのを思い出した。そうか。あれだけの花火が打ち上げられたのに観覧中に流れてこなかったのは、あの池が風上にあったからだ。
「池の中では、あの場所が風下だった。つまりろうそくがあの辺りに流れていくのは必然といえたんだよ」
「でも、池の縁にある灯籠じゃなくて、たまたま池に浮いていたろうそくを取ろうとするなんて……」
「それも偶然ではないんだよ。カップに入った灯籠の光はそこまで強くない。だけど水面に浮いたむき出しのろうそくは違う。より強い光源が、一番にマリーさんの目に付いたとしてもおかしくはないわ」
私の目に、真っ暗闇の中で彷徨うマリーさんの姿が浮かんだ。たった一人で心許ない気持ちの彼女には、それは救いの光に見えかもしれない
「じゃあ、誰も悪くなかったっていうのかよ……」
「いや、僕が悪いんだ。あんなことを言い出さなければ――」
「それは違うわ」
空き地の入り口からの声に、全員が振り向いた。そこに立っていたのは、全く予想外の人物だった。
「ま、マリーさん!」
「どうして、真栞が」
「ほたるに呼び出されたのよ。メールで」
大前君はほたるさんを振り返った。彼女はばつの悪そうな表情を浮かべた。
「お前」
「ごめんなさい。さっき二人を止めやなと思って、夢中で」
ほたるさんは浴衣の裾から携帯を取り出してみせた。器用にも、画面を見ずにメールを打っていたのだろう。
「うっすらと思い出したわ。姫川さんの言ったことが正解よ。明りが欲しくて手を伸ばしたら、急に足下がぐらついて……あれは池に浮いていたろうそくだったのね。
ごめんなさい。やっぱり私が軽率だった。教師としてあってはならないことをした」
「僕も同罪だ……」
うなだれる二人に、大前君は依然として鋭い視線を向けていた。だけどその後投げかけた言葉は、強い調子ながらも、昼間見せていたような温かい響きを持っていた。
「ちくしょう、興醒めだ。俺は帰る。森継はせいぜい風邪でも引きやがれ」
森継さんは思い出したかのようにくしゃみをした。だけどその音はよく聞こえなかった。再び交代が始まって、世界と切り離されたような感覚が始まったから。
探偵は私になにかをしゃべりかけていたかもしれない。それすらも私の耳には届いていなかった。ただただ私は疲れていた。己の無力さ、また間違えそうになった愚かさ、そして探偵の推理によって間違えを犯さずに済んだ事実が、私に重くのしかかった。
この後のことは、よく覚えていない。私はどうにかして民宿に戻り、泥のように眠った。




