現在から過去へ
【ランドスケープ landscape】
ある土地における、資源、環境、歴史などの諸要素によって構成される空間。または、それらが形作る景観そのもの。たんなる光景・風景に留まらず、複合的な意味を内包する用語である。
【2013年 初夏】
百年近い歴史を持つその高校において、積み重ねられたものは年月ばかりではない。
長い歩みの中で幾度か改築が行われた。教育形態や校風は時代と共に変遷し、学校名が変わることさえあった。教職員は何度も陣容を新たにし、生徒はさらに速い周期で入れ替わっていった。
県立栄藍高校。
表面的には新陳代謝のように見えて、その実、関わった人々の想いは蓄積されていく一方だった。山間にある学び舎には、重い、重い歴史が降り積もり続けている。敷地の片隅にひっそりと存在する文芸部室も例外ではなかった。
壁際にうずたかく積まれた書籍が陽光を遮る、薄暗い部屋。そこでは、男女一組の生徒が長机を挟んで向かい合っていた。
「面白いものを見つけたの」
二人のうち一方、栄藍高校の古風な夏制服に身を包んだ女子生徒は、上目遣いをしながら机上に小冊子を置いた。艶のある唇は勿体ぶるように曲げられており、曇り空に浮かぶ妖しい三日月を思わせた。
対する男子生徒は、まだ顔つきが幼く制服は真新しい。学校指定の上履きも、少女のものと違って鮮明な色味を残したままだ。二人は文芸部の先輩・後輩の関係であり、女子生徒は3年生の部長でもあった。
男子生徒は、机に置かれた冊子を一瞥し、乾いた薄い唇を開いた。
「それは部誌ですか?」
「そう。君も知っているように我らが文芸部は、年に一度の文化祭で部誌を発行しているね。少年少女の知的活動の結晶さ」
「はあ」
彼女の大げさな言動にいい加減慣れてしまっているのか、少年は動じない。こうして突然「部長命令」とやらで部室に呼びつけられるのも珍しいことではない……彼はため息をつきたくなった。
「でもこれは、文芸部のものじゃない」
「え?」
「ほら。見てみて」
部長は「文集」とだけ書かれた表紙をめくった。そこには序文らしきものが数行にわたり書かれており、「野外学習部 活動記録」と題してあった。
「聞いたことない名前ですね。こんな部うちの高校にありましたっけ?」
「少なくとも、今は存在していないようね。けど、ここの日付」
「『平成二十二年 某日』……ってことは2010年にこの文章は書かれたんですか」
「そう、3年前。私もまだ入学していない頃だわ」
当然、少年も高校生でなかった。今とは違う環境に、今とは違う友人たち。彼はまだ「中学生」だった。高校に入ってまだ数ヶ月しか経っていないのに、その単語は懐かしく響いた。
「こんなもの、どこで見つけたんですか」
得体の知れない部活の、3年も前の活動記録をわざわざ引っ張り出してきた部長の行動に、少年は半ば呆れていた。部長は誇らしげであった。
「へへ、少し前に窓際の本の山を崩してしまってね。これが出てきたんだよ」
「普段片付けを一切しない人がやる気を出すと、ろくな事にならないのは分かりました」
「辛辣だなあ。でもおかげで興味深い『謎』に出会えたんだよ。ここも見て」
細い指先が示した箇所を読んで、少年は軽い混乱を感じた。
「『今年で廃校になる我らが母校』――え、廃校? うちの学校、潰れる予定だったんですか?」
「私も初耳よ。しかも、ここに記された人もミステリアスなのよ」
小冊子の最後の編集後記には、「奇妙な縁」があって、とある女子高生による寄稿があったことが記されていた。名前や高校名などの固有名詞はなく、ただイニシャルだけが示されていた。
「『スペシャルサンクス E・H』ですか」
「この人、東京の私立校の生徒だったらしいわ」
「それはまた。遠い」
ここは関西の片田舎である。
「でしょ。なんでも栄藍高校に縁があって立ち寄った際に、いい機会だからって野外学習部のみなさんと一緒に奈良観光をしたみたい」
「観光……あ、2010年ってことは」
「平城遷都1300年祭があった年ね。あの時はいつにも増して賑わっていたわねえ」
「中学の校外学習で見に行きましたよ、平城宮跡」
「彼女もそのタイミングを狙って奈良に来たのかもしれないけど、それにしても行動力のある人ね」
イニシャル「E・H」は風変わりな女子生徒だということだった。旅行中、まるで推理小説の探偵のように、いくつかの小さな事件を解決したというのだ。普段は穏やかな言動だったそうだが、謎解きの際には人が変わったように生き生きと推理を披露して見せたという。
「『E・H』……」
はるばる首都からやってきて、野外学習部なるクラブに短編を寄稿した謎の人物。彼女が解いた事件。そして、現在通っている学校が存続の危機にあったという可能性。少年は部長の提示した「謎」に興味をそそられていた。
「先輩、なにか事情を聞いていたりは――いや、ないか」
「残念ながら、ね。この文集を見て初めて知ったの」
「3年あれば、生徒はみんな入れ替わってますもんね」
「もしかしたら野外学習部の人たちは文芸部と共同でこの部屋を使っていたのかもしれないわ」
「ああ、だから部誌が埋もれていたと」
「だけど今の顧問の先生も今年から赴任してこられたから……その辺の事情は確かめられていない」
「とするとE・Hなる女子生徒の残した文章が有力な手がかりになりそうですね。廃校の謎もありますが、なんにせよ、読んでみなければ始まらないか」
「そういうこと! 寄稿された短編が鍵を握っているのは間違いないわ。さ、お読みなさい」
少女はニタリと微笑んだ。どこかわざとらしい部長の態度を訝しみつつも、少年は部誌を手に取る。舌をわずかに出して唇を湿らせた所作を、彼自身は認識していない。すでに、ゆったりと小説の世界へと浸かり始めていたからだ。「廃校」「謎の部活」「東京からの旅行者」それらに対する解答を求めて。
――絶え間なく積み重なっていく歴史を掘り返し、光を照らそうという試みがときに生まれる。舞い上がる塵にむせびながら、たどり着く先の真実に、彼ら彼女らはなにを思うのだろうか。
【2010年 8月11日】
3年前の真夏のある日。関西の公立高校に、東京から少女がやってきた。
【午前11時 昇降口】
姫川英奈は長いポニーテールを揺らしながら、丸縁の眼鏡の奥で光る目を好奇心で満たしていた。
「謎はすべて解けました!」
「えっと……英奈ちゃん?」
薄暗い開けた空間は、二人の少女の会話をよく響かせた。古い校舎の昇降口で、東京からの旅行者・姫川と栄藍高校1年生の鹿野ほたるは、とある謎に直面していたのだ。
「あ、あのぉ。もしかして、英奈ちゃんにはこの謎が解けたん?」
「もっちろん! わたしは名探偵ですから」
姫川が胸に拳を当てると、ポニーテールがぴょんと跳ねた。釣り上がった両の眉は彼女の自信の程を表現しているようだった。
目の前の人物のあまりの豹変振りに、鹿野は呆気にとられてしまった。先ほどまでの姫川は、色白な顔に微笑を湛えた、その名の通り深窓の佳人、麗しの姫のごとき怜悧な少女だったのだから。
名探偵。
艶やかな薄い唇から飛び出した、意外な単語。探偵……素行調査をするような? いやそれとも、物語の名探偵か。ホームズや、レーンのような。
今日知り合ったばかりの東京の少女は、一目見た時から大人びた雰囲気を醸し出していて。瞳に眩しく映ったものだった。しかし今はどうだ。人差し指を立てて、茶目っ気たっぷりに自らを「名探偵」と言ってのけた。大げさなジェスチャーに、意外な一面に、鹿野は驚いて上体をのけぞらせるしかなかった。
――少女の数日間の滞在を知る者は、もうこの場所には誰も残っていない。
あるのは、積み重なった、想いだけ。
しかし当時の彼女たちには知るよしもないことだった。その瞳には、むせ返るような暑さの中で煌めく、目映い「謎」だけが映っていたのだから。
探偵が、言った。
「さて――」
簡単な話、だと。